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アルくんが心配して、私に気配を消す魔法をかけてくれる。どうやら魔力に少し余裕があるらしく、私から魔力を貰う事なく魔法を使ってくれたアルくんは、秘密だよと笑い声を出した。
ありがとうと笑みを返して、猫の姿のアルくんと木々の間を抜けていく。風歩を使っているから足音は最小限だし、そもそも精霊直々の魔法があるのだ。きっと悪いやつがいても私に気づかないだろう、と思いながら走っていると、すぐに見知った後ろ姿を見つけた。
フォル、と声をかけようと口を開いた私は、フォルのいる場所から少し先の方に別な人間の気配を感じ、はっとして木の陰に身を隠した。
敵か? まさか、学園内に?
実際それを心配してこうして出てきた筈なのに、いざその可能性を目にすると緊張で身体に力が入る。
フォルに知らせなきゃ、と思ったが、そもそも隠す気がほぼない状態である向こうの気配に、もしかしてフォルが誰かと待ち合わせしていたのだろうかと漸く考えが行き着いた時、どうしようかと焦った。
このままでは立ち聞きだ。それはいけないと思うが、もし敵であったらという疑念と、ほんの少しの好奇心。もちろんそれはいけないことだってわかっているのだけれど。
どうしよう、とアルくんを見る。
しかしアルくんは、目を大きく見開いてフォルの歩く先を見つめていた。どうしたんだろう、まさか、敵!?
焦った私はアルくんとフォルを交互に見つめて、ええいと腹をくくって木陰から飛び出した。
「フォル!」
私の呼び声に、そう遠くはない距離にいたフォルが驚いた表情でこちらを見た。が、当然敵と思わしき人間にもそれは気づかれていて。敵が、魔力を高めた……その時。
「水の盾!」
「風の盾!」
なぜか敵と私は同時に、『フォル』へと防御魔法をかけていた。
「え? あれ?」
「これは、防御魔法? どういうことですか、フォルセ様」
二人分の困惑した声が薄闇の中に響く。
私は相手が魔力を高めたことに気がついたので、フォルを守ろうと魔法を使った。
相手は、なぜフォルに防御魔法を? え?
混乱しつつも慌ててフォルに駆け寄ると、フォルは自分にかけられた防御魔法を見ながらくすくすと笑い出した。
「二人とも、ありがとう。でも大丈夫だよ。アイラ、この人はロラン・ファルダス。僕の従者なんだ」
「従者……え、あ、敵じゃない!? ご、ごめんなさいフォル!」
混乱しつつもその言葉を飲み込んだ私は慌てて謝罪した。従者。ここで言う従者といえば、主人の為に働く使用人……という言い方はあまり好きではないが、主人を第一に考える人間の事だ。
私の護衛であるガイアスやレイシスとはまた違い、従者は主に命じられれば傍を離れてその任務をこなす事もある。言わば専属なんでも使用人だ。彼が私を警戒してフォルを守る為に防御魔法を発動させたのは当然だった。
奥から現れたフォルの従者を見て、少しだけ驚く。薄闇の中なのでわかりにくいが、恐らく茶色っぽい髪の毛に黒に近い瞳だと思う。引き締まった身体に、腰の剣や身のこなし、先ほどのすばやい魔法展開から見てもかなり強い人だ。
だが、驚いたのはそこではない。
背が、高いのだ。百九十超えてるんじゃないだろうか。
この学園は私と似た年代が多く通っているせいもあるが、ここまで高い人は珍しい。大会で見たあの槍使いの男は大きいと思ったが、従者というと大体近い年齢を想像していたせいかその成長しきった背の高さに驚いた。
「これは、アイラ・ベルティーニ嬢でございましたか、ご無礼をお許しください」
「ええっ、いや、あの、こちらこそすみませんでした。フォルを狙う敵なんじゃないかって思っちゃって……」
慌ててそう口にして、すぐにしまったと思う。これでは「フォルは誰かに狙われている」と言っているようなものだ。
もちろん彼の従者がそれに気づかないわけがなく、敵ですか、と呟く。
しかしどうやら主人が狙われているという発言を心配したり警戒したりといった様子ではなく、なぜそれを知っているのかというような疑う視線を向けられて、軽く混乱した。
