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悪魔と孤児  作者: 黒衛
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四、 嵐の街



悪魔が言った。

『ちょっとお仕事があるんだ。

 だから坊や、しばらくいい子で大人しくしておいで』

孤児は悪魔の仕事とやらが気になったので、大人しくいい子に努めることを約束した。


ひどい嵐が居座っていて、孤児と悪魔はもう五日もその町で足止めされていた。

吹き付ける風に窓はガタガタと鳴り、戸が揺れる。

大粒の雨はやむことを知らずに降り続けて、道はまるで大きな水溜りだった。

宿には他に幾人かの泊り客があり、誰しもがこの嵐で動かなくなった船を待っていた。

町の南には、とても大きな川がある。

あまりに川幅が広く、底も深くて流れが速いので橋が架けられず、川を渡る手段は船だけだった。

こんな荒れ模様でなければ、川岸に繋がれた何艘もの船が客を乗せて行き来しているだろう。

もともと流量が多いせいで、雨が降り続いた日には水かさが増して、船を出すことはできなくなる。

村の宿に泊まる客は、皆待ちぼうけを食っている者ばかりだった。

同じ宿の顔ぶれとは、早々に馴染みになってしまった。

夜が明けても日が暮れても、一つ屋根の下でぼんやりとしているのだから、それも当然だ。

そして今は宿の一階にある酒場も兼ねた食堂で、夕食には早すぎる時間から、孤児と悪魔を含む宿泊客6人が勢ぞろいしていた。

「全く忌々しい雲だな」

煙草を燻らすいかつい中年男が言った。

男は馬車で荷を運び、行く先々で商売する行商人だった。馬車強盗を追い払った時に作った頬の傷を自慢にしていた。

「こんなにじめじめ湿ってちゃあ、大事な商品が腐っちまうぜ」

「そうは言っても、川を渡れなくてはしょうがないですからねぇ」

「本当に」

男の隣のテーブルに腰掛けた夫婦が、諦め顔で言った。

夫婦は十回目の結婚記念に小旅行に出かけた帰りだった。最後に何とも不運にぶつかったと苦笑いしていた。

「不運といえば僕もですよ。ただでさえ貧乏旅行だって言うのに」

その向かいで嘆いているのは、ひょろりと背の高い青年だった。

伸びた髪の毛を一つに束ねて、足元には古びたバッグ。

青年は旅人だと言っていた。

「こう何日も延泊したんじゃ、船賃どころか宿代だって払えるかどうか」

財布の中身を勘定してついた溜息は、洒落で零したのではなさそうだった。

「宿代は勉強させていただきますよ、お客さん」

飲み物を運んできた宿の主人が、笑いながら青年に言った。

「この天気じゃ、新しいお客さんも来ませんし。

 幸い、日持ちする食料もまだありますから、お食事の方もご安心を。

 あ、雨漏りした時は、私か家内にすぐ言って下さいね」

主人は客達の前に熱いコーヒーの入ったカップを置いていく。

『繁盛ですな』

「いやいや、とても喜べませんよ」

主人は悪魔の前に二つカップを置いた。

『オーウェン、いつまで外を見てるんだい。

 こっちへおいで』

悪魔に呼ばれて、孤児は雨に叩かれて霞んだ窓から視線を移した。

席に戻ると、悪魔が片方のカップを差し出した。

そちらには、真っ黒いコーヒーではなく温かいココアが満たされていた。

「まだ止まないのかなぁ」

カップを両手で包んで持った孤児に悪魔が言う。

『もう暫くは、まぁ無理だろうな』

全くのんきな調子だ。

悪魔は天気がどれだけ荒れようと気にもならないし、孤児だって急ぐような旅ではない。

しかし、他の客達はそうもいかないだろう。

だからと文句を言ってもどうにもならないので、結局残るのは諦めだけである。

だが、宿に篭もって雨風は凌げても、退屈からだけは逃れようが無かった。

