【20】歴史を知る賢人の含蓄ある一言
氷の上位精霊と、今では伝説の存在となった白竜を従えて、更にはあの〈茨の魔女〉の末裔やら、無詠唱で精霊王召喚を扱う小娘やら、とんでもないバケモノ共に囲まれているシリル・アシュリーを見上げ、〈識守の鍵〉は『オホン、オホン』と咳払いをする。
吾輩に注目! という意味の咳払いなのだが、誰も聞いていなかった。
「いっぱい運動したらお腹減ったよな! 昼飯にしようぜ。カブが沢山あるんだ! あとニンジンも! あっ、そう言えば、この間送ったニンジン、もう食べてくれたかい?」
「あぁ、使用人に配ったら、とても喜んでくれた」
「えっと、アイクがいろんなニンジン料理作ってくれて、とても美味しかった、です」
「そっかぁ、来年も送るから楽しみにしててくれよな! 留学先から送るからさ!」
「勉学に専念しろ! 何のための留学だ!」
『…………。……ウォォォォッホォォォン!!』
主張の強い咳払いをする〈識守の鍵〉に、シリルが怪訝そうな顔をする。
「なんだ今の異音は。もしや先ほどの戦闘で、機能に障害が……?」
咳払いを異音扱いされてしまったが、とりあえず注目を集めることには成功したらしい。
『あーあー、シリル・アシュリーよ。よくぞ、我が試練を乗り越えた。今ここにお主を吾輩の契約者として認め……』
〈識守の鍵〉が全てを言い終えるより早く、シリルは〈識守の鍵〉をスルリと指から抜いた。
シリルの指に浮かび上がっていた契約印が、水に溶けるように消えてなくなる。
何故、自分が良い感じのことを言っている時に、わざわざ指から抜いてしまうのか。
〈識守の鍵〉がムッとしていると、シリルは〈識守の鍵〉を手のひらに乗せて言った。
「〈識守の鍵ソフォクレス〉。今回の件で私は自分の至らなさを思い知った。私が〈識守の鍵〉を継ぐには、まだ未熟」
『……うん?』
「私のことを認められないのも当然だ。今一度研鑽を積んで、その時は再び試練を……」
『いや、あの、えーと? 吾輩の話を聞いていたであるか?』
恐る恐る問いかける〈識守の鍵〉に、シリルはキッパリと言った。
「今の私に、〈識守の鍵〉を継ぐ資格はない。そもそも私は自分の力で試練を乗り越えていないのだから……」
『なにおう! 吾輩が認めたと言っているではないか!』
「だが、私が納得できない!」
『こ、この頑固者め……っ! 吾輩が認めると言ったら認めるのであーる!』
「断る!」
『断るな!』
* * *
(ど、どうしよう……すごくシリル様らしいけど……)
延々と続く不毛な言い争いにモニカがオロオロしていると、アイザックが爽やかな笑顔で言った。
「そろそろ匙を投げて良いかな?」
「……私はとっくに投げたわ」
クローディアが低い声で吐き捨てる。
意地っ張りと意地っ張りが、互いに意地を張り合うといかに不毛か。目の前で繰り広げられているのは、その見本のような光景である。
その時、シリルの右肩に金色の何かが飛び乗った。いつのまにかイタチに化けていた氷霊アッシェルピケだ。
ピケがシリルの肩の上から〈識守の鍵〉を睨みつける。するとたちまち、黒い指輪にじわじわと霜がおりた。
「やっぱりこれが諸悪の根源。凍らせればいいと思う」
『ほざけ氷霊! そもそも諸悪の根源は貴様である!』
「……わたし?」
金色のイタチが、シリルの肩で首を捻った。
反対の肩によじ登ってきた白いイタチ──トゥーレが「なんで?」と訊ねると、〈識守の鍵〉はいよいよ不満そうに、大声で喚きちらす。
『こやつと契約するのは、吾輩が一番乗りのはずだったのであるぞ! 子どもの頃から目をつけてたのであるぞ! それなのに……それなのに……吾輩以外と先に契約するなんて……この浮気者ーーーっ!』
最後の一言はどうやらシリルに向けられたものらしい。
「うわきもの」
「うわきもの?」
イタチ達がよく分かっていない口調で復唱する。
手元と両肩から響く「浮気者」の合唱に、シリルは目を剥いた。
「浮気、だと…っ!? 人聞きの悪いっ! 私がいつそんな不誠実なことをしたと言うのだっ!」
『シラを切るつもりか! 全く最近の若者は契約を軽んじすぎである! ホイホイホイホイお気軽に契約しおって……これではまるで、吾輩が第三夫人ではないかー!』
シリルは全身を戦慄かせ、口をパクパクとさせた。
あまりにも不名誉な言いがかりに、いよいよ言葉も出てこないらしい。
完全に硬直してしまったシリルの肩の上で、ピケとトゥーレが、いつもと変わらぬ口調で言う。
「わたし、第一夫人?」
「じゃあ、わたしは第二夫人だね」
イタチ達はあまり意味を理解していない顔をしていた。
更にはラウルとアイザックまでもが、のんびりとした口調で言う。
