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悪魔と孤児  作者: 黒衛
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六、 天使の町



旅人が町にやってきた。

大きな荷物を背負った、まだ少年と呼んで差し支えないほど年若い旅人だ。

田舎だが観光資源豊富なこの町は、他地方との交流も活発かつのどかで治安も良く、多くの旅行者が訪れていた。

旅人もその一人だ。

町について早速、旅人は宿を探した。

南北に伸びる大通りの途中に、小さいが安くて清潔な旅人向けの宿屋が見つかった。

木彫りでベッドの図柄が彫られた、渋い色身の看板がかかっている。

「こんにちはー」

声を掛けると、奥から宿屋の主人が出てきた。柔和な顔つきの背の高いおじさんだった。

「はいはい、いらっしゃいませ」

一階は小さなカフェになっているようで、店主はカウンターに宿帳を広げた。

「ナオって言います。二泊お願いしたいんですけれど」

店主はにこにこ笑って頷いた。

「はいはい、空いておりますよ。それじゃこちらにお名前をお願いいたします」

旅人がペンを取って名を書く間に、店主はキーを用意した。

「お部屋は階段を上がって一番奥の左側です。ごゆっくりどうぞ」

「ありがとう」

旅人は軽快な足取りで、客室の並ぶ二階へと上がっていった。

廊下は薄暗かった。両脇に五つずつ部屋が並んでいて、窓が両端の壁にしかないので仕方がない。

一番奥の左側、と呟きながら旅人は廊下を進んだ。

扉に掛かったプレートと、キーホルダーの数字を確かめる。

鍵を差し込んで捻れば、がちゃりと扉が開いた。

「ただいま」

『……おかえり』

今し方貰った鍵で開けたばかりの部屋の中。

呆れたような苦笑で呟いた旅人を、景気の悪い声が迎えた。

カーテンの閉まった薄暗い室内で、壁に凭れて蹲り、ぼんやりと天井の一角を見つめる白い人影がいる。

白。そんな印象が残るのは、首元から足首まで覆う真っ白なローブのせいだろう。

ドアの方を向いた白皙の前に垂れた黒髪。その奥から、黒い瞳が旅人を見やった。

『……遅かったね、ナオ?』

「いつも思うんだけどさ、ヒィはどうやって先回りしてるの?」

旅人は栗色の瞳で見返して尋ねた。

『……知りたい?』

「やっぱりいい。ヒィは説明下手だもの」

荷物を下ろしながら、旅人は靴を脱ぎ捨ててベッドに寝転んだ。

「疲れた!今度はちょっと遠かったからなぁ。

 少しゆっくりしていきたいね」

その姿勢から、カーテンの端を掴んでさっと開く。

陽光が差し込んで来たけれど、黒い瞳は瞬き一つせず旅人を眺めた。

表情の乏しい、整っているがどこか空虚な横顔は、絵画か彫刻に似て無機的に思える。

立ち上がる動作に、ローブが床に触れてさらさらと音を立てた。

サイドテーブルに手を突いて、寝転んだ旅人を真上から見下ろす。

『ナオ……これからどうするの?』

「一休みしたら買い物かな。携帯食を補充しないと」

旅人は天井を見上げていたが、その正面を眠そうな顔が横切っていく。

ふわりふわりと、白い衣に包まれたヒィが浮いていた。

そう……、と呟いて、ヒィは窓の外に視線を向けた。

「ヒィは?」

『お仕事』

「珍しいね」

と旅人が笑った。

『そろそろ……怒られそうだから』

ヒィは答えた。

『……じゃあ、行ってくるね』

「行ってらっしゃい」

黒髪の上に光輪が輝く。

ばたん、と窓が自然に開き、白い姿が裏路地へ飛び出した。

傾きかけた太陽が照らす昼下がりの青空に、純白の翼が螺旋を描いて上る。

天使が一人、空に舞った。



西の空が真っ赤に染まる頃、孤児と悪魔は馬車から降りた。

広場には、足早に家へ急ぐ人達が行き交い、そこかしこに夕餉の匂いが漂っている。

「疲れたねジョン」

『何を。お前が起きていたのは最初の半分だけで、後はぐっすりおやすみだったじゃないか』

駅舎の階段を下りる孤児の後を、悪魔がのろい歩みで追いかける。

孤児は、広場の真ん中の大きな噴水に駆け寄った。

黄昏色の空を透かして、ランプの明かりに照らされた噴水が、空中に透明な弧を描いている。

中央の台座には、大きな丸十字架を捧げ持つ天使の像がいて、天頂の一番星を見上げていた。

「ジョン、お金がいっぱい沈んでるよ?」

波立つ水面を覗き込んた孤児が尋ねた。

『“祈りの泉”だとさ』

悪魔が噴水の前の石碑を見て答えた。

『コインを投げ込んで願い事をすると天使が叶えてくれるそうだ』

悪魔は、石碑に刻まれた噴水の由来を読んで鼻で笑った。

『ハッ、面白いことが書いてあるぞオーウェン。

 昔天使がやってきて、水に困っていたこの土地に泉を作ったそうだ。

 “水は枯れることなく田畑を潤し、町は大きくなった。”とあるが……ふふん、どうやらこの噴水がその泉の跡らしいな』

「本当に願い事が叶うの?」

まさか、と悪魔はせせら笑った。

『それほど連中は暇でもお人好しでもなかろうよ。無責任でもないしな』

「連中って?」

聞き返した孤児に、悪魔は諭すように呟く。

『賢いミントキャンディーちゃん。この世に本当の奇跡なんて無いんだよ』

孤児は眉をひそめて、悪魔を見上げた。

『奇跡なんてものはね、大方私みたいな悪魔か、雲の上に住む例の白い羽のアイツらが起こすものなんだよ。

 だから私が“連中”といった時は、アイツらのことなんだ。覚えておおき』

悪魔は、具体的にそれを示す名を言わなかったけれど、何のことかは分かった。

空に住んで羽を持つのは“天使”だ。だけど悪魔は天使が嫌いだから、その名を口にしようとしないのだ。

「奇跡は無いの?」

悪魔は薄ら笑いを浮かべて、孤児に言った。

『無いさ。あるとしたらそれは純粋な偶然か、誰かの仕業だ。

 祈れば救いがあるなんて御伽噺ほど、世界は甘くないさ』

悪魔の白くて骨ばった手が、孤児の頭を撫でた。

『コイン一枚で望み通りになれば良かったのにな、お前も。

 願い事をしたいかい?』

孤児は否定の形に首を振った。

石碑には、美しい天使の横顔のレリーフがあった。

願いを叶えるのが天使なら、きっと孤児の願い事は聞いてくれまい。

孤児は、既に悪魔と関わる者だから。

『世界中の人間の願いを叶えてたら、きっとこの世なんて無くなっちまうんだろうな』