「どうだい、ちょっとしたゲームでもしようじゃないか?」

唐突に商人が言った。

「ゲーム?」『ゲーム?』

夫婦の夫と悪魔が聞き返した。

「なぁに、ゲームと言ってもカードでもなけりゃ金を賭けるわけでもない。

 何かお話をするんだ。何でもいいさ。聞きかじったことでも、ジョークでもいい。

 一番面白い話をしたやつに、皆が奢る。どうだい?」

「それは面白そうですねぇ」

夫がまず賛成した。

「皆で奢るなら僕も参加しますよ」

プラスとマイナスと財布の中身を考慮して、大した損害がないと考えた旅人も賛成。

「兄さんもいいな?」

『勿論構わないよ』

悪魔も頷いた。

「よーし、決まりだ。

 折角だからご主人もどうだい?」

「え?私が参加してもいいんですか?」

「賭けにしなけりゃいい。ご主人のお話には投票不可だ。

 皆が話し終わったら、せーのの掛け声で全員が一斉に、一番面白い話をしたと思った相手を一人指差す。

 一番沢山指差された奴に皆が奢る。自分を指差すのは駄目だ」

その大変公平なルールに誰もが同意した。

「どうせなら奥さんも呼んで来るかい?」

「いえ、家内は夕食の下ごしらえ中ですから」

宿の主人も含めた全員が、商人のテーブルに集まって座った。

「さて、それじゃあ誰から話すかね?」

「では僭越ながら私から」

商人の開始の言葉に、夫婦の夫が手を上げた。


――

二、三年前にあった話ですがね。

ある町に仲のいい夫婦がいました。仮にニクソン夫婦としましょう。

夫婦には子供がなく、二人は子供を授けてもらえるよう、熱心に教会でお祈りしました。

この夫婦には気の合う友人が居ました。アーヴィング夫婦です。こちらにも子供は居ませんでした。

ニクソン家とアーヴィング家は隣同士でしたから、四人でよく教会に出かけました。

しばらくして、二つの夫婦は子供を授かりました。

子供が生まれた時、ニクソン夫婦もアーヴィング夫婦もそれは驚きました。

ニクソン夫婦の方には男の子の双子が、アーヴィング夫婦の方には女の子の双子が生まれたんです。

どちらもこれは神様の思し召しだと喜んで、兄弟にはそれぞれジョーイ、ショーンと名づけ、姉妹にはそれぞれニーナ、ミーシャと名づけました。

さて、時が経って兄弟と姉妹が立派な若者とお嬢さんになった頃、ショーンが言いました。

「父さん兄さん、実は僕好きな子がいるんだ」

「何だって?お前その子は隣の姉妹じゃ無いだろうね?」

「あぁ兄さん、どうして分かったんだ?全くその通りだ」

「だろうと思った!お前と僕は双子だもの!」

兄弟の父親は姉妹の父親にこの話を持って行きました。

「実はうちの倅がお宅の娘さんを好きになったようなんだ」

「そいつは好都合だ。実はうちの娘もお宅の息子さんに惚れてるらしいんだ」

とんとん拍子に話は進んで、すぐに結婚式の日取りまで決まりました。

兄弟と姉妹の結婚式は同時に執り行われることになりました。

兄弟は姉妹に駆け寄って喜びました。

「ニーナ!君と結ばれるなんて夢みたいだ!」

「ミーシャ!きっと幸せにするよ!」

「だけど兄さん、困ったことが一つあるよ」

「何だい、ショーン?」

「僕達一体どっちが兄さんになるの?」

手を取り合ってたのは兄と妹のカップル、弟と姉のカップルでした。

で、この問題はまだ片付いてなくて、未だに結婚式を延期しているらしいんです。

――


「そいつは難しい問題ですねぇ」

旅人が頭を掻く横で、商人が笑った。

「こいつは俺の頭にゃ荷が重過ぎるや」

ややこしいパズルに悩む面々を見回して、夫が次の話し手を促す。

「私はおしまいです。お次の方どーぞ」

「それじゃあ僕が」

旅人が名乗り出た。


――

世界一短い幽霊譚ってのをを知ってますか?

