五、 神聖都市ホーリーナイト
その町に向かっているのだと悪魔が言った時、孤児は大層驚いた。
それはとても大きな町だったから、孤児でも名前くらいは知っていた。
神聖都市ホーリーナイト。教会と神学会の中枢を担う、大陸でも特に重要な都市の一つだ。
まず目につくのが、町の中心に構える教会――大陸最大の大教会で、その隣には神と学問の庭・聖神学院学校が控えている。
教会は、二千年もの年月祈りの中心であり続けた石造りの荘厳な建物で、神学院はそれと比べても見劣りしない大きな校舎と剛健とした雰囲気を持っている。
この町では、生活の中心も教会だった。
神学会の僧兵が規律を守護するおかげで、治安の良さは誇張なく大陸一。
人々は日々の暮らしを、常に良き人生になるよう、魂を磨くために過ごす。
人に愛を、自分には厳格さを。誠実を心掛け、慈悲と思いやりを尊ぶ。
そんな神の威光の塊のような町に、まさか悪魔が滞在を決めるとは、孤児はちっとも思っていなかった。
『どうしてだい、シュガーポップちゃん?こんないい町そうそうあるものじゃないだろう』
孤児の心情を知ってか、薄ら笑いで言う悪魔に孤児が問う。
「何を企んでいるの?」
『企むだなんて心外な。私は正直なところを言っているんだよ。
大きな町だから物に困ることはないし、治安もいいし、観光名所まである。
宿は安くて清潔だし、料理も……まぁ精進料理だって味は上等なんだから文句はないだろう?』
悪魔を見返しながら、孤児は更に尋ねる。
「教会はどうなのさ、ジョン?平気なの?」
『平気なのとはご挨拶だな』
と悪魔は言った。
『ちっぽけなお前達の、石を積み上げた家がどれ程のものだ?』
孤児は、悪魔がさして教会を恐れないことを知っていた。
以前訪れた町でも、悪魔は平気で教会の敷地に入ったし、聖母像の前に跪いてお祈りまでしたこともある。何故か天使像の前は嫌がったけれど。
「ふ~ん、ジョンは平気なんだね」
孤児がそう言うと、悪魔は得意げににっこり笑って見せた。
街に入った瞬間に、そこが神聖都市と呼ばれる訳を知る。
街道に向かって開かれた門をくぐった途端、空気が一変する。
雰囲気が違う。町中全てが教会であるかの如く、厳かな気配が満ちている。
栄えた町であるのに、浮ついた空気はない。時すら緩やかに流れるようだった。
『良い街だ』
一歩中に入るなり、悪魔が言った。
『静かでのんびりしてる。この町は結構好きだよ。
さぁ坊や、お祈りに行こうか』
訝しげに思いながらも、悪魔に手を引かれつつ、孤児は問うた。
「ジョンはこの町に来たことがあるの?」
『勿論あるさ。何度もね』
にんまりと笑んで、やけに機嫌のいい顔で頷いた悪魔に、孤児はそれ以上尋ねるのをやめた。
聞かない方がいい。あの顔は悪魔がまんまと人間を誑かして愉快な思いをした時に見せる顔だ。
今では孤児もそのくらいのことは学んでいる。
「悪魔でもお祈りするの?」
『できないことはないさ。必要はないがね』
悪魔と旅をしていても、孤児はお祈りを忘れたことはなかった。
両親といた頃から食事の前の祈りと安息日の礼拝は欠かさなかったが、一つだけ変わったのは、祈る内容を忘れてしまったことだ。
悪魔と旅を始めて以来、日々の糧と明日の平穏は悪魔が与えてくれる。
怪我も病もない。ゲームが続く限り、これ以上ない程平和に暮らしていられる。
孤児には、神さまに願わなければならないことは思いつかなかった。
悪魔の名前を知りたいと願っても、きっとそんなズルを神さまは許してくれないだろう。