さぁ、もう行くぞ坊や。と呟いて、悪魔は孤児の手を引いて宿に向かう。

孤児は悪魔に手を引かれながら、一番星を見上げて歩いた。



夜の暗幕が街を閉ざして、窓から零れる明かりだけが通りを照らす頃、繁華街の裏路地を一人の酔っ払いが歩いていた。

深酒に覚束ない足元で、右手に提げた酒瓶を呷りながら時々罵り声を上げたりしている。

「てやんでぇ、ちくしょうめっ……」

意味のない苛立ちに呟いた男の目の前に、ふと白い光が降りた。

眺める間に一抱えほどの光は細長く膨らんで、人――いや、天使の形になった。

引き摺るような長いローブと、背中には一対の白い翼。光は円盤状に集束して、頭上に輝く光輪になった。

宵闇の中に浮かび上がる白い姿。十代半ばを過ぎた頃の少年とも少女ともつかぬ相貌には、気だるげな表情。夜風に揺れる黒髪の奥から、闇と同じ色の目が男を見た。

「? 何だ手前ぇは?」

素面なら驚いて、せめてまともな口を利いただろう。けれど、この男が素面であることはあまり無い。

白い衣の御使いは、石畳の地面からほんの少し浮いて漂いながら、大きな大福帳をめくりつつ男の顔を確認した。

『……A・ビアズ、三十五歳』

「はぁ?」

突然名を呼ばれた男は、眉をしかめて天使を睨みつける。

天使は帳面の最初のページを開いて、そこに書かれた文面を読み上げた。

『……“汝の罪により、天は粛清を決定した。疾く悔い改めれば猶予を贈る。さもなくば直ちに執行する”。

 ……罪状は、恐喝、暴行……面倒くさいので以下略……』

天使は途中で帳面を放棄した。大福帳は地面に落ちる前に光になって消えた。

『……“返答は、如何に”?』

「馬鹿かテメェ?寝言は寝て言え、この間抜け!」

『……把握した』

天使の手に、どこからともなく大きな鎌が現れる。長い柄を両手で握り、慣れた動作で構えた。

月の光を青く反射する湾曲した大きな刃に、男は目を丸くした。

そして途端に、自分が何を目の前にしているのかを理解した。

しかし、遅かった。

間を置かず振り下ろされた重い刃は、空気でも切るようにやすやすと、男の左肩から右腰を通り抜けた。

「ひぃぃ!」

悲鳴を上げて、男は尻餅をつく。

酒瓶が真っ二つに割れて転がっていた。その断面は、鏡のように滑らかだ。

鎌を振り下ろした天使は、柄を肩に担いでぽつりと言った。

『……執行完了』

男が目を開けた時、もうそこに天使の姿はなかった。

切られたはずの肩を探っても腹を触っても、擦り傷一つ見つからなかった。

アルコールの見せた幻覚かとも思ったが、割れた瓶と水溜りを作る酒がそれを否定していた。



夜が明けてまだ間もない薄明かりの頃、どこかから響く鐘の音で孤児は目を覚ました。

カーンカーン、と耳につく澄んだ金属音だ。

孤児は身動ぎして、上半身だけ起こした。

『おはよう坊や。今日は早起きだね』

悪魔は既に起きていて、朝日も入らない暗い部屋の中で小さな文庫本を読んでいた。

「……何の音なのジョン?」

寝惚け眼の孤児が尋ねる。

『外を見てみるといいよ』

悪魔は本から目を離さずに、窓を指差した。

孤児はベッドから降りて、窓に寄り、通りを見下ろした。

甲高い鐘の音が、通りの角を曲がってやって来た。

孤児は驚いた。

頭からすっぽりと黒いマントを羽織った人が、列になってのろのろと歩いている。先頭の一人が、鐘を掲げて叩き鳴らしていた。

『葬儀だよ』

悪魔が孤児の隣に来て言った。

「お葬式?」

列の中ほどに、黒と白の布で覆われた四角い箱が現れる。あれが故人なのだろう。

全部で20人程の行列は、広場の方へと通りを横切っていった。

『さ、もう行ったぞ。もう一度お休み』

と悪魔が言ったので、孤児は布団に戻った。

枕に頭を乗せたまま、悪魔に声を掛ける。

「ジョン、あの人はこれから天国に行くの?」

『さぁ?私の知ったことじゃないね』

悪魔は窓際に腰掛け、興味なさそうに答えた。

布団に包まってうとうとしている間に、太陽が屋根の上に出てきた。

眠い目を擦りながら起き出して、孤児は身支度を整える。

朝食は宿の一階にあるカフェで取ることにした。

二人がけのテーブルに掛けて、孤児はサンドイッチとオレンジジュースを。

悪魔は熱いコーヒー。

「何を読んでるの?」

ハムサンドを頬張りながら、孤児は悪魔の手元を覗き込んだ。

『お行儀が悪いぞ、シュガーパイちゃん』

悪魔は孤児を座り直させながら、広げた新聞を孤児の方に向けてくれた。

孤児に分かるのは記事に添えられた写真くらいで、書かれている内容はさっぱりだ。

が、その内の一つに、孤児にも理解できるものがあった。

“訃報”。

黒く太い枠で囲まれた小さな写真が、紙面の隅に並ぶスペースがある。

そこに、幾人かの顔と名前があった。

朝の葬列を思い出して、孤児は食欲が無くなった。

孤児が押しやった皿から、悪魔はスモークサーモンのサンドを取って、一口で飲み込む。

ふと、悪魔が記事に目を止めた。

『これは今朝のだな』

悪魔が、一番隅っこの黒枠の写真を指差した。“A・ビアズ 就寝中の呼吸不全”と名前と死因が記されている。葬儀の日付が今日になっていた。

悪魔は、まじまじと訃報記事を眺める。

「どうしたのジョン?」

『……いや、別に』

はたと孤児を見返した悪魔は、素っ気なく答えて新聞をぐしゃりと丸めてしまった。

悪魔がそんなふうに何かを誤魔化すのを、孤児は一度だけ見たことがあった。いつのことだったかは思い出せなかったけれど。

くしゃくしゃになった新聞を手品のようにどこかへやってしまうと、オレンジジュースのグラスの横に銀貨を置いて店を出た。

孤児は素直に着いていった。

昨日は町についたのが遅かったので、もう一日休んでいく予定だった。

いつもなら、滞在の間に観光でもするところだが。

『忌々しいな、どこもかしこも!』

悪魔は不機嫌に呟いて舌打った。

天使の泉で知られた町だ。

噴水の側には旅装の若者達が休んだり、硬貨を投げ入れて旅の安全を祈っていたし、店々には天使と名のついた土産物が多かった。天使像のミニチュアまである。

役場で貰った町の地図には、泉は勿論のこと、天使が羽を休めたと言われる樹、天使が最初に降りたらしい場所、天使が語ったとされる言葉を刻んだ石碑、天使の翼から抜け落ちた羽根を収めた箱を預かる教会などなど、多くの“名所”が紹介されていた。