『私は、親友とその未亡人が一緒に歩いているのを見た』

というのがそれなんですけど。

これはね、旅の途中で聞いたんです。

あるところに金持ちの未亡人がいたんです。それはもう大層大金持ちな。

ある時、未亡人が海の側の別荘に出かけた時、風の噂でこんなことを聞きました。

「南の岩場のあばら家には魔法使いが住んでいて、どんな薬でもたちまち作ってくれる」

それを聞いた未亡人は、早速魔法使いのところへ出かけました。

「三年前に亡くなった主人に会わせてちょうだいな!」

魔法使いは、旦那の入った棺桶と同じだけの重さの金で手を打ちました。

未亡人が大量の金を届けると、魔法使いはささっと薬を作り上げて未亡人に渡しました。

未亡人はそれをぐっと飲み干しました。

その途端、くらくら眩暈がしてばったり倒れてしまいましたが、目が覚めた時には未亡人の前にはとっくに死んだ旦那が立ってました。

「あぁ、アドルフ!会いたかった!」

未亡人は喜んで、天国から帰ってきた旦那と一晩限りのデートを楽しむことにしました。

きれいな満月の夜だったので、二人は海沿いを散歩しました。

ところで、この避暑地には丁度旦那の友人の男爵も来ていました。

冷たいビールを一杯引っ掛けてバーから出てきた男爵は、酔い覚ましに海岸道を帰ろうと思いました。

すると、道の先から一組の夫婦が歩いてくるのが見えます。

見覚えのある顔だと挨拶しようとして、男爵はすぐにそれが亡くなった友人だと気づきました。

男爵はそりゃあおったまげて、すぐバーに取って返し、バーテンに叫びました。

「今そこで、私は親友とその未亡人が一緒に歩いているのを見た!」

と、まぁ、これが世界一短い幽霊譚の始まりってわけですよ。

――


「成る程。あの話にはそういう前半があったのですか」

夫婦の夫の方が、何度も頷いて感心してみせた。

「しかしそいつはリアリティに欠けるんじゃないかね?

 魔法使いとか、どんな薬でもとか」

商人が茶々を入れるが、

「僕に言われても困ります。聞いた話なんですから」

全く旅人の意見が正しかった。

「じゃあ、俺はちょっとしたジョークを話そうか」

話し手は商人に移った。


――

弁護士って輩はどうだい?どこの国でも好かれないのは一緒だろうが、これまた酷く弁護士が嫌われてる国があってね。そこで聞いたものさ。

  *   *

ある時一人のテロリストが、弁護士ばかり百人人質にして立て篭もった。

そいつが外の警官隊に言うにはこうだ。

「要求が聞き入れられない場合は、一時間に一人ずつ弁護士を解放するぞ!」

  *   *

テロリストは捕まって死刑になった。

地獄に送られて悪魔に責め苦を味わわされている時、ふと横を見ると弁護士がきれいな女の子と遊んでるじゃないか。

「こんなのは不公平だ!」

と叫んだテロリストの横に悪魔がやってきて、尖った刺股でテロリストの尻をつついてこう言った。

「あの女への罰に文句言ってる罪人はお前か?」

  *   *

もう一つあったな。

あなたは虎と毒蛇と弁護士と一緒に部屋に閉じ込められてしまった。

ポケットにはたった二発の弾が入ったピストルしかない。

さぁ、どうする?

答え:弁護士を二度撃つ。

――


オチが明らかにされるたびに、テーブルの上で笑い声がさざめいた。

特に二番目のジョークを聞いた時、悪魔はにんまりと笑った。

「おや兄さん、気に入ったかい?」

『なかなかに面白い。今度そんな罰はどうかと魔王様に提案してみよう』

冗談の分かる相手だと思ったのか、商人が笑った。

が、それが冗談でないことを、孤児だけは知っていた。

ココアのカップを傾ける孤児の顔をちらりと見て、悪魔が微笑む。孤児には、悪魔が少し楽しそうに見えた。

「さて、じゃあ次は私が話しましょうか」

宿の主人の番が来た。


――

こんな雰囲気の夜ですからね、私からは一つ怖い話をしましょう。

昔々、一人の男がいました。若くして幼馴染の娘と結婚し、男は幸せな家庭を作ろうとしました。

男は妻を連れ、町に出て暮らし始めました。誰もが羨むような幸福な家庭でした。

ある日男が家を空けました。隣の村に住む友人のところへ行ったんです。そのために一日留守にしました。

その日、町で強盗が出ました。

商店を襲って金を奪った強盗は、自警団に追われてあちこち逃げさ迷った挙句、男の家に押し入りました。

家に残されていたのは、妻が一人。どんな目にあったかは、分かっていただけるでしょう?

妻は縛られて人質にされ、酷い目にあった後殺されてしまいました。

強盗は逃げました。

男が家に帰った時、変わり果てた妻の遺体は警察に運ばれた後でした。

男は妻の亡骸の足元に跪いて泣きました。

「お前を助けられなかった私を許してくれ!

