【9】好き嫌いしない良い子vs偏食集団
モニカはエプロンを付けると、腕まくりをしてフンスと鼻から息を吐く。
アイザックが帰ってくるまでに、シチューとパンを完璧な状態に温めておくぞ、とモニカは張り切っていた。
アイザックは水竜討伐に出かける前にある程度シチューの仕込みを終えていて、帰宅後、クローディアとモニカに飲み物を用意するついでに料理をほぼ仕上げていた。素晴らしすぎる手際である。
鍋の中から漂う食欲をそそる香りに、モニカはうっとりとしながら鍋底をグルグルかき混ぜる。
「モニカ」
声をかけられ振り向けば、シリルがキッチンの入り口で気まずそうにモニカを見ていた。
いつも胸を張って自信に満ちた振る舞いをしているシリルが、今日はずっとションボリ落ち込んでいる。
今も彼は酷く憔悴した顔で、それでも気遣うようにモニカの手をじっと見ていた。
「右手の怪我は、もう良いのか」
雪山の騒動でモニカはバラの蔓を握りしめ、手に負傷している。
モニカはお玉を左手に持ち替え、右手を開いてシリルに見せた。
「大丈夫です。えっと、メリッサお姉さんがくれたお薬がよく効いて……ほら、もうこんなに薄くなったんです」
シリルは少しだけホッとしたような顔をするとキッチンに入り、モニカの横に立って袖を捲る。
「手伝おう」
「だ、駄目ですっ、シリル様はお客様なんですからっ」
モニカがシチュー鍋をグルグルかき混ぜつつ主張すると、シリルは気まずそうに言う。
「もてなされる側の身で、このようなことを言うのは不躾だが……」
「……?」
「その混ぜ方だと、野菜が潰れる」
「えっ!?」
言われてみれば確かに、お玉で力強くかき混ぜすぎたせいで、カブとニンジンの一部が潰れて散り散りになっている。
モニカがオロオロしていると、シリルはさっとその手からお玉を取り上げて、鍋底を軽く擦った。モニカみたいにグルグル混ぜたりはしない。
「シリル様、お上手ですね……」
「子どもの頃、母の手伝いをしていた程度だ」
一瞬、あれ? と思ったモニカだったが、すぐにシリルが養子だったことを思い出した。
モニカにとってシリル・アシュリーとは、ハイオーン侯爵令息という認識が強い。養子であることやクローディアとは血の繋がらない兄妹であることを、たまに忘れそうになるのだ。
(ハイオーン侯爵の養子になる前の、シリル様……)
鍋をかき混ぜるシリルを見上げながら、モニカはなんとなく考えてみる。
きっと母親の手伝いを積極的にする真面目な良い子だったのだろう。
(昔から、今みたいなシリル様だったのかな)
シリルの尊大で堅苦しい喋り方も、子どもの頃からなのだろうか。ハイオーン侯爵はそういう喋り方をしないし、実父がそういう喋り方だったのかもしれない。
モニカが小さい頃のシリルを想像していると、シリルがオーブンに目を向けた。
「オーブンも、もう火を止めた方が良いのではないか? パンを温めるだけなら、あとは余熱で充分だろう」
「…………!」
シリル様も余熱を使いこなしてる……とモニカは大真面目に感心した。
モニカにとって、余熱の扱いは料理における高等テクニックなのである。
* * *
野菜が半分ぐらい潰れたシチューを見ても、アイザックは何も言わなかった。
「シリル、君、ニンジンは好きかい?」
アイザックの言葉にシリルは今日一番元気な声で答える。
「はい! 大好きです!」
「そう、良かった」
アイザックは手際良く皿にシチューをよそい、とりわけニンジンの多い皿をシリルの前に置いた。
「殿下、私の好物をこんなに……お気遣い、ありがとうございます」
シリルは感極まったように目を潤ませていた。こういうやりとりも、なんだか懐かしい。