悪魔はそれをちらと見るや否や、馬鹿馬鹿しいと言って放り出してしまった。

どこを見ても天使天使で悪魔の機嫌が悪くなるのは、孤児にとって楽しいことではない。

せめて何か天使に関係しないものはないかと、孤児が悪魔の投げて寄こしたパンフレットを開いてみると、そこに奇妙な語句を見つけた。

「ジョン、天使料理って何かな?」

『何だそりゃ?天使を料理するのか、天使が料理するのか……何だ、ただの精進料理じゃないか』

店の紹介を読んで悪魔が言った。

聖典にある、天使の関わる奇跡の話に因んで作られたものらしい。

天使が自らの肉をとうもろこしに変えて施す話、勤勉な農家に葡萄の苗を与える話、小鹿に化けた天使を助けた猟師が金貨を産む雌鳥を貰う話。

どれも一度は教会で聞いたことのあるものだった。

「ふ~ん、面白いね」

と言った孤児に、悪魔が先回りする。

『そのレストランには行かないぞ、断じて』

孤児とて悪魔の神経を逆撫でするほど豪気でない。

「言わないよ、そんなこと」

と応じた時、突然、悪魔がぴたりと足を止めた。

「どうかしたの?」

問う孤児には答えずに、悪魔はきょろきょろと辺りを見回す。

眉をしかめた横顔は、不機嫌と言うよりは何かを訝しんでいるようだった。

こんな悪魔は珍しい。まるで狐を探す兎のような。

『別に大したことじゃないが……』

ぺらぺらよく喋る舌の歯切れが悪いのも稀なことだ。

「変なジョン。さっきも新聞とにらめっこしてたし」

怪しむ様子の孤児に、首を傾げてちょっと考える素振りを見せた悪魔は、意外にもあっさりと悩みを打ち明けた。

『どうにもな、嫌なにおいがするんだよ。気のせいだろうとは思うがな。

 鼻につく匂いだ。胸の悪くなるような……』

「におい?……においなんかしないよ?」

嫌なにおいと聞いて、小さな鼻を動かして空気の匂いを嗅ぐ孤児に、悪魔は眉根を寄せて苦笑してみせた。

『お前には分からんよ。人間に感じ取れる類のものじゃない』

その言葉で、孤児は悪魔がこれほど気に掛ける理由を知った。

「天使のにおいなの?」

『簡単に言えばそうかな。においと言うか、気配の方が近いかも知れん』

昔天使が訪れた場所なら、そういうものが残っていてもおかしくないのかも知れない。

『残り香にしてはやけにはっきりしてるがな』

と悪魔は呟いたが、どの道孤児が気にしてどうなることでもない。



夜明け頃通りを横切っていった鐘の音にも、旅人は目を覚ましたりしなかった。

天井付近を眠りがら漂っていた天使は、少しだけまどろみから帰還したが、それだけ。再び目を閉じて、眠りの中に戻っていった。

死者を連れてゆくのは、任務ではなかったから。

役目は既に果たされて、粛清された魂は正しく行く先に届けられている。

その証拠に、天使の提げた大福帳から“A・ビアズ”の頁は失せていた。

旅人が目を覚ましたのは、太陽もすっかり高くなった昼前だ。

朝食には遅すぎて昼食には早すぎる時間に、窓から差し込む光で旅人は目覚めた。

「んー?寝過ぎたかな」

まだ天井の辺りですやすや寝息を立てている天使を置いて、旅人は階下へ降りる。

カウンターの中から宿の主人が、

「ゆっくり寝られたかい?」

と笑った。

「はい、とても」

と頷いて、旅人は早速出かけることにした。

昨日目星をつけておいたベーカリーによって、ランチを仕入れていこう。

天使の休んだ樹があるという公園でのんびりしてから、街中を観光でもしようか。

折角天使の町に来たのだから、できる限りいろいろなものを見てみたかった。

目当ての店で昼食を買い込んだ旅人が、もう公園の木の頭が見えるほど間近に辿りついた頃、ふと旅人の目の前に、白い羽が落ちてきた。

それは旅人の目の前でぱちんと弾けて、金色の光の粉になった。

「やぁ、ヒィ。追いかけてきたね」

振り返った先に、翼も光輪も隠した天使が佇んでいた。

「おはよう。今日は早起きだね」

と笑う旅人が提げた紙包みを、天使はぼんやりと見下ろす。

『……どこ行くの?それ何?』

問うた天使に、旅人は笑んで答える。

「お弁当だよ。公園まで散歩しようかと思ってたところ。

 ヒィの方は、仕事はどうしたの?」

問い返された天使はさり気なく目を逸らしながら、投げやりに答える。

『……今日はもういいや』

黒い目は、既に日差しに輝く明るい緑の木立を眺めていた。

「いっしょに観光する?面白いかもしれないよ」

天使が天使の遺跡を見物してどうなるものでもないと思うが、そう誘った旅人に、

『んー……うん』

天使は曖昧ながらも、一応は肯定の返事で答えた。

『……先に行く』

言うが早いか、瞬きの間に天使の姿は空の上にあった。

