第六話:愛する理由と、死の微笑
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チギリは生まれながらにしてレズビアンだった。
物心付いた頃にはもう女性の事が好きだった。それも同世代よりも歳上の、大人の女性をより好んだ。まだ子供の頃にはそれを少女特有の、甘酸っぱい憧れを恋と勘違いしたそれかと思ったが、年齢を重ねるにつれやはりこれは性欲なのだと確信した。
男性になりたい訳では無い。飽くまで女性として女性を好きだった。そして、本当にチギリが心から惚れ込んだ女性と相思相愛になれ、愛する彼女をいよいよ抱こうとしたその日──チギリに能力が目覚めた。
チギリは淫魔の能力を得た。女性型夢魔であるサキュバスでは無く、男性型淫魔であるインキュバスの能力だった。触手を生やし自在に操れるその能力は、女性を抱きたいチギリにとってとても都合が良かった。
しかし愛を誓った筈の彼女は徐々にチギリを敬遠するようになった。チギリの能力が怖かったのだ。チギリはそれを裏切りと捉え、彼女を詰った。口論になり、勢いで──彼女を絞め殺した。
その晩チギリは父を殺し、母を抱いた。チギリにとって最も信頼出来る女性は母だった。母なら裏切らないと思った。そして、酒に酔う度に母を殴る父を嫌っていた。能力を、触手を使えば父は簡単に死んだ。泣く母を父の死体の前で愛した。愛してると何度も囁いた。
翌朝、母は死んでいた。目を泣きはらした死体だけがぶらんと垂れ下がっていた。またも裏切られたのだと、捨てられたのだとチギリは絶望した。
チギリは家を出て彷徨い、あてもなく旅をした。そうして──『結社』と出遭ったのだ。
コヨミを見付けたのは偶然だった。『結社』の情報部から回って来た『組織』の主な術士が纏められたフォルダの中に、彼女の名前はあった。
写真を観て息を飲んだ。白い肌、整った顔立ち、何より──一見凜とした佇まいの中に視えた影に、途轍もなく惹かれた。それからコヨミの全てを調べ上げ、ますます恋い焦がれたのだった。
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──そして偶然にも、幸運な事に、チギリはコヨミを手に入れた。
そうだ、幸運なのだ。チギリは思い直す。
何が『つまんない人生』だ。最後に良い事があったじゃないか。ずっと好きだったコヨミを手に入れられたのだ、つまらないものか。充分、幸せじゃないか。
そしてチギリは、笑った。動かない身体で精一杯、笑おうとした。
──ぐしゃり。
チギリの頭が、西瓜のように潰された。狼の一撃がチギリの生命を今、絶ったのだ。
チギリの顔はもう、どんな表情をしていたのかすら分からない。そしてもう動く事も無い。
ワダチは大きく溜息を吐くと、狼から人間へと変化した。炎のような燐光が散り、消えてゆく。
死んだチギリの残骸を一瞥すると、ワダチは躊躇いがちにコヨミへと歩み寄る。
「えと、コヨミ、さん……」
コヨミは四つん這いのままワダチの顔を見上げた。顔立ちに似つかわしくない幼女めいた無垢な表情に、ワダチは苦しげに顔を歪める。
「こんな、酷い……」
ワダチはコヨミに手を伸ばす。──その時突然、コヨミがびくり、と大きく身体を震わせた。次いでがたがたと痙攣を始め、苦悶の声を上げ始める。
「う、うう、あ、い、がああ、うっぐぐぐぐ!?」
「コヨミさん!? 一体何が!」
「あっあがががああああ! いぎゃああああぁあ!」
声は唸りではなくたちまち悲鳴に変わる。全身から脂汗を流し、傷口からは止まっていた血が溢れ始める。
「どうして突然……!? さっきまでは何とも無さそうだったのに……!」
「──チギリが死んだからだ」
狼狽えるワダチに、冷静な声が降った。ワダチが声のした方、何も無い筈の空を見上げると、そこには闇から滲むように実体化するススグの姿があった。
「あの女が死んだからって、何の関係があるってんだ」
苛立たしげに噛み付くワダチに、飽くまでも冷静にススグは語る。
「その身体を見ろ。血は大量に失われ、四肢を損じ、内臓も幾つも傷付いている。幾ら術士、能力者と言えども、そのような身体で生き永らえていられる筈が無いのだ。──その女が生きていられたのは、チギリが妖力を分け与えていたからに他ならない」
「……まさか」
「チギリが死んで妖力が途絶え、──生きる術を失ったのだ。もうすぐ、その女は息絶えるだろう」
ワダチはススグの言葉に愕然とした。そんな、それではまさか、チギリを殺したワダチがコヨミを間接的に殺しているのと、同じではないか。
「い、今から運べば、治癒の術を掛ければ……!」
「やめておけ」
どうにかしてコヨミを助けようと考えを巡らせるワダチに、ススグは冷水を浴びせた。
「た、助かるかも知れないじゃないか!」
「……無理だな。例え今は助かったとて、それはただの延命に過ぎない。重要な身体のパーツが幾つも失われている。その状態では傷を治したとして、やはり長くは保たないだろう」
それでも、と食い下がろうとするワダチにススグは静かな瞳を向け、それに、と言葉を続けた。
「よしんば身体が治ったとて、心は、魂はどうなる。こんな壊れた白痴のような精神で生き永らえる事を、以前のその女ならばどう思うか」
「……それは、……」
「諦めろ。これは貴様の為でもあるし、その女の為でもある。せめて静かに、人として──死なせてやれ」
ワダチが奥歯を噛み締める。拳を震わせる。
視線の先では、もう悲鳴を上げる体力すら残っていないコヨミが、地に倒れ弱々しく短い手足で空を掻いていた。ビチャビチャとコヨミが藻掻く度に血溜まりの血液が撥ねる。
緩慢になる動作、浅く小さな呼吸。もう直ぐコヨミが生命を失う事は、火を見るよりも明らかだった。
「コヨミ、さん……俺、ちょっと憧れてたんっすよ。綺麗だな、カッコイイなって。あんな姉さん欲しいなって……」
ワダチが血溜まりに膝を突く。くったりと力の入らないコヨミの身体を引き寄せる。その頭を膝の上に乗せ、瞳を覗き込んで語り掛ける。
「こんな最期になるなんて、俺、悔しくて、……すみません、俺にもっと力があったら、もっと違ってたかも知れないのに」
短くなったコヨミの腕をワダチは握る。手の中で血が溢れるのが、その温もりが侘しさを加速させる。ワダチは目に薄く涙が溜まるのを自覚し、泣くまいと奥歯を噛んだ。コヨミの息はますますか細く、もうぐったりと身体に力は籠もらない。
「コヨミさん、俺、……ごめん、さよなら、そして、ありがとう」
最後にコヨミは薄く、薄く笑うと、ゆっくりと瞳を閉じた。血溜まりの中、凄惨な傷を負っていながらも、その死に顔はとても綺麗で。
だからワダチは、砕ける程に奥歯を噛み締めた。ススグも何も言わず、ただ二人を見守っていた。
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