シリルの足元では、トゥーレとピケがイタチの姿のままシチューの肉を頬張っている。二匹とも熱い肉は苦手らしく、しきりにフゥフゥと息を吹きかけているのが可愛らしかった。
モニカは程よく温まったパンを千切り、ぽそりと呟く。
「この三人でご飯食べるの、初めてですね」
セレンディア学園時代、生徒会室でほぼ毎日顔を突き合わせていた三人だが、休憩がてら紅茶を飲むことこそあれど、一緒に食事をする機会は殆ど無かった。
アイザックが「そうだね」と穏やかに相槌を打つ。
「僕は基本的に寮の自室で食事をしていたから……そういえば、シリルは食堂を使っていたのだっけ?」
「はい、基本的に一人で静かに食べる方が好きなのですが、たまにエリオットやニールと打ち合わせをしながら食事をすることもありました」
シリルは昔を懐かしむように目を伏せ、かと思いきや眉間に皺を寄せて難しい顔をする。
「しかしエリオットは『恵んでやる』などと言って、自分の嫌いな食べ物を私の皿にポイポイポイポイ……やれ、カブの酢漬けは嫌いだ、豆はペースト以外食べたくない、骨つき肉は食べづらくて嫌いだなどと……」
生徒会書記エリオット・ハワードは、どうやら相当な偏食だったらしい。
垂れ目を細めて「恵んでやるよ」とニヤニヤ笑っている姿が目に浮かぶようだ。
「それと、たまにグレン・ダドリーも、私はもっと肉を食べるべきだなどと言って、勝手に肉を載せて……その際にしれっと自分の嫌いなニンジンも載せてくるのです。全く揃いも揃って子どもみたいな真似を。もっと殿下を見習って……」
「シリル、シチューが冷めてしまうよ」
「食事中に失礼しました」
アイザックの言葉にシリルは姿勢を正し、ニンジンがてんこ盛りになったシチューを食べる。
ふとモニカは、気になっていたことを訊ねた。
「ラウル様のニンジン、シリル様のところにも届きましたか?」
「ん? あぁ、そういえば少し前に大量に届いたな。使用人に配ったら、とても喜んでいた」
その手があったか、とアイザックの方からボソリと聞こえた気がした。空耳だろうか?
モニカが目を向けると、アイザックはニコニコしながらシリルに言う。
「シリル、シチューは気に入ってくれたかな?」
「はい、とても美味しいです!」
「そう、良かった。食後にケーキもあるんだ。遠慮せず食べてくれ」
そう言ってアイザックは、ニンジンの少ないシチューを上品に平らげた。
* * *
食事を終えると、シリルは片付けの手伝いを申し出たが、アイザックはキッパリ「駄目だよ」と言い放った。
「今の君に必要なのは休息だ。〈識守の鍵〉の説得は、また明日考えよう」
「ですが……」
シリルはテーブルの上の箱をチラチラと見て、眉を下げている。
古代魔導具は替えの効かない、国宝同然の品だ。父に借りたそれを常に指につけていたぐらいだし、手元に無いと不安なのだろう。
その結果、〈識守の鍵〉の罵詈雑言に晒され、寝不足になったのは想像に難くない。
「〈識守の鍵〉は僕が責任をもって預かろう。僕のことは信用できない?」
「いいえ、いいえ! 決して、そのようなことは……!」
シリルが顔色を変えて首を横に振る。
アイザックは「あぁ、それと」と言って、シリルの手元にある荷物鞄を指さした。
「鞄の中身をあらためても?」
シリルは言われるまま鞄を開ける。中には着替えと仕事の書類らしき物、それと本が数冊入っていた。
アイザックは書類と本を鞄から取り出して、テーブルに積み上げる。
「あの、殿下……?」
「これも朝まで預かっておこう」
「なら、せめて旧図書館法の本だけでも……それを覚えないと、〈識守の鍵〉に認めてもらえないのです」
アイザックは旧図書館法の本を手に取り、パラパラと捲る。