 そして出来ることなら、どうか私のところへ帰ってきてくれ!」

男の願いは叶いました。

妻の遺体を川に投げ込むと、その肉は溶けてなくなり、代わりに川底の泥を纏って蘇りました。

しかし、生前と全く変わらぬ妻が帰ってきたわけではありません。

恨みを残して死んだ妻は、その恨みを晴らすまでは、完全に死者の国から帰ってくることはできなかったんです。

男は町を出ました。

帰ってきた妻と一緒に暮らし続けることができなかったからですが、それだけではありません。

妻を完全に取り戻すためです。

男は妻を殺した強盗を探して旅をしました。

強盗が三人組の男だったことは警察の話で分かっていました。

妻を残酷な目にあわせた三人を殺した時、妻の恨みは晴れて、彼女は本当に生き返ることができるんだそうです。

今でも彼は、妻の仇を探してきっとどこかをさ迷っているんでしょうね。

――


数秒の間、聞こえるのはごうごうと唸る風と、窓を叩く雨の音だけだった。

旅人の青年が明るさを装って、しかし恐る恐る口を開いた。

「けど、あれでしょ?その強盗じゃないなら、怖くないわけですよね?」

主人はにっこり笑って、切り返す。

「これ、そこの川の話なんですよ」

寧ろそこが一番の落ちだというべきだった。

すぐ側の川の怪談をこんな夜に聞かせてくれるとは、あまりに雰囲気が出すぎている。

「本当なんですの……?」

不安げに、恐ろしげに尋ねた夫婦の妻に、主人は慌ててフォローを入れた。

「いえいえ、昔の話ですよ。第一、元々はもっと上流の町で流行ってた話ですからね」

それを聞いて、妻も幾ばくかはほっとしたらしい。

ばつが悪そうに隣を見た主人が、悪魔を促す。

「さぁ、あなたの番ですよ」

悪魔はぼそりと呟いた。


――

私には話すことなんて何もないね。

だけど強いて言えば、一つだけ。

私は悪魔だ。

それで、この中の一人を殺しに来た。

――


悪魔が話したのはそれだけだった。

先程とは違った静寂が訪れる。

意図を図りかねてきょとんと見返す五対の瞳が、悪魔の口元に浮かんだ薄ら笑いを見て確信を得た。

孤児は、空っぽになったカップを退屈そうに弄んでいた。

「何だ、人が悪いなぁ。脅かすつもりだったのかい?」

旅人が言う。

「話術としちゃ悪くないが、だったら殺すんじゃなくて願いを叶えるとかにしておかなくっちゃ」

商人の男が笑った。

『信じないならどうぞお好きに』

「悪魔さん、その人は一体どういう訳で殺されるんです?」

夫婦の夫の方が尋ねる。

怪談話を怖がっていた妻もくすくすと笑っている。

まるっきり冗談だと思っている彼らに、悪魔は冷ややかに告げる。

『地獄に落ちるべきだからだよ。生かしてはおけないと思っている誰かがいるんだろうね』

一秒、居心地の悪い沈黙が降りて、彼らの中にほんの僅かな戸惑いが芽生えた。

悪趣味な冗談なのか否か、万が一にも本当のこととは思えないのに“まさか”という気持ちになっている不協和。

その時、

ドンドンドンドン!!

宿の扉を酷く殴りつける音が響いた。

びくりとして、彼らは振り向いた。

勢いよく開いた戸から、レインコートの男が飛び込んできて、怒鳴る。

「大変だ!堤防が一部崩れた!手伝ってくれ!」

横殴りの雨が吹き込んできて、床が濡れる。男は別の宿の主人で、今晩の堤防見張りの当番だった。

すぐに店主が立ち上がって、奥から雨合羽を出して来る。あまり意味は無いかも知れないが、着ないよりはマシだろう。

「お客さんも手伝ってください!お願いします!

 堤防が崩れたら、この辺まで川に飲み込まれます!」

彼らは驚いた。

「そんなに危ないなんて聞いてないぞ!」

「こんなこと何年に一度もありませんよ!今回の嵐が桁外れに酷いせいです!」

どの道選択肢は無い。

夫婦の妻と孤児を置いて、男達は皆表に飛び出して行くことになった。

通りはまるで川のようだった。破れた堤から溢れ出した水が、渦を巻いて町中を流れていく。

流れを蹴立てて歩く内、すぐに膝までびしょ濡れになった。

「こ、こんなに水が溢れてるんじゃ、もう手遅れなんじゃないんですか?

 早く逃げた方が……!」

「まだ堤防の天辺が少し欠けただけですよ!土嚢を積み上げれば何とかなります!

