【19】幸せな夢
「チェックメイトです」
「…………あ」
ロベルトが指した一手に、モニカは小さく声を漏らす。
そうして盤面を見て「負けました」と項垂れると、横で観戦していたエリオットが意地悪く笑った。
「今日は調子が悪いじゃないか、子リス」
「うぅ……」
モニカが肩を落とすと、同じく観戦していたベンジャミンが両手を広げて言う。
「今日のエヴァレット嬢は目に見えて精彩を欠いている様子……否、欠けていたのは精彩ではなく集中力だな。集中力、それは音楽でもチェスでも必要とされるもの。集中力無くして名曲は生まれず、集中力無くして勝利は得られないのだよ」
ベンジャミンの言う通り、今日のモニカはどうにも集中力に欠けていた。
頭がボンヤリしているし、ふとした瞬間に些細なことが気になってしまう。今だってそうだ。
(あれ、わたし、ここでは、なんて呼ばれてたっけ……?)
モニカがこめかみを指で押さえていると、向かいの席に座るロベルトがチェスの駒を並べ直しながら口を開いた。
「モニカ嬢、調子が出ないのなら……もう一試合しましょう」
「うぇっ!?」
ギョッとするモニカの横で、エリオットが呆れたように垂れ目を眇める。
「調子が出ないのならチェスはまた別の日に、って発想は無いのかよ?」
「自分は調子が出ない時、一心不乱にチェスをすることで心が落ち着き、調子が出ます」
「なんだそりゃ……」
エリオットは理解できない様子だが、モニカにはロベルトの言い分が理解できなくもなかった。
「ちょっと分かります。わたしも、調子が出ない時は、数学問題を解いてると心が落ち着くので……最近は双子素数の問題について考えてて……」
「一理あるな。私も調子が出ない時こそ音楽に身を委ね、音楽の世界の一部となり、音楽を見つめ直すことで調子が出る」
エリオットの顔が、だんだん引きつっていくが、この場にいる誰も気づかない。
「チェスです。チェスで精神統一です」
「素数が無限に存在することは既に証明されているんですけど双子素数はまだ証明されていなくて……」
「音楽と一体化する甘美なひと時が私をより高みへと導き至高の音色を……」
チェス馬鹿、数学馬鹿、音楽馬鹿──略して三馬鹿の言葉に、エリオットは前髪をかき乱して「勘弁してくれ」と天井を仰いだ。
* * *
チェスの授業を終えたモニカが教室に向かっていると、反対側の廊下から「おーい、モニカ!」と声をかけられた。
ブンブンと手を振って駆け寄ってくるのはグレンだ。彼の後ろにはニールとクローディアの姿もある。どうやら三人とも基礎魔術学の授業を受けてきたところらしい。
モニカがこんにちは、と頭を下げると、グレンが目を輝かせて言った。
「今日の授業で、モニカとアルと一緒に勉強したとこ、バッチリ出たんすよ! マクレガン先生が、『今日は嵐が来るかもね』って、滅茶苦茶褒めてくれたっす!」
鼻高々の様子のグレンの背後で、クローディアが陰気な空気を振り撒き、ニールが苦笑する。
「……素敵な褒め言葉ね」
「えっと、でも、今日のグレンは頑張ってましたよ! 一度も居眠りしなかったですし……!」
「……ニールは褒めるのが上手ね。ところで、真面目に授業を受けていた私のことは、褒めてくれないのかしら?」
「え、えっと……えっと……」
クローディアは、アワアワしているニールの腕に抱きついて頬を寄せる。
相変わらずだなぁ、と二人を眺めているモニカに、グレンが言った。
「モニカ、ほんとありがとうっす!」
「いえ、お役に立てて、良かったです」
得意分野で友人の力になれれば、素直に嬉しい。
なにせ、初級魔術師試験の勉強は手伝えなかったから……。
(………あれ?)
