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悪魔と孤児  作者: 黒衛
9/18

八、 山賊道中

※ややショッキングなシーンがあります。ご注意下さい。

具体的に言うと、悪魔が流血します。




その日は初夏もまだ始めの、気持ちのいい晴れた日で、だから悪魔と孤児は隣の村まで徒歩で出発した。

空には雲も疎らで、緑の木の葉に眩しい日差しが反射している。

孤児は葉の影が描く斑模様を、きらきら揺れる陽光を踏んで歩いた。

道は上り坂。森を抜けて峠を越えれば、川と橋が見える。その向こうに、次の村が見えるはずだ。

『転ぶなよ坊や』

鳥の囀りや道端の花に目を止める孤児に、悪魔が言った。

「転ばないよ。それより、次の村まではあとどれくらい?」

『何だい、もう疲れたのかい?』

違うよ、と先を行く孤児は振り返った。

「あんまりゆっくりじゃ日が暮れると思っただけさ」

太陽はとうに天頂を過ぎている。

前の町を出たのが昼食の後だったから、孤児の心配も尤もだ。

「宿のおばさんが、野犬が出るって言ってたよ」

悪魔はにやりと笑った。

『犬っころが怖いのかい?』

「だって、いっぱいいるって言ってたもの」

孤児の反論に、悪魔は言う。

『どうってことないだろ、犬くらい』

「狼でも?」

孤児は意地悪で尋ねたつもりだったが。

そうさ、と悪魔は頷いた。

『怖いのはいつだって獣じゃないからな』

孤児は首を傾げたが、悪魔は答えず、孤児に追いついて背中をぽんと叩いた。

『道も歩き易いし、大した距離じゃない。峠を越えればもう見えてくる』

それを聞いた孤児は、勇んでゆるい坂道を再び上り始めた。


噂を聞かなかったわけではない。ただ、警戒するに足りないと思っていただけで。

前の町で、“北の分街道に居た山賊が最近西の方に下りて来ている”と聞いた時には。

山賊といっても、そもそも現れる頻度は低い。田舎だが行き来は多い分街道から、領兵の駐屯する町近くへやって来るメリットもない。

心配そうにパスタと向き合っていた孤児に、悪魔がそう言って得意げに見せたのは、ほんの数時間前のことだ。

「ジョンの嘘つき」

『そう攻めるなよ坊や。

 私だってちょっとびっくりしてるんだから』

峠を上り切ったところで、悪魔と孤児の前に立ちはだかったのは、手に手に短剣や猟銃を提げた男達だった。

簡素な衣服に皮の胸当て、手甲、脚絆をつけ、薄汚れた布を頭に巻いて顔を隠している。

どう好意的に見ても賊の類だし、どう解釈しても穏やかな状況ではなかった。

前方と後方に二人ずつ。全部で四人の山賊は、孤児と悪魔を囲んでいた。

「ジョン、どうするの……?」

孤児は悪魔の足にしがみつきながら、怯えた声を上げた。

悪魔はちょっと困った顔で、とりあえず彼らの顔と武器を見回す。

銃口で悪魔を睨む山賊が、くぐもった声で言う。

「金目の物を出せ」

孤児が、ぎゅっと悪魔の服を掴んだ。

悪魔は山賊に答えた。

『見ての通り、荷も無い素人旅だ。ご期待に添える稼ぎは無いと思うがね?』

男は撃鉄に指をかけた。

孤児の身が竦む。

『OK、分かった。金を出そう』

悪魔はあっさりと要求を呑んだ。

懐から財布を取り出し、投げる。銀貨の詰まった皮袋が、地面にぶつかって音を立てた。

しかし、山賊は銃を下ろさない。

『それだけしか持ってないぞ?』

「時計を置け。袖のボタンもだ」

悪魔は無言で上着のポケットから懐中時計を取り出し、足元に置いた。

シャツの袖に着けた金色のカフスボタンも、外して時計の横に並べる。

『置いたぞ。さぁ、通せよ』

銃の男が、他の四人に目配せする。

孤児はとても嫌な予感がした。

理由は無いが、嫌な予感。それは多分、山賊の視線から感じ取ったのだろう。

銃を向けたまま、男が言う。

「その餓鬼を置いて行け」

悪魔の片眉がぴくりと吊り上がった。

血の色をした瞳が山賊を睨んで、悪魔はきっぱりと言い返した。

『できないね。そこを退けよ』

ドン!と空気を震わす銃声が響いた。

悪魔の上着に縋って顔を背けた孤児は、弾痕が悪魔の爪先から一歩離れた地面に穿たれたのを見なかった。

「餓鬼を置いて行け」

孤児は震えていた。

冷たい手が、そっと孤児の頭に置かれた。

『嫌だね』

「なら死ね」

『結構。だけど大損を扱くのはお前達だぞ?』

悪魔を見る山賊の目に、不思議そうな色が浮かんだ。

「どういう意味だ」

『お前達は儲け話をふいにすると言ったのさ』

悪魔はとても真面目くさった顔で続けた。

『子供を攫ったところで、せいぜい人買いに売るぐらいだろう?