 壁に穴が開いたらこんなもんじゃすみません!」

唸る風の音で、お互いの声すら聞こえにくかった。

川辺に着いた時、目の前に広がるのは身の竦むような光景だった。

どうどうと音を立てて、灰色に濁った水が恐ろしい速さで流れ去っている。

本来ならば見えるはずの船着場の桟橋も、流れの中に飲み込まれてしまって、どこにあるのか分からない。

岸に乗り上げて避難させた船にも飛沫は届いていて、もう何インチか水位が上がれば船は川面に戻り始めてしまうだろう。

とっくにレインコートの中にまで雨は忍び込んできて、服がじっとりと重かった。

「あっちですよ!」

男が案内した先では、既に幾人かが土嚢を積み上げ始めていた。

堤防に入った亀裂は大きく、漏れ出る流れの勢いで更に広がっているようだ。

早速、彼らもその作業に加わり始めた。


風雨の音だけが騒がしい空間に、孤児と夫婦の妻だけが残されていた。

「心細いわねぇ坊や」

と彼女は言ったが、孤児はそれ程でもなかった。

勿論嵐は怖かったのだが、それよりも悪魔の発言の方が気になった。

悪魔が素直に肉体労働をしに行くとは、とても思えない。

とすればきっと、本当に誰かを殺しに行ったのかも知れない。

悪魔の話は、今一つ趣味の悪い地獄流のジョークだと思いたかったが、そうである可能性は低いように思われた。

風に揺すられた戸がガタガタと鳴って、雨が屋根と言わず窓と言わず止むこと無しに叩く。

だから、そう聞こえた時、どちらも空耳だと思って疑わなかった。

「……逃げてください」

孤児は雨粒で歪んだ窓の向こうを見ていたし、隣に座る妻は溜息をついていた。

が、二度目ははっきりと聞こえた。

「逃げてください」

二人が同時に振り返った時、奥へ続く廊下に女性が一人立っていた。

宿の女主人だった。

「逃げてってどういうことです?外の方が危ないんですよ。

 今ご主人と皆で堤防の穴を塞ぎに行ってるんです」

妻が問うた。彼女は、女主人の様子が少し違うことには気付かなかった。

「逃げてください。ここは危ないですから。

 堤防が切れれば、ここは流されます。もうすぐ、堤防は崩れます」

突然そんなことを言われても、信じられないだろう。

孤児も信じられなかった。悪魔が帰って来るまでは。

『逃げた方がいいぞ、それもなるべく早く』

足音も無く、前触れも無く、頭から爪先までずぶ濡れの悪魔が、部屋の隅に立っていた。

波打った黒髪は水を含んで、血の気の無い頬や額に張り付いているし、泥水の染みた絹のシャツに羽織った灰色のレインコートは、ちっとも似合っていなかった。

「あ、あなた、いつ戻ってきたの!うちの主人は?」

『まだ無駄なことしてるんじゃないのかねぇ。

 いや全く、私にはこんなことは向いてない』

靴の中で湿った音を立てる水を捨てながら、悪魔は前半は妻に答え、後半で愚痴る。

「一人で逃げ帰ってきたって言うの?!」

『いいや、可愛い坊やを助けにだよ』

食って掛かる妻の足元にレインコートを投げ捨て、悪魔は孤児を抱き上げた。

悪魔の服も体も、これ以上ないくらい濡れそぼっていたけれど、孤児の服には湿り気すら移らないのが不思議だった。

『それじゃお先に失礼、ご婦人方。ごきげんよう』

「ジョン、待って!」

孤児は扉から出て行こうとする悪魔を止めた。

「ここは危ないんでしょ?だったらおばさん達も助けなきゃ!」

悪魔は薄ら笑いを揺るがせず、冷酷に答えた。

『それは私の権限じゃないんだよ、坊や』

悪魔が戸を蹴り開けるのと同時に、風雨が吹き込んできた。

バタンと扉が閉まった時には、悪魔と孤児の姿はそこになかった。


叩きつける雨と風の中で、彼らは砂利と土の詰まった袋を積み、少しでも水の流れを抑えようとしていた。

流れは堤防の壁を削り、足元は危うくなってくる。

それでも少しずつ積み上げられた土嚢は、漏れ出る水を減らし始めていた。

「大分塞がってきたぞ!もう少しだ!」

誰かが叫ぶ。

ばたばたと雨粒がフードを叩く。皆が灰色のレインコートを着ていて、誰が誰なのか区別がつかない。

水の勢いが弱まるにつれ、通りや近くの家がどれほど浸水したのかと、堤防の上からふと見下ろした者がいた。

彼が見たのは、堤防の中ほどから湧き出している、別の水流だった。

一瞬我が目を疑った。

が、堤防壁を貫いたその穴は、大人の頭程もの直径があり、しかも見る間に大きくなっていた。

「大変だ!」

男は叫んだ。

と同時に、他の皆も新たな危機に気付いた。

「どうするんだ!」

「何とか今の内に塞げるか?」

「無理だ!あの大きさになったらもう……!」

「急いで皆に知らせるんだ!」

男達が堤防壁から川辺を走り下り、手近な通りに駆け込むのを待っていたかのように、ついに堤防は決壊した。


悪魔と孤児は町で一番高い建物、教会の尖塔の屋根に腰掛けていた。

孤児は悪魔の両手に抱かれていたが、そうしていると激しい雨は一滴だって降り注がない。

吹き付ける風雨は全て二人を避けてゆくのだ。

教会からは町の様子がよく見えた。

通りを泥水が流れてゆく様も、家々が雨戸を閉じて恐ろしい災厄に息を潜めているのも、空で渦巻く暗雲が時折明るく光ってゴロゴロと唸るのも。

「雷だ」

孤児は無意識に悪魔にしがみ付いた。

『雷が怖いかい?

