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「いっ」
地面に叩きつけられた衝撃に声が漏れる。だが、私より悲痛な「キャウンッ!」という鳴き声が聞こえた瞬間身体に圧し掛かっていた熱が遠ざかった。
ちかちかしているが目をなんとか開けると、剣を構えたガイアスと、横から矢が突き刺さり地面にころがるグーラーの姿が見えた。矢を放ったのは、レイシスだろう。
「大丈夫かアイラ!」
すぐに膝を突いたガイアスが身体を起こしてくれて、なんとかこくりと頷く。よかった。さっきかけた鎧の魔法がかかってたおかげでグーラーに噛まれたようだがどこも怪我をしていない。
レイシスが転がったグーラーにとどめを刺すと、私に駆け寄る。
「お怪我は!」
「大丈夫。それよりデューク様突き飛ばしちゃった、大丈夫ですか?」
「問題ない。悪い、油断していた」
王子が無事な事を確認して、ほっとした。こんなところで王子を怪我させるわけにはいかない。だけど……。
びっくりした。あんなときって無駄に近づいてくる恐怖がスローモーションになるものなのか。
ゆっくりしているように見えるのに逃げられなくて、身体が竦んで動けなかった。鎧の魔法、とけてなくて本当に良かった。
レイシスがほっとした様子でガイアスに支えられていた私を立たせると、自らの身体で庇うようにしながら周囲を警戒した。
「捕まえたなら長くいないほうがいいな。増援がきても困るし」
ガイアスの言葉に頷いて、王子が鎖の蛇を土に絡みつかれた女に向かって放つと地の蛇はその場でぼろぼろと役目を果たし崩れ落ちた。
私はすぐに魔力を精霊に渡し、周囲に他の人間の気配がないか探る。
……大丈夫かな。
「今は大丈夫みたいだから、早く帰りましょう」
告げれば、王子が鎖を確認し頷く。女の足と腕に刺さった矢は抜き、女が詠唱できないようにと警戒しルセナが壁の魔法を施しておく。
行くぞという王子の合図で、鎖の蛇が女を縛り上げたまま龍のようにうねり宙に浮く。全員がそれを囲むように移動を始め、ところどころにあるグーラーの死体に警戒しながら木々が密集した辺りを抜けると風歩で跳んだ。
全員周囲を確認しながら細心の注意を払っていたと思う。だからこそ、焦る。
「雨が降りそう」
身体に纏わりつく重く湿った空気と匂い。空を見上げれば星ひとつなくて、すぐにでも雨が降り出しそうだ。
雨を魔法で避ける事はできる。だが、それは鎖の蛇で移動しているだけでも目立つのに更に目立つことになるので避けたいし、雨が降り出せば敵が現れても探知しにくい。こちらが相手を探知しにくいのに敵は私達を探知しやすい状態なんて作るべきではないだろう。
王都の外壁が見え、大きな門を確認してもう少しだ、と思ったところでぽつりと頬につめたいものがあたる。
「ちっ降り出してきた」
「もう少しだよ。門までいけばうちの騎士が来てる」
フォルが風歩をしながら伝達魔法の魔方陣を作り出す。恐らく門の辺りにいる騎士に連絡をとっているのだろう。
見つめる先の門のところで数人の騎士がすぐに動き始め、門の開閉準備に入る。と言っても、大きな門ではなくて兵達が出入りする小さな方を使うらしい。
漸くここまで来たことにほっとして、ふと隣を見るとレイシスが少し眉を寄せ難しい顔をしていた。
「レイシスどうしたの?」
私が問いかけると、いえ、と言葉を濁しつつちらりと先ほどまでいた方角の森を見た。
「前に俺とガイアスだけ任務で出た時も、敵はあの辺りだったんです」
その言葉にまず最初に反応したのは、少し先を走る王子だった。僅かに顔をこちらに向け、本当かと問う。
「間違いないです。ただの偶然、でしょうか」
「アイラ、あの地で他に異常があったかわかるか」
「さっきの時点では何も。必要でしたら調べておきますが」
王子に問われて、精霊たちが特に何も言っていなかった事を伝える。もっとも、精霊達も余程異常でなければ伝えてこないだろうが。
考えながらまっすぐ門を目指していると、戸惑ったようなおねえさまの声が聞こえる。
「あの、アイラは……」
「ラチナ、その話は今度だ」
王子が遮る。既に私は先ほどの森で精霊の力を借りてしまっているし、もうばれているようなものだろう。
正直なところ、おねえさまとルセナには話しておきたい、という感情が強い。隠し事というのは案外疲労するものだし、何より隠し事をしている、というのがもやもやとして辛いのだ。
もちろん友人であればなんでもかんでも話したほうがいいというわけではないし、ルブラの存在を父に聞いた後で話す事に若干の不安もあることにはあるが、エルフィについては一緒に任務をこなしていくのであれば隠し続けるのも難しい話であるし、何よりおねえさまとルセナ以外は知っているのに、というのが心のどこかにひっかかっているのかもしれない。