 それより稼げる話があるのさ。聞くかい?』

山賊達が顔を見合わす。

声はないが、互いに交わされる視線は雄弁だった。

銃を持った男が意見をまとめる。

「話せ」

悪魔はほくそ笑んだ。

『この坊やは、ノーマン・チシェリアのお孫様さ。今は小旅行の途中。

 これだけ聞いて、私の言いたいことが分かるかね?』

彼らが少なからず動揺する気配に、孤児は驚いた。

孤児に覚えはないが、ノーマン・チシェリアとはよく知られた武器商人の名だ。

街角のならず者から成り上がり、あちこちの領主や傭兵団に顔が利き、薄暗い世界で権力を持つ。

当然、山賊達も名前くらいは知っていた。

悪魔が続ける。

『私は子守でお供だ。この子がいなくなれば、老は全力で追っ手を掛ける。

 お前達の名も耳に入るだろう。だから、さ。 どうせなら営利誘拐にしろよ。

 身代金を取って、無事に帰す。金で孫が帰ってくるなら、老だって諦めるだろう』

まるで息をするように出鱈目を喋る。

再び、山賊達は目配せを交し合う。

一人が、銃を持った男に駆け寄って何事か耳打ちした。

数言応答があって、男が悪魔に聞き返す。

「で、お前を生かす理由は?」

『子供を世話する自信があれば撃てばいいさ』

悪魔は言い切った。

男は銃を下ろした。

「いいだろう。そいつらを縛れ」

男の命令で、悪魔と孤児は両腕を拘束された。

悪魔は腰の後ろで両手首を縛られた。孤児は悪魔にしがみついて離れなかったので、悪魔の服を掴んだまま手に縄をかけられた。

後ろから銃で突付かれて、二人は歩かされた。

木々の疎らな森の中に入って獣道を行く間、孤児はずっと涙を堪えて震えていた。



どれくらい歩いたのか、孤児には分からなかった。

けれど脚が随分疲れていたから、相当な距離だった気がする。

着いた先は、粗末な炭焼き小屋だった。

持ち主が居らず放置されていたのか、壁も屋根も相当傷んでいる。

孤児と悪魔は、小屋の中に押し込まれた。

薄暗い。おまけにどこからか隙間風が入って来る。がらんとして物が無く、寒々しい。

隅の方に、古ぼけた毛布が丸められて転がっていた。

がちゃんと、外から錠を掛ける音。鍵だけは付いていたのだろうか。

「大人しくしていろ」

低い声が言って、それから足音が遠ざかって行った。

山賊の気配が無くなってから、孤児は悪魔の方を見た。

『私の演技はどうだった?すっかり騙してやったろう?』

「それどころじゃないよ!」

脳天気な悪魔に、孤児が言う。

「あいつら山賊だよジョン!……僕達どうなっちゃうのかなぁ」

怯える孤児に、悪魔は人差し指を立てて静かにするよう合図した。

『騒いじゃ駄目だよ、坊や。怖がってない振りをするんだ』

そんなの無理だよ、と孤児は小さく呟く。

孤児の目には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。

『泣くなよおチビちゃん、大丈夫さ。

 あいつ等もお前には酷いことをしないよ』

「どうして……?」

涙を拭う孤児に、悪魔は答える。

『坊やには怖いおじいちゃんがいるって嘘をついたからね。

 悪い人間には悪い人間の方が、時に神や悪魔よりも良く効く』

それが、山賊との会話に出てきた知らない名前のことだと、孤児は見当付けた。

「さっき言ってた、チェなんとかって人?」

『お前は気にしなくていいんだよ。大人しくさえしていれば』

悪魔は怖がらない。恐れる理由など何も無いから。

だけど、珍しい状況を楽しんだり面白がったりもしていない。

ただ、何かの義務のように冷たい薄ら笑いを浮かべているだけ。

「ジョン……、どうするの?」

何か考えがあるのかと思って問うた孤児に、悪魔は思案するような曖昧な笑みを返した。

孤児は、悪魔だけなら簡単に逃げられるんじゃないかと思った。

それを尋ねようとした矢先、足音が聞こえてきて、扉の鍵が外される音がした。

孤児は、悪魔の後ろに隠れた。

顔を隠したままの山賊が一人入って来て、悪魔の腕を掴んだ。

「来い」

『止せよ。痛いじゃないか』

引き摺り立たせようとした男に、悪魔が文句を言った。

途端、男の足が悪魔の横顔を蹴りつける。

「ジョン!」

「お前はそっちに行ってろ」

声を上げた孤児を遮って、男は悪魔の襟首を掴み上げる。

竦み上がる孤児に、悪魔はひらひらと手を振った。

『いい子にしてるんだよ坊や』

無理矢理連れられて行く悪魔の姿が扉の向こうに消えた後は、孤児は一人残された。

暫く、孤児はぼんやりと座っていた。

怖くて恐ろしくて、どうしていいのかちっとも分からなかった。

だけど、ここでただ蹲っているだけでは駄目だとも、知っていた。

孤児は小屋の中を見た。

両手は縛られていたが、見て回るだけならさして不便も無い。

本当に物が無かった。

砂利と埃が混ざって積もっている床には、木切れや縄の切れっ端、薄汚れた毛布などが散らかっている。

壁は薄く、隙間から風が入り込んでくる。屋根には大きな雨漏りの染みがあり、一角には空が覗ける穴まで開いていた。

人がいた痕跡は、壁に掛かったまま錆び付いた鉈と鎌。恐らく裏手に炭焼き窯もあるのだろうが、ここからは分からない。

扉だけはしっかりしていて、外から鍵をかけられれば無理に開けることは叶わないだろう。

孤児は扉と壁の鉈を見比べた。

孤児の力で、扉を壊すことができるだろうか?

