【15】二の腕の可能性は無限大∞
「それでねぇ、その宿の女の子が別れ際に『ミシェルのこと、ずっと待ってる』って言ってくれたんだ。だけど、俺は街を去らないといけない事情があったから、『ごめんね。俺のことは忘れて』って言って、その街を後にしたわけ」
アイザックの隣に座ったミシェルは、時に身振り手振りを交えつつ、情感たっぷりに自分の過去の恋愛話を語っている。
それに適当な相槌を打ちつつ、食事を進めていると、ミシェルは「ところでぇ」とアイザックを上目遣いに見た。
「アイク君の好きな子は、どんな子ぉ?」
「………………」
「お兄さん聞きたいなぁー」
先に自分が話したのだから、教えてくれてもいいではないか──と言外に匂わせている。
困ったことに、食事もほとんど片付いてしまった。
アイザックはグラスの酒を一口だけ飲み、ポツリと呟く。
「……すごい人ですよ。尊敬しています」
「はっはぁーん、アイク君ほどの美男子に言い寄られてるのに意識もしないとなると……これは恋愛百戦錬磨の年上の美女とみた」
現実は、恋愛初心者で年下の小さな女の子である。一応、今年で十九歳になったはずだけど。
それでも、ミシェルには誤解していてもらった方が、何かと都合が良いので、アイザックはあえて訂正はしなかった。
(本当に、すごい人なんだ)
アイザックは瞼の裏に、ケルベックの空で見た光景を思い描く。
美しく紡がれる、静謐で荘厳な大魔術。奇跡を起こした偉大な魔女。それは、アイザックの胸を掴んで離さない光景だ。
だが……。
「……僕のせいで、彼女は大事な人を失いました。彼女にとって、僕は加害者だ。それでも、彼女は僕がそばにいることを許してくれた」
アイザックがクロックフォード公爵の策に加担した故に、モニカは父を失った。
モニカにとって、アイザックは間接的な加害者だ。
それでも、モニカは処刑される筈だったアイザックを救ってくれた。手を差し伸べてくれた。
……その過程で、多くのものを背負いながら。
「だから、彼女には生涯、忠誠を誓うと決めたんです」
アイザックの未来を切り開いてくれたのはモニカだ。
彼女のためなら、自分にできる全てを捧げたって構わない。なんだってしてあげたい。
アイザックが手元のグラスを見つめながら、ポツリポツリと己の本音を吐露すると、隣で黙々と食事をしていたクリフォードが、湯気に曇った眼鏡を服の裾で拭きながら言った。
「ウォーカーの忠誠心は、依存じみてて気持ち悪いな」
開口一番、暴言だった。
アイザックが絶句し、ミシェルが「やだ、この子辛辣すぎ!」と頬を引きつらせても、クリフォードはどこ吹く風という顔である。
「だって、忠誠を誓って尽くすことで安心しているじゃないか。それが依存でなくて、なんなんだ」
「…………」
「薬物中毒者はみんな、自分は依存してないと言い張るんだ」
いよいよ薬物中毒者扱いである。
いまだかつて、自分にここまで容赦のない暴言をぶちかました人間がいただろうか。アイザックに辛辣なエリオットやブリジットだって、もう少し言葉を選ぶ。
それでも、クリフォードの言葉を強く否定できないのもまた、事実だった。
(……依存じみてる、か)
これはもう、アイザック・ウォーカーという人間の性分なのだ。
幼少期に家族を失った彼は、大事な人ができると、とにかく自分が守らねばという意識が働き、自分の存在意義を尽くすべき相手に見出してしまう。かつて、フェリクス殿下にしたように。
そうして尽くしている間は、彼は安心できる。
……自分が生き残った理由は、このためにあるのだと。
思いがけない相手から自分の悪癖を指摘され、アイザックは黙り込む。
クリフォードはアントニーの皿の料理を勝手につまみながら、どうでも良さそうな口調で言った。
「それにしても、恋した人にとって自分が加害者だなんて、ウォーカーはよっぽど普段の行いが悪かったんだな」
「…………」
「ウォーカーの恋心は、まるで神が与えた罰みたいだ」
クリフォードの言う通り、まるで神が仕組んだ罰みたいな恋心だ。
恋した人にとって自分は加害者で、そして彼女にはもう好きな人がいる。
それなのに、アイザックはこの恋心を手放せない。
(……それでも)
アイザックは店の喧騒も忘れて、自分の気持ちと静かに向き合う。
これは、モニカに対する罪悪感や憐れみから始まった恋じゃない。
〈沈黙の魔女〉に対する憧憬や尊敬、感謝や罪悪感、そういったものが付随する恋心ではあるけれど……それらの重い感情を取り払えば、根っこの部分はいたってシンプルだ。
アイザックが好きになったのは、内気で気弱で、それなのに、ありったけの勇気を振り絞って自分を助けてくれた、小さな女の子。
──友達を助けるのに、理由なんていらないんですよ、アイク!