「あっ!ずるいなぁ」

青空を横切る白い影を見上げて、旅人はのんびり追いかけることにした。

公園は広かった。

昔は森の一部だったそうなのだが、町が拡大するにつれ切り開かれて公園になったと、入り口の案内図に書いてあった。

天使が羽を休めたとされる樹は一番奥にあって、その周りだけは今でも元のままの木々が残っている。

公園の近くには、天使の羽根の入った箱を収める教会もあった。

「一休みしてから行ってみようかな」

呟いて、旅人はまず天使を探すことにした。

「おーい、ヒィ!どこにいるのさぁ!」

公園の中には芝生がある。ベンチがあって花壇があって、石畳の遊歩道が伸びている。

走り回っている子供やお喋りしている奥さん達がいる。

けれど、そのどこにも天使はいなかった。

「弱ったなぁ。どこ行っちゃったんだ?」

入り口辺りにいないならずっと奥だろう。

旅人は森のほうに向かって歩き出した。

しばらく行くと人が少なくなった。もうじきお昼時だから、皆家に帰ったりベンチのあるところへ行ったりしているのだろう。

ふと、先に橋が見えた。公園を横切る小川に掛かっている眼鏡橋だ。

確か案内図では、橋の向こうにしばらく行けば教会があるはずだった。

橋の上に、二人の人がいる。

片方は身なりのいい青年で、もう片方は子供だ。

青年の方は不思議な程印象が薄いが、子供の方には見覚えがあった。

思い出そうと歩きながら眺めていると、青年の方が先にこちらに気付いた。

途端、射抜くような視線で睨まれる。足元がひやりと寒くなる。

「あ!」

子供の方が声を上げた。それを聞いて、旅人も思い出した。

「やぁ、坊や。久しぶり」



悪魔は気が進まないようだったが、天使の遺跡を見て回るのは、孤児にはそれなりに楽しかった。

石碑なんかは今一つぴんと来なかったけれど、教会にあった天使の羽を収めた箱は、きらきらした宝石に飾られていて綺麗だった。

天使が休んだ樹のある公園が近いと聞いたので、そちらにも足を向けることにした。

教会の前の道から伸びた石畳は、公園の中まで続いている。

小川を越えて橋を渡れば、その向こうに森が見えた。

川を覗きながら渡る孤児は、森に向かう道を行く人影には気付かなかった。

橋を下りた途端、ぞくりと背筋を寒気が走った。その感じを孤児は知っていた。

これは――そうだ、悪魔が怒っている時の寒気だ。

足を止めた悪魔が睨みつける先を、孤児も見た。

そこに知っている姿を見た。

「あ!」

悪魔に命を助けられて辿り着いた最初の村で、親切にしてくれた旅人の少年が、片手を上げてにっこりと笑っていた。

「やぁ、坊や。久しぶり」

「お兄さん!どうしてここに?!」

孤児は心底驚いた。奇跡じゃないかと思ったけれど、悪魔の言葉を借りるなら、これはきっと純粋な偶然なのだろう。

『チッ!道理で気分が悪いわけだ!』

悪魔が舌打つのが聞こえた。

初めて旅人と会った時、何故か悪魔が烈火の如く怒り出したことを孤児は覚えている。

あの時は理由が分からなかった。今も分からない。

足元を鉄錆臭さの混じった冷たい風が吹き抜ける中で、旅人は苦笑した。

「ただの観光さ。それだけだよ」

悪魔に凄まれても、旅人は平然としていた。

少なくともそう見えた。

「ごめんね坊や。お喋りしたいけど、今は友達を探さなきゃいけないんだ」

行っちまえとでも言うように、悪魔は追い払う仕草で手をひらひらと振って見せた。

去りかけた旅人の背中に、孤児が声を掛ける。

「待ってよお兄さん」

「またね、坊や」

だけど旅人は、小さく手を振って森の方へ駆けて行ってしまった。

見送ってから、孤児は不機嫌にそっぽを向いた悪魔に問う。

「……どうしてジョンはお兄さんのことが嫌いなの?」

悪魔は、下品にも石畳に唾を吐き捨てて、孤児に言った。

『お前があいつと仲良くしたいなら好きにすればいいさ、チリペッパーチョコレートちゃん。

 私は帰るぞ、胸糞悪い!』

「あ、ジョン!」

忌々しげに孤児を見下ろして、悪魔はくるりと踵を返した。

孤児が振り向いた時には、もう悪魔はどこにもいなくなっていた。

孤児は困ったように首を傾げた。

悪魔がどこに行ってしまったのかは分からない。旅人の少年も、森の中へ入ってしまった。

一人取り残された孤児は、どうしようかと思案して、石畳の先――森の方へと行ってみることにした。

旅人を追いかけるのでなく、天使の休んだ樹のところまで行ってみたいと思ったからだ。

遊歩道は少し狭くなり、芝生は草むらに変わった。木漏れ日が落ちて、さわさわと葉擦れの音がする。

孤児は、木々を見上げながら歩いた。緑の天井に陽光がきらきら零れてきれいだと思った。