だから孤児は、両手を組んで黙って俯くことにしていた。
天に届きそうな尖塔がいくつも聳える大教会は、町のどこにいてもよく見えた。
どの塔にも教会のシンボルである丸十字が掲げられている。
広大な敷地をぐるりと囲った壁が、広場に向けて一角を開いていた。
両脇に僧兵を従えた豪奢な格子百合の門。その間を大勢の礼拝者が出入りしている。
僧兵達は直立不動のまま、身動き一つしない。列を成す中には、門をくぐる前から祈りの文句を唱えている者もいた。
悪魔と孤児も列の後についた。
遅々とした列の歩みは門にもなかなか辿り着かないが、それでも苛立ちなど覚える者は無い。唯一人、悪魔を除いては。
『これさえなければなぁ』
ずらりと続く後姿にうんざりと零す悪魔に、孤児が冗談を言う。
「なら空を飛んで入っちゃえばいいのに」
『成る程。そりゃ全くいい考えだ』
ぽんと手を打った悪魔が孤児の手を取って、今にも宙に舞い上がりそうな様子を見せたので、
「嘘だよ!冗談だよ!」
孤児は慌てて前言を取り消さなければならなかった。
一時間ほどかけて門の向こうに入ると、孤児の前に聳え立つ教会が現れた。
歴史を偲ばせる表情は、灰色の石で組み上げられた重厚さから見て取れるが、その繊細さはどうだろう。全ての柱、床石、壁の所々に凝らされた彫刻。柱の根元や頭、壁と床や天井との境に走る蔦模様。
それら全てが天使の手で成されたかのように、精緻で比類なき美しさを誇っていた。
『中に入るぞ』
悪魔に囁かれて、見とれていた孤児はようやく聖堂に目を移すことができた。
建物の正面に開かれた背の高い扉。列はその中へ続いている。大礼拝堂だ。
黒檀でできた扉にも、一面に美しい細工が施されていた。
更に一時間かけて、孤児は聖母像の前に立った。両隣を六人の天使が囲んでいる像だ。
頭上に光輪を冠し、柔らかく微笑みながら見下ろす様は、天に誘われる聖母が祈りを捧げる人達に慈悲の手を差し伸べているように見えた。
悪魔は聖母の前に跪いた。孤児もその横に膝をついた。
悪魔が、“空と地が永く続きますように。父の御心と母の愛によって”と祈りの言葉を呟くのが聞こえた。
孤児は何も願わなかった。代わりに、
「明日と祝福が永く続きますように。御使いの御業と祈りによって」
と唱えておいた。
下から見上げた聖母像は、少し悲しげに笑んでいるように見えた。
もしも聖母が慈愛によって孤児の祈りを聞いてくれたとしても、きっと天使達が孤児を許してはくれないだろう。
礼拝堂を出て、門を出た。
二時間前よりも長さを増した行列を横切って広場に出れば、通りを大勢の人が行き交っていた。
中心に座るは教会と神学院だが、栄える町の常として繁華街も賑わっている。
静けさと雑踏の喧騒が、隣り合う不思議な空間だった。
『さて。どこかで軽く一服するかな』
悪魔の言葉に、孤児は賛成した。
お祈りの行列に並んでいる間に、すっかり草臥れてしまったからだ。
「ジョン、僕のどが渇いたよ」
『じゃあどこか適当な店に入るか。いいな?』
いいよ、と孤児が答えた時、悪魔は“どこか適当な店”を探して辺りを見回したところだった。
だから、最初にその言葉を聞いたのは、孤児だけだった。
「お待ちなさい、そこの坊やと悪魔」
一瞬、自分達のことだとは気づかなかった。
ただ、悪魔という言葉に振り返っただけだ。
するとそこに、一人の尼僧が立っていた。