孤児は、戸と壁の隙間から外を覗き見た。

駄目だ。

外側に太い鎖が掛かっている。大穴を開けるか、扉ごと外しでもしないと出られそうにない。

他に何か道具は無いかと、部屋の中を見回した時、また足音が近付いて来た。

今度は、部屋の隅に行って膝を抱えた。

鎖を外す音と共に扉が開いて、ひょろりと背の高い影が入って来る。

顔は隠していない。頭に巻いていた布は、首の辺りに垂らしていた。

くすんだ金色の巻き毛とそばかす顔に愛嬌のある、どこにでもいそうな青年だった。

まだ若く、とても山賊には見えない風体に、孤児は少し驚いた。

青年は、孤児から離れて扉の側に座った。

「あー、怖がるなよ。ただの見張りだから」

と青年は言った。

「これ食う?」

青年が見せたビスケットの包みを、孤児は胡乱気に見返す。

「……知らない人からものを貰っちゃ駄目だって」

利口なこと言うなぁ、と呟きながら包みを破って、青年はビスケットを頬張った。

「腹が減ったら食いな」

青年が、別のビスケットを一袋投げる。

ビスケットは孤児のすぐ横に落ちて、何枚か割れる音がした。

孤児は、青年に尋ねる。

「……どうして、お菓子をくれるの?」

山賊に話しかけるのは怖かったが、二人きりで黙り込んでいるのも居心地が悪かった。

「そりゃ、腹が減ったって泣かれても困るからさ」

青年が孤児に答える。単純で明解な答えだ。

でも、孤児は納得がいかなかった。

「僕は人質なんでしょ?」

だったら食べ物なんてくれないんじゃないか、と孤児は思っていた。

青年は頷く。

「人質だよ。だから、そこそこ元気でいてもらわなくちゃ困る。

 死んじまったら人質じゃなくなっちまう。あっちの子守は知らないけどな」

言いながら、もう一枚ビスケットを齧る。

腰に下げた鞄から、青年は水筒を取り出して、一口飲んだ。

「これも置いておくからな」

と、今度はその水筒を投げた。

孤児は、両手を差し出して受け取った。

水の重みを抱えながら、孤児が問う。

「……ジョンはどうしたの?」

「うん?」

青年は、首を傾げた。

「子守なら、大将のところで手紙を書いてるさ。

 ほら、“子供を返して欲しくば金貨百枚よこせ”みたいな」

孤児は青年を睨み付けた。

「銃を持ってた奴のこと?それとも、ジョンを蹴った奴?」

青年はからかうようににやりと笑った。

「そう怒るなよ、これやるから」

青年が放り投げた小さな丸いものが、孤児の膝の間にぽとりと落ちる。

透き通った緑色のキャンディーだ。ミントの香りがした。

「銃の方さ。子守を連れてったのは、二番目。で、おいらは一番下っ端」

「だから見張りなんかしてるんだ」

孤児の言葉に、青年はちょっとだけ鼻白んで、意地悪そうな薄笑いを浮かべた。

「口の達者な奴だなぁ」

ビスケットを半分に割って、その片方を孤児に投げ付ける。

ビスケットの半欠けは、孤児の肩にぶつかって落ちた。

「食べ物で遊んじゃいけないんだよ」

青年は、ふんと鼻で笑って、もう半分を口に入れた。

それっきり、青年は壁に背を預けて寝転んでしまった。

沈黙の落ちる中、孤児は居た堪れない気持ちのまま、じっと座っていた。



男に連れられた悪魔は、山賊の大将の前に引き出された。

大将は銃を傍らに置いたまま、地面に横たわった丸太に腰掛けていた。

『お宅の部下は荒っぽいね。もう少し品性というものを教えたらどうだい?』

まず悪魔が口を開いた。

山賊はそれを無視した。

「身代金を要求する。脅迫状を書け」

口調こそ平坦だが、片手は銃に掛かっている。

下手に抵抗すれば、即座に一発食らうだろう。

『チシェリア老宛てでいいのか?』

と悪魔は聞いた。

「いいだろう。従わない場合、どうなるか分かっているな」

悪魔は肩を竦めた。

『わかったよ。紙とペンはどこだ?』

すぐに、小柄な男が紙とペンとインク壷を持ってくる。

