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サイレント・ウィッチ(外伝)  作者: 依空 まつり
外伝7:帝国の銀月姫
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【20】真っ暗な鏡面

 息を切らして走るツェツィーリアの足元には、幾つもの死体が転がっていた。

 血に濡れた者、毒味をして倒れた者、皆、ツェツィーリアを庇って死んだ者達だ。

 地に転がる死体の目がギョロリと回って、ツェツィーリアを睨む。


 ──死ね死ね死ね死ね死んでしまえどうして生きているのですかだって貴女は役立たずの偽聖女なのに!


 血に汚れた死者の口が、次々と憎悪の言葉を撒き散らした。

 それら全てが、ツェツィーリアの死を望む声だ。


「いや……いやぁっ……」


 両耳を塞ぎ、我武者羅に走るツェツィーリアを、死者は地を這いながら追いかけてくる。

 その死者達の先頭を歩くのは、血塗れの侍女──ミアだ。


「許して……許して……っ」


 錯乱するツェツィーリアは、死者の声から逃げるように階段を駆け上る。暗くて足元は覚束ず、何度も転んだ。もう、足はあざだらけだ。

 それでもツェツィーリアは髪を振り乱し、涙を流して階段を駆け上る。

 やがて辿り着いたのは、最上階のバルコニー。いつもなら閉ざされている扉は大きく開き、冷たい夜風が涙に濡れた頬を撫でた。


「あ……う、ぁ……」


 ガウンの胸元を握りしめ、ツェツィーリアは荒い呼吸を繰り返す。

 背後で、ヒタ、ヒタと足音が聞こえた。

 振り向けば、ミアが足元に死者を引き連れて、ツェツィーリアに歩み寄るのが見える。

 そして、幼い侍女の背後には……見覚えのある男の姿があった。

 黒髪の無骨な男──〈夢幻の魔術師〉カスパー・ヒュッター。


「継承者でありながら、鏡に拒絶された、無能な聖女」


 低く告げる声には、ツェツィーリアを見下す目には、強い憎悪と侮蔑が滲んでいた。


「俺の妹は……ミアは、こんな偽物を庇って死んだのか」


 その言葉で、ツェツィーリアは全てを理解した。

 ヒュッターの動機も、そして、ヒュッターの陰で手を引いている者の正体も。



 * * *



 古代魔導具〈ベルンの鏡〉継承の儀は、アッヘンヴァル領のとある神殿で行われた。

 儀式に立ち会ったのは、老齢の神官長と、ツェツィーリアの祖父アッヘンヴァル公、そしてツェツィーリアの腹違いの兄、黒獅子皇レオンハルト。この三人のみ。

 ツェツィーリアは教わった手順通りに鏡の封印を解き、継承の儀を行った。

 古代魔導具には、人格が宿るという。〈ベルンの鏡〉もそれは例外ではない。

 鏡が目覚めると同時に、鏡面が揺れた。鏡に映るのはツェツィーリアの顔。その顔がツェツィーリアは決して見せない高慢な笑みを浮かべた。

 驚きに口を小さく開けるツェツィーリアとは裏腹に、鏡の中のツェツィーリアは大きな口を開けて断言する。


 ──気に入らぬ! なんと卑屈な面持ちであることか!