長い金髪をおさげに結って、丸い眼鏡の奥から宝石のように青い目が悪魔を睨みつけている。
左手を腰に当て、右手で首から提げた金の丸十字のペンダントを握っていた。恐らくまだ二十年は生きていないだろう。
それでも、その二つの碧眼は、天使の軍団長のように、しっかりと悪魔を見据えていた。
孤児が振り返ったのを目に留めて、尼僧は足早に近寄ってきた。
気づいた悪魔が尼僧に視線を向けるのと、孤児が悪魔の服の裾を掴んだのは同時だった。
「その子から離れなさい、汚らわしい者よ!」
悪魔の眼前に仁王立ちして、年若い尼僧は言い放った。
悪魔は尼僧よりも頭一つ分背が高く、優男とは言っても尼僧よりは体力がありそうだ。にも拘わらず、彼女は小指の先ほども臆してはいなかった。
『悪魔?私が?』
悪魔はきょとんと尼僧を見返して――それが演技か否か、孤児には判別がつかなかったが――、驚愕というよりは戸惑いの声を上げた。
『お嬢さん、どうやら何か勘違いをされているようだ。私は……』
「お黙りなさい!悪魔の虚言など聞く耳持ちませんわ。
速やかにその子を解放し、地獄にお帰りなさい」
悪魔の声を遮って、尼僧は頑なに主張した。
「坊や、いらっしゃい。
もう恐ろしいことはありません。神様があなたを守って下さいます」
正直なところ、孤児にはこれが僥倖だと思えなかった。
尼僧の言葉に従えば、きっと悪魔は怒るだろう。それはゲームを反故にする行為だからだ。
悪魔の性分をいくらか見知った孤児にとって、それは全く愉快な想像でない。
しかし、悪魔を恐れて尼僧の手を振り払えば、救いの手は永遠に失われてしまう気がした。
どちらも選べぬ孤児は、黙って俯いてしまった。
悪魔はちらりと孤児を見下ろした後、尼僧に向けてこう言った。
『私はどうやら証明しなくてはいけないようだ。
お嬢さん、いやシスター。何をもって証明としようか?誓えと言うなら何にでも』
少し、だが明らかな、人間らしさを伴った不機嫌さで。気分を害された善良な市民のように。
通りかかった野次馬が、足を止めて様子を窺い始めていた。
尼僧は、丸十字を悪魔の鼻先に突き付けた。
「戯言を!私の目を誤魔化すことはできませんわ」
きらきら輝く金色の十字架を、悪魔は眩しそうに見た。
それから、小さく口の端で笑って尼僧の手を取り、額を十字架に当ててながら、その手の甲に口付けた。
食いつかれたとでも思ったのか、尼僧は顔を青くして悪魔の手を振り払った。
悪魔の真っ赤な目だけが、禍々しく哂う。
尼僧の指先は細かく震え、顔色は失われていた。
『納得いただけたかな?』
“邪悪な者は、聖なる十字架や祝福された水に触れると火傷を負う”
孤児ですら、教会で幾度も聞いた話だ。
が、額に火傷どころか、悪魔の蝋のように白い肌には、そばかす一つありはしないのだ。
「いいえ。邪悪を捨て置くわけにはいきません」
尼僧が呟いた時、教会から幾人もの神父と年嵩の尼僧が駆け出してきた。
「一体どうしました?何の騒ぎです?」
年を取った神父が、よく通る声で問いかけた。
「神父様、悪魔です!」
尼僧が言った。それを聞いた神父の顔に、困ったような表情が浮かんだ。
「シスター・ケイト、みだりに疑いを口にするものではありません」
年上の尼僧が、穏やかに窘める。
「いいえ、シスター・グレイス!あの男は悪魔です。私には見えるのです」
『しかし私は十字架に触れられる』
今度は神父と尼僧達の目の前で、悪魔はシスター・ケイトの十字架に口付けて見せた。
『次は何を致しましょう?
