雨の中の逃亡者
谷間の風が強く吹く。
風に流され土煙が消えた頃、砕かれた周辺の岩山の一部は、街道に堆く積もり壁となってその場を塞いでいた。
「くそっ!! 土砂が……」
「逃げたか!?」
駆け付けた兵士たちは、土砂を見上げて悔しがっているようだ。しかし、直ぐに持っている槍や盾で目の前の石や砂を掻き出す。
今やったのは至極簡単なことだ。
わたしの霊影とコウリンの紙の札の合せ技で、局地的に岩を爆発で削り谷を埋め壁を造った。
この壁は簡単だが、こいつらの足止めをして逃げる時間を稼ぐには十分だろう。
わたしたちは、こいつらが街道の壁を退かそうと藻掻いているうちに、先へ急げば逃げ切れる算段だ。
…………普通は。
「おい、そこ退け。俺が片付けてやる」
兵士たちを押し退け、大男が土砂の壁の前に立つ。
うん、やっぱり、あの男が出てきたか……。
パンッ! と、拳で手のひらを叩き、腕を引いて脇腹の横に構えた。拳へ向かって周りに風が集まるように、男を中心に空気が一斉に動く。
「“剛拳”…………堅狼砕牙!!」
ドォオオオオオンッ!!
白いつむじ風を纏ったような男の拳が壁にぶつかると、その場所に火薬を仕込んだと思ってしまうくらいの、爆発と突風が巻き起こる。
ガラガラガラガラ……
一瞬で街道の土砂は吹き飛び、ほぼ元の道幅に戻った。
「……ほら、もういいぞ」
男は道の脇に退けて、後ろに控えていた兵士たちに先を促す。数名がそれを待っていたように、馬に乗って万全の状態で現れた。
「フン! 目の前にしながら“不死のルゥク”を逃がすとは…………貴様ら日雇いの兵はもう帰れ! 我らで奴らを追い詰める!」
「あー、俺のせいでスミマセンね。ご苦労様です」
数名の騎馬隊が男を轢きそうな勢いで街道を駆けていった。男は片耳をホジりながら、その後ろ姿を見送る。
「……たぶん、あいつら捕まらねぇな。隊長さんたち、御愁傷様」
どんどん遠く小さくなる騎馬隊に、皮肉めいた笑みを浮かべてボソリと呟いていた。
眼下の男は「疲れたー!」と言いながら体を伸ばす。
その時ふと、男が上を向いた気がして、わたしはソッと頭を伏せ、街道の石ころの陰に偵察用に置いた、手のひらほどの大きさの霊影を呼び寄せた。
もう少し、あいつらがあの場所から、関の詰め所まで戻ったらここから移動しよう……。
わたしたちが隠れている場所は、土砂で埋めた街道のちょうど真上。
ざっと、わたしの身長の十倍はあるであろう崖の上である。
わたしとコウリンが局地的に土砂崩れを起こした時、土煙に紛れて真上へ、遥か頭上の岩の上へ霊影で引っ張り上げたのだ。
以前、ルゥクが霊影で風刃の攻撃から逃げたように、霊影を縄代わりにしてみたのである。
かなり巧くいったと思う。
これを駆使したら、空も翔べる気分になる!
…………なんて……一瞬浮かれたが、さすがに地面をぶっ叩き、大人三人を空中へ引っ張り上げたためか、わたしの気力はゴッソリ持っていかれた。
空中を翔ぶのは、また次の機会にするか……。
今、立ち上がろうとすると膝がガクガクと笑い、この狭い足場から街道へ真っ逆さまに落ちそうだ。
それに、下手に動いて石のひとつでも下に落ちたら、わたしたちの潜んでいる場所がバレてしまうだろう。
少し休憩も兼ねて大人しくしよう……。
あの大男、かなり良い勘をしている気がするし。
「……ケイラン、大丈夫?」
「うん?」
ルゥクに声を掛けられ、そちらの向きに転がる。
今のわたしたちは、岩山の上で寝そべるようにして隠れているのだが、ルゥク、わたし、コウリンが『川』の字になっている状態だ。
隣に伏せているルゥクが、心配そうに顔を覗き込んでいた。ルゥクが片手を伸ばして、わたしの前髪を掻き分けて額に触れる。
地面に寝っ転がっているため、付き合わせた顔が物凄く近くに見える。
化粧をして女性の顔に作られたはずなのに、先ほどの戦闘のせいか完全に男の表情に見えた。
「いや……大丈夫だが……?」
「でも、なんか……」
何だろう?
