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第三話:忌まわしい過去と、堕ちる闇


  *


 感情が、爆発する。


「嫌っ、嫌、いやあああぁああぁああああっっ!」


 コヨミの絶叫が響き渡る。涙が瞳からぼろぼろと零れ、眼鏡に溜まり、溢れてゆく。


 現実と過去が交錯する。頭が赤と白に埋め尽くされる。身体が熱く寒く、脂汗が纏わり付く。


 ──思考が、裏返る。


  *


『凄えな、上玉じゃねえか』


『こいつ可愛いって最近評判になってる奴だろ』


『堪んねえな。さっさとおっ始めようぜ』


『おいおいちゃんと押さえてろよ、暴れられっと入んねえし』


 あの日、コヨミは何者かに拉致された。塾からの帰り道、ひとけの無い路地裏に引き込まれ、口を塞がれ縛り上げられて連れ去られた。


 彼らは酷く手慣れていた。そこらの学生の不良達とは違う、本物の暴力の匂いをさせていた。目はギラつき、下劣な笑みを浮かべ、タトゥーやピアスまみれの彼らはコヨミを人の居ない廃工場へと連れ込んだ。


 コヨミはまだ若く、お嬢様学校に通う普通の女子生徒だった。何の力も持たず、何の経験も無く、真っ白で無垢だったコヨミに為す術は無かった。


 彼らは何度もこのような事を繰り返しているようで、女を従順にさせる術を心得ていた。反抗する素振りを見せれば殴り、抵抗すれば縛り上げ、許しを乞うても無視し、涙を見せれば嘲笑った。着実にコヨミの心を折り、尊厳を踏み躙り、人格を破壊していった。


 真っ白だったコヨミの心は薄汚い足で容赦無く踏み潰され、真っ白だった身体は痣と傷で埋め尽くされ、コヨミは直ぐに涙も涸れてドス黒く染まった心を閉ざし、彼らの蹂躙を受け入れた。


『おい反応しなくなったじゃねえか。つまんねえな』


『最初っから飛ばし過ぎたんだろ』


『反応無えのはまだしも、完全に力が抜けてゆるゆるじゃねえか。こんなんじゃ楽しめねえって』


『おい寝てんじゃねえよ、ちゃんと力入れて悦ばせろよ』


 何度も腹を殴られ、顔を張られ、胸を踏み付けられた。結束バンドで加減無く締め上げられた腕や脚は鬱血し、感覚が麻痺した。喉が渇こうとも与えられるのは彼らの小便だけで、コヨミは外側からだけでなく身体の内側からも自身が穢されてゆく感覚に呆然と心を無にした。


 反応が無いと言っては首を絞められ、目が反抗的だと言っては頬を殴られ、身体が臭いと言っては蹴りを入れられた。コヨミは人形のようにただ漫然と、霞む視界の向こうで彼らだけを見詰め続けた。


『もうガバガバで使いモンにならねえよ、後ろ使おうぜ』


『でも汚ねえだろ』


『ホースで水入れて掃除するってのはどうだ。確か前にもやっただろ』


『そりゃいい、やってみようぜ』


 無理矢理ホースで体内に水を注入され、限界まで膨らんだ腹を見て彼らはげらげら笑った。乱暴に仰向けられた腹を踏まれ、コヨミが便と小水を噴き出す様を見て彼らは囃し立てた。ついでにと喉置くに突っ込まれたホースから限界まで胃に水を流し込まれ、噴水のようにコヨミは吐いた。その水は黄色や、濁った白を帯びていた。


 耳鳴りでがんがんと痛む頭。ただ感覚だけを享受する身体。閉ざそうとした心はそれでも自我を保っており、絶望が脳を灼いても自分を捨てる事は出来なかった。


 そんな中、彼らの一人がコヨミの身体に液体を垂らした。それは鼻に纏わり付く独特の匂いがし、さらさらと腹を滑ってゆく。


『何だそれ、ライターオイル?』


『いやさ、ムダ毛処理してやろうと思ってよ』


『焼くの? 燃やすの?』


『キャンプファイヤーだ、ギャハハ』


 彼らの一人がライターの火をコヨミに近付ける。動けない身体、動かせない手足、炎より先に恐怖がコヨミの心を炙り、燃え上がらせる。ガタガタとコヨミの身体が小刻みに震える。呼吸が速くなる。


