【8】歌姫の死も知らないで
音楽家ベンジャミン・モールディングによる「失恋した友に捧ぐピアノソナタ」をたっぷりと聞かされた一行は、その後、馬車に乗って神殿に挨拶に行くことになった。
なおエリオットから「絶対にあのメイドは置いていってくれ」と厳命されたため、リンは屋敷に残ってもらっている。
ピアノソナタを弾き終えたベンジャミンは、まだ本調子ではないようだが、それでもだいぶ元気を取り戻していた。
彼は馬車の窓から町の様子を眺め、町のあちらこちらから聞こえてくる歌や楽器の音に合わせて上機嫌で指を振る。
エリオットの言う通り、スランプ中でも彼は音楽を愛さずにはいられないのだ。
「良い町だな、エリオット。この町に溢れる音を聴けば分かる。人々がこの祭りを心から楽しみにしているのだと」
ベンジャミンの言葉にエリオットは、喜んでいいのか迷っているような、複雑そうな笑みを浮かべた。
「ベンジャミンは、何度かこの町に来たことがあるんだったな」
「その通りだとも! 十年前の祝祭も見たことがある。実に素晴らしい時間だった。あの時見た光景は、耳にした音楽は、今も私の心に焼きついている」
十年前の祝祭──〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェルが魔術奉納を務めた儀式。
モニカは十年前の祭りを知っている者に直接話を聞いてみたくて、口を開きかけた。
だが、それより早くエリオットがボソリと言う。
「俺は行かなかったよ」
エリオットは窓の外の光景から目を逸らすように視線を足元に向け、硬い声で繰り返す。
「行かなかったんだ」
その声がベンジャミンの言葉を──十年前の祝祭の話を遮りたがっているように聞こえたのは、モニカの気のせいだろうか。
ベンジャミンは少しだけ瞼を持ち上げてエリオットを見ると、何かを思い出したように「あぁ」と小さく呟いた。
ベンジャミンは一瞬だけ何かを悼むような顔をして、それからいつものにこやかさで言葉を続ける。
「ところでエリオット、今日は歌姫にも会えるのかい? 本番前に何度か私のピアノと合わせておきたいのだが」
捧歌の祝祭という名の通り、この祭りでは歌を精霊王に捧げる。
精霊は種によって好む供物が異なり、火の精霊が酒、水の精霊が魚、大地の精霊が大地の収穫物を喜ぶように、風の精霊は歌を供物として好むのだ。
特に風の精霊王は音楽をこよなく愛すると言われており、だからこそ捧歌の儀は魔術奉納と同じかそれ以上に重要視されていた。
「十年前の歌姫ロビン・ムーアの歌声は実に素晴らしかった。彼女と同じ舞台に立つことができるなんて、こんなに心躍ることがあるだろうか!」
「……すまん、ベンジャミン」
エリオットは苦渋を隠さない顔で、ベンジャミンに頭を下げた。
驚き目を丸くするベンジャミンに、エリオットは苦々しげな口調で言う。
「ロビン・ムーアはもう亡くなっているんだ。そのことを、俺はついさっき神殿からの報告書で知った。歌姫の死が、俺がこの町に来たタイミングとほぼ同じだったらしい。そのゴタゴタで報告するタイミングを逃した……っていうのが神殿側の言い分だ」
先程モニカが入室した時、エリオットが険しい顔で神殿からの報告書を睨んでいたのは、そういう理由だったらしい。
それにしても祭りの目玉である歌姫が亡くなっていることを、すぐに領主に知らせずにいたなんて普通じゃない。
(本当に……神殿と仲が悪いんだ)
モニカが密かにそんなことを考えていると、ベンジャミンが驚きに目を丸くして、エリオットに訊ねた。
「では、彼女に代わる歌姫は一体誰なのだね? 祝祭の歌姫は巫女の役割を持つから、歌が上手ければ誰でも良いというわけでもないだろう」
大抵の場合、こういう時に選出されるのは神殿の重鎮の娘だ。
実際、亡くなった先代歌姫ロビン・ムーアも神殿の重鎮の娘である。
エリオットは渋い顔で口を開いた。
「ロージー・ムーア。先代歌姫ロビンの娘で今年で十六歳。俺も会ったことはない」
領主と神殿の不仲、そして歌姫の交代。
どうやらモニカが思っていた以上に、この祝祭は問題が山積みらしい。