こいつがわたしの心配をしてくるのはいつものことだが、今日はしつこく心配されている気がするのは……いや、昨日もだな。
術を多用したためか、少しボーッとはするが大丈夫だ。
「本当に、大丈夫だから……」
「………………」
ルゥクの手を掴んで退かす。それでもじっと見てくるので、何かあったのだろうか?
すると、わたしの背中でたっぷり間をおいたような、ため息が聞こえてくる。
「ちょっと、あんたたち。アタシを無視して二人でイチャイチャしないでくれる? こっちが恥ずかしいんだけど……」
「「してない!」」
わたしとルゥクは同時に上半身を起こしてツッコんだ。
あ! まずいまずい……見付かる。
慌てて体を引っ込めて、そっと関所の方を見たがこちらに気付いた様子はない。
「……そろそろ、ここを離れよう。騎馬の奴らも僕たちを見付けられなかったら、すぐにここへ戻ってきて調べ直すかもしれないし」
「そうね……ケイランもルゥクも、ちゃんと戦える装備に戻した方がいいかも。さっきの大男、けっこう強かったんでしょ?」
「強かった。一見、ただの武道家かと思ったら、“拳術士”だった。それもかなりの使い手だね……頬の傷みたいな二本線は、たぶん術師のアザだろう」
「アザ有りの拳術士か……そんな奴がこんなところで傭兵をしているなんて……」
“拳術士”とは、体術と術を組み合わせてひとつの動きにしてしまう術師のことだ。
術師は基本的に手先の動作や、頭で考えて術を使うことが多いが、拳術士はその全てを体の隅々まで使って筋肉や関節、呼吸で術を発動させることができるのだ。
しかし、それには訓練だけでは補えない、術師本人の感性なども重要になってくるため、生まれもっての才能も必要だと言われる。
「拳術士は最近だと“風刃”を使っていた奴も同じだけど、さっきの男の方がずっと強いよ。だって、ほら、一撃食らっただけでこれだもん」
岩山のてっぺんから多少は樹木のある場所へ移動し、ルゥクはそう言って着替えついでに片腕の着物を捲った。
「うっ…………それは……」
わたしは思わず小さな悲鳴をあげる。
晒されたルゥクの片腕は紫色に腫れ上がり、変な場所でグニャリと曲がっていたのだ。
「あいつは『剛拳』と『肉体強化』の術を習得していたみたい。己の身体的な特徴をだいぶ理解して、修行を積んだって感じだよね……」
「ちょっと見せて! あー……骨、砕けてるじゃない……。普通は失神ものよ、これ……」
「まぁ、痛いけど気を失う程じゃないかな」
ルゥクは笑って答えている。
しかしよく顔を見ると、額にうっすら汗をかいていたので、痛みは相当強いのだと思う。
他人の心配をしている場合じゃなかっただろ。
腕は当て木をして固定したあと、コウリンの治療用の札を貼り付ける。普通の人間ならば、術で治療しても一ヶ月は掛かるものだが、ルゥクは半日あれば骨くらいは戻ると言っていた。
布をぐるぐると巻かれた腕を見ながら、ルゥクはため息をついている。
「……これじゃ今日は、術は使えないな」
「使っちゃダメ! 本当はここですぐにでも野営して、絶対安静よ。でも、もう少し移動しないと危険だし、仕方なく歩くんだからね! 今日はこれ以上、術は使わないでよ。分かったわね、あんたたち!」
「「……はい」」
…………何でわたしまで。
すっかり、わたしたちに馴染んだコウリンは、母親のような口調で説教したあと、使った薬や包帯を箱へ仕舞って背中に担いでいた。
「コウリン、荷物そのままなのか? 収納の札に入れれば軽く済むのに…………」
「アタシはこれでいいのよ。あんたたちの刀や札のように、アタシの本業の『武器』はこれだもん。すぐに使えないと。これでも半分以上は札に入れてもらったから、だいぶ軽くはなったのよ?」
なるほど。コウリンは札の術師だけど、本来は医者と薬師だと言っていたものな。
なら、わたしはわたしでしっかり役割を果たさないと。
やっと慣れた軍服に着替え、普通に立ち上がる。
「……ふ…………?」
立ち上がった瞬間、急に目が霞んだ。少し足元が揺れて、わたしは前へ倒れそうになった。三歩ほどたたらを踏んだようになったところへ、ルゥクが無事な方の腕で支えてくれる。