あの瞬間、アイザックは恋に落ちたのだ。
偉大な魔女にではなく、なんてことない小さな女の子に。
(……僕にとって、〈沈黙の魔女〉が偉大なお師匠様であることに、変わりはないけれど)
自分は少し、視野が狭くなっていたのかもしれない。
クリフォードの言葉は、少し……かなり……ものすごく、胸に刺さったが、それでも、おかげで少しだけ気持ちが整理できた気がする。
なにより、自分がモニカを好きになった一番大事な理由を思い出せた。
クリフォードに感謝の言葉を伝えようとアイザックが口を開きかけると、それより早く、クリフォードが言った。
「きっと、ウォーカーの性格が悪いから、神様が天罰を与えたんだな。『性格が悪い罪』で」
「…………」
アイザックは眼鏡の奥で碧眼を底光りさせつつ、その顔に完璧な笑顔を浮かべて、クリフォードを見た。
「……君は、僕に親を殺されたのかな?」
「ウォーカーは何を言ってるんだ。ボクの親は、七十歳近いのに愛人囲ってるタフなジジイと、若作りして毎晩夜会に行くタフなババアだぞ。殺したって死ぬものか」
「…………」
アンダーソン商会の闇が垣間見えた瞬間である。
アイザックが鼻白んでいると、クリフォードは真面目くさった顔で呟く。
「ボクの経験上、性格の悪い奴は大体長生きするんだ。きっとウォーカーも長生きだな」
「……そう。君とは長い付き合いになりそうだ」
「なんでボクが、ウォーカーと長く付き合わなきゃいけないんだ」
君も長生きするよ、という遠回しな嫌味は通じなかったらしい。
この心温まらないやりとりに、ミシェルが苦笑いを浮かべながらクリフォードを見た。
「……クリフ君ちょっと辛辣すぎなぁい? もうちょっと空気読も?」
「元々、ボクは一人で食事をしていたんだ。そしたら、あんた達が次々とやってきて、勝手に酒宴を始めたんだろう。それなのに、どうしてボクが空気を読まなくちゃいけないんだ」
なるほど、珍しい組み合わせだとは思っていたが、そういう事情があったらしい。
アイザックがほんの少しだけクリフォードに同情していると、クリフォードはヤレヤレとばかりに首を振って言った。
「それにしても、ウォーカーは馬鹿だな。横恋慕してる時点で、純度百パーセントの忠誠心じゃないだろう」
しん、と場の空気が凍った。周囲の酔っ払い達の喧騒が、酷く遠く聞こえる。
アイザックは思わず真顔でクリフォードを凝視した。
「……君、どこまで知って」
「“シリル様”」
アイザック・ウォーカー、本日二度目の絶句であった。
ミシェルが隠しきれない好奇心を滲ませつつ、アイザックを見る。
「えっ、なになに? もしかして、アイク君の好きな子って、もう別の好きな人がいる感じ? うわー……つらっ」
いまだかつて、これほどまで居た堪れない空気の渦中に立たされたことがあっただろうか。
最高審議会に立たされた時とは別の意味で辛い。すごく辛い。
アイザックが硬直していると、誰かがその肩をバシバシと叩いた。赤ら顔のアントニーである。
「ウォーカーよ! 諦めるな! もし、惚れた女に、他に惚れた男がいるのなら、やるべきことはただ一つ……決してライバルを憎まず恨まず、己を磨いて振り向かせるのみ!!」
アントニーは酒臭い吐息で言い放ち、アイザックの二の腕をビシリと指さした。