エリオットはベンジャミンに対し申し訳なさそうにしていたが、ベンジャミンは特に腹を立てていないようだった。
若き音楽家は座席に敷き詰められたクッションに背中を預け、指揮棒を振るように指を振る。
「ならば、その新しい歌姫との共演を楽しませてもらうまでだ。ロビン・ムーアの歌声がもう聴けないのは残念だが、その代わり、このベンジャミン・モールディングが新しい歌姫とともに、この町の人々に感動を届けようではないか」
「……お前のそういうところが、ありがたいよ」
エリオットはボソボソと口の中で言葉を転がすみたいに、小声で言って苦笑した。
* * *
風の精霊王の神殿は、森に入って五分ほど歩いたところにある。
エリオットは古い神殿だと言っていたが、なるほど確かにところどころヒビの入った石造りの壁面には苔がむし、蔓草が絡みついて、歳月の流れを感じさせた。
ただ広さはそれなりにある神殿だ。モニカはもっとこぢんまりとした教会のようなものを想像していたが、それよりもずっと大きい。
中央に広々とした礼拝室があり、その左右に神官達が執務をしたり生活をしたりする為の別棟があり、渡り廊下で繋がっている。
(お、思ってたより大きい……魔術奉納って外でするのが一般的だし、多分、この広場でするんだよね……)
この立派な神殿の前で魔術奉納をする自分を想像し、緊張に顔を強張らせていると、モニカの視界の端に何かが映った。
何か──二階の窓枠に足をかけている誰かだ。
「うぇえっ!? あ、危ない……っ」
モニカが声を上げるのとほぼ同時に、その人物は窓枠からロープを放り投げた。そしてそのロープに掴まり、壁を蹴りながら飛び降りる。
エリオットとベンジャミンも、モニカの声で二階から降りてきた人物に気がついたらしい。
だがその人物は窓から降りるのに必死なのかこちらに気づいておらず、地面に足が着くや否や森の奥に走り去ってしまった。
ちらりと見えた長い髪は極々淡い金髪。着ている服は女性神官が着る貫頭衣だ。この神殿の関係者だろうか?
モニカ達が呆気に取られていると、神殿の中央にある扉が勢いよく開いた。
中から飛び出してきたのは、中年の男性神官だ。
「ロージー! ロージー! お待ちなさいっ、これから領主様がお見えに………………あ」
神官はすさまじく気まずそうな顔で姿勢を正すと、引きつった愛想笑いを浮かべる。
「これはこれは、領主様。本日はどのような御用で」
「七賢人と音楽家が到着したんで、司祭と歌姫に挨拶をと思ったんだが……まさかと思うが、今しがた猿みたいに窓から飛び降りたあの小娘が歌姫とは言わないだろうな?」
「もっ、勿論、歌姫ロージー・ムーアは神殿におりますとも!」
神官はモニカの目から見ても分かるほど狼狽えていた。
目は泳いでいるし、テカテカした顔には暑くもないのに汗が滲んでいる。
「ただ、そのぅ、歌姫は今、腹を下してのたうちまわっておりますので、面会はまた後日……」
その時、森の奥から歌声が聴こえた。
若い娘の歌声だ。高音はよく伸び、美しく響く。
──都会育ちの領主様、ふんぞり返って赤い顔。歌姫の死も知らないで。
──都会育ちの領主様、真実知って青い顔。歌姫の死を知らされて。
神官が真っ青になって震えながら目を逸らした。
モニカは恐る恐るエリオットを見上げる。
エリオットの顔からは表情が抜け落ちていた。だが、その目は嫌悪と怒りをグチャグチャに混ぜた色で物騒に輝いている。
「……珍しい鳥が鳴いているな。見物に行ってくるとしよう」
中年の神官はヒィィッと声を漏らし、エリオットを引き止めようとした。
だがそんな神官の前に立ち塞がったのはベンジャミンだ。
「失礼、私は音楽家のベンジャミン・モールディングと申します! この神殿にピアノかオルガンはありますか? ありますよね? 是非とも試し弾きを──あぁ、できれば本番と同じように外に設置していただきたい! やはり室内と屋外では音の響きが全然違う」
ベンジャミンが神官に詰め寄っている間に、エリオットは森の奥へ進んでいく。
モニカはオロオロとエリオットとベンジャミンを交互に見ていたが、迷った末にエリオットを追いかけることにした。