 閉じていた心が、強烈な恐怖と絶望にこじ開けられる。感情が濁流となって迸る。


「い、や、嫌ああぁああっ、やめてえええぇええぇえっっ!」


 瞬間、コヨミの心は真っ白に爆ぜ、弾け飛んだ。思考が、視界が、一面の白に塗り潰される。意識が、燃え尽きる。


 ──それからどれ程の時が経ったのか。


 コヨミがふと目を覚ますと、そこは静まり返っていた。


 立ち尽くすコヨミの周囲には血溜まりが出来、彼ら全員がその中に倒れていた。或る者は首と胴体が切り離され、或る者は縦に真っ二つに裂かれ、或る者は手足がバラバラに千切られ、或る者は胴を割り開かれ、全ての者が死んでいた。


 臓物と血が乱雑に飛び散り、肉と骨がぐちゃぐちゃにぶち撒けられた地獄のような光景に、堪えきれずコヨミは膝を突く。震える腕が血にぬめり、溜まりに浸かった脚が生温かさを感じて悪寒が走る。


 ふと、彼らの恐怖に歪み絶叫するような顔に目が行った。その見開かれた眼が自分を見ているようで──コヨミは、盛大に嘔吐した。


「お、う、ううう、うごっごぼぼぼぼぉごおっ、うっげええぇえええごぼっっ!」


 黄色く、白く、濁った吐瀉物を血溜まりの中に吐き戻しながら、コヨミは泣いた。


 ──自身の身体が、薄らと蒼白い光を帯びている事にも気付かずに……。


  *


「コヨミ、思い出した? ねえ、ねえ、思い出した? くっきりと、はっきりと、自分がどんな目に遭ったのか、自分がどんな風に殺したのか、思い出したんだよねえええ!」


 チギリの嬉しそうな声が鼓膜をぐりぐりとなぶる。コヨミは見開いた眼からぼろぼろと涙を零し、ぱっくりと開いた心の傷からだくだくと血を溢れさせる。


「あ、あああ……嫌、駄目、私、私、人殺し……穢されて、私、身体も、手も、心も、全部、ぜんぶ、汚れて……」


「コヨミ、コヨミ。自分を責めちゃ駄目だよ、仕方無かったんだよ。あーしが赦すよ?」


 砕け壊れたコヨミの心をそっと撫でるように、チギリが囁く。


「コヨミ、コヨミは綺麗だよ、可愛いよ。コヨミは穢れてなんていないよ。あーしが保証するよ」


 がくがくと痙攣するコヨミの身体を、チギリがそっと抱き締める。


「コヨミ、コヨミ、大好きだよ。コヨミを例え世界中の人が嫌ったとしても、あーしは蔑んだりしないよ、あーしはコヨミを愛してるよ」


 幼な子を慈しむように、チギリの言葉が注がれる。


「コヨミ、全部分かってるよ。人を殺めて、能力に目覚めて、家族からも忌まれて、組織に居場所が出来てもホントは男の人が怖くて、だから男のカッコしてたんだよね。コヨミはホントは一番、全部が怖かったんだもんね。あーしは理解してるよ」


 その言葉は毒薬のように、そのぬくもりは劇物のように、コヨミの心と身体を浸食してゆく。


「コヨミ、全部、忘れよ? あーしと二人で、楽しく過ごそう? 怖い事も辛い事もなーんにもない場所で、あーしがコヨミを守って、愛してあげる。ねえコヨミ、そうしよ?」


 心を大事に守っていた殻が壊され、鎧が砕かれ、仮面が割られ、化粧が溶かされ、中身までも一緒にぐちゃぐちゃに崩されてゆく。


 ──最後に残ったのはただ、小さな小さな女の子のような、剥き出しの弱い透明な、ひとしずく。


「うわ、あ、あ、あああぁあああぁあああああああっっ!」


 慟哭が闇を裂く。ピシリ、眼鏡のレンズに罅が走った。


 それはコヨミの心を護る術具、コヨミがコヨミとして自我を保つ為の術式が込められた眼鏡であった。その鎧とも言うべき存在が、──壊れる。


「これはもう要らないね、コヨミ」


 チギリが笑いながら割れた眼鏡を取り去り、ポイと放り投げた。カシャン、と小さな音がしてレンズが砕け散る。眼鏡に籠もっていた力が光の粒となって霧散し、ただのがらくたに成り果てる。


 その音に一瞬コヨミがビクリと震えたが、何かを思い出そうとしてコヨミは直ぐにその手掛かりを手放した。心の中は全部崩れて、全てが瓦礫に埋まっている。そこに何があったかすら思い出せず、コヨミはただチギリのぬくもりに縋り付く。


 赤子のように泣き続けるコヨミにそっとキスを落とし、チギリは笑んだ。


 女にしてインキュバスであるチギリの、一目惚れした女がペットに堕ちた、瞬間だった──。


  *



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