「男は二の腕だ! お前の二の腕には無限の可能性がある! 二の腕の力を信じろ! うむ、よし。ここは俺が、お前の二の腕がどの程度のものか試してやろうではないか! さぁ、来い!」
アントニーは空いている卓の前に立つと、その卓の中央の辺りに右手の肘をつく。どうやら、力比べをしようということらしい。
このアントニーの行動に盛り上がったのが、周囲の酔っ払い達である。
「なんだなんだ、喧嘩か、若いの?」
酔っ払いの言葉に、アントニーは使命感に燃える顔で言った。
「否! これは、惚れた女に振られそうな友に対する激励だ!」
途端に、周囲の視線はアントニーから、振られそうな男アイザックに集中する。
酔っ払い達は、くだんの振られそうな男が見目の良い若者だと知ると、途端にヤジを飛ばした。
「なんだ、随分と顔の良い男だな! よし、振られちまえ!」
「振られろ振られろ! 男は振られた数だけ、魅力的になるんだよ!」
「ばぁーか! そしたら星の数ほど振られた俺ぁ、王子様だ!」
「ギャハハハハ! そいつぁ、ちげぇねぇ!」
アイザックは無言でジョッキを握りしめる。そうして、ジョッキに並々と満たされた麦酒を一気に飲み干した。
空のジョッキを勢いよくテーブルに叩きつけたアイザックは、全く目の笑っていない笑顔でアントニーの向かいに立つ。
「……お手柔らかに」
「うむ! 全力で来い!」
アイザックとアントニーは互いに向き合い、肘をついた姿勢で右手を組む。
筋骨隆々としたアントニーの腕は太く、アイザックの倍近くあった。
ミシェルがアントニーに控えめに声をかける。
「アントニー兄さん、ほどほどにね? アイク君の腕折っちゃダメよ?」
誰が見ても、アイザックには勝ち目の無い勝負である。
近くのテーブルでは酔っ払い達が、アイザックが何秒耐えられるかで賭けをしていた。
酔っ払い達はテーブルに銅貨を乗せ、好き勝手に「開始と同時に負ける」「三秒粘る」「いや、俺はあの兄ちゃんに期待してやるぜ。五秒だ」などと言い合っている。
そんな中、食事を終えたクリフォードが銅貨をテーブルに乗せた。彼はポケットから懐中時計を取り出すと、淡々と宣言する。
「『ウォーカーが一分以上粘る』」
* * *
「ゆくぞっ!!」
アントニーのかけ声と同時に勝負が始まる。
袖捲りをしているアントニーの腕が大きく隆起し、アイザックの手に負荷がかかった。
だが、アントニーが力を込めるよりほんの少し早く前に踏み込んだアイザックは、それに耐える。
手首を巻き込まれないよう注意しつつ粘るアイザックに、男達が「五秒耐えたぞ!」と盛り上がった。
「ぬぬぬ……やるな、ウォーカー!」
アントニーが歯を食いしばりながら、ニヤリと笑う。
そんなアントニーに、アイザックはよく似た獰猛な笑みを返した。
そのまま、静かな攻防が続く。アイザックはアントニーの手首の巻き込みに耐えつつ、アントニーの隙を狙う。だが、アントニーの力は一向に緩まない。
「一分」
クリフォードが口にしたのとほぼ同時に、押し負けたアイザックの手の甲がテーブルに叩きつけられる。
勝者はアントニーだが、十秒ともたずに負けるだろうと予想していた観客達は、驚愕の表情で歓声をあげた。
ミシェルは「うっそぉ」と目を丸くし、テオドールは「兄さん相手にすごいねぇ」とのんびり言う。