モニカは頭に浮かんだ疑問を、そのまま口にする。
「グレンさんって、初級魔術師資格、持ってましたっけ?」
「まだっすよ。オレ、筆記試験がすっげー苦手で……」
「そう、です、よね」
どうして自分は、グレンがもう初級魔術師資格を持っているなどと勘違いをしていたのだろう。
やっぱり今日は調子が悪いらしい。
モニカが頭を押さえて、うんうん唸っていると、廊下に快活な声が響く。
「モニカ! グレン達も、丁度良かった!」
明るくて、ハキハキとした滑舌の良い声。
モニカの心臓が跳ねる。
ゆっくりと声の方を振り向けば、こちらに歩み寄ってくるのは、ポニーテールの少女。
「ケイシー……」
ケイシーは機嫌良く笑いながら、手にしていた紙包みを掲げてみせる。
「厨房の余り物を分けてもらって、ビスケットを焼いたの。みんなで食べない?」
令嬢らしくない快活な笑い方も、何もかもがモニカの記憶通りの、ケイシー・グローヴだ。
そんなケイシーを見ていたら、何故かモニカの胸はギュゥッと締めつけられたみたいに苦しくなった。
「モニカ!? どうしたの!?」
「え、あ……」
ケイシーが心配そうにモニカの顔を覗きこむ。
そこで初めて、モニカは自分が泣いていることに気づいた。
モニカは慌てて手袋をした手で目元を拭う。だが、涙は次から次へと零れ落ちて、止まらない。
「あれ、なんで、わたし……」
「クローディア嬢に、何か言われたの?」
ケイシーの言葉に、クローディアがジトリとした目を向けた。
「……失礼ね。どうして、真っ先に私の名前が挙がるのかしら?」
「いやぁ、この面子だったから、つい。ねぇ、モニカ、大丈夫? もしかして、具合が悪い? 医務室に行く?」
ケイシーは泣きじゃくるモニカの背中を優しくさすってくれる。
この優しさは演技なんかじゃない。ケイシーは、当たり前のように誰かに優しくできる人だ──そんなことを考えた自分に、モニカは驚く。
「ごめんなさい、大丈夫、です……」
「そう? それなら、良いんだけど……」
ケイシーも、グレンやニールも心配そうにモニカを見ている。
モニカはハンカチで顔を拭こうと、ポケットに手を入れた。だが、指先に触れたのはハンカチの柔らかな感触ではなく、硬くて平たい何かだ。
怪訝に思い、引っ張り出してみると、それは木彫りの猫だった。
(……わたし、こんな物持ってたっけ?)
木彫りの猫をポケットに戻し、袖で涙を拭っていると、ケイシーがハンカチを取り出して、モニカの涙を拭ってくれる。
ケイシーのハンカチには、黄色い花の刺繍が施されていた。
「ハンカチ、ありがとうございます。ケイシー」
ハンカチの礼を口にしたモニカは、奇妙な既視感を覚える。
以前にも、ケイシーにハンカチの礼を言った気がするのだ。それもセレンディア学園ではない、どこか別の場所で。
「どういたしまして」
そう言って笑うケイシーはいつもの面倒見の良いケイシーだ。
それなのに、どうして自分はこんなにも、泣きたくなるのだろう。
* * *
(やっぱり、今日のわたしは、おかしい……)
イザベルと和やかに昼食を食べて、選択授業で存分にチェスをして、ケイシーが作ってくれたビスケットをつまみながら、賑やかな茶会をして……とても幸せな一日だったのに、奇妙な焦燥感がチリチリと胸を焦がす。
この調子では、生徒会の仕事の最中にも、何かミスをしかねない。
放課後、生徒会室の扉の前に立ったモニカは、己の頬をペチペチと叩き、グッと背筋を伸ばした。
ボンヤリしていたら、またシリルに叱られてしまう。
「うん、よし」
小さく頷き、モニカは生徒会室の扉を開ける。
まだ早い時間だったので、他の役員達は殆ど来ていないらしかった。ただ一人、最奥の生徒会長席に、フェリクスが座っている。
「やぁ、モニカ」
「こんにちは、アイク」
挨拶を返したモニカは、自分の言葉に首を捻る。
(……アイクって、誰?)