 大丈夫、ここには落ちやしないよ。

 そんなことしたら、人が大勢死ぬからね』

教会には、近所の人達がたくさん避難して来ていた。

見返した孤児に、悪魔は意味ありげに笑って見せた。

「これがジョンの仕事なの?」

『まさか、私だけならもっと簡単に事を運ぶね』

魔王様の仕業さ、と悪魔は言った。

「魔王が、ジョンに仕事をしろって言ったの?」

『当たり前じゃないか。そうでなくてこんな面倒なことするものか』

整えた髪を台無しにして、お気に入りの服も泥だらけだ。命令でなければとっくに投げ出しているだろう。

『魔王様はお怒りなのさ』

悪魔が言った。

『ただお叱りになるだけじゃ怒りが治まらないそうだ』

その結果がこの嵐かと孤児は思った。

それは間違いだった。

その瞬間、堤防が決壊した。


濁流が、町を襲った。

まず、通りが飲み込まれた。

家々にぶつかりながら、泥水は雨戸を殴りつけて、全部拭い去るかのように流れて行った。

一番の被害を受けたのは堤防に近い建物だった。特に決壊した穴の傍にある家。これは古びていたせいか持ちこたえられず、粉々になって押し流されたが、幸い誰も住んでない空き家だった。

二番目が、そこから大通りまでの間にある建物。水の流れよりも、押し流されてきたものがぶつかった被害の方が大きかった。雨戸を破られたり、戸を外されて床の上まで水が押し寄せた。

それから、濁流が集まって流れ出した大通りだ。川から溢れた水は、あちこちの通りを洗い流した後、大通りに集まって一本の川になった。花瓶、バケツ、自転車。いろんな物が流れて行った。

