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サイレント・ウィッチ(外伝)  作者: 依空 まつり
外伝8:識者の証明
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【おまけ】神様、神様

 その男は深い森の中を走っていた。短い黒髪の若い男で、飾り紐をあしらった黒いローブを身につけている。

 走り疲れた男が近くの木にもたれて荒い息を吐くと、その足元に一匹の猫が近寄ってきた。青と緑のオッドアイの黒猫だ。

 男はしゃがみ込んで、黒猫を抱き上げると、苦笑混じりに呟いた。


「なんだよ、ネロ。ついてきちまったのか?」


 まるで返事をするかのように、猫はナーゥと鳴く。男は黒猫を一撫ですると、腕にしっかりと抱えた。


「大人しくしててくれよ。あの女は、こんなに可愛い猫が相手でも容赦しないんだ」


 その時、近くの茂みがガサガサと鳴った。男は口の中で早口で詠唱をする。

 茂みから細い何かが飛び出した。細い蛇のようにも見えるそれは、鋭い棘を持つ薔薇の蔓だ。それが五本。

 来やがったな、という呟きの代わりに詠唱を終え、男は指先を薔薇の蔓に向ける。

 男の指先から小さな炎が生まれた。手のひらに乗るほどの大きさでしかないその炎は、わずかに紫がかった黒い炎だ。


「焼き尽くせ」


 風も無いのに黒い炎がユラリと揺れる。

 それはまるで強風でも受けたかのように膨れ上がり、襲いかかってきた薔薇の蔓を跡形もなく焼き尽くした。

 この薔薇の蔓は、切断してもすぐに再生してしまうという特性を持っている。

 だが男の操る黒い炎で焼かれた薔薇は再生することなく、炎の黒に侵食されて塵と化した。

 薔薇の蔓が伸びてきた方角から、枯れ葉を踏む足音がする。華奢な女の軽い足音なのに、背筋が凍るような圧迫感を伴っていた。

 やがて、木々の合間から漆黒のドレスを身に纏った女が姿を現す。

 真紅の薔薇のように鮮やかな巻き毛。深い森の奥に芽吹く緑の生命力に満ちた目。恐ろしく整った顔に浮かぶのは、目の前にいる全てを見下す嘲笑。

 その邪悪な嘲笑ですら圧倒的に美しい。そういう強烈で鮮烈な、一度見たら忘れられない女だ。


「よぅ、〈茨の魔女〉。相変わらず美人だな」


 男の軽口には答えず、美貌の魔女──〈茨の魔女〉は黒炎に侵食された薔薇の蔓を見下ろした。

 鮮やかな紅に彩られた唇が、歌うように節をつけて言葉を紡ぐ。


「黒……黒は好きよ。でも、お前も、その不細工な猫も嫌い」

「なにおぅ、猫は最強に可愛い生き物なんだぜ」


 男がそう主張すれば、腕の中の黒猫がどうでも良さそうにニャァと鳴く。そういうマイペースさも、最強に可愛いと男は常々思っている。

 軽口を叩きつつ、男は周囲に意識を向けた。〈茨の魔女〉の薔薇──人喰い薔薇要塞は、既にこの周囲を埋め尽くしている。この調子だと、森の外にも茨の兵士だか竜だかが待ち構えているのだろう。


「なぁ、同じ黒炎使いのよしみだろ。オレを行かせてくれよ」


 逃してくれとは言わず、あえて、行かせてくれと男は言った。

 今、男の故郷は神殿の聖騎士達に襲われている。

 神殿は彼らを邪教徒と呼び、その信仰を決して認めない。この機に徹底的に殲滅する気だ。

 男に残された時間は少ない。

 そして幸か不幸か、目の前にいるこの美貌の魔女は神殿の手先ではなかった。この女が神殿の手先になるなんて、世界がひっくり返ってもあり得ない。国王ですら骨抜きになる、とんでもない魔女なのだ。