「……と、ケイラン、大丈夫?」
「あ……すまない。ちょっと立ち眩みがした。」
やっぱり、術を連続で使うとちょっと疲れるな。
「すぐそこの谷を越えた後は、森や人の住んでいる場所も疎らに有るはずだから、早く移動してしまおう……。まとまった集落じゃなければ、あの兵士たちも探しづらいだろうし」
「……結局、関所の奴らはどこの兵士か分かったのか?」
「だいたい……ね。ホムラの報告待ちだけど」
「ねぇ、決めたなら早く行こう。雨、降りそうだし……」
コウリンがそう言った時、わたしの頬に大粒の水滴が落ちた。
歩き出して四半刻ほど。
ドザァアアアア――――…………
最初の一滴から、雨は急に強く降ってきた。
現在はちょっとした滝に打たれているような感じである。
「また強くなってきたな。ルゥク、大丈夫か?」
「僕は平気だけど、ケイランは歩き難くない?」
雨脚がどんどん強くなっていくため、笠を被った他に雨避けの布で頭から背中まで覆って歩いているのだ。
ルゥクが片手で不便そうだったので、怪我をした腕の方にわたしも入り布を押さえている。
ちょっと身長差があるので、布の上に落ちた雨水はわたしの横へガーガー流れてくるけど……。
本当なら、わたしの霊影で頭上を覆ってしまえば、こんな布を使う必要はないのだけど…………術を使おうとしたら、ルゥクとコウリンが揃って反対してきた。
最初は納得がいかなかったが、今は術を使えるのがわたしだけだから……という理由なら、仕方ない。力は温存した方がいいものな。
ちなみにコウリンは薬の箱も有るので、ひとりで布を被って先頭を歩いている。この山道は幅も狭く、すぐ隣が深い峡谷なので彼女が先導を買って出てくれた。
「あぁ、もう少しで崖の道も終わりそうよ。でもここから少し足場が悪いから、滑って落ちないように気をつけてね」
「コウリンも気をつけて。ケイラン、もう少しこっち寄ってもいいよ」
「いや、でも腕にぶつかるし…………」
これ以上寄ったらもっと歩き辛いだろ…………
――――……け……て、だ…………
「…………ん?」
今、雨の音に紛れて何か…………?
――――……だれ……ここ……たす…………
「…………人の声!?」
「ケイラン?」
「待て、コウリン! どこか、近くに人がいる!」
「え?」
全員、その場に足を止めて耳を耳を澄ました。
「………………」
……ザアザア……ザアザア…………
「………………」
……ザアザア……たすけ……ザアザア…………
――――誰か……助けて……!
「……いる。聞こえる……」
「下?」
声は足元の方、つまり崖の方だ。
「おーい! 誰かいるか!?」
わたしはすぐに駆け寄って崖の下を覗く。
「あぁ~! た、助けて~~っ!!」
崖のちょうど真ん中辺り、わたしの身長の五倍くらいの距離だろうか。
誰かが必死にしがみついているのが見えた。
ここから見るには、たぶん若い女性。今にも雨で濡れた岩で、滑ってしまいそうだった。
「ちょっと待っていろ!! 今、助けるから!!」
「じゃあ、縄……長さ足りるかな?」
縄を出して昇らせる余裕はないと思う。
「縄はいらない! 私が助ける!! 霊影!!」
「っ!? ケイラン!!」
「ちょっと!!」
なぜかルゥクとコウリンが止めるような体勢でこっちを見たが、これは非常時だ。わたしの出番だろう!
縄状の霊影はスルスルと下へ伸びて、引っ掛かっている人の体に巻き付いた感触が伝わる。
「じっとしていろ!!」
先ほど皆を持ち上げた要領で、その人を引っ張り上げた。霊影の黒い影と共に、人がひとりわたしたちの前に転がった。
「ゲホッゲホッ! はぁ~……助かったぁ……」
助ける際に強く引っ張ったので少し噎せたようだが、緊張が解け脱力したような声が聞こえた。
「ふぅ、良かった。だいじょ…………」
ホッとして倒れた女性を起こそうと近付こうとした時、わたしの足下が大きく傾いた。
「…………え?」
崖崩れか!? と、思ったのだが…………
…………あれ? わたしだけ?
薄暗かった景色が、完全な闇に落ちる。
――――ケイラン……!?
わたしを呼ぶルゥクの声が、やたら遠くに聞こえた。