ただ、秘密を知るというのは覚悟がいることである事もある。おねえさまとルセナが拒絶するようなら、それを無理に伝えることもできないし、難しいところだ。
王子がちらりと私を見たので、大丈夫だと微笑んでおく。もとより私は絶対に隠し通したいと思っていたわけではないのだ。それが、一番の理由であろう。私は実家では母に倣い使用人の前ではほぼ隠さない生活をしていたというのも大きい。
ふと、きっと私達が暮らしやすいように父やゼフェルおじさんが頑張ってくれていたのだろうな、と思う。確かに町でエルフィの力を使ったりするのは止められていたが、使用人たちの前では制限されることなく自由な生活をしていたのだから。
門の前について待機していた騎士の一人とフォルが話をすると、すぐに捕まえた女を引き渡すことになった。
その頃には、雨が本格的に降り出していて身体を濡らし、水を吸い込んだ外套が重くて、服に水が染み込んでいき体温を奪い始めていた。
夏であるが、さすがに冷えてきたな、と思っていると、王子がかけた鎖の蛇が解かれる。
「こら大人しくしろ!!」
騎士が叫びすぐに自分で鎖の蛇を唱え縛りなおしたが、女は必死の形相で逃れようともがく。そういえば、女は一度も声を発していなかった。これほど暴れているのに口から漏れるのははくはくとした荒い息だけで、おかしい。
じっと目を細め彼女を見る。ふと、喉におかしな魔力が溜まっていることに気がついた。
「あの、彼女の喉元に何か魔力の塊があります。明かりを近づけてもらえますか」
拘束する騎士に頼むと、騎士は無言で持っていたランプを近づけてくれる。
煙かと見間違うような黒がそこにはあった。
「デューク様、喉にあるのは闇魔法です」
王子の傍に近づきこっそりと告げると、王子は睨むように女を見た。
女の喉は、外套と妙な布で巻かれているため肌を露出してはいない。
「その女の喉に恐らく闇魔法がかけられている」
辺りを一度警戒するように見回した王子が、数歩騎士に近づいて静かに告げると、騎士は驚いたように仰け反り、鎖の蛇が緩む。
「おい! 蛇を解くな!」
ガイアスが叫び女に剣を抜いた瞬間、持ち直した騎士が再度女を締め上げる。
「恐らくこいつは操られている。喉に何か闇魔法をかけられているはずだ」
「し、しかし」
騎士は明らかにうろたえていた。若い騎士だ。きっとあまり知られていない闇魔法を恐怖したのだろうが、彼はジェントリーに仕える騎士なのに、とほんの少し不思議に思う。
もしかしたらうちとは違って、ジェントリーで抱える何かは家の中でも秘密にされているものなのかもしれない。
フォルが何も言わずに女に近づくと、その喉元の布に手を掛けた。
ぐっと引き布が落ちた時、喉に巻かれていたものを見て誰かがひっと声をあげた。
女の白く浮かび上がるほっそりとした喉に、細い鉄の鎖がぐるぐると巻きつけられ、所々赤く染まっている。そしてその喉の中央に、鎖に留められた赤黒い石がつけられているのだ。まるで血を思わせるような、赤。
その赤黒い石の周辺に、黒い煙のような魔力が漏れ出している。
「これがこいつを操ってる元凶だな」
王子が静かにそういうと、ひぃ、と騎士が身体を震わせた。だ、大丈夫だろうかこの騎士に任せて。
と、騎士がもう二人門の内側からやってきたのが見えてほっとする。見覚えがある彼らはたぶん王子の護衛だろう。
「よし、ここから先は俺とフォルでこいつを連れて行って事情を話してくる。ガイアス、レイシス、ルセナ。ラチナとアイラを無事に送れ」
「りょーかい!」
王子が解散を宣言する。終わった。今回の任務もなんとか無事に終えたのだ。
顔を雨の雫が伝い、犬のようにふるふると頭を振る。雨は随分と細くなり、少しの間だけかもしれないが傘も要らない程まで落ち着いている。だが、もう手で拭ったくらいでは不快な雫は肌に張り付いたままで、体温をだんだんと奪っていくだけだ。
そろそろ魔力を使ってもいいかな、と思いながらずぶ濡れの自分の身体を見下ろしていると、頭にそっと手が載せられた。
「えっ」
ふわっと覚えのある魔力に包まれて、顔を上げるとフォルの銀の瞳と目が合う。身体に張り付いていた水分が消えていき、フォルが乾かしてくれたのだと気づいてお礼を言おうとすると、ふわりとフォルが着ていた筈の、既に乾いていた外套が肩にかけられた。
「風邪をひかないようにね、アイラ」
にこりと微笑まれて、ありがとう、と口にした声がなぜかだいぶ小さなものになる。
見れば王子も同じようにおねえさまの水を払っており、上着をかぶせていた。