「襲ってきたやつらは聖騎士だけじゃなかった。ありゃ、レテ派の魔術師達も神殿側についたな」

「そうよ。もはやお前達、クユラの民に生存の道は無い」


 神殿はレテ派と呼ばれる一大派閥の魔術師達を味方につけ、クユラの民も、彼らが崇める〈神様〉も徹底的に滅ぼそうとしている。

 クユラの民は魔術師の精鋭揃いだが、それでも非戦闘員込みで五百かそこらしかいないのだ。万を超える神殿側の勢力に敵うはずがない。

 じきに、クユラの民は滅びるだろう。


「だから、オレは〈神様〉の元へ行かなくちゃなんねぇんだよ」


 クユラの民にとって、黒炎とは神から借りた力であると考えられている。

 だからこそクユラの民に黒炎使いが生まれたら、その者は神の代行者として民を治め、最期の時はその身を神様に捧げて、黒炎をお返しするのだ。


「オレは、神様に黒炎を返さなくちゃなんねぇんだ」

「馬鹿馬鹿しい」


 〈茨の魔女〉はフンと鼻を鳴らし、ほっそりとした白い指を一振りした。

 周囲に潜んでいた薔薇の蔓が、命を吹き込まれたかのように一斉に動き出す。


「お前を、その神とやらにくれてやるぐらいなら、私がお前を貰うわ」

「オレは嫌いなんじゃなかったのか?」


 男が揶揄うようにニヤリと笑えば、〈茨の魔女〉は凄みのある美しい顔に邪悪な微笑を浮かべた。


「そうよ、だから薔薇の苗床にする。お前の魔力なら、きっと美しい黒い薔薇が咲くでしょう」

「そいつぁ、ごめんだぜ。この身は神様のモンだ。お前にゃ、やれねぇよ」


 男はあくまで軽い口調で言って肩をすくめる。

 迫り来る死を覚悟している男は、この美しい女の前で無様に取り乱すのが嫌だった。

 この女の記憶の片隅に残るなら、いつも通りの自分がいい。


「悪いが通してもらうぜ、〈茨の魔女〉」


 〈茨の魔女〉の顔から表情が消え、新緑色の目がギラリと不気味に底光りする。

 このリディル王国最強最悪の魔女は歌うような口調で詠唱し、そして告げた。


「若い男は花の糧、若い娘は美容薬、それ以外は犬の餌──さぁ、蹂躙を始めましょう」



 * * *



 とある山の頂きの日当たりの良い岩の上に、ソレは寝そべっていた。

 緑の少ないその山はしかし魔力だけは豊富で、ソレの周囲にはいつも風だか火だかの精霊がフヨフヨと漂っている。

 精霊は魔力の塊だ。

 光の粒にしか見えない弱い精霊達は、ソレがゴァァと大欠伸をすると、驚いたかのようにパチンパチンと弾けて消えて、また離れた所で輝き始めた。

 精霊達に囲まれ寝そべるソレは、麓の人間に〈神様〉と呼ばれている存在である。

 神様、というのがどういうものかはよく分からないが、たまにやってくる人間が言うには、とても偉くて立派な存在であるらしい。

 あの人間は今日も来るだろうか、とソレは欠伸をしながら考える。

 黒い猫を連れた黒髪の人間。そいつは、この麓で暮らすなんとかという民の長であるらしい。名前は忘れた。何回か聞いた気がするが、長くて覚えられなかったのだ。

 男はいい加減覚えてくれよ神様、と言うが、この山にやってくる人間なんてその男ぐらいのものなのだから、人間呼びで構わないだろうとソレは常々思っている。

 その人間は自分のことを〈神様〉と呼ぶが、恐れもしなかったし、大して敬いもしなかった。