聖水を飲みますか?悪魔の印を探しますか?それとも煮え湯に沈みましょうか?』
いやいやいや、と年配の神父が悪魔と尼僧の間を取り成した。
「もう十分でございます。大変失礼を致しました。非礼は深くお詫びします。
何卒、年端もいかぬ娘の信仰心高じるあまりのこととお許し頂きますよう」
ふむ、と頷いて、
『分かってもらえればよいのです』
と悪魔は取り繕ったにこやかな笑みで言った。
その間にシスター・ケイトは、他の尼僧に連れられて教会の中へ戻った。
片時も目を離さず、悪魔を見据えながら。
『恐ろしいな、あの目は』
街角の小さな喫茶店でようやく一休みできた頃、悪魔が笑み混じりでぽつりと零した。
「さっきのシスターのお姉さん?」
オレンジジュースのグラスを前に、孤児は悪魔に問うた。
「やっぱり本当に分かってたんだ、ジョンのこと……?」
『そうだろう。あそこまではっきり言われちゃあな。
小娘にどうこうされる私じゃないがね』
血のように赤い瞳を輝かせて言う様は、孤児の目にも悪魔以外の何にも見えない。
悪魔は十字架のペンダントなど平気だし、多分聖水も怖くないのだろう。
『それにしても可哀想な娘だ』
と悪魔は囁く。
『あれだけの魔眼の持ち主……もっとマシな使い道があるだろうに』
「“まがん”?」
孤児はジュースを飲み下しながら尋ねた。
悪魔は答えた。
『特別な目のことさ。本当は見えるはずのないものが見える目だ。
あの娘には地獄のものが見えるらしいな。私とか、魔女とか、ヒトの悪意とか』
空っぽになったコーヒーカップを弄びながら、悪魔が呟く。
『あの小娘にはこの世は生き難かろう。
神だの救いだのに頭を垂れるだけが生きる術でもあるまいに』
それについては、孤児にはどんな言葉も必要なかった。
あの時――両親に捨てられ、初めて死を間近に感じた時、悪魔に縋りさえしなければ、神さまが助けてくれたのかもしれない。
だけど、先に手を差し伸べてくれたのは悪魔だった。
孤児はもう選び終えてしまったし、再び選択が与えられる余地など、もうどこにも無いのだ。
「坊や!」
翌日、孤児が悪魔の財布を片手に公園のアイスクリーム屋台でバニラアイスを買っていた時、誰かが孤児に歩み寄ってきた。
周りに幾人もの子供がいたせいで、孤児はそれが自分のことだとは思わなかったけれど、その尼僧姿には見覚えがあった。
「昨日のお姉さん?」
シスター・ケイトと呼ばれていた、若い尼僧だった。
「こんにちは坊や。今日は悪魔と一緒じゃないのですか?」
尼僧は辺りを見回して尋ねた。
「ジョンなら宿に居るよ」
孤児は正直に答えた。
「それは丁度よかったですわ」
尼僧は言った。
「私と一緒にいらっしゃい」
「どこへ?」
「教会です。どれほど恐ろしい悪魔だとしても、神父様がきっと坊やを助けて下さいますわ」
尼僧の瞳を、孤児はやけに冷静に見返すことができた。
「でも、ジョンは教会も平気だよ」
尼僧の顔に驚きが浮かんだ。
「ジョンはお祈りだってできるんだ。だから教会に隠れても見つかっちゃうよ」
「大丈夫です。神父様が悪魔を追い払ってくれますわ」
「ジョンは怒るとすごく怖いよ」
「私達には神様がついています」
力強く頷く尼僧が真剣に案じてくれればくれるほど、孤児の中で募ってゆく悲しみがあった。
アイスクリームに目を落とし、孤児は呟く。
「きっとお姉さんは僕のこと怒ると思う……」
「何故ですか?」
尼僧は心底不思議そうに、孤児に問うた。
「坊やは何も悪くありませんわ。
悪魔が坊やを連れている訳は分かりませんけれど、悪いのは悪魔でしょう?」
悪か否かと聞かれれば、“あくどい”のは自分だと孤児は思っていた。
「僕はジョンとゲームをしてるんだ……悪魔のゲーム」
尼僧が息を呑んだのが分かった。
「だから僕、神さまには助けてもらえないと思う」
「そんなことはありません!」
尼僧は否定の言葉を口にした。
「神様は悔い改めれば、どんな罪も許して下さいます!
悪魔との契約になど、従う謂れはありません。すぐに破棄すべきです」
「でもそれってズルでしょう?
