【9】信念一つ、貫けず
エリオットの父は非常に厳格で、口答えをしようものなら容赦なく頬を引っ叩くような厳しい人だったけれど、その弟である叔父は温和で優しい人だった。
エリオットは叔父が怒っているところを一度も見たことがない。
だからエリオットは父親よりも叔父に懐いていたし、よく叔父の家に遊びに行ったりもした。
叔父はチェスが強くて音楽が好きな人だった。エリオットにチェスを教えてくれたのも叔父だ。いつも優しい叔父だけど、チェスだけは手加減をしてくれなかった。
バイオリンを習ったばかりのエリオットは、父より先に叔父に教わった曲を聞かせたりもした。
父はエリオットが一箇所でもつっかえると最初から弾き直せと叱るけれど、叔父はニコニコしながら最後まで聞いてくれるし、弾き終わった後は拍手をして沢山褒めてくれる。
『エリオット、君が十歳の年にレーンフィールドで大きな祭りがあるんだ。その時は一緒に行こう。そこで君に新しいバイオリンを買ってあげようじゃないか』
エリオットはその約束を楽しみにバイオリンの練習に励んだが、約束が守られることはなかった。
ある日、バイオリンのケースを手に叔父の家に足を運んだエリオットが見たのは、天井から首を吊った叔父の変わり果てた姿。
叔父の自殺の原因は、叔父の妻と叔父が頼りにしていた側近の男の裏切りだった。
二人は叔父の財産を使い込み、使い込みがばれるとあろうことか金を盗んで駆け落ちをしたのだ。
叔父の妻は優しい女だった。エリオットが遊びに来るといつも美味しいお菓子を用意してくれた。
叔父の側近は親切な男だった。エリオットが叔父の仕事中にチェスをせがんでも嫌な顔をせず、仕事を片付けてくれた。
叔父の妻も側近も、貴族ではなく平民出身だ。叔父は平民であろうとも、優秀な人間を引き立てることに躊躇しなかった。
そのことに叔父の妻も側近の男も感謝していたのに──二人とも笑顔の裏で叔父を見下し、裏切っていたのだ。
『己の分を弁えない者を引きこむから、こうなるのだ』
叔父の葬儀で父がそう呟くのを聞きながら、エリオットは思った。
(父上の言う通りだ。身分階級の垣根を乗り越えてくる奴らは、俺達貴族のことを無能な搾取対象だと嘲笑ってるんだ)
だったら、自分は間違えたりしない。
身分階級の垣根は絶対だ。それを乗り越える奴がいると誰かが不幸になるのだ。
──事実、あの従者は不幸になったじゃないか。
表向きは誰からも慕われている完璧な王子様が、自分自身を呪って憎んでいたことをエリオットは知っている。
才有る故に身分の垣根を超えて引き立てられ、そしてクロックフォード公爵に利用され、人生を滅茶苦茶にされて破滅しかけた。
──ほら見たことか、馬鹿なやつ!
そう見下していた。
見下していたのに、あの従者が救われた時、エリオットは確かにホッとしてしまったのだ。
あの審議会の結末が、ハワード家にとってマイナスになると分かっていたのに!