 この山を登って会いに来る名目は「神に祈りを捧げるため」らしいが、この人間が自分のために祈りを捧げたところなど見たことがない。

 男は大抵猫を抱きながら、他愛もない話をして帰っていく。

 例えば自分と同じ黒炎使いの女の話とか、数学が好きで他国の数学者を尊敬しているという話とか、猫が最強に可愛い生き物であるという主張だとか。

 そういう他愛もない話に耳を傾ける時間が、ソレは嫌いではなかった。

 だから、その日もあの人間が来るのを寝そべりながら待っていた。


 ──ニンゲン、ネコ。

 ──チノ、ニオイ。

 ──キタ、ニンゲン。


 下級精霊よりは幾らか上等な、弱い自我を持つ精霊達がヒソヒソと囁き始める。

 そのヒソヒソ声に不穏なものを感じ、ソレはゆっくりと体を起こして、目を凝らした。

 人間よりもずっとよく見える目が、血に濡れた足を引き摺りながら歩く人影を見つける。あの人間だ。

 位置は山の中腹ほどだろうか。あの弱々しい足取りでは、いつまで経ってもこの頂上には辿り着かないだろう。

 ソレは背中の翼を広げ、飛び上がる。空を飛べば、人間の元に辿り着くのはあっという間だ。

 空からゆっくりと降りてくるソレを、人間は灰色の目を丸くして見上げていた。

 痛みを耐えるように歪んでいた顔が驚きに染まり、そして次の瞬間にはクシャリと笑う。


「まさか、神様からオレに会いに来てくれるなんてな。助かったぜ。あの女、茨に毒を仕込んでたみたいでよぉ……いやぁ、モテる男はツラいぜ」


 目に見えて弱っているくせに、その口調はいつもと変わらぬ軽薄さだった。

 男はゆっくりと息を吐き、腕に抱えていた何かをそっと撫でる。

 それは男がいつも連れていた黒猫だった。その前足は血に濡れており、ぐったりとして動かない。


「猫に忠誠心なんて無いって言うけど、こいつ、最後までオレについてきたんだ。馬鹿だよなぁ。折角逃してやったのに戻ってきて……お前は最高の相棒だぜ、ネロ」


 ははっと息を吐くように笑って、男は猫を抱いたままその場に崩れ落ちた。

 男は全身傷だらけだった。特に足を重点的に狙われたのだろう。ボロボロに裂けたブーツには、植物の蔓らしき物が絡みついている。

 全身傷だらけになり毒におかされた男は、最後の力を振り絞ってゴロリと仰向けになった。

 そうしてソレを見上げて、どこか誇らしげに言う。


「神様、神様……黒炎を返しにきたぜ。オレを食べてくれ」



 * * *



(あぁ、これでやっと、一族の責務から解放される)


 男は安らかな気持ちで目を閉じた。

 思えば黒炎使いとして生を受けた時から、しがらみの多い人生だった。

 相棒の猫と共に自由に旅をする未来を、あのおっかなくて美しい魔女と、くだらない話をしながら酒を飲み交わす未来を、何度夢見たことだろう。

 それでも彼はクユラの民を──信仰を捨てられなかったのだ。


(いよいよ目が霞んできたな)


 見上げた空は薄い水色をしていて、そんな水色の空を遮るみたいに、大きな大きな神様の黒い体が見える。

 神様が大きな口を開いて、声を発した。

 人間とは異なる響きの声が空気を震わせる。


 ──それがお前の望みか?