「精霊が第一夫人……その理屈、愛妻家のルイスさんが聞いたら、憤死しそうだなぁ」
「困ったな、僕の第一夫人がウィルディアヌになってしまう」
もはや、誰もこの状況を深刻に捉えていなかった。
深刻に受け止めているのは当事者のシリルと、生真面目なモニカぐらいのものである。
「し、シリル様は、う、浮気とか……そういうのじゃ……あのぅ、契約は……主従契約で……け、結婚とは、ち、違……っ」
モニカは懸命に訴えかけたが、ワァワァと騒いでいる〈識守の鍵〉にはまるで届いていない。
訴えを聞いてもらえないモニカが涙目になっていると、アイザックが苦笑混じりに言った。
「ソフォクレスは最初からシリルのことを認めていたのに、あの二匹にヤキモチを妬いて拗ねてるんだよ。困ったご老人だね」
「……ヤキ、モチ?」
モニカは滅多に口にすることの無い単語を舌に乗せ、吟味する。
ヤキモチ、嫉妬。〈識守の鍵〉はピケとトゥーレが羨ましかった。
「えっと、〈識守の鍵〉はシリル様のことを認めてるんです、よね?」
「そう。なのに、二人して頑固で意固地なものだから、あの有り様だ」
あの有様、と言ってアイザックはシリル達に目を向ける。
シリルは手のひらに乗せた〈識守の鍵〉に、真摯に語りかけていた。
「〈識守の鍵ソフォクレス〉、私は契約相手に序列をつけて、扱いを変えるつもりはない。皆平等に……」
『はんっ! ハーレム願望のある男は、皆そう言うのである!』
歴史を見てきた賢人の含蓄ある一言に、シリルが青い目をギラつかせて低く呻く。
「ピケ、凍らせていい」
「分かった」
『序列はつけないって言ったのにー!! 平等に扱うのではなかったのかー!?』
いよいよ状況は、混迷を極めつつあった。
ラウルがローブのポケットからカブを取り出して、ボリボリ齧りながら呟く。
「うーん、みんなで仲良く野菜を食べれば解決すると思うんだけど、〈識守の鍵〉は野菜を食べられないもんなぁ」
それで解決すると思っているのはラウルだけなのだが、ツッコミを入れる者は誰もいない。
いつも突っ込みをいれるシリルが〈識守の鍵〉にかかりきりだからである。
アイザックがクローディアに小声で訊ねた。
「調停者の妻から、この状況を調停するアドバイスはあるかい?」
「……第四夫人でも送り込んだら?」
そう言ってクローディアがチラリとモニカを見る。
アイザックは僅かに目を細めてクローディアの案を黙殺し、モニカに向き直った。
「モニカ、今からすごく頑張るから、応援してくれる?」
「は、はいっ! アイクっ、がんばって、ください!」
「うん、君の期待に応えてみせるよ、マイマスター」
アイザックはニコリと微笑み、前に進み出た。
そしてシリルの手のひらの上で霜だらけになっている〈識守の鍵〉に話しかける。
「〈識守の鍵ソフォクレス〉、シリルを認めると言った言葉に嘘は無いね?」
『おぉう、パイ職人……吾輩を助け……』
「嘘は無いね?」
アイザックが美しく微笑み圧をかけると、〈識守の鍵〉は『う、うむ』と唸った。
それを確認して、アイザックはシリルを見据える。
「シリル、君は〈識守の鍵〉との契約を辞退すると言ったね?」
「はい、今の私ではあまりにも……未熟で力不足です」
「君は頭に血が上ると、視野が狭くなるね。顔を上げて周りを見てごらん、シリル・アシュリー」
アイザックは、モニカ、ラウル、クローディア、そして肩の上のイタチ達に視線を巡らせる。
そうして釣られるように周囲を見回すシリルに、アイザックは柔らかな声で告げた。
「君の妹さんに、七賢人、氷霊、白竜……これだけの者が、君のために奔走してくれたという事実を忘れてはいけない。今回の件で、自分の至らなさに気づいたというのなら、改善していけば良いだけのことだ。君はそれができる……そうだろう?」
シリルは言葉に詰まったような顔でアイザックを見ている。
アイザックはシリルの手から霜だらけの指輪をつまみ上げると、ハンカチで霜を拭った。
「ここにいるみんなが、君を応援している。〈識守の鍵〉との契約を結ぶことを願っている」
アイザックの言葉に、モニカとラウルは無言で頷いた。
クローディアはどうでも良さそうな顔をしていたが、アイザックは見なかった振りをして、言葉を続ける。
「僕達の期待に、応えてくれないか?」
シリルは一度口を開き、ギュッと引き結んだ。
それは込み上げてくる不安や、失敗に対する羞恥心、そういうものを飲み込み、腹を括った顔だった。
「……謹んでお受けいたします」
アイザックは微笑み、シリルの右手中指に〈識守の鍵〉を戻す。
シリルは漆黒の指輪を見下ろし、小さく呟いた。
「よろしく頼む。ソフォクレス」
『………………うむ!』