「あれ?」

ふいに、何かが横切ったのを見た。枝から枝へ、鳥のように飛び移った白い人影。

幻か目の錯覚かとも思ったが、緑一色の背景の中に輝く白い衣はよく目立った。

人が、木の枝の上に立っている。背中には一対の翼があった。

「天使……?」

まるで教会の絵本の挿絵のようだった。

羽を持った人は、踊るように枝から枝へ飛び移っている。

天使の休んだ樹を見に来て、まさか本物の天使を見つけるとは思わなかった。

樹上を見つめていた孤児を、ふと天使が見下ろした。

風に靡いた天使の黒髪を見て、絵本の天使は金髪の巻き毛だったのにな、と孤児は思った。

天使が空に足を踏み出す。

翼を開かずに真っ直ぐに落ちて、そして孤児の目の前でふわりと止まった。

孤児は驚いたけれど、それは天使を見つけたことほどの驚きではない。

天使は不思議そうに孤児を見た。

「あの、……こんにちは」

『……こんにちは』

天使は草の上に爪先を下ろした。

『お名前は……?』

「オーウェンです」

『……ヒィです』

天使は宙を踏むように歩いてきて、遊歩道の上でようやく地面に足をついた。

「あなたは天使ですか?」

『……あなたじゃなくてヒィです。あと、天使です』

窺うように尋ねる孤児に、天使は呼称の訂正を要求しつつ答える。

「ヒィさんは、この町で昔奇跡を起こした天使ですか?」

『……ヒィさんじゃなくてヒィです。あと、違います。奇跡は役目じゃないです』

「じゃあ……ヒィは、どんな役目の天使ですか?」

呼び捨てるには抵抗がありつつも訂正に応じた孤児に、天使は満足そうに頷いた。

『……人を殺す天使です』

孤児は目を丸くして天使を見た。

天使は、口元にほんの微かに笑みを浮かべて、孤児に言った。

『……友達をね、待ってるんだ。

 ……お喋りしない?友達が来るまで』

天使は大きな木の根元を指差した。

立派な根が地面の上をうねっていて、腰掛けるのに丁度良さそうだ。

そこに孤児と天使は並んで座った。

「天使なのに、そんな役目があるんですか?」

孤児の質問を、天使は肯定した。

『……うん、悪い人の命を持って行くのが役目』

「悪い人って、どんな人ですか?」

『知らない……』

天使はあっさり言い放つ。

『……決めるのは、上の人。命令だけ来る』

「命令?」

下っ端だから、と答えた天使の横顔は笑っていた。

天使はごそごそとローブの下から大福帳を取り出してみせた。

『……これが命令。全部お仕事』

帳面の分厚さに孤児は驚いた。孤児の指三本分くらいの厚さがある。

『……でもヒィは悪い子だから、あまりお仕事しない』

大福帳を見つめる孤児に、天使はそれを差し出した。

『見てもいいよ……多分読めないけど……』

その通り、表紙に書かれた文字さえ孤児には判読できなかった。

「天使なのに、悪い子なんですか?」

天使は頷いた。

『……そうだよ。お仕事は嫌い……だからサボってる。でも友達といるのは好き。

 オーウェンは何が好き……?』

「僕は、」

孤児は少し考えて答えた。

「お菓子とココアとオレンジジュースが好き。

 それから、馬車に乗るのと、船と、あと海も好き!」

『……いっぱいあるね』

と天使は笑んだ。

『……好きなもの、いっぱいあるのはいいこと……』

「ヒィには無いんですか?」

『……あるよ。……お昼寝が好き、お日様が好き、エッグタルトが好き。

 でも好きじゃないのもたくさん……お仕事とお小言……』

天使が弱った顔で大福帳を指差したので、孤児は思わず笑ってしまった。

『……オーウェンは?』

「雷が嫌い。怖いから。でも食べ物の好き嫌いは無いよ」

『……好きじゃないものが少ないのも、いいこと』

天使は、孤児の手から大福帳をひょいと取り上げる。

その拍子に、どこかのページの間からくすんだ橙色の封筒が落ちた。

孤児がそれを拾った。

「落ちたよ。これ何?」

持ち上げた封筒を目にした途端、天使は少し眉をしかめた。

『……お小言』

裏返すと、蝋の封印に三対の羽を生やした天馬の判が押されている。

天使は封筒の端を手で破りとって、中の手紙を取り出した。

書き連ねられた文字を眺めて、ぽつりと呟く。

『……ペナルティが来ちゃった』

「ぺなるてぃ?」

『……雑用、かな?……罰ゲームかも。

 お仕事怠けてるから、ちゃんとしなさいって命令……』

天使が立ち上がる。翼が小さく揺れて、爪先が草の上に浮いていた。

『もう行くね……』

孤児は天使に手を振った。

「さよなら、ヒィ」

『……バイバイ』

その言葉を最後に、天使の姿は風に溶けて消えた。


『……ナオ』

「ヒィ!どこにいたんだよ、探したよ」