(あぁ、本当に嫌になるぜ)
一度は破滅しかけた癖に、今はエリオットよりよっぽど有能な領主をしているあの従者。
庶民出身でありながら侯爵の養子になって、執念のような努力で周囲を認めさせたシリル。
同じく庶民出身でありながら、才能を開花させて七賢人となり、第一線で活躍するモニカ。
絶対誰にも言うつもりはないが、身分階級の垣根を超えて、それでも努力をやめず周囲から認められている者達を見ると、エリオットは無性に自分が恥ずかしくなる。
身分階級至上主義を掲げておきながら、その信念を貫けず。貴族としての責務を果たすと言いながら、領主としての仕事ぶりはこの様だ。
神官にも領民にも慕われず、歌姫にコケにされている。
* * *
──都会育ちの領主様、ふんぞり返って赤い顔。歌姫の死も知らないで。
──都会育ちの領主様、真実知って青い顔。歌姫の死を知らされて。
歌声の主はすぐに見つかった。
森の奥に進んでそれほど行かぬところに小さな泉があり、そのほとりの木の上に腰掛け、歌姫──ロージー・ムーアは足をブラブラ揺らしながら歌を歌っていた。
極々淡いふわふわの金髪を結ぶでもなく背中に流している華奢な少女だ。細い手足は少女というより、少年めいて見える。
前髪は眉毛の上で真っ直ぐに切り揃えられていて、気の強そうな眉毛がよく見えた。
「良い歌声だな。偉大な歌姫への追悼にしては、少々過激だが」
木の上の歌姫はブラブラと揺らしていた足を止め、エリオットを木の上から見下ろす。
「知ってたか。その領主様は、神殿側から歌姫の死を報告されていなかったんだ」
「知ってるよ」
あっさり帰ってきた返事にエリオットが拍子抜けしていると、歌姫はいかにも負けん気の強そうな態度で鼻を鳴らした。
「でも、そんなのちょっと町に出れば、すぐに分かることじゃん。町のみんながお母さんの死を──偉大な歌姫ロビン・ムーアの死を悲しんでた」
ロージーの指摘に、エリオットはギクリと顔を強ばらせる。
彼女の言う通り、町の人間は歌姫の死を悲しんでおり、献花台は常に花で溢れていたらしい。
それをエリオットは知らなかった。領主を引き継いだばかりで忙しく、町に出る余裕がなかったからだ。
「領主様の家の使用人だって、みんな知ってたはずでしょ。なのに教えてもらえなかったなんて、領主様は人望が無いんだね」
返す言葉もなかった。
使用人達は皆、エリオットに対してよそよそしく、必要以上に話しかけたりはしない。
エリオット自身、使用人と無駄口を叩く必要はないと思っていたから、使用人達と距離があることを問題視していなかった。
(違う、それは言い訳だ)
実家の使用人達は皆、伯爵の嫡男であるエリオットのことを可愛がってくれた。だからエリオットは、いつも実家の使用人達に甘えていた。
使用人との無駄口は必要ないだなんて、領主として孤立して使用人達によそよそしくされたエリオットの強がりでしかない。
そのことを行きずりの少女に見抜かれた気がして、エリオットは羞恥に顔を赤くする。
「領主様は、この町にも祝祭にも興味なんて無いんだよ。ただ無難に終わらせられればいいって思ってる」
歌姫はヒラリと木から飛び降り、猫のようなしなやかさで着地した。
窓から飛び降りた時もそうだったが、とても身軽だ。
着地の姿勢から膝を伸ばすと、歌姫ロージー・ムーアは思っていた以上に小柄だった。どこぞの子リス──モニカと殆ど変わらない。
ロージーは幼さの残る顔に、なんとも挑発的な笑みを浮かべてエリオットを真っ直ぐに見上げる。
「あたしの言ったこと、間違ってた? 領主様?」
ギクリとした。
この少女はエリオットがこの町の領主であることに気づいていないのだと思っていた。だけど違う。
ロージーはエリオットの正体に気づいていて、その上で批判しているのだ。エリオットの在り方を。
「領主様、自分の顔は覚えてもらってないと思ってた? 自分は下々の者の顔なんて覚えないものね。あたしはちゃんと覚えてたよ。神殿に挨拶に来た日の、下々の者なんて興味ありませんっていう感じ悪い態度も」
エリオットは人の顔を覚えるのは割と得意だ。
だが初めて神殿に挨拶に来た日は、老齢の神官達の不遜で不愉快な態度にはらわたが煮えくり返って、周りが見えていなかった自覚がある。当然、この少女のことも覚えていない。