しかし、悪魔の両手首は縛られたままだ。

『このままじゃ書けないぞ』

後ろで悪魔の腕を捕らえる男が、ナイフを取り出して縄を切り落とした。

その代わり、すぐに背中に刃先を押し付ける。

妙な素振りをすればそのまま刺されるのだろう。

悪魔は引ったくるようにペンを取って、渡された紙に半ば投げやりに文字を書き始めた。ペン先が閃くごとに急くような字が綴られる。

その途中で悪魔は手を止めた。身代金の額を書こうとしたからだ。

『いくら要求するんだい?』

「大金貨五十枚」

大将が、間を置かず答える。

悪魔がヒュゥッと口笛を吹いた。

違わず書き込まれた数字は、そこそこの大きさの一軒家が建つ金額だ。

出来上がった脅迫状を、悪魔は大将に差し出した。

孫を誘拐したこと、金を払えば無事返すこと、領兵などに通報した場合は孫を殺すこと等が書かれていた。

「……いいだろう」

隅まで目を通して、大将は頷いた。

『字が読めるのかい。小悪党の割には学があるね』

嘲るように笑った悪魔の頬に、無言でナイフの先端が突きつけられた。

『短気だな。憎まれ口ぐらいいいだろ』

両手を挙げた悪魔の襟を掴んだ男に、大将が口を挟む。

「そいつは小屋に返しておけ」

意外とでも言いたげに、悪魔は大将を見返した。用が済めば殺されるものと思っていた。

が、次いで聞こえたのはとても事務的な言葉だ。

「上着を取っておけ。それから、その首にぶら下がってる布も」

『おい、何でだよ!』

抗議も空しく、悪魔の体からジャケットとネクタイは剥ぎ取られた。

『酷い話だ。そいつはお気に入りなんだぜ』

ネクタイの布を眺めて、大将が呟く。

「子守が着るには上物だ」

『そうかい』

シャツ一枚で、悪魔は憮然と言い返す。

顔を隠す布の中から、鋭い視線が見返して、

「連れて行け」

再び両手を縛られて、悪魔は小屋に戻された。



悪魔が帰ってきた。

「もういいぞ」

「おぅ」

悪魔を連れて来た男が、見張りが終わったことを青年に告げた。

青年は横になった姿勢から飛び起きて、男と入れ違いに外へ出た。

男は、悪魔を暗い小屋の中に向かって突き飛ばすと、その後ろで勢い良く扉を閉めた。

鎖と鍵を掛ける音。

男の足音が去ってから、孤児は悪魔に駆け寄った。

戻ってきた悪魔は、手こそ前で縛り直されていたが、上着も絹のネクタイも無くしていた。

「ジョン、服をどうしたの?」

『取られたのさ。これじゃあ風邪をひいてしまう』

愚痴を零す悪魔の表情は、楽観に過ぎる程いつも通り軽薄なままだった。

床の適当なところに腰を下ろすと、孤児もその横に座った。

「外で何をしていたの?」

『手紙を書かされた。それだけさ』

そう言う悪魔を見上げた孤児は、ふと、その頬についた傷を見つけた。

「ジョン!血が出てるよ」

言われて、悪魔が手の甲で自分の頬を擦ってみる。赤い汚れがついた。

『あぁ、さっきのナイフかな?人間のふりするのも疲れるもんだ』

悪魔を連れて行った男がつけた傷だろう。

悪魔は多少刃物で刺されたところで平気だが、人間はそうでないから少々気を使う。

例えば、今のように血を流したり、時には痛がってみせたり。

傷跡らしきものがもうどこにも残ってないのを見て、孤児は感嘆した。

「どこを怪我してたのか、全然分からないや」

『当然だろう、ハニーミルクちゃん』

悪魔は得意げな顔をした。

しかし、悪魔ならばそれで済んでも、孤児ではそうもいかない。

孤児は悪魔に尋ねてみた。

「もしかしてジョンだけなら……ここから逃げられるんじゃない?」

悪魔は心外だとでも言いたげな表情で孤児を見た。

『もしかしてとは随分だな。そんなのは至極簡単なことだ。

 お前がそのビスケットを平らげてしまうくらい、とても簡単なことだよ』

だけどな、と悪魔は孤児の耳元で囁いた。

『お前はどうするんだい、シュガーポップちゃん?

