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サイレント・ウィッチ(外伝)  作者: 依空 まつり
外伝9:精霊の歌、高らかに
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【20】朝に弱い男と徹夜の得意な魔女

 エリオット・ハワードは朝に弱い。

 ベッドを出てから一時間ぐらいは思考も動きも鈍るので、セレンディア学園時代はシリルに怒鳴られた記憶がうっすらあった。うっすらしかない時点で、どれだけ頭が鈍っていたかはお察しである。

 実家にいた頃は、長年ハワード家に仕えてきたばあやに小言を言われながら服を着せてもらい、髪を整えてもらっていたぐらいだ。

 だがレーンフィールドの屋敷には、実家の使用人を殆ど連れてきていない。

 なにより領主としてあまりに格好がつかないので、最近のエリオットは寝起きにハッカの茶を飲んで、あとは気合いでなんとか頑張っている。


「……うぅ…………今、何時だ……」


 資料室の机の上で目を覚ましたエリオットは、机に突っ伏したまま目だけを動かして周囲を見回した。

 寝起きで霞む目に映るのは、資料の山、山、山──その向こう側で書き物をしている小柄な少女。


(モニカ・ノートン……違った。それは偽名で、本当はモニカ・エヴァ……エヴァ? ……あー、なんだっけ、〈沈黙の魔女〉……)


 モニカは無表情で、黙々と羽根ペンを動かしていた。

 そうだ、モニカが提案した魔術奉納を成功させるために、昨晩は遅くまで打ち合わせをしていたのだ。

 モニカの魔術奉納には、この町の正確な地図や、建物の大きさ、通りの幅などの詳細な記録が必要だった。

 だからエリオットは屋敷の資料室にモニカを案内し、資料を用意しながら必要なあれこれを決めて、許可証を作り……いつのまにか机に突っ伏して寝てしまったのだ。

 肌寒さを覚えたエリオットは机に頬をくっつけたまま、右手を彷徨わせた。上着が欲しいのに見つからない。でも、起き上がるのも億劫だ。


「ばあや、上着取ってくれ……」

「はい、どうぞ」

「朝食のジャムはアプリコットにしてくれ……塊残さないで丁寧に裏ごししたやつ」

「料理人にお伝えいたします」


 机に突っ伏しウトウトしながら、背中に上着をかけてもらったエリオットはふと気づく。

 記憶の中のばあやの声と違う。

 ハワード家のばあやなら「まったく世話の焼けるぼっちゃまですね」とお小言がついてくるはずだ。

 重い頭を持ち上げれば、こちらをじっと見つめるメイド服の美女と目が合った。

 メイド服の美女は、ハッカの香りのするティーカップを机に置く。


「お茶をお持ちしました。どうぞ」

「…………」


 エリオットはハッカのお茶をチビチビ飲み、真顔でメイドを見上げた。


「……よぉ、ばあや」

「はい、おはようございます、エリオットぼっちゃま」


 モニカが連れてきたリンとかいうメイドは、エリオットに挨拶をするとそのままモニカの前にもティーカップを置いた。


「〈沈黙の魔女〉殿、一般的な人間の感覚で言うところの朝になりました。エリオットぼっちゃまもお目覚めです」

「…………」


 モニカは返事をしないどころか、リンの方を見向きもしなかった。丸い目は瞬きを忘れたように紙面の数字と魔術式を追い続けている。

 懐かしい光景だ。会計記録の見直しをしている時のモニカがあんな感じだった。


「〈沈黙の魔女〉殿」


 リンがモニカの脇の下に手を突っ込んで、その小さい体を持ち上げた。モニカはしばし空中で羽根ペンを動かしていたが、すぐにハッと我に返ったような顔をする。


「あ、わ、リンさん、えっと、お、下ろして、くださ……」

「一度休憩することを進言いたします。人間の生命活動には適度な睡眠が必要なはずです」

「あう、はい……」


 モニカが大人しく頷くと、リンはモニカを椅子に戻した。

 エリオットはハッカの茶を啜りながら訊ねる。


「もしかして、徹夜したのか?」

「あ、はい。えっと……徹夜、得意、なので」


 それは得意と言っていいのだろうか。

 モニカのカップからはハッカではなく、リンゴに似た甘い香りがした。あちらは安眠効果のあるハーブティーらしい。

 モニカはフゥッと息を吐くと、机に積み重なった資料の山をチラリと見る。


「資料の数字、必要なところは大体覚えました。この後、実際に町に出て誤差の修正をします」


 山積みになった資料の全てを覚えた訳ではないと分かっているが、それにしても相当な量の筈だ。

 おまけにその数字を元に、必要な魔術式を書き上げるところまで、ほぼ終わっているらしい。

 耳を澄ますと、ベンジャミンのピアノの音が聞こえた。こんな早い時間だというのに、もうピアノの練習を始めているのだ。

 昨日のモニカの提案を聞いたベンジャミンは「これは、すごい音楽になるぞ!」と張り切っていた。そうして食事もそこそこに、ピアノの前に座って指を動かし続けているのだ。

 天才とは、努力をせずに成果を出せる人間のことではなく、逸脱した熱意と集中力で何かと向き合える人間のことではないかとエリオットは思う。

 そしてそれは、自分には到底できないことだ。


(だからどうした)