 望み、望み、自分の望みはなんだろう。

 神様に黒炎を返すこと。それは自分の義務ではあるけれど、望みとは違う気がした。

 男は腕に抱いた小さな相棒に想いを馳せ、朦朧としながら呟く。


「……自由な、猫になりたいなぁ。知ってるか、神様。猫は、最強に、可愛い生き物なんだ、ぜ……」


 その言葉を最後に、男の意識は途切れた。



 * * *



 〈茨の魔女〉は己の茨の先端に目を向けた。

 茨の再生力を上回る速さで侵食していた黒い炎が、風に吹かれた蝋燭の火のように、ふつりと呆気なく消えたのだ。

 紫がかった黒い炎はあの男が操る黒炎だ。それが消えたことが何を意味するかを理解し、〈茨の魔女〉は赤い唇を噛み締める。


「……馬鹿な男」


 呟き、〈茨の魔女〉は前方に目を向けた。

 こちらに向かってくる集団がいる。そのローブに見覚えがあった。あれは神殿に与したレテ派の魔術師達だ。

 集団の先頭を行く中年の魔術師がこちらに気づき、足を止める。


「失礼、貴女様は〈茨の魔女〉様とお見受けいたします」


 無言のまま目を向ければ、中年の魔術師は更に言葉を続けた。


「我々は教皇の命を受け、邪教徒どもの掃討任務に当たっております。この辺りで、邪教徒の生き残りを見ませんでしたか? 貴女様と同じ黒炎使いの魔術師です」


 〈茨の魔女〉は無表情のまま魔術師どもを一瞥し、右手を持ち上げた。

 周囲に残った茨が一斉に集まり、魔術師達を包囲する。


「〈茨の魔女〉様!? 一体、何を──っ!?」


 顔色を変えるレテ派の魔術師に、〈茨の魔女〉は美しい微笑を向けた。

 白い指先を一振りすれば、薔薇の蔓が魔術師達を絡めとる。

 優秀な者は攻撃魔術で応戦しようとしたが、炎の槍も氷の矢も茨の壁に塞がれて、〈茨の魔女〉には届かない。この茨を焼き尽くせる炎など、あの男の黒炎ぐらいのものなのだ。

 悲鳴と怒号が響く中、〈茨の魔女〉は冷めた口調で歌うように呟く。


「あの男への手向けの花は、赤い薔薇が良いわ。お前達の血を吸って、赤く赤く染まった薔薇が」


 薔薇の蔓がしなり、魔術師達を蹂躙した。

 絡みつき、血と魔力を吸い上げて、白い薔薇を鮮血の色に染める。


「喰らい尽くせ、薔薇要塞。命を糧に咲き誇れ」


 薔薇要塞の主人に、魔術師達は怨嗟と絶望の声をあげる。

 何故、自分達がこんな目に。聖務を妨げる邪悪な魔女め。いずれ神の裁きがくだるだろう。

 そう悲鳴をあげる魔術師達に、〈茨の魔女〉は凄絶な嘲笑を浮かべた。


「私からあの男を取り上げた、お前達が悪いのよ」

「神殿を敵に回すつもりか!! 今ならば、私から大司祭に取りなして……」


 魔術師の男の言葉に、〈茨の魔女〉はコロコロと喉を鳴らして笑う。

 なるほど確かに、薔薇に血を吸い尽くされた魔術師達の亡骸があれば、誰もがそれを〈茨の魔女〉の仕業と思うことだろう。

 〈茨の魔女〉は笑いの余韻の残る声で、詠唱をする。

 このリディル王国では、もう使い手はたった一人になってしまった、黒い炎を呼び起こす魔術を。


「お前達は、亡骸も残さない」


 茨の周囲に黒い炎が浮かび上がる。それはあの男の黒炎と違い、僅かに赤みがかった黒をしていた。

 赤みがかった黒──固まりかけの血を思わせる色の炎がユラユラと揺れる。

 舞い上がる火の粉は、黒薔薇の花弁のようだった。


「歴史にはこう記録されるでしょう。〈クユラの民〉を襲撃したレテ派の魔術師達は、〈クユラの民〉の長が操る黒炎に焼き尽くされたと」


 さぁ蹂躙を始めましょう──と美しい唇が歌うように告げた。



 * * *



 山道を一人の男が歩いていた。黒髪に金色の目の、黒いローブを身につけた若い男だ。

 男はまるで生まれて初めて歩いたみたいに、フラフラと覚束ない足取りで山を下る。


「人間の体で歩くのって、難しいな」


 呟き、男はアーアーと発声練習でもするかのように喉を震わせた。


「オレ、オレ、うーん、なんかしっくりこないな。だって、神様はすごくえらいんだし……うん、そうだな。オレ様だ」


 ブツブツと呟き、男は疲れたようにその場にしゃがみこむ。

 するとその姿がたちまち黒い霧に包まれた。黒い霧はギュッと収縮して猫の形になる。

 黒い霧が晴れると、そこには金色の目をした黒猫がいた。

 黒猫は己の尻尾を左右にフリフリし、納得したように呟く。


「にゃるほど、これが最強に可愛い生き物か。最強に強いオレ様が、最強に可愛い生き物になるなんて、なんかもう、オレ様無敵って感じだな」


 にゃふふ、と得意げに鳴き、黒猫は四本足で歩きだす。

 人間の体よりも、こちらの方がずっと動きやすかった。


「さて、どこに行こうかな。まぁ、どこでもいいや。なんか西はうるせーし、東の方に行ってみるか」


 呟き、名も無き神様は山を下った。

 あの人間みたいな面白い奴に、また会えたら良いなぁ、と頭の隅で考えながら。


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