「すぐに暑くなると思うけれど、今は身体がかなり冷えたと思うから着ていくといいよ。……明日の午後特殊科の部屋に集まるみたいだから、また明日ね」
「う、うん」
こくこくと頷くと、既に自分で水を飛ばしたらしいレイシスに手を引かれた。
「お嬢様、行きましょう」
ガイアスも並び、ルセナもおねえさまと一緒に傍に来たので、王子とフォルにまた明日、と挨拶して門をくぐる。
門をくぐる前にちらりと見たあの女性は、いまだに諦めることなく鎖の蛇の中でもがいていた。生気のない顔を見た時、目が合った気がして慌てて逸らしてしまったのを、少し後悔する。
治療、してあげればよかったかな。
彼女の傷だらけの身体を思い出すが、あちらにはフォルもいるのだし、と思い直し、私はガイアス達に続いて再び風歩を使う。
「……それにしても、フォルセはアイラがよっぽど大事なのですわね」
いつの間にか横に並んでいたおねえさまが、ひそひそと内緒話をするように、そして努めて明るい声を出している様子で話しかけてくる。
「フォルが? 大事?」
おねえさまの言葉を繰り返しながら、首を傾げる。
……確かに優しくしてもらっている。さっきも水を払ってもらったし……だけど、フォルは誰にでも優しいと思うが。
「フォルは誰にでも優しいと思います。……それにデューク様だっておねえさまの雨を飛ばしてくれてましたよ?」
ついそのまま思ったことを言えば、おねえさまはさっと頬を赤く染めた。
え、可愛い! おねえさま可愛いです、とそのまま口にしてしまい、更に赤くなったおねえさまはもうと頬を手で押さえながら、次の瞬間にはにやりと面白そうな笑みを浮かべる。
「アイラこそ、フォルセの唇がマシュマロより柔らかい、だったかしら? 何か、キスした恋人みたいな発言でしたわね」
「そ、そんなんじゃありません! おねえさま見てたじゃないですか!」
今度は私が顔を赤く染めた自信がある。あれは、完璧な痴女である。完全な黒歴史じゃないか! 男の子の唇を触るだなんて普通はやらない。もうあれはすばらしく変態の域である。
「どきどき、しましたの?」
「どきどきというよりあれは爆発レベルの失態で……」
「失態ねぇ」
くすくすと笑うおねえさま。でもその後に、おねえさまは「なら」と付け加える。
「あなたの頬に手を添えたフォルも痴漢かしら?」
「え?」
頬に手を添えた?
おねえさまの言葉がわからず首を傾げた時、急激に記憶が蘇る。そういえば、私がフォルの唇に手を当てた事件はそもそもフォルに……
かあっと頬が、いや、全身がゆでられたみたいに熱くなる。
そんな私をみたおねえさまが少し驚いた表情をしたのが見えたが、それどころではなかった。
頬に触れる少し冷たい彼の手に、至近距離……いやいや、ほ、ほんの少しだけ近い距離にいた彼の瞳を思い出して、今更ながらなんだあの状況! と悶えた。
あの時は、エルフィであるような言葉を不用意に口にした私を止めてくれようとしたのだとそれにばかり気をとられていたけれど、確かにすごい状況だった。あれか、フォルも痴女……じゃない、痴漢仲間だったのか!?
「あら、アイラ、その顔はもしかしてフォルセを自分と同じような変態扱いしているのではなくて? まあ、否定もしませんけど」
「おねえさまそれさりげなくフォルだけじゃなくて私も変態だって仰ってますよね!」
若干涙目で見つめ返せば、ふふふと笑ったおねえさまはそうじゃないわよ、と続けた。
「フォルセもさすがに誰にでもあんなことしないわよ、幼馴染である私が保障するわ」
「え、おねえさま幼馴染だったんですか!?」
驚きながらそんなことを口にする。頭の、上の方では確かにそんな疑問が沸いたし、それを口にしているのに、頭の奥、いや心の奥だろうか。そこではどくどくと別な疑問が渦巻き、心音を乱す。
「あら、気づいていなかったの? フォルセから聞いていないかしら、あなたの領地にフォルセが昔迷いこんだ時迎えに行ったのはうちの者だったのよ」
「そう、でしたの」
辛うじて言われた内容を理解し相槌を打つが、さすがに先ほどの台詞は私の中から簡単に消えてくれなかった。
まるで、お母様の秘蔵の棚の中にある恋愛小説を読んだ時のような、どきどきとした心音に、胸を押さえて足をばたつかせたくなる。
心のどこかで、「いやいやまさか」と思う心と、「もしかして?」と思う心とでせめぎ合い、私の風歩はほんの少しだけ乱れた。それに気づいて慌てて集中しながら、熱い頬を隠すようにそっと腕を当てた時、そこにフォルを感じた。
この外套、フォルのだった!
結局もたもたと自分の感情を持て余した私は、それがどういった感情で、私がどう思っているかなんて考える暇もなく、夜の生ぬるい風を頬に感じながら街を進んだのだった。