歓声の中心でアイザックが痛む右手をぷらぷら揺らしていると、アントニーは大きな口を開けて笑った。
「ハッハァ! ウォーカーよ! この俺を相手に一分耐えるとは、大したものだ!」
アントニーはアイザックの予想以上に強かった。
単純な腕力差なら受け流し、隙を突いてやり返す自信があるのだが、アントニーは力の使い方が抜群に上手いのだ。
(……一般人じゃないな。軍人かな)
そんなことを考えながら右手をさすっていると、賭けに興じていた酔っ払いの一人が「今のはやらせだ!」と声を荒らげた。
クリフォードが一人勝ちをしたものだから、仲間のアントニーがわざと手を抜いたと思われたらしい。
アイザックは、騒いでいる男に目を向けた。よく日に焼け、筋骨隆々とした、典型的な海の男だ。
アイザックはニコリと美しく微笑み、再びテーブルに肘をつく。
「どうぞ自分の腕でお試しを」
「負けたら、俺の酒代はお前の奢りだ」
男はアイザックの向かいに立ち、テーブルに肘をついて手を握る。
アントニーが目を爛々と輝かせて「俺が審判だ!」と乗り出した。
「よぉい……始めっ!」
アントニーの声と同時に、アイザックは目の前の男の腕をテーブルに叩きつける。開始とほぼ同時の決着に、わぁっと周囲が盛り上がった。
これで納得してもらえただろうか、とアイザックがこっそり息を吐くと、また別の男がアイザックの前に立つ。
「次は俺だ!」
「待て待て、俺だ!」
「おいおい、順番は守れよ!」
やらせ疑惑の払拭には成功したが、今度は海の男達の闘争心に火をつけてしまったらしい。
アイザックに負けた男が、麦酒のジョッキをアイザックの前に置く。
「負けた俺の奢りだ」
「…………」
アイザックはジョッキの中身をグイと飲み干し、またテーブルに肘をつく。
それからしばらく、酔っ払いとの力比べは続いた。
アイザックに負けた男達は給仕に銅貨を投げ、給仕がサッとアイザックのそばにジョッキを置く。
ジョッキを空にして、また次の相手と力比べをして。勝ったらまたジョッキを空にして。
なお、力比べに参加した酔っ払いの中には刺繍職人のポロック氏もいたのだが、アイザックは容赦無くポロック氏も打ち負かした。
酔っ払い達はもう、アイザックが勝つ度に大盛り上がりである。
最初はヤジを飛ばしていた男達も、今はゲラゲラ笑いながら親しげにアイザックの肩を叩いた。
「あんた、大したもんだよ!」
「見直したぜ、色男!」
「まぁ、なんだ。振られたら、一杯奢ってやるよ、兄ちゃん」
アイザックは差し出された麦酒を飲み干すと、空のジョッキを掲げて宣言した。
「ありがとう、それなら僕の恋が成就したら、この場にいる全員に、好きなだけ酒を奢ると約束しよう」
酔っ払い達(アントニー含む)は大声で笑いながら、アイザックの頭をぐしゃぐしゃ撫でるわ、肩を組んで歌い出すわ、やりたい放題だ。
もみくちゃにされているアイザックを眺め、マイペースに飲み続けていたテオドールがポツリと呟く。
「ウォーカー君、あんなに飲んで大丈夫かなぁ?」
大丈夫じゃなかった。
* * *
「おーい、キラキラぁ。なんでお前、死んでんだ? おーい、キーラーキーラー! めーしーよーこーせー!」
翌日。死体のように長椅子に突っ伏しているアイザックの上で、黒猫姿のネロは不思議そうに首を捻った。




