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試食係の憂鬱

(……とうとう、ここまで来たんだな)


 ぼんやりと昔を思い出しながら、明日には王妃となる少女の前に立って歩く。

 弟の昔の服を身に着けると少年にしか見えないが、紛れもない少女の足取りは軽やかだ。

 アルティリエ・ルティアーヌ────俺のただ一人の主である王太子ナディルの妃にしてエルゼヴェルトの推定相続人。

 そして、ダーディニアで最も高貴な身分の少女。



 宮廷内の序列で言うのならば、本当ならばナディルのほうが上だし、彼女が王妃となっていない今の時点ではユーリア王妃のほうが上のはずだ。

 だが、エルゼヴェルトを母としないナディルとエルゼヴェルトでないどころか他国の出身である王妃は血統の正しさと言う点で彼女に劣るというのがダーディニア貴族の価値観だ。


(まあ、ナディルは彼女の夫ということでそれなりに敬意を払われてはいたけれど)


 王太子になったばかりの頃などはひどいものだったし、ナディルは実力で認められていったものの、アルティリエが今のように王宮内で存在感を示す前は一部の頭の固い頑固爺達、もとい、老害貴族共には陰でいろいろと言われていたものだ。



 当初、義務感はあれどさほど興味を持っていなかったこの幼い妃に対し、ナディルの態度は通り一辺倒なものだったが、その様子がかわりはじめたのは一年ほど前だった。


(姫さんが、死にかけたんだよな……)


 母の葬祀の儀式の為にエルゼヴェルトを訪れ、冬の湖に落ちたことで危うく生命を落としかけた幼い少女は、記憶を失ったことで別人となった。

 俺はそれまでの彼女をよく知らないから、別人となったと言われてもよくわからない。

 別人なのだと言うナディル自身も、たぶん、それほど彼女を知っているわけではないだろう。

 ただ、姫さん本人が記憶を失くすということは死ぬことと同じだといつか呟いていたので、何となく察しているというか、ぼんやりと理解した気にはなっているにすぎないのだ。俺も、ナディルも。

 戻ってきた姫さんは、何をどうしたのか誰にもわからないままにナディルの心の中にするりと入り込み、今では姫さんはあの排他的傾向の強いナディルの心に入り込んだ唯一の存在となった。

 ダーディニアの国王は王妃を四人までとることができるが、おそらくナディルはそれをしないだろう。


(たぶん、姫さんは唯一の妃となる)


 理由はよくわからないが、これまでの国王陛下と違い、ナディルは積極的に複数の妃を娶ることは求められていないらしい。

 四公爵が自分たちの娘や姉妹などの女性達をあえて強く薦めないあたりに何か理由があるのだと察することができる。

 それをいいことに、ナディルは姫さん以外を迎えるつもりはないようで、後宮の一角を自分と彼女だけが使うために改築を進めている。


(あの設計はどう考えても他の女をいれるためのものになってねえもんな)


 例えば、何らかの事情でどうしても他の女性を後宮にいれることになったとき、その女性は現在、後宮と呼ばれている領域に部屋を賜ることはできても、ナディルたちの暮らす宮からは遠い場所に追いやられることになるだろう。


(家庭内別居とかそういう生易しいもんじゃねえな)


 王族など常に家庭内別居のようなものかもしれないが、アルティリエ姫だけは寝室も同じならば私的領域も隣合わせ。その上、正宮のナディルの執務領域へも他の宮を経由することなく行けるのだから、それ以外の人間が極力排除されているとしか思えない。

 無駄が嫌いで超がつくほど合理的なナディルは、自分の執務領域に関してはたいした改築もせずにほとんどそのまま使っているのだが、今回の改築は最優先で推し進めているからよほどの思い入れがあるのだろう。


(思い入れがあるってのは、改築にってより姫さんにだろうけど……)


「……なあ姫さん……あれ?姫さん?えっええーーーっ」


 考え事をしていたせいで背後への配慮を怠っていたのだろう。

 振り向いたそこにいるはずの人の姿が忽然と消えていることに、俺はずっと気づいていなかったらしい。たいした間抜けである。


「ひ、姫さん?え?具合でも悪くなっちまったのか?」


 俺は慌てて後を戻りはじめる。


(まずい、これは、まずいぞ)


 大失態である。

 バレたらただでは済まされない。


(頼むから、何事もなく無事でいてくれよ)


 祈るような気持ちで、周囲に怠りなく目を向けながら俺は走り始めた。




 *******




「……で、言い訳はあるか?」

「……ない」


 というか、言い訳のしようもない。

 念を押されて頼まれていた相手の存在を見失うなど、ありえない失敗だ。

 ふぅ、とナディルが息をつく。


「……随分と間抜けな失態だな」

「面目ない。……影供は撒かれてはいなかったんだよな?」

「……彼らは、アルティリエを追うよりも、ファーサルドの捕縛を優先させた」


 ナディルはひどく不機嫌な表情で言う。


「それは……」

「……ファーサルドさえ捕縛すれば王宮内のこと。安全性は格段に高まると考えての判断だそうだ」


 その表情はひどく苦いものになった。

 もちろん、ナディルの意に沿う結果ではない。


「極端なことを言えば、ファーサルドなどどこでどうなっても構わない。ここで逃れることができたとしても、どうせ逃げ切ることなどできやしない。だが……アルティリエが失われたら……それはもう、取り返しはつかないのだ」


 ナディルは真剣な表情で言った。


「……すまない。どんな処分でも受ける」


 といっても、俺に差し出せるものなんて何一つもない。

(この身も、この命も、とうにおまえに差し出してるものだからなぁ……)