神さまはズルを許してはくれないでしょう?」
それは孤児が何度も自問したことだった。
尼僧は返答に困った。
孤児は気づいてしまった。何故、尼僧の言葉を聞くとこんなにも悲しくなるのか。
幼い孤児は、それを口に出さずにはいられなかった。
「僕、ジョンのこと好きじゃないよ。神さまのことだって、嫌いじゃない。
でもね、でも……」
尼僧を真っ直ぐに見上げた孤児の目から、大粒の涙が溢れて零れた。
「神さまは、パパとママが僕を置いていくのを、止めてくれなかったんだ……」
瞬間、若い尼僧はひどく傷ついた表情を浮かべた。
ひどいことを言ってしまったのは、孤児にも分かった。
しかし、どれほど神の愛が深かろうと、ただその一点においては、最早孤児が神を信じることはできないのだ。
そして孤児は、尼僧に神の慈愛を説かれる度、そんな自分が悲しくて仕方なくなるのだ。
言葉を掛けかねた尼僧の肩に、そっと置かれた手があった。
『“見ろ、罪深き女め。神はお前の罪を許さず、その棘でお前を苛むぞ”』
悪魔が立っていた。
敵意すら篭った視線で、尼僧は振り向いた。
「穢れた言葉で聖典を語るな!」
『“悪魔も自らの都合で聖書を引く”さ。
悪魔が聖母に投げた言葉なら、私には相応しかろう?』
悪魔がひらりと手を振ると、手品のように真っ白いハンカチが現れた。
「やはり悪魔ではありませんか!」
やけにあっさり認めた悪魔に、尼僧が苦々しく呟く。
『一度証明して見せた以上、お前以外の誰が疑うかね?』
悪魔が孤児の顔の上に落としたハンカチで、孤児は涙を拭いた。
『さて、私のかわい子ちゃんを泣かせて、何をしているのかなこのアバズレ』
悪魔は軽薄に薄っぺらく笑っていたけれど、真っ赤な目は笑っていなかった。
「退きなさい!このような幼い子が誑かされるのは見過ごせませんわ」
『なら、どうするね?』
悪魔は冷たい手で孤児の頭を撫で、尼僧を挑発するように言った。
『聖なる炎で燃やすかね?かつて幾多の悪魔憑き共をそうしたように』
「馬鹿なことを。お前をその子から祓います」
『祓う?あっはっはっはっは!』
悪魔は甲高い哄笑を上げた。おかしくて堪らないとでも言うように、腹を抱えて笑った。
『私は坊やに憑いちゃいないさ!全てはゲームだ!
ルールと言う名の契約だ。こればかりは、神にも破れんぞ』
勝ち誇る悪魔に、尼僧は吐き捨てるように呟く。
「神に仇為す者め!」
『哀れな娘。魔眼の娘め』
ふと笑みをかき消して、冷めた瞳で悪魔が言った。
途端、尼僧の表情が強張った。まさに悪魔が“魔眼”と口にしたその時に。
悪魔は続ける。
『生れ落ちたその日から、地獄を覗きながら神に傅くお前を、哀れと思って見逃してやれば調子に乗りやがって。
私の獲物を横取りするつもりなら、たった今ここで殉教させてやろうか』
ほんの微かに語気を荒げた悪魔の体から、冷たい空気が漂って、尼僧の肩を震わせた。
「悪魔の脅しには屈しませんわ」
気丈な尼僧の言葉を、悪魔は鼻で笑う。
『フン。神の威光とやらか?あのものぐさに何が期待できる?』
「不敬な!」
「もういいよ!!」
孤児の声が二人の間に割って入った。
「……ジョンは僕を助けてくれない。
でも神さまだって僕を助けてくれるとは限らない」
『その通りだ。お前は利口だな』
悪魔は孤児ににっこり笑った。
「坊や……悪魔の甘言に、」
「僕は、」
孤児は尼僧の言葉を遮って言った。
「僕はジョンのこと好きじゃない。神さまのことだって、嫌いじゃない。
だけど、もし僕がズルしたら、神さまはきっと僕のことが嫌いになる」
嘘は罪だと教会で教えられた尼僧に、孤児を否定できる言葉は無かった。
「ズルはしない。大丈夫だよお姉さん。僕が勝ったら、ジョンは地獄に帰る約束なんだ」
それが救いだとでも言うように、孤児は尼僧に言った。
『そうとも。契約だからな。但し、お前が勝ったらだよおチビちゃん』