 私は逃げても構わないけれど、その後は一人でどうするんだ?』

一人残された場合、どういう目に会うのか、孤児は分かっていなかった。

悪魔が意地悪にもわざわざ教えてくれた。

『無事に帰れるかな?多分人買いに売られちまうんだろうなぁ。

 その後は、根性悪の座長に苛められてサーカスで踊るか、かんかん照りの大きな農園で夜も昼も働かされるか。どちらかな?』

恐ろしい可能性を突きつけられて身震いする孤児に、悪魔は押し殺した笑い声を漏らす。

『本気にするなよ坊や。お前が鞭で打たれたり病気になったりしたら、困るのは私だ』

薄っすらと涙を浮かべた目で睨む孤児に、悪魔は降参を示すように縛られた両腕を上げた。

孤児が言い放つ。

「ジョンの意地悪!」

『それは褒め言葉だよ、オーウェン』


日が落ちて、空がすっかり黒く染まってしまった頃、再び山賊の青年がやって来た。

食事だと言って置いて行ったのは、パンが二つ。

悪魔は、小屋の隅で寝転がっていた。

「ジョン、食べないの?」

『いらないよ』

問うた孤児に、悪魔は背を向けたまま答えた。

悪魔は横になって、空を眺めていた。

屋根に開いた穴から、千切れ飛んでゆく霞のような雲と星が見える。

雨風に晒された床は、色褪せて砂利が多い。

そんなところに寝ているものだから、悪魔のシャツは埃まみれで、そう言ったら悪魔は、

『帰ったらたっぷり水浴びするさ』

と答えた。

「水遊びにはまだ早いよ」

吹き込む夜風はまだ、孤児の肩を震わす程に寒い。

悪魔は、小屋の隅にあった古い毛布を孤児の方に押しやった。

『疲れたろう。もうお休みオーウェン』

言われてみれば眠くなってきた気がする。街道を歩いて、山賊に攫われて、大変な一日だった。

薄い毛布に包まって、孤児は眠りにつこうとした。

『いい夢を』

閉じた瞼の闇に響く悪魔の声が、木々を渡る風音のようで、

それから後のことは、覚えていない。



朝になった。

太陽がまだ昇り始めた時刻に、悪魔はそっと身を起こした。

床を踏んで歩く軋みに孤児が少し身じろぎしたが、まだ眠っているようだ。

孤児を置いたまま、悪魔はそっと小屋を出た。

扉には鍵が掛かっていたが、悪魔を閉じ込めることはできない。

がしゃりと、鎖の落ちる音と共に悪魔は外にいて、朝の冷たい空気を深呼吸した。

夜は明け切らず、空は青に染まりゆく紫。東の方から顔を出した太陽が、眩しい光を投げかけてくる。

薄闇が晴れていく早朝の光景の中で、悪魔は悠々と両腕を上げて背伸びをした。

『さて、と。行くか』

固く縛られていたはずの縄が、するりと抜ける。

それをぽいと放り捨てて、悪魔は早速一人目を見つけた。

昨日、山賊の大将が腰掛けていた丸太のところに、小男が座っている。見張り役なのだろうが、居眠りしていた。

悪魔は静かに近付き、肩に手を当てて揺すり起こした。

慌てて、男は飛び起きる。

が、見上げた先でにこにこ笑っている悪魔を見て、更にもう一度驚く羽目になった。

悪魔は構わず、挨拶をする。

『おはよう。いい朝だね』

混乱した男は、勢い良く立ち上がった。

「ど、どうやって出た?!」

狼狽えながら怒鳴り、思い出したように短剣を手に取る。

『あぁ、無粋だな。もっと愉快なことをしようじゃないか』

小男が振り回した短剣は、悪魔の鼻先を掠めた。

もう片方の手には短く鋭いナイフ。

それが、素早く悪魔の喉元目掛けて投げ放たれる。

避けるか弾き落とすか、悪魔が迷った一瞬に男は踵を返していた。

あっと言う間に走り去って行く。

『おや、追いかけっこかい?』

悪魔が男の後を追おうとした時、がさりと横手で草を踏む音がした。

振り返るや否や、木陰から躍り出た大柄な影が、悪魔の頭上に曲刀を閃かす。

既の所で振り下ろされる腕を掴んで、悪魔はどうにか真っ二つにならずに済んだ。

『危ないなぁ。こういうのは得意じゃないんだが……』

押し合う両腕の間で、じりじりと鋭い刃が悪魔の顔面に向かって迫り来る。

そこへ、どかどかと鳴らす足音と共に小男が戻って来た。

息せき切った彼の後ろには、大将と青年が並んでいる。

何事か罵声を上げながら、青年が腰から抜いた銃を悪魔に向ける。

それを目に留めた曲刀の男が、勢い良く悪魔の手を振り払った。

同時に、銃声が一つ。

が、それは木々の間に響き渡っただけで、悪魔は涼しい顔で青年に目を向けた。

『いい玩具だね。銀玉鉄砲かい?』

悪魔は一歩、青年に近寄った。

青年は一歩、後退って構えた。

悪魔を睨んだまま、撃鉄を起こす。

『何だ、遊んでくれないのかい?』

向けられた銃口に嫌味な笑みを返した途端、横手から、悪魔の左目に猟銃の先が突き付けられた。

爆発音と、赤が爆ぜた。



何かが破裂する大きな音で、孤児は目を覚ました。

寝惚け眼で辺りを見回し、薄暗い小屋の中にいることを思い出す。

それから、悪魔がいないことに気付いた。

扉は開いていた。鎖と錠が、壊れて地面に落ちている。

孤児は、悪魔が壊して出て行ったのだと思った。そして、それは正解だ。

逃げられるだろうか?見つかったらどうなるだろうか?