 高慢な女の声に仰天しているのはツェツィーリアだけではない。神官長も、アッヘンヴァル公も絶句していた。

 唯一、兄のレオンハルトだけが、どこか面白がるように鏡を見ている。

 鏡の中のツェツィーリアは──否、〈ベルンの鏡〉に宿る意思は、眉をひそめ、鼻の頭に皺を寄せ、忌々しげに顔を歪めていた。


 ──気に入らぬ、気に入らぬ。その面差し、妾の可愛いコンスタンツェを死なせた男にそっくりじゃ。


 ヒクリと、アッヘンヴァル公が肩を震わせた。

 コンスタンツェは先々代聖女。五十年以上前の戦争で、命と引き換えに〈ベルンの鏡〉を起動し、国を勝利に導いた救国の聖女だ。

 そんなコンスタンツェに鏡を使わせた人物と言えば、思い当たるのは一人しかいない。

 なによりツェツィーリアは、自分の容姿がどちらかというと祖父に似ていることを知っている。


 ──己が弱者であることを振りかざし、力ある者に犠牲を強要する。なんと卑屈で卑劣なことか。のぅ? コンスタンツェの兄よ。


 そう言って、〈ベルンの鏡〉は、ツェツィーリアの顔で、アッヘンヴァル公をせせら笑った。

 アッヘンヴァル公の顔が怒りに歪んでも、〈ベルンの鏡〉はお構いなしだ。〈ベルンの鏡〉はクスクスと意地悪く笑って、ツェツィーリアを見据えた。


 ──矮小な娘よ。コンスタンツェの血に免じ、契約は交わしてやろう。だがそれだけだ。妾はお前の呼びかけになど応えぬし、力を貸すこともない。その一生を、お飾りの契約者として終えるが良い!


 次の瞬間、鏡面は黒いインクで塗りつぶしたかのように真っ黒に染まった。光沢のない黒い鏡面は鏡としての機能を失い、何も映さない。

 ツェツィーリアはドレスの胸元を緩め、己の皮膚を確認する。胸の上には確かに契約印が浮かび上がっていた。ツェツィーリアがこの契約印に魔力を流し込めば、魔導具が共鳴するはずだ。それを確認して、儀式は終了となる。

 だが、どんなに魔力を流し込んでも魔導具は共鳴しない。〈ベルンの鏡〉は黒く染まったまま。

 ツェツィーリアは契約を交わすことにこそ成功したものの、〈ベルンの鏡〉に拒絶されたのだ。




 全てが終わり、屋敷に戻った後、祖父と兄は部屋に篭って話し合いをしていた。ツェツィーリアの今後の処遇について話しているのだ。

 ツェツィーリアはその話し合いを、扉の向こう側で息をひそめて聞いていた。

 聖女らしくあれと育てられたツェツィーリアの、初めての盗み聞きだった。


「あぁ、なんてことだ……いっそ、ツェツィーリアを完全に拒絶してくれれば、他の契約者を立てられたというのに……! 鏡を使えぬ契約者など、何の役にも立たぬではないか!」


 悲壮感に満ちた声は祖父のものだ。

 ツェツィーリアと〈ベルンの鏡〉の契約が成立してしまった以上、ツェツィーリアが生きている限り、他の者を契約者にすることはできない。〈ベルンの鏡〉の契約は、契約者が死ぬまで続くからだ。

 祖父は苦々しげな声で低く呻く。


「……こんなことなら、いっそ自死させるべきか」


 その一言に、ツェツィーリアの心臓は凍った。

 祖父はツェツィーリアに、自ら命を絶たせようと言うのだ。ツェツィーリアさえ死ねば、次の契約者を選べる。


(帝国が窮地に陥っても、わたくしは〈ベルンの鏡〉を扱えない。誰も、何も、救えない……わたくしが死ねば、新しい契約を結べる……)


 ツェツィーリアは震える己の体を抱きしめ、胸元の契約印に魔力を送る。


(お願い、応えて、応えてください、鏡様……っ)


 だが、どんなに契約印に魔力を流し込んでも、魔力はただ体の外に垂れ流されていく。

 鏡がツェツィーリアの魔力を受け取ることを拒んでいるのだ。


(どうして……どうして……っ)


 たとえ有事でなくとも、聖女となれば、祭事の際に鏡を手に人前に出ることもある。だが、鏡面の黒くなった鏡をどうして人目に晒せるだろう。

 絶望に目の前が真っ暗になったその時、兄の声が高らかに響いた。


「自死だと? くだらぬ! 契約が成立し、契約印が出たのなら僥倖! ツェツィーリアには、まだ利用価値がある」

「陛下……まさか……」


 扉越しでは、兄の顔は見えない。

 だがツェツィーリアには、黒獅子皇のとびきり高慢で得意げな笑みが見えるような気がした。


「〈ベルンの鏡〉の聖女には、人質としての価値がある。ツェツィーリアが鏡に拒まれたことを隠して、リディル王国に嫁がせれば良い。五十年前の戦争の敗因となった〈ベルンの鏡〉……その契約者が嫁ぐというのだ。向こうも嫌とは言うまい」