悪魔は笑った。
「負けたら?」
悲しげに孤児を見返して、尼僧が問うた。
『お前の魂は私のもの』
きっぱりと悪魔が言った。
きっぱりと孤児が頷いた。
「ルールだもの」
「あなたは悪魔に屈するのですか?」
もう一度悪魔が笑った。笑って、嘲りの言葉を投げた。
『その目は節穴か?こいつが私に屈したことなど、まだ一度も、ただの一度も無い。
小憎らしくて生意気な子猫ちゃんだからな。ゲームなんかやめて私と契約すれば、ずっと楽に生きられるのに』
「契約なんかしないよ」
分かってるさ坊や、と悪魔は含み笑いを漏らした。
『私はちゃんと分かってるよ。お前の望みも、悲しみも。
私はなぁんでも知っているからね』
孤児はふん、と鼻を鳴らして悪魔を見上げた。
「僕の名前は知らないくせに」
それを聞いて悪魔はまたくつくつと楽しそうに笑う。
孤児の前に、尼僧がしゃがみ込む。
「坊や……」
尼僧の青い瞳が、今は少し濡れていた。
「どうしても、ですか?」
孤児は小さく頷いた。
「うん、ルールだもの。僕が決めた約束だから」
だから、神の救いが与えられるとしても、それはゲームに勝った後のことだろうと、孤児は思っている。
尼僧が言った。
「私の名前は、ケイト・テナーです。
坊やのお名前は?」
「オーウェン」
孤児が答えると、尼僧は小さく頷いた。
「オーウェン君。明日の今、もう一度ここへ来られますか?」
孤児は悪魔を振り返ってみたが、悪魔は不思議そうな顔で小首を傾げるだけだった。
「大丈夫みたい」
と孤児は答えた。
「わかりました。では明日、待っています」
そう言って、尼僧は離れていった。
今度は悪魔を睨まなかった。
だけど、去ってゆく背中は、悪魔に食って掛かった時よりずっと高潔に見えた。
孤児を振り向いた時、もう悪魔は尼僧のことなど忘れたかのようだった。
そう見えたのは、きっと悪魔がからかうでなく嘲るでなく、とてもとても不思議そうに孤児を見下ろしていたからだろう。
薄笑いでも嘘臭い微笑でもない心底疑問に思う表情で、悪魔が尋ねる。
『ところでお前、それは一体何をしているんだ?』
悪魔が指差した先には、コーンから孤児の手を伝って流れ落ちる溶けたバニラアイス。
「……すっかり忘れてた」
がっかりと肩を落とした孤児に、悪魔は呆れ返って笑い出した。
尼僧と喧嘩するよりも大きな、この町に来てから一番大きな笑い声だった。
日が変わって、約束どおり孤児は再び公園にやってきた。
シスター・ケイトは、公園の入り口から良く見えるベンチに座って待っていた。
孤児が尼僧に気付いたのと同時に、向こうもこちらに気が付いた。
「こんにちは、お姉さん」
「こんにちは、坊や」
立ち上がった尼僧に挨拶すると、シスターは笑顔で応えた。
尼僧は周りを見渡して、孤児に尋ねた。
「今日は悪魔は?」
「来てないよ。お姉さんの目で見られるのが嫌なんだって」
宿を出る時、孤児は悪魔に着いて来るかどうかを訊ねてみた。
その時の悪魔の答えがそれだった。
何故かと問おうにも、悪魔はベッドに寝転がって壁の方を向いてしまったので、それ以上知ることはできなかった。
「でもジョンはね、どこにいても僕のことが分かるんだって。
ズルいよね。どうやってるのか、すごく不思議なんだ」
孤児の言葉に、尼僧は少し微笑んだ。
「今日は来ないと思いますよ。
私はもう坊やに、教会に来るべきだなんて言いませんから」
孤児は少し驚いて、尼僧を見上げた。
「そうして欲しいのが本音ですが、坊やが悪魔と戦っていることは分かったつもりです。
今日は、少しお話ができたらと思っただけです。迷惑ならいつでも帰って下さって結構ですよ?」
孤児は横に首を振って見せた。
「僕もお姉さんに聞きたいことがあるんだ。だからおあいこ、ね?」
尼僧は、くすりと笑って頷いた。
「坊や、アイスクリームは好き?」