遊歩道の終点、天使が羽を休めたという伝承が残っている大樹の前。

唐突に現れた天使に、旅人の少年は驚きの混ざった膨れっ面を向けた。

『……ごめんなさい。……怒った?』

「違うよ。心配したんだよ」

項垂れた天使の手に、旅人はベーカリーの店名の入った茶色い紙袋を乗せる。

「お腹空いちゃったよ。

 ご飯にしよう?エッグタルトも買ってきたんだからね」

そう言って旅人は笑ったけれど、天使は旅人にくすんだ橙の封筒を差し出した。

『……お仕事来ちゃった』

旅人は残念そうな表情を隠さなかった。

「ペナルティ?」

天使は頷く。

「それじゃあしょうがないなぁ」

と旅人は溜息を零した。

天使の役目に旅人が口を挟む謂れは無い。が、旅人には天使の意見を聞く権利がある。

「で、エッグタルトはどうするの?」

『食べてから行く』

天使はきっぱりと答えた。

「だと思った」

旅人の言葉は笑いを含んで、呆れたように響いた。



最初は誰もそれを信じなかった。

まず自分の目を疑って、次によくよく凝視した後でこの町の宣伝文句を思い出し、それから奇跡を目の当たりにする幸運に感謝した。

初めに気付いたのは、噴水の側で休んでいた旅行者の青年だった。

天使像の一部だと思ったのは、それに翼があったからだ。太陽は西に傾いて、夕暮れ色に染まる空の下、白い翼と衣は尚のこと作り物めいて見えた。

しかし、微動だにしない彫像とは違い、もう一人の天使は腰掛けた天使像の肩から、水流に打たれて波立つ水面へと舞い降りた。

その頃には、道行く人は足を止めていた。

人垣が、遠巻きに噴水を囲んでいる。

彼らを野次馬と呼び難いのは、きっとこの静寂故だろう。

そこには、何とも言い難い雰囲気があった。

その中に、孤児もいた。

森で天使と別れた後、孤児は宿へ帰った。

部屋にも悪魔はおらず、退屈に過ごしていた孤児は、階下のカフェが騒がしくなるのを聞いた。

窓の外を、やけに急いで走っていく大人達もいた。

騒ぎ立てる声の中に“天使がいた!”と聞こえたので、孤児は広場へ向かう人波に交じることにした。

誰かが報告に走ったのだろう。役場から町長が、教会からは神父が、息せき切って駆けつけて来た。

人の輪の間から歩み出た町長と神父を視界に捉えて、天使はそちらに顔を向けた。

「こ、この町の代表を務めております、トリトッドと申します!」

「この町の教会を預かっております、ルーディと申します」

背筋を伸ばしてしゃちほこばった町長と、何とか平静を保とうとする神父が言った。

天使は水面を渡り、広場の石畳の上に足を下ろした。

そのまま歩いて行って、噴水前の石碑を覗き込む。

精緻なレリーフに、天使は微かな冷笑を浮かべた。

「ようこそお越しくださいました天使様!」

「天上のお方と見えます喜びと奇跡を、私は感謝致します」

町長と神父が、歩み寄ってきて語り掛けた。

尚も続けようとする二人に、天使は片手を上げてその先を制する。

『……これは、あなた達への伝言です』

呟いた瞬間、天使の手には一枚の紙が現れた。橙色の封筒に入っていた手紙だ。

それを、二人の代表者に開いてみせる。文字は読めなかったけれど、中身は天使が読み上げた。

囁くようなその声は、しかし集まった人々全員の耳に届いた。

『……“天の定めた盟約により、この地に預けた奇跡を回収する。

 ……偽りの奇跡を糾弾し、正しく天の意向を遂行する”』

孤児には、その意味が良く分からなかった。

悪魔がいたら尋ねられたのに、と思った途端、ひやりとした手が孤児の肩を叩いた。

ぎょっとして振り返る孤児の隣で、案の定、悪魔がにやにや笑って立っていた。

『ズルいじゃないか坊や。こんな楽しいことを仲間はずれにするなんて』

孤児は疑わしげに悪魔を見上げる。

「天使は嫌いじゃなかったの?」

『大嫌いさ!だけどお祭りは大好きだ』

機嫌が直っているのかいないのか。孤児の疑問に悪魔は、前半は真顔で後半は満面の笑みで答えた。

『そんなところにいちゃ良く見えないだろう。おいで』

悪魔が孤児を抱き上げる。

悪魔と同じ目線の高さからは、天使の姿が良く見えた。

「さっきのは何て言ってたの?」

その問いに、悪魔は意地悪な笑みを浮かべた。

『あぁ。奇跡をね、返せってさ。あと偽物がどうとか』

言いながら、天使と町長達の動向を見逃すまいとそちらに目を向けた悪魔は、途端に表情を強張らせて驚愕の声を上げた。

『おい、本当に天使が来てるじゃないか!どういうことだ?!』

「だからそう言ってるよ?」

悪魔がこれほど驚くのを、孤児は見たことがなかった。

『馬鹿な!連中は尋常じゃない石頭だぞ。自分の仕事以外何もしないのがあいつらだ!

