【17】旅人の信念
「わたくしは、カーラに振られたのです」
リンのその一言に、モニカは思った。
惚気話とはなんだったのだろう、と。
ルベルメリアは無表情のまま眉だけひそめて「うごごごご……」と低く呻いていた。
モニカは恐る恐るリンに訊ねる。
「あの、えっと……その式典の後に、一体、何が……」
「はい、わたくしはあの瞬間、自分の胸に芽生えた感情について考えました」
金髪の美しい女性に化けた風霊は己の胸に手を当て、目を閉じる。
あの時の出来事を反芻し、自分自身に問いかけるように。
「胸の奥から込み上げてくる愛しさ。触れたい、そばにいたいという切望。それらが複雑に混じった、春の嵐のように心をざわめかせる強い感情……」
リンは閉じていた目を開き、真っ直ぐにモニカを見つめて言った。
「これは恋だと、わたくしは考えました」
「リィンズベルフィード兄様、僭越ながら申し上げます! それだけで恋慕であると断言するには些か早計かと!」
前のめりになって主張するルベルメリアに、リンは静かに応じる。
「わたくしは人間の体と違います故、恋愛における一般的な症状──体温及び心拍数の上昇、それに伴う頬の紅潮といった変化はありません」
あれ? とモニカは思った。
リンの言う「恋愛における一般的な症状」が、何故かモニカの記憶に引っかかったのだ。
自分は少し前に、この風邪にも似た症状について真剣に検証をしなかっただろうか?
(風邪……そう、風邪みたいな。……最近、風邪を引いてたのは誰だっけ? えっと、冬……冬に誰か……)
「それでも、あの時の私の感情を端的に表現するなら『ドキドキした』……この一言に尽きるのです」
(ドキドキ、してる……?)
記憶の扉が開きかけたその時、ルベルメリアの「異議ありっ!」という大声がモニカの思考を邪魔し、記憶の扉をバタンと閉ざした。
「リィンズベルフィード兄様、ドキドキには様々な種類がございます! 恐怖や焦りを感じた時など、もしくは何かに感動した時などにも、生物はドキドキするものでございます!」
ルベルメリアは両の拳を握りしめ、リンに詰め寄る。
「わたくしが思いますに、リィンズベルフィード兄様は、〈星槍の魔女〉の魔術に対する感動のドキドキを、恋心と錯覚してしまったのではないかと!」
魔術への感動を恋心と錯覚──その言葉に、モニカの胸がムズムズした。
なんとなく落ち着かない気持ちでソワソワしているモニカとは対照的に、リンは動じることなく淡々と語る。
「わたくしが恋に落ちたのは、カーラの魔術を見たからではありません。あの精霊王召喚の魔術は、きっかけにすぎないのです」
リンの顔はいつもの無表情だし、声だって単調だ。
それなのにモニカには不思議とその声が、柔らかで温かなものに聞こえた。
「持てる全てを出し切って、わたくしのために全力を尽くしてくれた……そんなカーラに、わたくしは心奪われたのです」
そう告げるリンは、どこか誇らしげですらあった。
好きな人を好きと胸を張って言えるリンの姿に、モニカは眩しげに目を細める。
ルベルメリアは反論しようと口を開きかけ、結局何も言わずに口を閉ざした。
ルベルメリアは理解してしまったのだ。リンの想いが確固たるものであることに。
「かくして恋心を自覚したわたくしは、カーラに想いを告げようとしたのですが……」
リンは言葉を切り、心なしか低い声で言う。
「大変なことになりました」
* * *
魔術奉納を終えたカーラは、歌姫の歌が終わるとほぼ同時に膝から地面に崩れ落ちた。
神殿のそばに控えていた弟弟子のルイスが駆け寄り助け起こすと、カーラはルイスに肩を借りて立ち上がる。
「いやぁ、出し切った出し切った……うぇ、魔力欠乏症で、目の前がグルグルする……」
カーラは青白い顔で気持ち悪そうに呻き、ヘラリとルイスに笑いかけた。
「ごめーん、森の奥まで連れてってくれる……? 魔力濃度の高いとこ行けば、回復するからさ」
「まったくもう……普段はあれほど私に『無茶するな』と言うくせに」
ルイスは小言を言いつつカーラに肩を貸し、神官に一言二言断って森の奥へと向かう。
その様子を眺めていたリィンズベルフィードは、上空から二人の姿を追いかけた。
やがて泉の辺りまで来ると、カーラは「ここで良いよ」と言って、地面にゴロリと仰向けに寝転がる。
そんなカーラの横にルイスが腰を下ろし、訊ねた。
「何故、〈星槍〉を使わなかったのですか? あれも大概に消費が激しいでしょうけれど、それでも精霊王召喚四連続よりは幾らかマシでしょう」
仰向けで空を見上げていたカーラは、すぐにリィンズベルフィードに気がついたらしい。
ニカッという表現が似合いそうな、してやったりという顔で笑う。
「とびきりすごいのを、お見舞いしてやりたかったのさね」
その笑顔を見た瞬間、体が勝手に動いていた。
リィンズベルフィードは衝動のままに地面に降り立ち、カーラの上に覆い被さる。
「なっ……!?」
ルイスがギョッとしたような声をあげるが、構うことなくリィンズベルフィードはカーラの頬に両手を添えて口づけた。
口づけを通して魔力を流し込むと、青白かったカーラの頬に少しだけ温もりが戻ってくる。
……が、次の瞬間、リィンズベルフィードの体は強い衝撃を受けて冗談みたいに吹っ飛び、地面を転がった。
ルイスがリィンズベルフィードの胴体に蹴りを放ったのだ。人間だったら骨が折れていた。
