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 笛の音が聞こえる。

 だっと地面を駆け出し走る人々。白い体操着がまぶしくて、少し羨ましい。

 風も入ってこないようなむっとした暑い日。体育の授業を休んでいるのは私だけだが、とても羨ましそうな視線を浴びた。

 でもそちらの方が羨ましいのに。健康的な体で、皆で身体を動かせて、一緒に何かを成し遂げられる。

 読んでいたファンタジー小説を机に放り投げる。一人は、つまらない。



 突然視界がぐにゃぐにゃと歪んだ。

 青空。

 私は澄み渡る青空の下、肌に風を感じながら散歩している。……私?

 違う、いや、違わない。私はアイラ・ベルティーニだ。

 私は今何を見ていたのだろう。笛の音が聞こえて……笛、の。


「笛!」

 突然意識がはっきりとして、私は飛び起きた。ぐらっと一瞬頭が揺れ、またやってしまったと思う。目が回る。

 何か夢を見ていた気がする。なんだっけ……そうだ、笛の音!

「起きたのか」

 カーテンが揺れて、アーチボルド先生の姿が現れる。カーテン? ここ、救護室かな。あ、救護室の奥の休憩部屋かもしれない。

 そうだ、私、ハルバート先輩と試合して負けて……

「……負けちゃった」

「いい試合だったぞ」

 ぽん、と先生の大きな手が頭に載る。思いのほか優しくて暖かくて、視界が歪んだ。

 もっと、頑張りたかった。

 駄目だ。泣くなアイラ。お母様が言っていた筈だ、負けは次の勝利への第一歩って、小さな頃にガイアスに負けた時教えてくれた。

 ふと、自分の手を見る。怪我はない。ぐっと握って開いてと繰り返して、尽きた筈の魔力が少し戻っている事を確信する。……どれくらい寝た!?

「先生! 試合は!?」

「そう思って待ってたんだ」

 先生はそういうと、あっちの控え室から救護室急いで戻るの大変だったんだぞ、と言いながらごそごそと鞄を探り出す。そうか、先生も忙しいのに、無理をさせてしまっていたらしい。

 それでも私が起きた時の為に戻ってきてくれるとは……普段のやる気のなさはどうしたんだと一瞬失礼な事を考えたことを心の中で詫びつつ、先生から渡されたものを手にとる。

「とりあえずそれ飲んどけ」

 渡されたのは、またしても魔力回復薬。どうやら治療してもらった時では回復しきれなかったらしい。

「試合は、ファレンジとガイアスの試合は終わった。ファレンジの勝ちだ。ガイアスはそっちの部屋で治療中」

「えっ!?」

 ガイアスが、負けた!? しかも治療中!?