「いい、ロラン。アイラはいいんだ」
声を潜めてフォルが言うと、ほんの少しの間自分の主を見つめていたロランと呼ばれた従者の男は、一度目を閉じるとそうでしたか、と頷いた。
「それで、どうしたの? アイラ……って、僕がここに来たの、見ちゃったかな」
苦笑したフォルがそういうと首を傾げ、さらさらと銀の髪が流れた。それを見ながら、ぷるぷると意味もなく首を振る。
「あの、ごめんなさい。外に誰かいるみたいだったから、フリップさんかデューク様かなって何気なく見たらフォルだったから、つい」
「ふふふ、いいよ。僕も前やったしね?」
フォルが笑う。僕も前やった……? なんだったっけ、としばらく考えて、それがフォルと初めて会った頃、私の家での話であると気づく。
「う……ずいぶん懐かしい話を」
思い出してしまった私は、なんとなく照れた。こんな暗い夜、今よりもっと幼かった私とフォルの二人の距離は、今思うとかなり近かった気がする。それこそ頬に触れられる距離で……と考えて、勘違いしそうな考えに首を再度ぷるぷると振った。前もそんな可能性を考えて、違ったじゃないか。フォルには、婚約者候補がいるのだ。
今の方がずっとずっとたくさんのお話をして一緒にいるというのに、あの時の方が近かったその距離が、なぜかほんの少しだけ寂しいと感じる。
どうしようと視線を彷徨わせていると、フォルが私の頭を一度だけ、撫でた。
「それで、ロラン。ルブラの動きで何かわかったことはあった?」
フォルが唐突に自らの従者に尋ねた内容に、私はぎょっとして顔を上げた。ここにいてはいけない気がする。もうフォルは一人ではない。従者と一緒なのだ。私が出しゃばってここにいなくてもいいのだと足が一歩後ろに下がった時、伸びてきたフォルのひやりとする右手が私の左手を掴む。
「アイラ、いいよ。帰りは一緒に行こう。ロランも、彼女の前ではかまわないから」
「しかしそれでは、ベルティーニの姫が」
「大丈夫だから」
フォルにもう一度言われると、しぶしぶといった様子でロランさんが頷く。
ベルティーニの姫って、私の事か? 姫なんて呼ばれた記憶はないのだけど……なんだか私には似合わない気がして落ち着かない表現だな……とフォルをちらりと見ると、フォルは私の視線に気づいたものの訂正はしなかった。
「アイラ、ロランはね、サフィル……と言ったかな。デラクエルの、彼の、友人だったんだよ」
「サフィルの事は、聞いています。……私は彼にアイラ殿のことをベルティーニの姫だと聞かされていたもので。失礼を致しました」
「にいさま?」
まさかの内容で驚いた後、顔が少し熱くなった。サフィルにいさまの、友人……年が離れていたのもあって、そんなの全然知らなかった。しかもにいさまが私を姫と言っていたなんて初耳だ。
思わず顔を隠したくなったが、その時手を握られていたことを思い出す。
少し振ってみようとしたが、フォルは手を離してくれない。冷たかった手がだんだんと暖かくなってきて、それはそれでいいのだけどなんとも落ち着かない。フォル、ローザリア様との婚約話進んでるんじゃないのかな。こんなの見られたら……いや、ここにはいないだろうけれど。
そう思うと、ちらちらと脳内にあの可愛らしい少女がちらついて仕方がなくなり、私は身じろぎした。だが、やはりその手が離れる事はなかった。
落ち着かない気持ちで、どうすればいいのかとロランさんとフォルを見る。
ロランさんは少しだけ驚いたような表情をしていたが、すぐに真剣な表情に戻すと、話を本題に戻すことにしたらしい。
「……申し訳ありません。何も情報を得ることはできませんでした」
そう切り出したロランさんは、むしろそれがおかしいのだと語る。
「これ程情報が流れないということは、敵も細心の注意を払っている筈なのです。だが、仲間が捕まっても動いた気配がないというのはおかしい。しかも捕まったあの男は自分の記憶を簡単に捨てるタイプではないと思うのです」
「そうだな」
真剣な表情で悩む二人を見ながら、首を傾げる。あのルブラの男の話をしているのだろうが、彼は自分で記憶を消したのではないのか?