「なんと物騒な」
リィンズベルフィードがゆっくりと起き上がり、神官服に着いた草を払うと、ルイスが低い声で唸る。
「うちの姉弟子に何してくれてんだ、クソ精霊が……っ!」
その物騒さと凶悪さたるや、どこから見ても悪人の顔だった。
カーラが上半身を起こし、のんびりした口調でルイスをたしなめる。
「ルイス、どうどう。こんなの犬か猫に舐められたようなもんさね」
「いいえ、犬でも猫でもなく精霊です」
リィンズベルフィードが訂正すると、ルイスは凶悪な顔を歪めて、愛想笑いらしき表情を取り繕った。
そうして凶悪な愛想笑いを浮かべながら、指の関節をバキボキ鳴らす。
「カーラ、悪さをする犬猫には躾が必要でしょう?」
「精霊です」
同じ言葉を繰り返すと、ルイスは笑顔のまま舌打ちをし、リィンズベルフィードを睨みつける。
今にも殴りかかりそうなほど殺気立っている弟弟子に、カーラが額を押さえて溜息をついた。
「相手は上位精霊だ。戦ったら負けるのはあんただよ、ルイス」
カーラはルイスの拳を下ろさせると、地面に座り込んだままリィンズベルフィードと向き合う。
「風霊リィンズベルフィード、目は覚めたかい?」
「はい、わたくしの在り方を思い出しました。心から感謝いたします」
「そりゃ良かった」
ニヒヒと笑うカーラの満足げな顔を見ていたら、やっぱり好きだと思った。
だから、リィンズベルフィードは言葉を続ける。
「それにあたりまして、報告が一点」
「うん? まだ、体に不調がある?」
「わたくし、カーラに恋愛感情を抱いていることを自覚いたしました」
率直すぎる告白にルイスが顔をしかめ、カーラは「おっとぉ?」と声を上げる。
「さっきのキスってそういう……? 魔力供給のためじゃなくて?」
「求愛行動です。ついでにカーラが衰弱していたので魔力供給も」
カーラは特に恥じらうでもなく「そっかぁ」と苦笑した。
苦笑で流されてしまったことに、リィンズベルフィードは密かに悔しさを覚える。
「求愛行動なら、相手に確認は取ろうね? 突然のキスは……まぁ、ルイスのあれはやりすぎだけど、ビンタぐらいされても文句は言えないよ」
「承知しました。それでは、キスをしていいですか?」
「だーめ」
「…………」
求愛とはなんと難しいのだろう。
リィンズベルフィードは駆け引きが苦手だったので、自身の願いをそのまま口にすることにした。
「〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェル。わたくしと契約をしてください。貴女の旅に、わたくしを連れて行って欲しいのです」
カーラの顔から表情が消える。
理知的な目が、心を覗くみたいにリィンズベルフィードを映した。
「自由を愛する風の精霊にとって、人間に縛られることは屈辱じゃないのかい?」
「貴女になら、喜んで」
迷いなく答える風霊に、カーラは素っ気無く首を横に振った。
「悪いけど、うちは旅人なんだ。荷物は増やせない。契約者が欲しいなら、他を当たっておくれ」
「わたくしが欲しいのは、カーラです」
カーラは眉を下げて笑う。子どもをあやすみたいな笑顔だった。
「あげられないなぁ」
その一言が、全てだった。
カーラは立ち上がり、ローブについた草を払ってルイスを見る。
「ルイス、そろそろ戻るよ」
そう言って、カーラはリィンズベルフィードに背を向ける。
ルイスはリィンズベルフィードを見てフンと鼻を鳴らし、カーラの後に続いた。
風霊リィンズベルフィードは耳が良い。
なので、その場を一歩も動かずとも、その後のカーラとルイスの会話は全部聞こえていた。
「よろしいのですか?」
そう言ったのはルイスだった。
何が? と問うカーラに、ルイスは歯切れの悪い口調で言う。
「あの精霊は気に入りませんが……上位精霊との契約など、滅多にないチャンスでしょう? それに風の精霊がいれば、貴女の旅は格段と楽になる」
「ルイス、うちは旅人だ。死ぬ時は誰にも看取られず、どこぞで一人で野垂れ死ぬ可能性が高い」
カーラはふぅっと息を吐き、ルイスを諭すように語り出す。
明るいのに、寂しい声だった。
「そんな人間と契約したら、契約精霊はどうなる? うちが死んだら精霊石の中に閉じ込められるか、魔力を失くして消滅するかの二択だ。家族がいる人間なら、精霊石をミネルヴァに送るなりなんなりして、新しい契約者を探してもらえるかもしれない。でも旅人はいつ、どこで死ぬか分からないんだ。だから、うちは精霊と契約はできない」
「……承知しました」
貴女の旅が終わる時、一緒に消滅して構わない。とリィンズベルフィードは思った。
だけど、カーラはそれを許してはくれないのだ。
そのことが悔しくて、寂しくて、悲しかった。
「ところでカーラ、この後は王都に戻るのですか?」
「そうさねぇ、七賢人会議があるし、報告書も出さないとだし……あぁー……うちの家、どうなってた?」
「……聞きたいですか?」
「あぁぁぁ、もうやだ、あの埃と蜘蛛の巣だらけの家に帰りたくない……」
カーラはぐしゃぐしゃと髪をかき乱し、悲痛な声でボソリと呟いた。
「家の掃除してくれる可愛いメイドさんと結婚したい……」
* * *
「リンさん……まさか……」
唇を震わせるモニカに、リンは力強く頷く。
「これだ、と思いました」
思っちゃったんですか、とモニカは絶句した。