セレンディア学園に、そんな名前の知人はいなかったはずだ。
それなのに、奇妙な確信だけがモニカの胸にある。
(アイク、わたしの、友達)
目の前で穏やかに微笑んでいるのは、この国の第二王子フェリクス・アーク・リディル。
全てにおいて完璧で、誰からも慕われる王子様だ。
「どうしたんだい、モニカ?」
非の打ち所のない王子様の笑顔に、モニカの胸がざわつく。
(そうだ、最近のアイクは、そういう笑い方ばかりで……)
気がつけば、モニカの唇は勝手に動いていた。
「……なにか、悩んでるんですか」
「何の話だい?」
「わたしじゃ、力になれませんか?」
フェリクスは少しだけ困ったようにモニカを見ている。
自分は何を言っているんだろう、と思いつつ、モニカは止まれなかった。
拳をぎゅっと握りしめ、彼の碧い目を真っ直ぐに見つめて、モニカは言う。
「た、頼ってくださいっ、わたしは……わたしはあなたの師匠で、友達だからっ…………アイクっ!!」
セレンディア学園には存在しない──だけど確かに存在する、モニカの大事な友人の名前。
その名をモニカがハッキリと口にした瞬間、綻びかけていた世界は完全に崩壊した。
フェリクスも、家具も、部屋も、世界を構成する何もかもが音もなく消え去り、周囲は夜の闇よりもなお深い漆黒に染まる。
モニカは気づかない。己のポケットの中で、木彫りの猫が淡く輝いていることに。
弱く儚い光は、モニカを守るかのように薄く広がり、全身を包み込む。
──そして、モニカの意識は覚醒した。
* * *
「……んぅ?」
机に突っ伏して寝ていたモニカは、目を擦りながら顔を上げる。
見回した室内はセレンディア学園ではなく、アウザーホーン宮殿内の、モニカのために用意された個室だ。室内は真っ暗で、燭台の火も消えている。
モニカは目を瞬かせながら、やけに鮮明な夢を反芻した。
……幸福で、切ない夢だった。
モニカができなかったことが、あの夢の世界では叶ったのだ。
イザベルと仲良く昼食を食べることも。
ケイシーのいる日常も。
ささやかではあるけれど、モニカが願った小さな幸福だ。目覚めれば、幸福感の後の切なさがじわりと胸にしみる。
モニカは無詠唱魔術で燭台に火をつけ、軽く伸びをした。机に突っ伏して寝ていたせいで、体の節々が痛い。
モニカは夢の余韻でボンヤリしている頭を振りながら、自分の行動を振り返った。
(えーっと、カリーナから木彫りの猫を貰って、離宮のお茶会から帰ってきたツェツィーリア様とお喋りして、お食事の時間になったから、お喋りを切り上げて……)
ツェツィーリアの食事が終わるまで護衛をした後、モニカは〈夢幻の魔術師〉カスパー・ヒュッターと護衛を交代した。
そしてこの部屋に戻ってきたところで、ホットミルクを飲んでから仮眠を取ろうとして……そこで、記憶が途切れている。
モニカは机の上のカップに手で触れた。飲みかけのホットミルクはすっかり冷たくなっている。
(わたし、ホットミルクを飲みながら、机で寝てたの?)
モニカは徹夜が続いた時など、ベッドに行く前に力尽きて、床や椅子で寝てしまう悪癖があった。それこそ、何度、押しかけ弟子にベッドまで運んでもらったか分からない。
だが、ここ数日はきちんと睡眠をとっていたはずだ。
(なんか、嫌な感じがする)
モニカは壁に立てかけていた杖を手に取り、部屋の外に出る。
既に就寝の時間を過ぎた廊下は、照明がギリギリまで落とされ、薄暗い。
その僅かな灯りを頼りに、モニカは小走りでツェツィーリアの部屋を目指した。
ゼィゼィと荒い息を吐きながら階段を駆け上ったモニカは、ギョッと目を剥く。
ツェツィーリアの部屋へと続く廊下に、近衛兵達が倒れていた。
駆け寄り確かめれば、彼らに目に見える怪我は無く、静かで穏やかな寝息が聞こえる。ただ寝ているだけなのだ。さっきまでの、モニカと同じように。
(……まさか)
廊下の奥、ツェツィーリアの部屋の扉は開きっぱなしになっている。
モニカは室内に飛び込み、声を上げた。
「ツェツィーリア様っ! ツェツィーリア様ぁ!」
モニカの叫びに応える声は無く、室内にツェツィーリアの姿は無い。
(一体、どこに……)
ツェツィーリアの部屋の下の階は、使用人達の部屋だ。
この部屋に来る途中に見た限りだと、下の階に異変は無かった。
もしツェツィーリアがまだ近くにいるのなら、この階か、もしくは上の階にいる可能性が高い。
モニカは部屋を飛び出し、再び廊下を走りだした。