 慌ててベッドから降りようとすれば、先生に押し戻される。まったくお前はとお小言つきだ。

「レイシスもお前も、話を聞いてから動け。まあ、ガイアスの意識はしっかりしてるし怪我も少ない。ファレンジの方は魔力切れで寝てるがな」

「そう、ですか」

 どうして勝ったほうが寝込んでいるのだろうと少しひっかかるものの、とりあえず両者無事であると聞いてほっとする。

「じゃあ、あの。今はもしかして」

「レイシスとフォルセだな。それも二十分くらいたってる」

「に、二十分!?」

 経過された時間にぎょっとして、そして試合の様子が気になって仕方がなくなる。二十分たったのなら、もう終わってしまうのではないだろうか。

 そわそわとし始めた私に、先生は苦笑した。

「それを飲んだら、治療を終えたガイアスと席に戻っていいぞ」

「はい!」

 すぐに蓋を開け、甘い香りのそれを飲み干す。小瓶を返しに行こうとすると、先生が代わりに受け取ってくれた。

「ほら、行ってこい」

「はい!」

 慌ててベッドから飛び降り、先生に慌てるなと注意され、はいーと半ば聞いてないような返事をしながら部屋を出る。

 すぐに目に入ったのは、椅子に座って元気に「おっ」と声を上げたガイアスだ。

「ガイアス! 大丈夫なの?」

「全然平気平気。でも負けちまった!」

 笑いながらも、次は負けないと意気込むガイアスを見て肩の力が抜けた気がした。

 ひょいと椅子から下りながら、ガイアスがありがとうございましたーと間延びした声を出すと、気をつけなさいと女性の先生が送り出してくれる。

 ふと、ローザリア様たちがいないな、と思ってきょろきょろとすると、気づいたガイアスがああと声をあげた。

「一年医療科なら今カーテンのむこうでファレンジ先輩の治療中」

「ああ、そっか」

 なるほどと理解し、邪魔にならないようそっと扉を閉めてガイアスと席に戻るための道を歩く。

 王子は先に席に戻ったらしいが、ガイアスの試合中私の傍にいてくれたらしい。なんでも、一年の特殊科はなるべく固まってろ、とアーチボルド先生にこっそり指示されたそうだ。

 ラチナおねえさまは既に席に戻れるほど回復したらしく、ルセナと王子と一緒にいるだろうとのこと。ほっとしたが、試合が気になり歩くペースはどんどんあがっていく。

「アイラ、起きたばっかでそんな速く歩くな」

「でも、試合が」

 レイシスとフォルの試合開始からかなり時間がたっている。もういつ決着がついてもおかしくないだろうと気持ちが急いでしまうのは仕方ないだろう。できることなら風歩で移動したいくらいだ。

 そんな気持ちが顔に出ていたのか、ガイアスは苦笑すると私の手を引き少し急ぎ足で前を歩いてくれる。これはつまり、風歩はやらせてくれないらしい。もう、大丈夫なのに。


 ざわめく声が聞こえ始め、階段を上るとすぐに特殊科の席の傍に出る。

「おねえさまっ! 大丈夫ですか!?」

 そこに見えた姿に、ついもう体が大丈夫なのかと近寄れば、おねえさまはくすくすと笑った。

「アイラこそ。相当すごい試合だったでしょう?」

「あ、もうその頃には起き上がれていたんですか?」

「ええ、デューク様の試合は見損ねたけれどアイラの試合はぎりぎり見れたわ」

 ほっとしつつおねえさまの隣に座り、前に座る王子に付き添ってくれたお礼を言うと、レイシスとフォルの試合の状況を教えてくれた。

「あいつらほぼずっと状況が変わらないんだ。レイシスが距離をとって矢を放てばフォルはそれを風の盾で叩き落すし、フォルが魔法を使えばレイシスがすぐにそれを防ぐ。お互い大きな魔法を使わせないぐらい隙を見せないんだが、だからこそ進まん」

 そう言って肘を太ももにのせ、頬を支える形で面白くなさそうに言う王子。おねえさまも「ずっとなんですのよ」と少々困り顔だ。

 下を見れば、距離をとって魔法を打ち合う二人。二人ともガイアスのように積極的に攻め込むタイプではなく、慎重派だ。だが、あまり続けば魔力だけではなく体力だってどんどん落ちていく。持久力の戦い、となると、どちらに軍配が上がるのだろうか。

 怪我はしないで欲しい。甘かろうがなんだろうがそれは譲れない願いだ。

「どっちを応援してるんだ」

 突然王子に話しかけられ、へ、と間抜けな声が出る。

「どっち、どっちって……」

 試合はレイシスとフォルだ。どっちだなんて、何を言っているのだろう。

「こうした試合を見ていると、両者が知り合いでもどちらかが攻撃をぎりぎり防ぐと、おしい、とか思うだろう。それが真に応援しているほうなのかと思うと、なんだか辛いなと思ってな」

「そうかしら。私はレイシスが攻撃を防げばほっとしますし、フォルセが攻撃を防いでもほっとしますわね」

 話を聞いていたおねえさまが言うと、王子はそうかと言って少し考えた後、試合に出ているのがレイシスではなく俺なら? とおねえさまに質問した。

「……それでも変わらないと思いますわ」

「そうか……で、アイラは?」

 再び私に話が戻り、私は思わず眉を寄せた。少しいじわるな質問に感じるのは、私がどちらを応援してるのか知られたくないのか……いや、自分で知りたくないのか。だって、わからないのだ。

 フォルは大切な友人だ。だが、レイシスは幼い頃から共にいてその修行も、彼が苦労していたのも知っている。

 レイシスを応援するのが普通だろうか。でも、フォルだって。そう思うこと自体裏切り? ……誰に対しての裏切り?