考えてみたけれど、問題が難しすぎた。

孤児は扉に手を掛けた。

せめて外の様子を見ておこうと、隙間から顔を覗かせた時、

もう一発、一際大きな銃声が轟いた。

飛び散る赤を見たように思う。誰かがよろめくのも。

それが悪魔だと知るのに、一瞬。

大きな銃を構えた男が、撃ったのだと分かるのに、更に数瞬かかった。

「ジョン!!」

思わず、悲鳴を上げた。

振り向いた悪魔は顔の半分を赤く染めていた。

『坊や、そこに居な』

その声が近いのか遠いのか分からなかったのは、きっと酷い耳鳴りがしていたせいだと思う。



銃身の先は悪魔の左目に当たっていた。

発射された弾は頭蓋にめり込んで、悪魔の頭を半分吹き飛ばす、はずだった。

真っ赤な血が飛んだのを男は見た。白い頬に深紅の液体が流れて落ちるのも。

だけど倒れなかった。

悪魔は、無残な傷に指を突っ込んで、こりゃ酷い!などと呟いている。

一度は鉛玉を摘み出そうと試みたが、しかし無理だと知ると諦めた。

代わりに、空っぽの眼窩に、無造作に指を突き入れて抉った。

ぺっと地面に何かを吐き捨てれば、ぽとりと落ちたのは血に汚れた弾丸。

その時だ。小屋の方から悲鳴が聞こえたのは。

真っ青になった孤児が、扉のところに立っていた。

悪魔は振り向いて言った。

『坊や、そこに居な』

ポケットから取り出したハンカチで傷を覆えば、白い布に赤い染みが広がった。

小男が何事か呟いた。

『酷い言い草だね』

それを聞いて残った片目で笑う悪魔を、曲刀の男が視線で射る。

悪魔の唇が弓形を描いた。

『そういえば、お前は私の顔を蹴った奴だね』

「それがどうした!」

ぎらりと光った血色の瞳を睨み返して、男は再び刀を振るった。

潰れた目の側から振り下ろされる曲刀が、悪魔の側頭を捉える。――かに見えた。

次の瞬間、空を舞っていたのは男の方だった。

胸倉を掴み上げた悪魔の手が、力任せに男を投げ捨てていた。

『話の途中で切りつけるなんて、無礼な奴だ』

悪魔の顔からは、笑みが失せていた。

『躾のなってない子には、お仕置きだ』

冗談か魔法のように軽々と、山賊は宙を飛んだ。

男には、自分がどうなったのか分からなかった。

当然、これからどうなるのかも。

弧を描いて落ちていく先には、雑草が高く生い茂っていた。怪我をするとしてもせいぜい足を挫く程度に思えた。

が、そこに突然大きな炎が上がる。

草叢を飲み込む真っ赤な炎だ。

恐ろしい赤と橙。その向こうを垣間見て、男は息を呑んだ。

ぽっかりと開いた黒い穴から、硫黄臭い熱風が吹きつけ、血飛沫にも似た火花が踊る。

地の底でゆっくりと蠢く灼け爛れた溶岩流が、地を這う巨大な脈動のように男を手招く。

男の喉は引き攣った音を漏らした。

『地獄で礼儀を学んでおいで』

悪魔が囁いた。酷薄な声音で。

―――!!!

迸った悲鳴は炎の唸りに掻き消され、男共々陽炎の向こうに消えた。

途端、幻だったかのように失せた炎と地獄の穴に、小男が甲高い叫び声を上げる。

青年はただぽかんと、焦げ跡一つ無い草叢を眺めた。

大将だけが、構えた猟銃を揺るがさなかった。

「化け物め」

悪魔は、山賊に困ったような顔を向けた。

『元はといえば絡んで来たのはそっちだろう?

 私だってねぇ、ちょっとは悪いと思ってるんだ』

悪魔にとってそれは真実だ。山賊にとっては何の意味もないことだが。

溜息をついて、悪魔は呟く。

『手紙を返しておくれ。それで、何も無かったことにしようじゃないか。

 今となっては悪くない話だと思うがね』

悪魔の提案に、大将は薄笑いで答えた。

悪魔が、何かを悟って振り返る。

視界に飛び込んできたのは、ぴたりと孤児の横に並んだ小男だ。おまけに、孤児の首に短剣を突きつけていた。

『……貴様』

忌々しげに山賊を睨んだ悪魔に、孤児はか細い声で言った。

「ごめん……ジョン」

謝ったところで、事態は好転しない。

悪魔は舌打ちした。

ゲームのルールにおいて、孤児が死んだ時、悪魔は地獄に送り返される。

それは御免だ。だから考える。

『その子供は私の獲物だ、横取りは許さんぞ』

小男は、引きつった笑みを口元に浮かべた。

「許さないならどうする?