尋ねられて、孤児はばつが悪そうに頷いた。
「昨日はごめんなさいね。駄目にしたアイスクリーム、弁償します」
尼僧は孤児を連れて昨日のアイスクリーム屋のところまで行き、孤児の分と自分の分二つのバニラアイスを買った。
それから二人は木陰のベンチに腰掛けた。
並んでアイスクリームを頬張っているところは、仲の良い姉弟に見えなくも無い。
「私から訊ねてよろしいのかしら?」
コーンの端っこを齧りながら、尼僧が問うた。
「坊やは、何故悪魔といるのです?どこで出会ったのです?」
口の中で甘く溶けるアイスクリームの欠片を飲み込んでから、孤児は答えた。
「遠いところにある草原。すごく広くて、近くに町とか村はなかった。
そこにね、僕はパパとママに置いていかれたんだ」
随分昔のようにも、すぐ昨日のことのようにも思える。
両親を探す旅を始めて短くない時間が経っていたけれど、あの草原での一方的な決別を客観的に見られるほど、まだ孤児は過去と隔たれていなかった。
尼僧は、痛ましい表情を見せた。
孤児は続ける。
「一晩そこにいて、ジョンが来たのは次の日の昼。僕は一人ぼっちで、食べ物もなかった。
ジョンはね、契約しようって言ったんだ。そしたら助けてくれるし、新しいパパとママもくれるって」
だけど孤児はそれを拒否した。
「契約なんかしないよって言ったら、ジョンは怒ったんだ。
すごく怖かったけど、多分本当に怒ってたんじゃないと思う。怖がらせるつもりだったんだ。
だから僕、ジョンにゲームをしようって言ったんだ」
尼僧は、不思議そうに孤児を見返した。
「名前を当てるゲーム。僕がジョンの本当の名前を当てたら僕の勝ち、ジョンが僕の本当の名前を当てたらジョンの勝ち、って」
そこまで言って、孤児はアイスクリームを一口齧り、それが溶けてしまうまで待った。
「多分ね、お姉さん。ズルいのは僕なんだ」
ぽつりと孤児は言った。
「どういうことですの?」
「もし僕が名前を当てられるより先に死んでしまったら、僕の勝ちになるんだ。
僕がジョンの名前を当てるより先にジョンが死んでしまったら、ジョンの勝ちだけど」
それは甚だ公平ではない。
だって悪魔はそう簡単には死なないから。少なくとも孤児ほどもは。
孤児が怪我や病やその他諸々のことで死んでしまっては、悪魔は地獄に送り返される。
だから悪魔は孤児を庇護する。ゲームに勝つ時までは。
孤児は尼僧に笑いかけた。
「僕はズルい子だけど、ゲームに勝った後でちゃんと謝ったら、神さまは許してくれるのかなぁ?」
尼僧は、そっと孤児の頭を撫でた。
「贖われない罪などありません。
悔い改めれば、神様は救いの御手を差し伸べて下さいます」
やわらかい尼僧の手に母親を思い出して、孤児はちょっとだけ泣きそうになった。
「今度は僕が聞いてもいい?」
よろしいですわよ、と尼僧は答えた。
「お姉さんの目はどうして特別なの?」
尼僧は、ベンチに腰掛け直すと、うーんと唸りながら言葉を探した。
「どうして、というのは私には分かりませんわ。生まれつきですから。
この“魔眼”と呼ばれる目のことは、私の故郷の神父様に教えていただきました。
本来人の目には見えないものが見える目だと。
小さい頃から、私には見えるものが他の誰かには見えないことがありました。
今は悪魔が見えます。良くない場所や、良くない思いも時々ですが見えます。
私は、良いものと良くないものを見分け、人のためになるよう神様から授かったのだと思っています」
「ジョンみたいなのを?」
そうですわね、と尼僧は笑った。
「坊やは、悪魔が恐ろしくはありませんの?」
「怒ってない時はそれほどじゃないよ。
意地悪だけど、物知りだし、夕飯前にお菓子を食べても怒らないし。
でも、怒ってなくても……時々怖い」
理由は分からない。
カフェテラスで一休みしている時、馬車に揺られている時、布団に潜り込んで眠りに着く前の一瞬、特に理由も無く悪魔を恐ろしいと感じる瞬間がある。