 ルセナと目が合う。彼は眉を寄せて難しい顔をしていた。

「デューク、うちのお嬢さんをそんなにいじめないでくれよ」

 うんうんと唸っていると、後ろに座るガイアスから助け舟が出された。ほっと息を吐く。

「そうか」

 同じ台詞を呟きながら今度はにやりと笑う王子。

 王子は何が聞きたかったのだろう。視線がもう外され、皆試合に集中し始めたのがわかったが、胸がもやもやとしたまま消えない。

 どちらか、決めなければいけないのだろうか。いや、でもおねえさまは二人とも、と言っていたし。でも、それが裏切り? どちらに対して?

 また同じような考えに陥り、まるで迷宮に迷い込んだ気分になる。

 ぽん、と頭に何かが触れた。見上げると、ガイアスが微笑んでいる。レイシスと、同じ顔だ。

 ガイアスは少し屈むと、小さくささやく。

「俺は二人とも応援してるぞ。レイシスは大事な弟だけど、フォルだって大切な友人だ」

「……そっか」

 ガイアスに言われると、すっと圧し掛かっていた重いものをガイアスが持ち上げてくれたように感じた。


「あっ」

 ルセナの声にはっとしてガイアスと試合に目を移すと、両者今までよりも大きく距離をとり魔力を高めているのがわかる。

「動くぞ!」

「あの魔力のうねり、二人とも相当でかい魔法でくるぞ」

 ガイアスが叫び、王子が状況を分析しながら背を伸ばす。

 ぐっと手を握る。勝負が、動く。

 観客席が一気に沸いた。待ってましたといわんばかりに歓声があがり、急に騒がしくなる。

 ガイアスが席を移動し、私の隣に座った。私より少し大きくて硬い手がぎゅっと私の手を握ってくれる。

 二人で下を見る。

 色が見える。レイシスは緑、フォルが透き通る薄い水色。二人ともお互いの得意な魔法で確実に攻めるらしい。

 観客席には防御壁が張られているはずなのに、吹き荒れる風と冷気がこちらにも伝わるようだと感じた瞬間、二人が同時に手を振りおろした。

「ミストラル!」

「スノウストーム!」

 張り上げた声がアナウンスの魔道具に届いたのか、会場に響き渡る。

 ごうっと音がして、観客席まで揺れたように感じた。ちょうど中央のあたりで二人の魔法がぶつかり合う。

 激しい風と吹雪のぶつかり合いに、防御壁がところどころ白く染まる。吹き荒れた雪が地吹雪のように走り回り、恐らく鎧の魔法をつけていても下にいる二人に相当な風が叩きつけられている筈だとぞっとした。

「が、ガイアス」

「おいあれ、威力強すぎないか」

 手を取り合いながら、恐ろしい魔法を見つめる。

 二人とも大きな魔法を前に打ち出す形で両者の魔法を力比べのようにぶつけあっているが、威力が高すぎて周囲にもだいぶ影響を与えている。フィールドに出ている審判の教師は強い防御石にさらに自ら防御壁を張っている筈だが、それでも中央付近から逃げ出し必死に壁を重ねている。