 お前は殺す。首と手足を切り落として、燃やして、灰を海に撒いてやる」

『それじゃ吸血鬼だ』

悪魔はけらけらと笑った。

『できるものならやってみろ。勿論私はやり返すがな』

「その様でか?!どうやって?」

孤児の目の前に刃先を閃かせながら、小男が嘲った。

『こうやってさ!』

言うが早いか、悪魔は小男に向けて何かを振りかぶり、投げ付けた。

何を持っていたのかは見えなかった。いや、何もないはずだった。

なのに、重いものが落ちる音がして、一瞬後、小男の悲鳴が響いた。

腰を抜かした小男が座り込む。その足元に、曲刀が突き立っていた。

先程、男と一緒に炎の中に消えた筈の曲刀だ。

『あれ?外れたなぁ』

片目じゃ狙いがつけにくいと呟けば、もう一本、銀色の刃物が悪魔の手の中に納まっている。

『次は当てよう。嫌なら祈れ』

悪魔が曲刀を振り上げた途端、孤児が甲高い悲鳴を上げた。

「待ってよジョン!」

孤児の顔は蒼白だ。目には涙が溜まっているし、唇や膝は震えている。

朝日を受けて光る刃を頭の上に掲げたまま、悪魔は聞き返した。

『どうした坊や?心配しなくても、お前に当てやしないよ』

孤児は左右に首を振って否定した。

「危ないことしないで!お願いだから、酷いことしないでよ!」

『何だって?』

悪魔は驚いた。

『お前、状況が分かってるのか?殺されかけてるのは、お前なんだぜ?』

それでも孤児は譲らなかった。

「ジョンは、この人たちのこと怒ってるの?」

『別に、怒っちゃいないけど』

悪魔は血の通ってないような声で、白々しく言った。

「じゃあ僕がそっちに行くまで、そこを動かないで。何もしないで。約束して」

悪魔は少し逡巡した。それから、まだやや不服気な無表情で頷いた。

『いいよ坊や。約束した』

「ジョンは、約束は守るよ」

孤児は小男にそう言って、一歩前に踏み出した。

もう一歩、少しずつ小男から離れる。

「小僧、何を勝手に……!」

孤児の肩を掴みかけた小男は、悪魔が再び曲刀を構えているのを見て、身が竦んだ。

孤児はどんどん小男から遠ざかって、じきに悪魔の側に着いた。

『もういいな?』

孤児がそこに行くまで。そういう約束だったから、すかさず悪魔は手に持った刀を小男目掛けて投げつけた。

「ジョン!」

孤児が止めたが、もう遅い。

がつんとぶつかる音がして、小男は倒れた。

『何だよ、ただの木だよ』

小男の頭の横に、ころころと一本の薪が転がっている。

刀が薪に変わってしまっていた。それに頭をぶつけて、小男は伸びてしまった。

「野郎!」

『おっと、それは痛いからもういらないぞ』

引き金を引きかけた大将の銃に向かって手をかざせば、バキン!と音がして銃はばらばらの部品に変わる。

「くそっ!」

手の中に残った銃把を投げ捨て、大将は踵を返し逃げ出した。

悪魔は追いかけなかった。孤児にシャツの裾を掴まれていたから。

代わりに、大将に向かってぷつりと抜いた髪の毛を一本、ふっと吹きつけておいた。

ひらりと飛んだ髪の毛は、大将の背中に張り付いて一緒にどこかへ行ってしまった。

『ふふふ、ささやかながら呪いを掛けてやった。これで暫くあいつはツキに見放されるぞ』

不安げな目で見上げる孤児を見下ろして、悪魔は言う。

『いい加減放せよ』

孤児が悪魔の服から手を離すのと、悪魔が最後の一人に目を止めるのは同時だった。

『あぁ、もう一人いたね』

「ひぃ……!」

青年は後退って逃げようとしたが、何故か足が動かなかった。

バランスを崩して、その場に尻餅をついてしまう。

その眼前まで歩み寄って、悪魔は青年の襟首を掴んだ。

『お前達は私の獲物を横取りしようとした。それは絶対に許せない』

怯えた青年は、悪魔の顔を見ないよう手を翳して目を覆った。

その耳元で、だけど、と悪魔は呟く。

『お前は坊やにキャンディーをくれたね?』

悪魔の指先が青年の額に触れる。

直後、パチン!と爪の先で眉間を弾かれた。

『だから、それで許してやるよ』

ぽかんと見返す青年に、悪魔は微笑った。三日月のように歪んだ唇から、尖った牙を零しながら。

大きく二歩後ろに下がって、まるで舞台役者のように優雅な礼をする。

『それでは、若人よ御機嫌よう。二度と会うことも有りますまい』

次の瞬間、悪魔の姿も、孤児も一緒に消えうせて、青年だけが独り取り残されていた。



太陽は低い位置から森の木々を透かして、地面に斑な影を落とす。

小屋から離れて、峠を下る街道を行く大小の影は、朝の肌寒い空気の中を並んで歩く孤児と悪魔だ。