いや、理由など悪魔であるというだけで十分なのかも知れない。
そんな時孤児は、今は遠い草原を思い出そうとする。
独りの夜の寒さと寂しさ、間近に迫り来る死の予感を思い出して、恐怖心と比べてみる。
どちらが恐ろしいかなんて結論は出ないが、その内に恐怖心は薄れてしまう。
だから、今は別にそれでいいと思っている。
「お姉さんの目には、どんな風に見えてるの?」
首を傾げる尼僧に、孤児は重ねて尋ねる。
「ジョンが、お姉さんの目は地獄のものが見える目だって言ってた。
お姉さんの目には、ジョンはどういう風に見えるの?」
尼僧はアイスクリームを一舐めして、通り過ぎる冷たさを味わった。
「そうですね……坊やが見ている世界と私が見ているものは違うのかも知れませんね。
同じものでも、少し違って見えているのかも知れません。
私には、坊やは活発そうな男の子に見えます」
尼僧はふと空に視線を向け、彼女の目に映る悪魔について思い返す。
「アレは……あまりはっきりとは見えません。黒い霧に包まれているようで。
でも少しは分かりますよ。……そうですね、まるで小さな……」
尼僧が続けようとしたその時、
『やぁ、お二人で誰の噂話かな?』
悪魔が立っていた。孤児と尼僧の二人が腰掛けていたベンチの真後ろに。
驚いて振り返った二人に、悪戯が成功した時の満足そうな笑みを浮かべて、悪魔は孤児に言った。
『そろそろ時間だ。行くぞ坊や』
時間?と聞き返した孤児に、悪魔は呆れた顔を見せた。
『馬車の時間だよ。お前が乗るって言い出したんじゃないか』
「そうだった!」
孤児はベンチから飛び降りた。
「ごめんなさいお姉さん、もう次の町に行くんだ」
尼僧は淡く微笑んだ。
「坊やは旅をしているのですね」
「うん、パパとママを探してるんだ」
尼僧の二本の指が、孤児の額の上で丸十字を描いた。
「坊やのご両親が早く見つかりますように」
ささやかな祝福だった。
神の加護を祈られるより、孤児にはずっと嬉しかった。
「あなたが一日も早くゲームに勝つように祈りますわ」
「ありがとう、お姉さん」
お礼を言いながら、孤児は昨日尼僧に神への不信を口にしたことを恥ずかしく思った。
神さまが誰を救うかなど知ったことではない。
けれど、この若い尼僧は孤児のために祈ってくれる。
それだけでずっと励まされた気がした。
「僕、ジョンのこと好きじゃない。神さまのことは、嫌いじゃない。
でもお姉さんのことは好きだよ」
それを聞いて、尼僧はにっこりと笑った。
「さよならケイトお姉さん、アイスクリームをごちそうさま」
「さようならオーウェン君、気をつけてね」
『それについては心配御無用』
孤児の手を取って、片方の唇を吊り上げ笑った悪魔に、尼僧は言い放つ。
「あなたに気をつけるよう言ったのですわ」
肩を竦めて見せた悪魔を見返す尼僧の青い瞳は、真っ直ぐで深い冬の湖のような青。
それを血のような炎のような赤が見下ろす。
『お前は口の利き方に気をつけた方がいい。
お前を地獄に連れ帰ったら、きっと魔王様はお喜びになるだろう』
「私はお前達に仕える魔女ではありません」
きっぱりと尼僧は言い返した。
くるりと踵を返し、尼僧は去る。
「やさしいお姉さんだったね」
アイスクリームのコーンの最後の一欠片を齧りながら、孤児は言った。
『お前はお菓子をくれれば誰でも“いい人”じゃないのか?』
「そんなことないよ」
不服気に頬を膨らませた孤児に、ふと思いついたように悪魔が尋ねる。
『お前、ああいうのが趣味なのか?』
「何が??」
『いや、いい』
小さく首を横に振って、悪魔は質問を無かったことにした。
『行くぞ。急がないと馬車の時間に遅れてしまう』
「次の町もいいところだといいね」
さぁな、とだけ悪魔は短く答えた。
五、 幕 ――