 長くはもたないぞ、と王子が呟いた。固唾を呑んで見守っていると、吹雪と風が唐突に弾け消える。ほぼ同時だ。

 あ、と誰かが叫ぶ。私だったのかもしれないが。

 暴風と吹雪が収まっていく。観客席の殆どが立ち上がり下を覗き込んでいる。

「レイシス、フォル!」

 見えたのは倒れている二人の姿。そこに駆け寄る教師達。中に、アーチボルド先生もいるのが見える。

 しばらくフィールドには先生と生徒会の姿が交錯する。すると、生徒の一人が高らかに手を上げた。

『すばらしい試合を見せた特殊科一年レイシス・デラクエルとフォルセ・ジェントリーの戦いは、引き分け、引き分けの結果となりました! なお引き分けはルール上準決勝に進まないものとします! あっ』

『貸せっ』

 生徒会が引き分けというより両者敗北という結果をアナウンスしているなか、物凄い速さでそこに近寄りマイクのようなものを奪い取ったのはアーチボルド先生だ。

『一年"医療科"アイラ・ベルティーニとラチナ・グロリア! 人手が足りないから大至急救護室に下りてこい!』

「へ、は、はい!」

「ええ!?」

 聞こえる筈がないのに叫ばれた内容に慌てて返事をしておねえさまと立ち上がると、ガイアスも一緒に立つ。

 背後から、お昼の休憩を挟みまして試合は午後から……とアナウンスが聞こえる。午後最初は王子の試合だ。レイシスとフォルが駒を進めなかったから、王子とハルバート先輩のどちらか勝ったほうがファレンジ先輩と決勝を迎える。


「失礼します!」

 飛び込んだ救護室は慌しく倒れたフォルとレイシスを運び込んでいる。見回すと、アニー様がぐったりと椅子に座っているのが見えた。ローザリア様も少しばかり疲れた様子を見せている。

 大丈夫ですかと声をかければ、アニー様は申し訳ありませんと首を振った。恐らく回復魔法を使いすぎて疲れが出たのだろう。ここまでになるとは、人手不足すぎる。

 私もお世話になったんだよなと申し訳なく思いつつ、ローザリア様に動けますかと尋ねると、彼女は不安そうにフォルの顔を見て頷いた。

 そういえば彼女、フォルと仲がよかったんだ。

「じゃあローザリア様はフォルの魔力漏れの確認お願いできますか!?」

「えっ」

 レイシスに駆け寄りながら言うと、少し驚いたような声に、見開かれた瞳。首を傾げてそれを見つめ返すと、慌てたように手を振られた。

「も、もちろんですわ。お任せください。あ、ラチナ様はファレンジ様をお願いできませんか? 魔力漏れが見つかってアニー様が治療をしたのですが、まだ目が覚めなくて」

「わかりましたわ!」

 なるほど、ファレンジ先輩はまだ治療が完全ではなかったのか。それにしても、誰かアニー様に魔力回復薬を渡してくれていないのか? あれでは患者が増えてしまうだろうに!

 見回せば、なるほど教師はおろおろとしている例の年配教師しかいない。紳士科の教師だったか、予定が狂わず医師がちゃんと来ていればこんなにあの先生も慌てなくてもよかっただろうに。

 棚を漁り魔力回復薬の小瓶を一本取り出すと、アニー様に渡す。すると年配教師が「それは高価なもので」とか言い出したので、アニー様が萎縮してしまい、むっとする。

「彼女の手は必要です! 彼らの治療が遅れたらどうするんですか!?」

 怒りのままに傍でローザリア様の治療を受けているフォルを示すと、倒れている相手の顔を見た教師はひっと息をのみ、また忙しい忙しいと部屋を出て行く。つ、使えない!