そうして冷めた目で薄く笑った。
「旧図書館法。七十三年前に廃止された法だね。細分化されているわけでもなく無駄な法が多い。暗記する必要性を感じないね。必要なら都度、調べれば良いだけだ」
「ですが、それを覚えないと……クローディアのように認めてもらえない……」
シリル、と窘めるような声でアイザックは言う。
決して大声でも強い口調でもないのに、不思議と聞く者の心にスッと入ってくる、そんな声だった。
「僕は君が〈識者の家系〉の人間だから、副会長にしたわけじゃない。膨大な情報を整理して、相手に伝えやすい形でまとめる君の報告能力を高く評価しているからだ。僕が欲しかったのは図書館ではなく副官だからね」
アイザックの言う通り、シリルは情報をまとめるのが上手かった。
モニカは細かいデータが揃っていないと気が済まない性分なので、ついつい資料を作りすぎてしまうのだが、シリルはその資料全てに目を通した上で、必要な情報を取捨選択して、分かりやすい報告書を作ることができる。
それは共同研究をしている今も、しばしば実感することだ。
(そういえば、グレンさんも生徒会の引継ぎの時、シリル様の引継書を褒めてたっけ……)
引継書は細かい説明を読むのが苦手なグレンのために、簡潔に分かりやすくまとめられていた。
グレンはしきりに「副会長すげーっす!」と感心していたものである。
シリルは知識や記憶力では〈歩く図書館〉と呼ばれるクローディアに敵わない。
だが、シリルだけの能力をアイザックは正しく理解し、評価していたのだ。
「ハイオーン侯爵は君に『クローディアのようであれ』と言ったのかい?」
「いいえっ……そのようなことは……」
シリルがブンブンと首を勢いよく横に振る。一つに括った銀色の髪が尻尾のように左右に揺れた。
アイザックは柔らかく微笑み、自信に満ちた声で言う。
「ハイオーン侯爵の後継は君だ、シリル・アシュリー。君の養父と僕の見る目を信じておくれ?」
「…………っ」
シリルは泣きそうな顔で言葉を詰まらせ、口を開きかけて閉じる。
そうして、アイザックに深々と頭を下げた。
「……今日は先に休ませていただきます」
「うん、おやすみ。ゆっくり休むんだよ」
「はい」
シリルはソファから立ち上がり、トゥーレとピケを呼ぶ。
二匹のイタチはピョコンとシリルの肩に飛び乗った。
今まで口を挟めずにいたモニカは、慌ててその背に声をかける。
「あ、あのっ、シリル様……お、おやすみ、なさいっ」
シリルは足を止めて振り向き「あぁ、おやすみ」と返した。
その顔はやつれていたけれど、肩の荷が少し軽くなったかのように穏やかで、そのことにモニカはホッと胸を撫で下ろす。
シリルとイタチが部屋を出ていくと、アイザックはモニカの向かいの席に腰掛け、布で包んでいた小箱を手に取った。
「アイク?」
モニカが声をかけると、アイザックは返事の代わりにニコリと笑顔を返す。
そうして彼は小箱に閉じ込めていた〈識守の鍵ソフォクレス〉をつまみ上げ、目の高さまで持ち上げた。
「さて、少しお話をしようか。〈識守の鍵ソフォクレス〉」
その顔に浮かぶ笑みはモニカに向ける親しみのあるものとは違う。
美しく、優雅で、そして酷薄な笑みだった。
〜セレンディア学園時代〜
「ほら、シリル。恵んでやるよ」(嫌いな豆をポイ)
「人の皿に勝手に移すな、エリオット・ハワード!」
「俺はグルメなんでね。口にする物は厳選してるんだ」
「貴様のはただの偏食だ」
「あっ、副会長発見ー! 副会長、もっと肉食った方が良いっすよ。はい、お裾分け」
「グレン・ダドリー! 肉の裏側にさりげなくニンジンを隠すな!」
少食なのに、色々押しつけられて大変だったそうです。