言葉を詰まらせるエリオットを見るロージーの目は冷めていた。
ほらね、あたしの言った通りでしょ。とその態度が語っている。
「祝祭、あたしは出たくない。出ても手抜きの歌でいい」
「はぁっ!? 何を言って……」
「領主様は祝祭なんて興味ないんでしょ? 歌姫にも興味ないんでしょ? だったら別に良いじゃん。不満なら他の人を歌姫に選べば?」
ロージーはふわふわの髪を揺らして、エリオットに背を向ける。
「だから、あたしに期待しないでね」
斜に構えた態度で吐き捨てて、歌姫の娘ロージー・ムーアはその場を立ち去った。
そんな彼女を引き止める言葉を持たないエリオットは立ち尽くし、グシャリと己の髪をかき乱す。
「……あぁ、くそっ」
呟き、エリオットは苛立つ気持ちを落ち着かせるよう、ゆっくりと息を吐いた。そうして疲れの滲む声で言う。
「尻尾が隠せてないぞ、子リス」
「うぇっ!? えっ……し、尻尾?」
正確には尻尾ではなく杖である。
エリオットは消沈しているのを誤魔化すように、殊更軽薄に笑ってみせた。
我ながら情けない笑顔だという自覚はある。それでも、この少女はそんなエリオットを馬鹿にしたり、揶揄ったりはしない。
七賢人という肩書きが信じられないほど頼りない後輩だが、そういう点では信用できる。
「見てただろ。これが今の俺の現実だ。領民からも神殿からも信用されてない。音楽家はスランプ、歌姫はヤル気無し」
ははっ、と息を吐くようにエリオットは笑う。
悔しさで歪みそうになる顔を、無理矢理笑みの形にして。
「ここまで問題が山積みだと、いっそ笑えてくるぜ。もう、これより底辺は無いって感じだな」
モニカは杖を胸に抱いたまま、もじもじと指を捏ねていた。かける言葉に困っているのだろう。
だが、突如ハッと顔を上げると右手で杖を振り上げ叫ぶ。
「ハワード様っ!」
キィンと硬質な音がした。それと同時に周囲の空気が微かに変わったのを肌で感じる。
その変化にエリオットが戸惑っていると、ゴゥッと強い風の音と共に何かが振り下ろされた。
何か──それは見えない刃だ。おそらく風の魔術。
モニカが防御結界の類を張ってくれたのだろう。悪意に満ちた風の刃はエリオットの髪一本揺らすことなく、ただ周囲の木々をズタズタに切り裂く。
「何者だっ!」
エリオットが懐に入れた護身用の拳銃に手を伸ばして叫ぶと、森の奥の木々が不自然にザワザワと揺れた。
低い位置の木々が揺れたなら獣が、高い位置の木々が揺れたなら鳥がいるのだろうと想像できる。
だが前方の木々全体が、まるで輪唱を奏でるかのように時間差でザワザワと揺れているのはどういうことか。
まるで、森そのものが悪意を持っているみたいだ。
「そのローブ、見覚えがあります。七賢人ですね」
森の奥から声が聞こえた。
男性とも女性ともつかない、中性的な美しい声だ。
その美しい声に合わせて、木々がザワワ、ザワワと揺れる。
「七賢人が来た……そうですか。あれから十年が経ったのですね。また、祝祭が始まるのですね。あぁ、あぁ、あぁ、あぁぁああああああ……っ」
感情のまま吐き散らしたようなその声は深い憎悪に満ちていた。
その憎悪を表すかのように、森のざわめきも荒々しさを増していく。
エリオットは半信半疑の声で呟いた。
「まさか……御使い、なのか?」
かつて精霊王シェフィールドがこの地に遣わした、強大な力を持つ風の精霊。
存在自体が疑わしいと思っていたものが、森の奥からエリオット達に明確な敵意を向けている。
「我らを軽んじ、同胞を奪った忌々しい人間ども。我々はお前達を共存者とは認めません。祭りの日には嵐を起こしてくれる──その嵐を、我らの怒りと思い知りなさい」
森のざわめきが遠ざかり、やがて森は穏やかさを取り戻す。
ただエリオットの周囲に散らばる切り裂かれた木々が、今の出来事が夢ではないことを示していた。
(なんてこった)
エリオットは声に出さず呟いた。
スランプの音楽家、人見知りの七賢人、やる気の無い歌姫──これより底辺は無いと思っていたのに。
(精霊にまで嫌われてるときたか)
いよいよ笑う余裕すら無くなり、エリオットは片手で顔を覆った。