「……今更、おまえの処分方法なんて……」

 あるものか、と言いかけたナディルが小さく首を傾げる。


「……ああ……そういえば、アルティリエが試食係を欲しがっていたな」

「試食係?」

「何でも、新しい発酵食品の味見をする人間が必要なんだそうだ」

「へえ」

「ちょうどいい、おまえ、それをやってこい」

「え?試食っていうのなら、ようは味見係だろう?」

「ああ」

「そんなんで処分に……つまりは、罰になるのか?」

「なる」


 なぜかナディルは力いっぱいうなづいた。


「……味見する係が?」


 姫さんの作る新作料理の数々の味を知っている俺としてはその味見係が罰になるとはとても思えない。むしろ、ご褒美といってもいいはずだ。

 味見というよりは毒見に近いような、とナディルは呟きながらも言った。


「……フィル、これは罰だ。途中退出は認めない。必ず、アルティリエが満足するまで、何回でもつきあうように」

「わかった」


 正直、楽勝だとも思っていたこの時の俺を、俺は殴りつけたい。

 後悔先に立たずという先人のありがたーい言葉を、後に俺は噛みしめて思い知ることになった。





 *******





「……なあ、姫さん、何?これ」

「ぬか漬け……えーと、野菜の酢漬けみたいなものを作っています」

「すっげえ匂いがするんだけど」

「ええ。そうなんです。まだ、糠じたいが試作中なんですよね。……あ、だからこの部屋に全部隔離しているんです」


 この部屋、発酵食品の部屋なんですよ、と俺にはよくわからないことを姫さんは言う。

 どうやら、棚にずらりと並んだ壺はどうやら全部試作品らしい。

 目の前の棚にあるのだけでも、15×4段で60個。そして、この隔離しているという部屋にはざっと見ただけでも棚が10以上あるから、その総数はちょっと考えたくない。

 姫さんはおもむろに皮手袋をとりだして、それをつける。


「……なんで手袋?」

「匂いがつくんですよ。手に。……ぬか漬けだから当たり前なんですけど、皆が私の手に匂いがつくのはだめだから、この専用手袋を使わないなら自分で壺から出したら駄目って言われているんです」

「出すって何を?」


 姫さんはどろどろの野菜のようなものが詰まった壺から、野菜を掘り起こして取り出す。


「え?もしや、俺、それを食うの?」

「そうですよ。私が試食したいんですけど、ナディル様が試作品は私が食べるのはダメだって……私に万が一のことがあったら困るからって。前回は殿……いえ、陛下が代わりに食べてくださったんですけれど、どういう味がするのかわからないものを国王陛下が試食をするってよくないと思いますし……」


 なるほど、ナディルがあんなにもあっさりと罰になると言い切ったのは、自身が経験者だったせいらしい。

(っていうか、自分が試食係になるなよ、国王のくせに!!)

 というか、腹を壊したりするかもしれないのだ。たとえ王太子の時であってもダメだろう。


「とりあえず、これ、片っ端から食べてもらいますね」


 食べたらこれに味の評価を書いてください、と小さな紙片を渡される。

 そこには、すっぱさ、やら、うまさ、やら、辛さなどの味を十点満点で評価するようにあらかじめ表が書かれている。


「それで、その評価カードが埋まったら、食べた壺に貼っていってください。……ちなみに、試作品ですから覚悟してから口にいれてくださいね」

「覚悟???」


 姫さんは、壺から野菜をとりだすときれいに洗い、食べやすいように切ってから皿に盛ってゆく。

 キュウリの緑、ラグナ人参の鮮やかな橙色、それから小茄子の美しい紫……あのどろどろの中から取り出されたとは思えない美しい色彩の野菜は見るからにおいしそうだ。


「いただきまーす」


 口にした瞬間、口の中がきゅうっとすぼまるようなすっぱさに背筋がぞわりと震えた。


「無理して食べなくていいですよ。食べられなかったらそっちの壺に捨ててから、カードの評価欄を×にしておいてください」

「……おう」

「一応、ナスや人参も試してくださいね」

「わ、わかった」


 なるほど確かに覚悟がいる、と思いながら覚悟を決めてナスと人参を試す。

 あまりの口に突き刺さる酸っぱさと何とも言い難い匂いに、俺は力いっぱい顔を顰めた。


「……どうぞ」


 思いっきり憐みのまなざしで俺を見て、大きなゴブレットに水を注いでくれたのは、ラナ・ハートレーだ。


「……どうも……」


 一気に水を飲んでもまだ口の中が臭い。

 ほっと一息ついている俺に、姫さんは笑顔で言った。


「じゃあフィル、とりあえず、ここの棚は全部試してくださいね」

「……お、おう」


 俺は力なくうなづき、試作品の試食係ではなく、毒見係と名を改めるよう提案することを心に誓った。




 *******




前々話の四半世紀以上のところが気になった方が多かったようなので、こちらでちょっとだけ裏話を。

二人の結婚生活は二十五年以上五十年以下です。

この先、本編作中では国王夫妻の生死も生没年も出てくることはありません。

ただ、後世の視点から描くと全員故人となりますので気になることが出てくるかもしれません。


この二人は、後世、どの時代においてもその熱愛っぷりを疑われることがない夫婦でした。

公的文書にすらその片鱗が見られ、公式行事の国王夫妻の行動記録のはずが熱愛夫婦のイチャラブ記録になっているということもありました。

子どもや孫たちの証言も多数あり、後に多くの小説や戯曲等のモデルとなりました。


そのあたりを書いた番外編などもあるのですが、当面は保留にしておきます。

また、今後、後世、あるいは未来視点があるときは注意書きを付けるようにしますのでご注意ください。

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