 ああ、相手がジェントリー公爵家の息子だから黙ったのか。彼の家柄を利用するつもりはなかったのだけど……とりあえず後悔はあとだ。

「レイシス!」

 頬に触れ、まずぱっくりと開いた傷から血が流れているのをとめる。続いて魔力漏れの検査の為に頭に手を触れようとした時、すぐに気づく。

「内部に魔力漏れ、頭部!」

 叫んだ瞬間ひっとアニー様が息を飲んだ。

「大丈夫、かなり初期!」

 言いながらすぐ治療を開始する。レイシス、なんで防御が疎かになるまで攻撃にまわしたの、と心の中で怒りながら、必死に治療する。

「おい、こっちはどうする!?」

 ガイアスがいないと思ったらどうやら外に出ていたらしい。先ほど審判をしていた先生が腕を抑えてガイアスに寄りかかりながら現れる。どうやら巻き込まれたらしい。

「ガイアス魔力漏れの検査は?」

「できるけど遅い!」

「ならファレンジ先輩の治療をおねえさまがしてるから交代して、おねえさまに先生の魔力漏れの確認してもらって!」

「了解!」

 


 幸いフォルにもレイシスにも大きな魔力漏れや怪我もなく、治療はそこまで難しいものにはならなかった。

 途中なにやら王子がルセナを連れ「邪魔なのは追い払った」と現れ、それに対しアーチボルド先生が悪かったと謝る。

 どうやら私達が治療で救護室に呼ばれた事で、何人か一年医療科の女生徒が私もと立候補してきたらしい。魔力漏れの検査は見落としできない非常に難しい診察になる。医師には必須だが、それを一年生でクリアしてる人間は少ない。

 それを知っている王子が、今はもう人手が足りているからとお帰りいただいた、……というのが王子の説明だ。さっき追い払ったって言ってたような気がするのは、深く考えないほうがいいだろう。


 怪我をした審判の先生は完治し、レイシスとフォルは魔力回復薬も飲ませたので後は休ませるだけだ。

 そろそろ、と王子が立ち上がる。

「ラチナ、お前俺の試合見れるのか?」

「え? まあ落ち着きましたので……」

 ちらっとおねえさまがアーチボルド先生を見ると、先生がいいぞと頷く。

「あの」

 一端の落ち着きを見せた救護室で、そろそろ私達は退散しようかとしていた時立ち上がったのはローザリア様だ。

「アイラ様はお残りになったほうがレイシス様も喜ぶのではないでしょうか」

「え……?」

 私が反応を返す前に、先生がああと頷く。

「レイシスが喜ぶかどうかはとにかく、ここには寝てる特殊科が二人いるからな。誰か残ったほうがいい」

「なら」

 ローザリア様が私を招くように手を差し出してくる。

 ついそちらに行こうとしたとき、王子が私の腕を引いた。

「だったらガイアスも残れ。ガイアス、アイラをここに"一人に"するな」

「おうりょーかい」

 ガイアスが王子から渡された私の腕を受け取ると、ルセナはラチナについてろ、と言って私を連れてレイシスのベッドの傍にいく。

「……デューク様、私達もここにおりますわ」

 微笑んだままローザリア様が首を傾げて王子に告げるのに、少し焦る。

「ああ、悪いな。『特殊科の』メンバーは一人になるなって言われてるんだ。ですよね、先生」

「そうだな、悪い悪い」

「そうですの……」

 にこりと微笑んだままローザリア様が下がる。そうだよね、最初から特殊科は一人になっちゃだめだって説明しないと感じが悪かったかもしれない。

 居心地悪くて視線を泳がせた時、王子に呼ばれる。

「アイラ、起きたらフォルに渡して欲しいものがあるんだが」

「それでしたら、わたくしが!」

 ローザリア様が数歩前に歩き王子に手を差し出すと、王子はあからさまなため息を吐き、ローザリア様をじっと見る。

「聞こえなかったかローザリア・ルレアス。これはアイラに頼んだんだ。悪いが、フォルに頼まれた大事な物を簡単に"他人"に渡せない」

「え、」

 目を見開いて驚いた様子を見せたローザリア様は、手を引っ込め胸の前で合わせると、俯いてしまう。その銀の瞳に涙が溜まったのが見えて、ぎょっとした。

「デューク様、それは」

「ほらアイラ。お前これ知ってるだろ」

「え?」

 王子に差し出されたものを反射的に両手で受け取ってそっと覗き込めば、一瞬思考が止まった後、「あ!」と思わず叫んでしまう。

 びくりと身体を揺らして涙をこぼしたローザリア様と目が合ってしまい、ついおろおろとする。

 王子に渡されたのは、フォルと初めて会った時彼が持っていた守護魔法のかかったブローチだった。

 数年前だが、あの時あまりにも驚いたのと、特徴的なデザイン、そしてそれにかけられた魔力のおかげでよく覚えている。そうか、守護の魔法があるから試合中は持ち込めずに預けていたのか。