町は、元々それほど川面から高さがあったわけではない。昔は大雨の度に溢れて水浸しになったらしく、古くから堤防が築かれていた。

堤防の高さは、家の屋根より少し低い。つまりそこまで水が迫っていれば、溢れ出す水の深さもそれほどあるということだ。

決壊して流れ出した水は、ほとんど大通りを下っていた。泥水の流れは、胸ほどもの深さまであった。

幾度かは堤防が欠けたりして氾濫したこともある。が、こんなことは全く初めてだった。

「堤防が決壊したぞー!」

「早く逃げるんだー!」

男達は大声で叫んで回ったが、時既に遅かった。

男達の必死の声は、住人達の行動を促す前に、後ろから追いついてきた灰色の水に、飲み込まれて途絶えた。


宿は大通りに面していた。

孤児は、そこを流れる急流が、最早川と見分けがつかないことに戦慄した。

「ジョン、水が!」

『あぁそうだね。それがどうかしたかい坊や?』

悪魔はつまらなさそうに答えた。

「助けなきゃ!あそこにはまだおばさん達がいるのに!」

悪魔は眉根を寄せて、孤児を見た。

『何で私が?』

悪魔は悪魔だ。孤児を助けたのは死なれてはゲームに負けてしまうからで、悪魔に善意らしい善意など存在しないし、そもそも助けるつもりなら最初からそうしていただろう。

『私には権限がないと言っただろう』

悪魔は冷ややかに言う。

『魔王様次第さ。

 私が何かしたところで、魔王様がこうと決めた奴は死ぬんだし、死なない奴は死なないだろう。

 私がお前を助けたわけは、お前も分かっているはずだ』

万が一にも死なれては困るから。

それでも、孤児は悪魔に食い下がった。

「だったら別にジョンが助けてあげてもいいんじゃないか!」

『嫌だね。不合理だ』

悪魔がそっぽを向くように顔を大通りに向けた先で、流されてきた角材(恐らく壊れた建物の一部だろう)が、宿の壁を直撃した。

煉瓦が崩れて、壁に穴が開いた。角材はそこから更に侵入し、反対側の壁にも出口を開けた。

水は流れ込み、脆くなった壁を削って剥がしながら、部屋の中身を洗い浚い奪い去った。

その中にはっきりと、夫婦の妻が交じっているのが見えた。

「おばさんが!」

孤児が叫んだ時、更に上流から幾つかの人の姿が流されて来るのが見えた。

『おや、お揃いで』

旅人と商人と夫婦の夫と、宿の主人もいた。

孤児を抱いたままで、悪魔は屋根を蹴った。

舞うようにふわりと空を横切って、大通りに近い背の高い家の上に降りる。

空を飛んだのは初めての経験だったが、孤児は心浮き立つような心境ではなかった。

遠くに見えた人影が、ぐんぐん流されてくる。

足が届かない深さではないが、勢いに押されて立っていられないのだ。

水流に飲まれまいと、彼らは水面でもがいていた。

「ジョン!お願いだよ、助けてあげてよ!」

『駄目だ!そんなことしたら魔王様の言いつけに逆らうことになる!』

言った後で、悪魔は顎に手を当ててふと考えた。

『私が手を貸さなくても、連中が勝手に助かればいいんだろ?』

悪魔が目を向けた先に、大きな木があった。

激しい風に揺すられて、葉は千切れ飛び枝は大きくしなっていた。

悪魔が指差した途端、そこで風が渦巻いたのを孤児は見た。

『浮き輪くらいは投げてやる』

大きな枝に絡みついた小さな竜巻が、めきめきと音を立ててそれをへし折って、幹から奪い取ったのを見た。

一抱えほどもある太い枝は、濁流の中に落ちて流れ出した。

泡立つ波に押されて、枝はみるみる速度を上げてゆく。

それは程なくして、急流に漂う彼らの元へ辿り着きそうだった。

最初に見つけたのは旅人の青年だった。

波に揉まれながらも何事かを叫んで、枝を指差した。

そのすぐ側にいたのは、夫婦の夫だ。必死に枝に泳ぎ寄ろうとする旅人とは反対に、はるか先を流される妻のもとへ向かおうとしていた。その間に、商人の男を追い越した。

商人は、旅人が上げた声で枝に気付いた。

しかし、流れに抗えないのかどこか怪我でもしたのか、ひどく危なっかしく浮き沈みを繰り返している。顔色が青く見えるのは、寒さと恐怖のせいだけではなさそうだ。

旅人が木の枝にしがみ付いた。流されていることには変わりないが、少なくとも沈むことはなくなった。

水面を切る飛沫が少なかったので、大枝の分かれた先端の方へ移動した。

その頃に、夫は妻の手を取ることに成功した。妻は夫に抱きついた。

今度は枝のところまで戻らなければならない。

二人は必死に流れに逆らい始めた。

商人の男が、大きく広がった枝の先に縋り付いた。

それから、ようやく夫婦が大枝に辿り着いた。

まず夫が枝を掴んでから、妻を引き寄せて二人で掴まった。

一緒に掴まって漂っている顔触れを見て、妻が言った。

「奥さんがいないわ!宿の奥さん、私と一緒にいたの!」

「ご主人の方もいない!一緒に流されてると思ったのに!」

旅人が辺りを見回して叫んだ。

「あそこだ!」

皆が一斉に、指差した方向を見る。

荒れ狂う波間に、救いを求めてもがく主人の姿が見えた。

幸いにも、主人は枝の流れの先に居た。

このまま下っていけば、枝に取り付くことができるだろう。

流れは勢いを増して、大枝はますます速度を上げていた。

主人の伸ばした手が、枝に届くまでもうすぐだ。

その時、大枝の分かれて広がった先が、家の壁にぶつかった。

枝は折れて曲がりながら、勢いはそのままに二、三度跳ねて矛先を向けた。真っ直ぐ主人の方へ。

へし折られた傷口。ささくれ立ってナイフのように尖った木の繊維。切っ先が、主人の正面から迫る。

「ひっ……!」

ゴッ!

衝撃は、あっけないほど微かだった。

水面に一瞬赤い色が広がって、すぐに見えなくなった。

浮いてくる姿は無く、後には灰色しか残らなかった。

そして、彼らはその時になってようやく、雨が止んでいたことに気付いた。


「これがジョンの仕事だったの……?」

主人の姿が波間に消えたのを見届けて、孤児が悪魔を問い詰めた。

『まぁね。でも今のはわざとじゃないぞ』

横顔が少し驚いていたようだったので、きっと本当なのだろう。

傾いた丸太は、そのまま通りを横切って、建物に引っかかって止まった。

助かった人達が近くの家に入れてもらうのを見届けず、悪魔はまたどこかに飛んでいった。

孤児と悪魔は宿に戻ってきた。一階の壁が半分無くなっていたけれど、辛うじて倒れずに残っていた。

その屋根に、女が立っていた。

ひらりと舞い降りた悪魔を、女は見上げて待っていた。

「おばさん、無事だったの?」

孤児は女――宿の女主人に問うた。

女主人は悲しげな顔をして、

「どうもご苦労様でした」

と悪魔に頭を下げた。

『あぁ全く。ずぶ濡れだわ泥だらけだわ、うんざりだ』

それでも悪魔は、いつもの軽薄な笑みを浮かべていた。

悪魔が孤児を屋根の上に下ろす間、孤児は不思議そうに二人を見比べた。

『それじゃあ、仕上げさせて貰おうか』

「はい。お願いします」

悪魔に問われて、女主人は静かに頷いた。

「ジョン、おばさんと知り合いなの?」

悪魔は孤児に答えた。

『いいや。この奥さんがお仕事の依頼人なのさ』

ドン!