 幸か不幸か契約は成立し、ツェツィーリアの胸には契約印が浮かんでいるのだ。ツェツィーリアが聖女であることを疑う者は、まずいないだろう。


「祭事に必要なら、〈ベルンの鏡〉の複製品を作らせよう。最近、腕の良い職人を見つけてな」

「ですが陛下、〈ベルンの鏡〉が必要な有事の際は、いかように……」

「なんだ? 余が玉座にあるというのに、〈ベルンの鏡〉が必要な事態が起こるとでも?」

「そ、それは……その……」


 黒獅子皇は己の祖父と変わらぬ年齢のアッヘンヴァル公を相手に、高らかに言い放つ。


「この黒獅子が玉座にある限り、〈ベルンの鏡〉の出番など無いと思え!」


 兄の言葉はあまりにも高慢で身勝手だ。

 それでも自死を望まれたツェツィーリアにとって、己に利用価値があるという兄の言葉は、確かに救いだったのだ。



 * * *



 古代魔導具〈ベルンの鏡〉を継承してから、ツェツィーリアは何度も命を狙われた。

 〈ベルンの鏡〉を脅威に思う他国の人間、古代魔導具の継承権を狙う分家の人間。火種は幾らでもある。

 だが、ツェツィーリアの前に立つ〈夢幻の魔術師〉は、ツェツィーリアがひた隠しにしていた事実を口にした。

 ツェツィーリアが役立たずの聖女だと知っていて、かつ死を望む者は、たった一人しかいないのだ。


「……おじいさまは、わたくしを見限ったのですね」


 祖父──アッヘンヴァル公は、皇帝の意思に背き、新しい聖女の擁立を望んだのだ。

 〈ベルンの鏡〉と契約した聖女は、アッヘンヴァル公爵家の象徴でもあり、求心力を高めるための餌になる。聖女が他国に嫁いでしまうと、アッヘンヴァル公にとって、うまみが無くなってしまうのだ。

 だから、祖父はツェツィーリアを暗殺するために刺客を──〈夢幻の魔術師〉を送り込んだのだろう。

 〈夢幻の魔術師〉はツェツィーリアを憎々しげに見据えて、吐き捨てる。


「妹は、聖女を救った誇りを胸に死んだと聞いた。私は、妹の遺志を尊重するつもりだった……それなのに」


 床を這う亡骸達が、〈夢幻の魔術師〉の言葉に同意するように唸り声をあげる。

 〈夢幻の魔術師〉は、己の妹の幻に暗い目を向け、拳を固く握りしめた。


「アッヘンヴァル公から真実を聞いた時、頭がおかしくなりそうだった。妹が庇ったのは、鏡を使えぬ無能の聖女だった? ……なら、ミアの死はなんだったのだ?」


 〈夢幻の魔術師〉の言葉は、ツェツィーリアが抱え続けていた罪悪感を的確に揺さぶった。

 彼の怒りは正しい。彼が腹を立てるのは当然だ。


「お前が、さっさと自死していれば……契約を他の者に譲っていれば、ミアは死なずに済んだだろう」


(そうだわ、わたくしは鏡に拒まれた時に死ぬべきだった……)


「少しでも罪の意識があるのなら、ここから飛び降りて死ぬがいい。貴女はライオネル殿下に嫁ぐことを拒み、身投げして自殺する。それが、アッヘンヴァル公が描いた筋書きだ」


(わたくしが、死ねば、全て解決する……)


 ツェツィーリアは虚ろな目でバルコニーの下を覗きこむ。

 真っ暗な夜の闇は、ツェツィーリアを拒絶した〈ベルンの鏡〉の鏡面のようだ。

 その闇にツェツィーリアは手を伸ばし……


(これで、おじいさまも、ミアも、許してくれる……)




 ──落ちた。



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