 こういう雑用は召使の精霊だとかその辺りにやらせるのが常なのに』

何が起きているのかを、悪魔は知っているような口ぶりだった。

が、それを尋ねる前に孤児は天使の姿を確かめた。

「やっぱり、ヒィだ」

『あれを知ってるのかオーウェン?』

訝しげな悪魔に孤児は答える。

「公園の森にいたんだよ。手紙でお仕事をもらってた」

仕事?と首を傾げた悪魔に、横から肯定の声が掛かる。

「そうだよ。ヒィはお仕事が嫌いだから、よくお小言と罰の雑用を貰うんだ」

「お兄さん!」

『居たのか貴様』

人と人の隙間を窮屈そうにすり抜けて来た旅人に、悪魔は露骨に嫌そうな顔を見せたけれど、旅人はそんなこと一切気にせず孤児に挨拶した。

「やぁ、坊や。そこからは良く見えそうだね」

「お兄さんはヒィを知ってるの?」

「友達だよ」

旅人は笑って頷いた。

「そっか。どこに行ってたのかと思ったけど、坊やと遊んでたんだね」

旅人のその言葉で、森の中で天使が待っていた友達とは旅人のことだろうと、孤児は察した。

「お兄さん、ヒィはあそこで何をしてるの?」

「知らない。聞いてないもの」

『奇跡の回収だよ』

答えたのは悪魔だった。

『言ってただろう。“この地に預けた奇跡を回収する”って。

 偽り云々というのは何のつもりか良く分からんが』

「回収?」

二人に同時に問われて、知識をひけらかす優越を楽しむように、悪魔は薄ら笑いではぐらかした。

『見てれば分かるさ』

天使の告げた意味が分からないのは、代表者二人も同じことだった。

「回収……でございますか?奇跡と申されますと、つまり泉の奇跡のことでございましょうか?」

神父が尋ねる。

天使は一本指を立てて、天上を指し示す。

『……昔貸した奇跡を返してもらうだけ。

 約束だったはず……必要なくなったら返すって』

即座に町長が困り顔で懇願する。

「そ、それはお許しください。泉は町に必要です」

次いで神父も。

「そうでございます。泉の水源は民を潤すのに重要な役割を担っております」

天使の無感情な黒瞳は、神父と町長を順に見やって、その色に僅かな落胆を宿した。

『……うそつき……』

二人の表情が固まったのは、天使の手に現れた大鎌のせいだけではあるまい。

天使は踵を返して、噴水の中に戻っていった。

神父が呼び止めようとしたが、声は音にならなかった。

ざぶざぶと水を割って、天使は中央の像に辿り着く。

そして、鎌を振り上げた。

誰もが目を覆ったので、その瞬間を見た者はいない。

ただ、弧を描いた鋭い刃が彫像の首元を抉ったのは、深々とついた傷から明らかだった。

やがて恐る恐る目を開いた人々は、その光景に息を呑んだ。

惨たらしい傷跡から、きらきらと輝く光が湧き出ている。まるで天使像が黄金色の血を流しているようだった。

光を、天使は手紙で受けた。光は紙の表面に吸い込まれ消えていく。

どれ程の間、人々はただ眺めていたのだろう。

光の最後の一滴が、細くなって落ちた。

光を飲み込んだ手紙を、天使は空に透かすように翳す。

何の変哲もないごく普通の便箋。指先でぱちんと隅を弾くと、それは一息に燃え上がった。

吹き上がった炎は四つに分かれてどこかへ飛び去る。

そのうちの一つを、天使が捕まえた。

天使が振り向いた時、町長と神父はおろおろと様子を窺いながら待っていた。

『宣告通り、奇跡は天に返された……』

天使が告げる。耳に届いた意味は、じわりと人々に理解された。

ざわざわと、やがて遠慮がちにさざめきが広がり始める。

奇跡が取り上げられた、泉が枯れる、と誰かが嘆くのが聞こえた。

『泉は枯れてた……』

ぽつりと天使が言った。

『ずっと前から、水は他所から水路で引かれていた……噴水も。

 残っていたのは奇跡だけ……』

ぎくりとした顔を見せたのは、町長だけではなかった。

くすりと、堪えきれずに悪魔が笑いを漏らす。

『鎌を持つ天使、……“死告天使”か。滅びを歌う小鳥が何を告げるつもりかな?』

孤児は天使と悪魔、どちらにも耳を傾けた。

『約束は守るもの……嘘はだめ。……嘘の奇跡は、残さない』

最後の台詞の意味を、何人かの町民は悟った。大部分の人と旅行者は分からなかった。

けれど明日になったら知れるだろう。

奇跡を飲み込んだ炎は、天使に捕まったのを除いて、一つは教会に、もう二つは町の隅に飛んでいった。

そこには奇跡の跡があった。

天使が語ったとされる言葉を刻んだ石碑には、大きな亀裂が走って真っ二つに割れた。

天使が最初に降りたと言われる場所に立つ彫像は、忽然と姿を消していた。

天使の翼から抜け落ちた羽根を収めた箱とやらは、粉々に砕けて中が空だったことが知れた。

偽りの奇跡。作られた奇跡は、本物の奇跡に打たれて正体を晒した。

町長と神父は、察せてしまった方だった。

噴水から上がった天使は、最早二人の人間には目をくれず、人垣の方へ歩いていった。

海を割った聖人のように、人の波がさっと左右に分かれる。

『……ただいまナオ。……お仕事、終わった』

「おかえり、ヒィ。お疲れさま」

旅人が天使を迎えた時には、周囲にいた人は皆遠巻きになっていた。

天使は孤児を見て微かに微笑んだが、悪魔に目を向けるとそっと後退った。

『ありがたいね。私もお前達は大嫌いだよ』

と悪魔は不機嫌に笑ってみせる。

『お前は“死を告げる手”だろう?連中の中でも最下級の。

 どおりで……。仮にも本物がいたんじゃ、気分の悪いにおいがするのも当然だな』

上から見下ろす悪魔を、天使はちらりと横目で見やった。

『何だ?やる気か、小鳥ちゃん?』

『……やらない。役目じゃないもの』

天使はさっと旅人の後ろに隠れてしまった。

「苛めないであげてよジョン」

孤児まで天使を庇ったので、悪魔は拍子抜けしたように肩を竦めた。

『……喧嘩は嫌い。だけど友達は好き……』

呟いて、天使は孤児に向かって手を伸ばした。

『これあげる……』

天使が差し出したのは、その手に捕らえた奇跡の残り火。

四つに分かれた炎の一欠片だ。

偽りを焼く断罪の火は、太陽の模様の入った金色のコインになっていた。

「きれいだなぁ。ありがとう!」

受け取った孤児を、悪魔は面白くなさそうに見た。

『さぁ、もう行くぞ坊や』

「え?どこに行くの?」