 手のひらの上で、赤く大きな石が輝き、手首の腕でしゃらしゃらと細い鎖に緑の石が揺れる。昔は「ルビー! ダイヤ! エメラルド!」だと思って驚いたものだ。

 やはりこれは、フォルの大事なものだったのか。

「アイラ、頼んだぞ」

「は、はい」

 ぎゅっと握り締めて守るように胸の上で囲い頷くと、王子がおねえさまとルセナを連れて部屋を出る。

 困ったように様子を見ていたアニー様が、ローザリア様を椅子に促す。ローザリア様は、ちらりとガイアスと私に視線を向けた後、小さくお騒がせして申し訳ございませんわと呟くように言う。なんだかこちらの方が申し訳ない気分だ。

 私が王子に渡されたのは、『私がこれに触れたことがあるから』ではないだろうか。守護の魔法の仕組みはわからないが、一度フォルが許可した相手じゃないと触れたらだめとかあるかもしれないし……王子もうちょっと優しく言ってくれればいいのに。やっぱり、いじわるだ。



 しばらくすると笛の音が聞こえた。

 ガイアスがはじまったな、と呟き、それにうん、と同意して傍で眠るレイシスを見る。まだ、眠りから覚めないようだ。

 すると、ローザリア様が急に立ち上がる。しんとした部屋に、がたんと椅子がゆれる大きな音、そして「フォルセ様!」と涙声で叫ぶローザリア様の声が響き渡る。

「フォル、起きたのか」

 ガイアスが立ち上がり声をかけると、フォルがゆっくりと身体を起こす。

 見回し、状況を把握したのだろう。涙を流すローザリア様に、「すみませんでした」と丁寧に頭を下げる。

「いいえ。治療は、わたくしがいたしましたの。どこかお加減が悪いところはございませんか?」

「君が……? いいえ、大丈夫です、ありがとうございます」

 フォルの会話を聞いて、ガイアスが、ん? と首を傾げた。たぶん話し方だ。こちらがびっくりするくらい、かたい口調。だがこれは医療科で見るフォルと一緒だ。

 フォルは立場上人の目を気にしなければならないのだろうか、と思っているのだが、ローザリア様の表情は少し曇ってしまった。

 仲がいいようだし、私達が席を外せばフォルも話しやすいだろうかと逡巡していると、手に握るものを思い出し渡さなければと立ち上がる。

「あ、アイラ。アイラもいてくれたんだ」

 フォルが私に気づいて笑みを浮かべてくれたので、ほっとして近寄ろうとすると、そうですの! と大きな声に遮られた。

「アイラ様はフォルセ様の治療を私にお任せくださって、レイシス様を心配されて彼の治療を手伝ってくださったんです。ずっと心配されて付き添いをされていたんですのよ」

「え?」

 フォルが少し驚いたような顔をしてローザリア様を見る。

 そう、なんだ、と呟き、フォルの視線が完全に外れてしまった上に、なんだか話しかけづらい。

 え、え? 確かにローザリア様が言ったとおりだけど……なんか、すごいフォルに話しかけづらくなったような……?

 ……ちょ、ちょっと待て、今の言い方だと、私がレイシスしか心配していなかったみたいに、聞こえないか!?


 戸惑う私を見かねてガイアスがフォルを呼んでくれるまで、私は手の中の大切なものを渡すこともできずに、その場に立ち竦んでいたのだった。

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