椅子に座る影
新人で入ってきた下田は、周りから評判がよかった。
同じ業種からの転職だったため、基本的な事は叩き込まれてあった。
前の会社は、相当ブラックだったのか、嫌な顔一つせず残業を買って出たりしてくれていた。
下田陽介 29歳
会社員 今の会社に転職して半年。
帰りの電車で地下鉄に乗りながら、「ふうっ」とため息をついた。
先ほど、顧客先でのトラブルを終えた連絡を会社に入れたら、この間は残業したから今日は直帰していいと言われる。
こんな気遣いは、前の会社では皆無だった。
今の会社に入って半年。
やっと、この会社で一人前に扱われるようになってきたのが嬉しい。
それまでは、簡単なクレーム処理や誰かのサポートだった。
電車内は帰宅ラッシュ前の学生が多いが、結構空いている時間帯だった。
こんな早く帰れるとはな。
夕飯は定食屋で食べて、コンビニでビールと雑誌でも買って帰ろうかな。
それとも、シャワーばかりだから久しぶりに風呂でも入るかな。
風呂上がりにビールか。
そんな、これからの時間にソワソワしながら途中の駅に止まったのを窓越しにぼんやりと見る。
座席の前の窓の前に立っている。
ごく普通の地下鉄の古い駅。
何かを見つけた気がするが、何だろう?
視界の端から確認する。
駅にはまばらな人。自動販売機、椅子。ああ、目の前の椅子だ。
横に3つ繋がった椅子の真ん中に黒い人影。
今まで、人でびっしりな電車内だったので、窓から駅を見る余裕がなかった。
真ん中の椅子に座っているかのような黒い人影が、汚い壁に浮き上がっている。
汚れか?
幽霊?まさかな・・・
発車する電車内でも、なんとなく目を逸らせられない。
すると、影は長く伸び、いや、立ち上がったのか?
去ろうとする電車を追いかけ、窓に張り付いた。
黒い人影。
頭の真ん中を凝視してしまう。
真ん中が、いや、それは目だった。
黒い中の白い横線が、パチリと開いて、俺を見た。
妙に大きく見開いた目だ。
血走った目とギョロギョロ動く黒目。
それが窓の外に張り付いている。
地下鉄の真っ暗な外でも判る黒い人影。
張りついている人影は、ゆっくりと窓の上の方に蛇が動くように全身をくねらせゆっくりと動いていく。
窓の上部が少しだけ開いている。
そこから、入ろうとしているのか?
入ったら、俺の方に来るのだろうか?
周囲を見渡す。
誰も気付いた様子はない。
人影の目は、身体の動きに遅れながらも、ズ、ズズズと上に登る。
俺を見続けながら。
動けない。これは現実か?
夢を見ているのか?
そうだとしても!
俺は渾身の力を振り絞り、手すりにくっ付いたようになっている手の平を剥がす。
身体が動く。
急げ。
影は、俺を見ながら黒い塊から棒のような物を出し、窓の隙間に差し入れた。
瞬間、前の車両に走り、扉を開け身体をすり入れ閉める。
閉めた扉のガラスに、黒い油のようなものがパシッと一滴付いた。
俺は幾つかの車両を走り抜けた。
一番前の車両まで来た。
後ろを振り返る。
大丈夫だ。
追って来てはいない。
自分が降りる駅が近づいた。
見慣れた景色に安心する。
速度がゆっくりになり、そして止まった。
扉が開く。
あの窓とは反対側のドアだったため、安心も大きかった。
降りる。
背中にぺたりと冷たいものが張りついた。
息が止まった。世界も止まった。
一緒に降りた人たちの何人かは、急に立ち止まった俺を見咎めたり、舌打ちをしたりした。
行かないでくれ。
俺は動けなくなっていた。
行かないでくれ。
最後の人が、不審そうに俺を見た後、出口に向かう階段に向かって行った。
「出発ーっつ!」
駅員の声と共に電車がゆっくりと去って行く。
行かないでくれ。
古びた駅のホームに、俺一人が動けないままに取り残された。
背中にべっとりと張り付いたヤツは、ゾゾゾと上に伸びあがる。
両肩に手が置かれる。
肩が押される。
いや、奴が伸びあがっているんだ。
首から後頭部、頭の上まで冷たいスライム状のものが這い上がる。
そして、俺の顔の前に上から落ちてきた。
黒い影の見開いた目と俺の見開いた目が交錯する。
頭に響いた。
「俺ヲ見ツケタネ!」
それ以降の記憶はふっつりと切れた。
顧客のクレームの対応が良かったようで、それ以降も下田の指名があるが断ざるを得ない。
下田が会社に来なくなってしまった。連絡を入れても出ない。
しばらくしてから、新橋のホームレスの中に比較的清潔な格好をした奴がいると思ったら下田だったという噂を聞いた。
実家には連絡をしてある。
母親が出たが、随分ショックを受けていた。
その下田に似ているというホームレスを見に行こうか、社でも悩んでいるところだ。