もう一泊する予定だと思っていた孤児は驚いた。

悪魔が呆れる。

『こんなところに泊まるつもりか?』

言われて辺りを見回して初めて、孤児は町の人達から向けられる視線の温度に気付いた。

畏れと戸惑い、一部には恐れも。

孤児が初めて向けられる奇異の目だった。

『とっとと退散した方が無難だよ、坊や』

悪魔の声が少し柔らかかったのも、孤児の不安がそう聞かせただけだろう。

孤児は無意識に、天使に貰ったコインを握り締めていた。

「お兄さん達はどうするの?」

「もう今晩の宿はキャンセルしてきたよ。

 今から出たんじゃ野宿だろうけど、慣れてるから平気さ」

慣れているのは野宿だけじゃないのだろう。

『そいつがどうにかするだろうよ』

天使は悪魔ほど勝手気ままに奇跡を使えないのを知っていて、悪魔は言った。

天使は目を逸らして悪魔を無視した。

「さよなら、お兄さん、ヒィ。元気でね」

と孤児は二人に手を振った。

「またね」

と旅人はにっこり笑って、天使は手を振り返してくれた。



駅馬車の最後の一便が、駅舎から出て街道に向かう。

行き先は三つ向こうの港町。途中の町も経由して、終点に着くのは夜半になるだろう。

閉じられたカーテンの隙間から、濃紺に変わり行く空を覗く孤児が、隣に腰掛けて薄暗いランプの明かりで本を読む悪魔に問う。

「ヒィは何をしたの?奇跡って何だったの?」

馬車の座席には二人以外誰もいない。御者台で初老の御者が手綱を握っているだけ。

ページの間に栞を挟んで、悪魔は孤児の方を向いた。

『だから雑用だろ?貸したものを返してもらっただけさ。あとは、偽物を壊しに来たのかな』

「ヒィも言ってたね。偽物って?」

『町の連中が謳ってた奇跡だよ。お前も見て回ったろう?石碑とか、彫像とか、羽の入った箱とか。

 今頃どうなってるのかは知らんが、まともには残ってないだろう』

あれ偽物だったんだ、と孤児はがっかりした。

『元々の泉の奇跡は本物だったようだがね。乾いた土地だったんだろう。

 それを利用して客を集めて、稼いだ金で近くの河から水路を引いたのさ。

 用無しになった泉は自然に枯れたが、それじゃ客を呼べない。

 引いた水で噴水を作って、他の奇跡はでっち上げたってとこだな。

 約束を破った挙句に面に泥を塗られたんじゃ、連中だって面白くはなかろうな』

くつくつと悪魔は声を立てて笑った。

「神様との約束?」

『そうだろう』

連中の一匹や二匹が勝手にできることじゃない、と悪魔は言った。

「ジョンは知ってたんだ?偽物のことも」

孤児は憮然とした顔を向けたけれど、悪魔は違うよと否定した。

『あいつらがやったことなんか知らないさ。私は自分で調べたんだよ』

いつそんなことをしたのかと問えば、きっと公園で孤児と別れた後だと返って来たろう。

『ところでオーウェン、お前は何を貰ったんだ?』

孤児は、天使に貰ったコインを悪魔に見せた。

金色の硬貨をまじまじと眺めて、悪魔は首を傾げた。

『普通のコインだなぁ』

奇跡の炎からできたにしてはつまらなかったのか、悪魔はもうそれには興味を失って、孤児の頭を引き寄せると髪の毛を摘んでにおいを嗅いだ。

『……やっぱりにおいがついてる』

眉をしかめて、ぽつりと零す。

『そのうち取れるか……』

と、酷く不服そうに呟いて、孤児から離れた悪魔は読書に戻った。

「もしかして、ジョンがお兄さんを嫌いなのは天使のにおいがするからなの?」

悪魔は小馬鹿にするように、驚いた顔を装って見せた。

『それ以外に理由があると思ってたのか?』

ランプに照らされた悪魔の横顔に、孤児は聞いてみる。

「あの町どうなるのかな?」

『さぁね。旅行客は減るだろうし、教会は取り潰しかも知れないなぁ』

悪魔は紅玉のような瞳を細めて、酷薄に笑った。

『奇跡なんかに関わったって、碌なことはないねぇ』

がらがらと車輪の音を響かせて、馬車は夜の中を行き、やがて奇跡を失った町からは遠く遠くへ去ってしまった。



朝日が昇り始めた早朝に、旅人は大樹の下で目を覚ます。

「起きなよヒィ、朝だよ」

枕代わりにしていたリュックに畳んだ毛布を縛り付けて、傍らで横になる天使を揺り起こした。

寝ぼけ眼で起き上がった天使は、辺りを確かめるように見回して、そこが昨晩までは奇跡だった森の中だと思い出す。

『……おはようナオ』

「おはよう」

旅人は水筒の水を飲んで、開けたばかりの携帯食料の包みから細長いクラッカーを取り出して齧る。

「ちょっと寝過ごしたよ。急がなきゃ」

太陽は真横から森を照らして、人々が一日を始めるには早い。

が、厄介事が無いとは限らない。

「見つからないうちに出て行かないとね」

『……ごめんね』

「ヒィはお仕事しただけなんだから謝らなくていいんだよ。

 だから早く仕度してね」

それにしても意外と見つからないものだなぁ、と旅人は笑った。

天使は立ち上がって、ローブの裾から雑草を払う。

旅人はリュックを背負う。

二人して、公園の遊歩道を通らずに芝生を横切って町の端を目指す。

街道までは遠回りだが、歩けない道でも距離でもない。

眩しい陽光の中で、旅人が天使に問う。

「あの木は焼かなかったね」

他の奇跡がどうなったかは天使から聞いていた。

天使は眠そうに欠伸を噛み殺しながら答えた。

『……あそこは好き』

「そうだね。それにもう偽物じゃないし」

『?』

不思議そうな天使に旅人は呆れたように言う。

「だってヒィが休んだでしょ」

『………………あぁ』

天使は少し考えて、ようやく理解した。

「奇跡を回収しに来たっていうのも、ある意味奇跡だよね」

公園と町の外の境になる柵を乗り越えて、旅人は街道に向かって歩き出した。

『次は……どこ行くの?』

尋ねた天使に、旅人はうーんと唸った後、考えるのを放棄する。

「そうだね、ヒィのお仕事があるところにしようか」

『……お仕事は嫌い』

「どこでもいいさ。どこも同じ。楽しいもの」

さくさくと草を踏む音が遠ざかって、旅人の後ろ姿は草の緑の中に小さくなって行き、やがて道の向こうに遠く遠く去ってしまった。




六、   幕  ――




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