 ならば自分は、こうして熱暴走した天才共をサポートし、最善の状態で本番に挑めるようお膳立てをしてやるまでだ。

 そう自分に言い聞かせ、エリオットはハッカの茶を飲み干した。

 ようやく頭が冴えてきた。領主である自分にはやるべきことが幾らでもある。

 まずは、気を利かせてハッカの茶を用意してくれた使用人達に、昨日の土産を配るところから始めよう。



 * * *



 客室で数時間の仮眠を取ったモニカは軽い食事を摂った後、リンと共に町に出かけた。

 魔術奉納を成功させるためには、とにかく町に関する正確な数字が必要なのだ。

 モニカは昨晩読み込んだ資料との誤差を確かめつつ、大通りを端から端まで歩き、手にした木の板に紙を乗せて記録した数字を書きつける。


「リンさん、次の紙、ください」

「どうぞ」

「こっちの紙は、綴ってください」

「かしこまりました」


 モニカが数字を書き込んだ紙のインクをリンが風で乾かし、順番に紐で綴る。

 屋外で大量の書き物をする時、どうしても困るのが紙を乾かす場所の確保だ。風の精霊であるリンがいると、インクを乾かす手間が無くなるので非常にありがたい。

 一通り数字を記録し終えたモニカは、今度は特殊なインクを取り出し、地面に魔術式を書き込んだ。

 あらかじめ地面や建築物に直接魔術式を書き込んでおくと、特定の条件下で魔術を発動させることができる。セレンディア学園にルイスが張っていた防御結界がそれだ。

 ただ、地面や建築物に魔術式を書き込むのには土地の持ち主の許可がいる。

 ついでに言うと、普通に魔術を使うよりも遥かに難易度が高いので、モニカは殆どやったことがない。この手の仕事は〈結界の魔術師〉であるルイスの得意分野だ。


(本当は町全体を防御結界で覆えたら、嵐の中でも祝祭ができるけど……)


 モニカの技術では町全体を覆うほどの防御結界は作れない。建物を丸ごと一つ結界で包むだけでも、相当に高度な技術なのだ。


(ないものねだりしてる場合じゃない。わたしは、わたしができることを)


 最小の範囲で最大の効果が出るように計算し、必要な魔術式を書き込んでいると、近くの屋台の親父が、太い眉毛を持ち上げてモニカを睨みつけた。


「嬢ちゃん、店主の前で堂々と道に落書きたぁ、大した根性だな」

「すす、すみ、ませ……えっと、あの、きょ、許可……っ」

「領主殿の許可を得ています」


 萎縮してしまったモニカに代わり、リンが荷物鞄から許可証を取り出して掲げる。

 領主エリオット・ハワードのサイン入りの許可証に、屋台の親父は太い眉を寄せた。


「祭りの前だってぇのに道に落書きだなんて、領主様は何を考えてんだ?」

「ら、落書きじゃなくて、魔術式、ですっ」

「魔術式ぃ?」


 屋台の親父は胡散臭いものを見るような目をしている。

 今のモニカは七賢人のローブではなく、ありふれた外出着だ。とても魔術師には見えないのだろう。


「祭りの日は嵐が来るらしい。何を準備してるかは知らんが、無駄になる可能性が高いぞ」

「いいえ」


 屋台の親父を真っ直ぐに見つめ、モニカは宣言する。


「お祭りの日、楽しみにしててください…………すごいこと、するので」


 屋台の親父は、やっぱり胡散臭そうな顔をしている。

 モニカはそれ以上は何も言わず、書き上げた魔術式に保護術式をかけ、次の通りへ向かった。

 早足で歩くモニカの背後で、リンが言う。


「〈沈黙の魔女〉殿が計画をされていることは、どれも風霊であるわたくしの得意分野です。一部、請け負うこともできますが」

「いいえ、駄目です。これは、わたしの仕事です」


 今回のリンの仕事は、メイドとしてモニカを補佐することだ。

 だから、モニカは魔術奉納に関することで、リンの力を借りるつもりはなかった。


「それに、ですね……」


 モニカは背後のリンを振り返り、はにかむように笑う。

 この魔術奉納をすると決めた時から、モニカは考えていたことがあるのだ。


「リンさんにも、『わぁ、素敵』って思ってもらいたいん、です」


 リンはしばし考え込むように黙り込んでいたが、やがてガクンと首を縦に振って頷いた。


「では、当日を楽しみにしています」

「はい! 楽しみにしてて、ください!」


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