『あーぁ。つまらないことをしてしまった』

皺だらけのシャツと埃っぽい髪に、いつものような洗練みのない悪魔は、両手をポケットに突っ込んで、丸めた背中越しにぼやくように零した。

「……つまらないこと?意地悪してるジョンは楽しそうだったよ」

孤児は胡乱気に悪魔を見上げる。

つまらないことさ、と悪魔は言い切った。

『悪魔は、力ずくで何かしたりしないんだ。そういうのは……そう、優雅じゃない。

 悪魔の武器は頭と口先だ。言葉巧みに騙してこそ、悪魔の腕の見せ所というものさ。

 だから、全く、つまらんことに時間を食ったという訳だ』

整髪料の剥げかけた髪をくしゃくしゃと掻き回す様は、気だるげで疲れたように見えた。

「だったら、最初から捕まらなきゃよかったのに」

やはり、悪魔がそのつもりになれば、山賊に囲まれた中から逃げ出すくらい簡単だったのだ。

懲らしめてしまうことだってできただろう。

なのに、わざわざ一度捕まってみせた理由が、孤児には分からない。

後から逃げ出すくらいなら、最初から捕まらなければいいのに。

孤児がそう言うと、悪魔は尖った顎に手を当てて考える素振りを見せた。

『ふぅん。実のところねぇ、予想外れってところかなぁ』

悪魔の予想とやらに、孤児は首を傾げた。

『お前がね、私に“助けて”ってお願いするかと思ったんだ。しなかったけど』

「お願い?お願いしたら何なのさ?」

問い返す孤児に、悪魔は満面の笑みを見せる。

『お願いと言ったら契約じゃないか。ゲームなんかやめて、私と取引するのさ』

「絶対嫌だ」

『そうだろうよ。

 賊に襲われるというのはいいチャンスだと思ったんだがな』

つまらなさそうに肩を竦めた悪魔に、孤児はとある疑念を浮かべる。

「まさか、ジョンが山賊を呼んだの?」

『まさか!!』

悪魔は力一杯否定した。

『そんなことしたらうっかりお前が死んでしまうかも知れないじゃないか!

 そんな分の悪い賭けに出るものか!』

何かを期待していたわけでもないけれど、悪魔の答えに孤児は少しだけがっかりした。

「もしかしたら……ジョンは僕を助けてくれたのかもって思ったのに」

『私が?それはお前に死なれては私が困るからだよ』

そんなことは分かっていたけれど、それでももしやという思いは、たった今打ち砕かれた。

孤児は溜息を一つついた。

山賊に攫われて、閉じ込められて、短剣を突きつけられて、怖くて、散々な日だった。

「……もうこんなのこりごりだよ」

その意見には悪魔も全面的に賛成だった。

『同感だね。存外退屈だったしな』

やはり多少は珍しさを味わってはいたのだろうか。

悪魔の左目は、すっかり元通りできれいなものだ。酷い傷があったなんて分からない。

悪魔には怪我なんて何とも無いし、山賊だって怖くない。それでも、

『やっぱり私にはこういうのは向いてない』

と悪魔は呟いた。

「どういうの?」

『喧嘩』

孤児は、ささやかな意地悪で尋ねる。

「じゃあどんなのなら向いてるの?」

『少なくとも、子守の方がはるかにましだってことは分かったね!』

悪魔はやや自嘲めいて笑って見せた。

『さて、手紙を取り返しに行かないとな』

「手紙って、何の?」

尋ねた孤児に、悪魔は呆れたような表情を装う。

『忘れたかい?脅迫状さ』

悪魔が書いて、山賊が出した脅迫状。

今頃は郵便馬車でどこへやら運ばれていることだろう。

『早く取り戻さないと、チシェリア老に怒られてしまう』

取り戻すと言っても、どうやって追いかけるつもりなのだろうか?

孤児の疑問も他所に、悪魔は憮然と埃まみれのシャツの襟を正す。

『上着と、それにネクタイも新しく買わないとな。忙しいことだ』

「その前にお風呂に入りたい。それに、お腹も空いた」

孤児の要望に、悪魔は快く頷いた。

『勿論だ。次の町に着いたら早速宿を取るとしよう』

悪魔がこんなに素直なのは見たことないと、孤児は驚いた。

けれど、それは悪魔だって薄汚れた格好は嫌なだけのことだ。

『早く湯浴みでもしてさっぱりしたいねぇ』

思わず孤児は笑ってしまった。

げんなりと零す悪魔の弱り様が痛快で、もう少しの間だけならこの疲労も忘れたままでいられそうだった。




八、   幕  ――




珍しくアクションシーンを挟んでみました。

実力行使に及ばざるを得なかったことが、悪魔は大層ご不満なようです。


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