「アイラはさ、ここに記憶を消す薬があったとしたら、飲める?」
ここに、とフォルが手のひらを見せるが、別にその手に何がのっているわけではない。あくまでそうであったとしたら、だ。
あのルブラの男が記憶を消した事について言いたい事があるのは、わかった。
あの男は、必要最低限の生活知識だけ残して全て忘れているそうだ。
食べ物の食べ方は理解しているが、自分の名前を理解していない。お風呂の入り方はわかっているが、ルブラで何をしていたのかどころか、ルブラ自体を覚えていない。そんな都合のいい、記憶喪失らしい。
私がもしそんな薬があるとして飲んだとしたら、消えるのは医療科で学んだ魔法の知識や精霊から学んだ薬草の知識だろうか。ベルマカロンを通して覚えたお菓子の作り方や経営の大変さもかもしれない。そして、大事な家族や友人との記憶も。
「……無理ね、今までの努力や思い出を消すなんて簡単には」
「そうだよね。僕も嫌だ。……捕まえたルブラの男は研究者のようだった。辛いことがあるのならまだしも、研究者で捕まえた時もあれ程威勢がよかった、そんな男が自分の知識を簡単に消すだろうか」
「……つまり?」
「消されたんじゃないかと疑っているんだ」
あの男は捕まえてからというもの、城の牢に入れられて厳重な監視の中にいた。それなのに、いつの間にか記憶がなくなっていたらしい。
そもそも、先ほどフォルは「薬」という例えをしたが、そう都合よく消したい事だけ記憶を消すような薬というものは聞いた事がない。
魔法だってそんな……あ。
「ねえ、フォル。デューク様が、あの村の人たちが私達の能力についての口外ができないように、魔力によって制約が成されるって言ってたでしょう。その時、記憶を消すこともできるって言ってたよね?」
「うん。もっとも、それは誰でも使える魔法じゃない。医療科で貴重な治療法を学べるのが成績上位組だけであるように、この国でも一握りの人間だけが把握しているものだ。誰にでも教えられる技じゃないからね」
「じゃあ、その『一握りの人間』が」
「王家の信頼を裏切ってあの男の記憶を消した……つまり、ルブラもしくはルブラの協力者が上層部にいるんじゃないかってこと」
思わず、小さく「そんな」と呟いた。それを調べているんだけどねと難しい顔をしてフォルがため息を吐く。
「仕方ないか。ロラン、引き続き調べてくれ」
「わかりました」
短い指示だけでロランさんはすぐに頷くと、先ほどからじっと見ているアルくんに一度視線を向けて首を傾げた後、すっと頭を下げた。
「お屋敷までは」
「いい。アイラと二人で帰るよ。アルもいるしね」
フォルがそういってアルくんを見たあと、繋ぎっぱなしであった私の手を引いて、来た道を戻り始めた。
あれ、いいのだろうか、もう用事終わった? 私がいて話せない事とか、なかったんだろうか。
ちらりとサフィルにいさまの友人であったというロランさんを見ようとしたが、そこにもう彼の姿はなくて。
「あの、フォル、勝手に来てごめんなさ……」
「本当に大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。……ああ、アイラ。この後僕の部屋にでも、来る?」
「え? えっと、うん、何かあった?」
手を引かれて前を歩くフォルに引っ張られながら歩いていた私が尋ねると、一度ぴたりと足を止めたフォルがゆっくりとこちらを振り返る。
目を合わせようとして、私は固まった。少し細められた瞳が、いつもとは違う気がしたのだ。
「アイラ、駄目だよ?」
「え?」
すっとフォルが近づいてくる。手を引かれて、フォルの左腕がなぜか私の背に回った。
さらさらの銀の髪が視界の前で揺れる。フォルの顔が、私の首から肩の辺りへと近づいた。
「夜に異性の部屋に来るなんて言っちゃ駄目。二人きりで、僕が襲ったら、どうするの?」
囁かれるように言われた言葉が耳を擽り、吐息が首筋に触れてさらにぞくぞくとして私は震え上がった。
いせいの、へや、ふたり、きり? ……ぼくが、おそったら?
「ふぉ、ふぉる……っ、ちが、何か話があったのかと思って……っ!」
「うん、わかってくれたなら、いいや。……ほら、ナイトも怒ってるみたいだし行こうか?」
くすくすと笑うフォルが、再び離れて私の手を引き前を歩いた。
ナイトってなんだと思ったら、足元で毛を逆立ててアルくんがフーフーと怒りながらフォルの足をべしべしと叩いたり引っかいたりしていた。
ああ、アルくん。フォルの服高そうだから、そのあたりでストップで! なんて考える私は、どうやら結構パニックを起こしていたらしい。
知らず知らずのうちに力が入ってぎゅうぎゅうとフォルの手を握り締めながら、私は熱い顔を冷やす風が冷たくて丁度いいなと、大人しく手を引かれて歩いた。