爆発のような音がした。

悪魔が孤児を見下ろしたまま女主人を指差した時、巨大な炎が彼女を包んだ。

金色に輝いて燃え上がる火の塊の中で、女主人は立ち尽くしていた。

髪の毛が、スカートの裾が、ブラウスの袖が、灼熱の温度に揺らめいている。

「何するの!」

『これがお仕事の完成なんだよ、オーウェン』

悪魔は孤児の腕を掴んで、炎から下がらせた。

『近づくなよ。お前も地獄に落ちてしまうぞ』

「地獄?どうしておばさんが地獄に落ちるの!」

『あの女が魔女だからさ』

悪魔が言った。

孤児は彼女を振り返った。

「おばさん、魔女には見えないよ」

「でも魔女なの」

女主人は炎の向こうで、陽炎のように微笑んだ。

まるで空に開いた炎の穴から、彼女が覗き返しているようだった。

「怖い目に会わせてごめんなさいね、坊や。

 でもこれは大事なことなの。だから本当にごめんなさいね」

「どうしておばさんが魔女なの?」

「どうしてって理由はないわね。魔女だから魔女だとしか言えないわ」

女主人はやさしく答えてくれた。

「私は地獄に借りを作る方法を知っていただけ。

 そして時々それを使ったから、死んだ後はちゃんと支払わないといけないだけ」

女主人はにっこりと笑って、孤児に手を振った。

「さようなら坊や」

何の前触れも無く、炎は消えた。

女主人の姿も消えて、そこには何の痕跡も残っていなかった。

『あの女はとっくに死んでいる。私はそれを迎えに来ただけさ』

悪魔が言った。

「死んで……?」

『随分前にな。

 魔女は地獄から生まれて地獄に変える。

 そうでなくても、どんな命だって死んだ後まで地上をうろつくことは許されない。

 殺したんじゃない、連れ戻したんだ。だからそんなに睨むなよ』

孤児は睨んでいたつもりはなかったのだが、悪魔がそう言うからにはきっと睨みつけていたのだろう。

「おじさんはどうなのさ。宿のおじさんは?地獄に落ちるべきだって……」

濁った渦に沈んだ彼の姿を、孤児は忘れていない。

悪魔は疲れたように答えた。

『あれは仕方ない。ルールを破ったのはあいつの方だからな。

 命は生まれて消えていく。死んだものを生き返らせることはできない。

 あいつはそのルールを破った。地獄に帰るべき女を地上に引き留めた。

 特に魔女の魂は貴重なんだ。だから魔王様に粛清されたのさ』

「そんなことできるの……?」

孤児の問いに、悪魔はとても苦い顔をした。

『……下級の悪魔が手伝ったらしい。あの男は妻の魂を手に入れたいと契約して、よく確かめもしなかった馬鹿が魂を捕まえてきた。

 男は妻の本棚から魔導書を漁って、魂を肉体に定着させた。魔女の魂だからできたことだ。おかげで私が尻拭いする羽目になった。

 後で気付いた時にはもう遅い。そいつは魔王様に喰われたよ。あの男も喰われるだろうな』

不機嫌にぶつぶつこぼす悪魔に、孤児が尋ねる。

「ジョンも魔王に逆らったら食べられるの?」

『私は魔王様に逆らうような馬鹿はしないよ』

悪魔は濡れた髪を後ろに撫で付けて、乾き始めたシャツから泥を払った。

『さぁ、そろそろ他の町に移動しようか。

 頼むからチェリーパイちゃん、今だけは我が侭を言ってくれるなよ。

 私はさっさと熱い湯を浴びてさっぱりしたいんだ』

それがこの世でたった一つの希望だとでも言いたげな悪魔が哀れで、孤児は少しだけ許してやろうという気になった。

遠くに見える堤防には、急流に流されてきた大きな木の枝や板、石や枯葉や泥や土が引っかかって、少しずつ溢れる水は少なくなっていた。

風も大人しくなっている。

嵐が過ぎた今、川が穏やかな姿に戻るのもそう時間はかからないだろう。

その後は、きっと町中で泥掃除だ。

「あれも魔王さまがやってるの?」

『そうだよ。あまりやり過ぎると後が面倒だからね』

悪魔が孤児の手を取る。

『魔王様に服を弁償してもらわないとな』

呟いた次の瞬間には、二人の姿は町のどこにもなくなっていた。




四、   幕  ――




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