339.アイラ、フォルセ
「ルセナ」
声をかけてもぴくりとも動かない大切な仲間の手を握りながら、まるで懇願するようにその掴んだ手を額にあてて俯いた。深く眠り込んでいるせいだろうが、触れる手の体温の低さにぞっとする。
上下する胸を見れば呼吸しているとわかるのに、医療科として慣れてしまった己の目は魔力の流れが危険値ぎりぎりの緩やかな動きであると感知してしまい、ぎりぎりと噛んだ唇の痛みすらわからず、ただ熱を分け与えるように手を握り続ける。
「アイラ、交代だよ」
どれ程時間が経ったのか。ふと届いたフォルの声に、はっと意識が戻る。
予め交代でルセナの様子を見ようと話していたが、もう交代の時間だったのかと顔を上げた私は、フォルの紫苑交じりの銀の瞳を見てほっとした。いつものようにこちらを照らす月のような輝きに力はないが、フォルの瞳がしっかりと私を捉えている事に安堵した。そっとルセナの手を放し立ち上がると、フォルは心配そうに私の頬に触れた。
「ゆっくり休んだほうがいい。顔色がよくない。アイラが倒れたら、」
声をかけてくれたフォルの前で言葉を遮ってぶんぶんと首を振る。一度言葉を飲み込んだフォルが、少し視線を動かしてルセナを確認すると、ふっと二人の周囲に魔力を張り巡らせ防音の壁を編み出した。
「何かあった? アイラ」
「私が倒れたら、何人目かな。ねぇフォル。アルくんに、ジェダイに、おねえさまに……ルセナ。どうしてこんなに私たちの周りでばかり、意識を失ったり身動きが取れない人が増えていくの。グラエム先輩だって調子が悪そうだった」
「……アイラ」
「おねえさまのご実家も、ルセナのご実家も大変なのはわかってる。だからこそ範囲が広くて誰が狙っていて誰が狙われているのか明確じゃないのに、それでも、私たちの周りばかり。……フォル、狙われているのは、『私たち特殊科』じゃないかってグラエム先輩が推測してたよね? 本当に、そうなのかな」
「それは、わからない。けれどアイラ、だからこそ無理をしすぎて無事な仲間が倒れるのは防がないと、それはわかるよね? 今は休もう、アイラ」
ルセナが休んでいるここは少し広い空き部屋だ。防衛に力を入れているこの屋敷では各部屋の主の許可なく室内に立ち入ることは監督である先生の許可なくできず、まして最近管理に携わっていたジェダイも玉に閉じ込められたこの状況で、倒れたルセナを運び込むことはできず。先生も忙しそうにしているので、急遽簡易ベッドが二つある空き部屋に寝かせたのだ。
フォルは忙しいと交代の時間まで席を外していたので私一人がルセナを見ていたのだが、ちらりと隣にある衝立の向こうにある筈の空いたもう一つのベッドを気にしながら、意を決してフォルを見上げた。……ふっと困ったような笑みを見せたフォルが、わかったよ、と何かを言う前に私の頭をそっと撫でる。
「……一人はいや?」
「い、いやというか」
「怖い?」
「……夢見が、悪くて。すごく怖い夢を見た気がしたんだけど、……いなく、なってしまうような」
そう、とても怖い夢だ。皆が、いや、恐らくここから私の存在が消えるような、何かが消えてしまうような、別離を思わせるそんな夢だった。
フォルを困らせている。子供じゃあるまいし、何を言っているんだろう。彼はここで遊ぶわけじゃない、ルセナを見てくれるというのに。……だが、かつてない程の恐怖が答えるべき言葉を飲み込み、身体がかっこ悪いくらいに震えそうになるのを必死にごまかして俯く。
「それでさっきの交代の時様子がおかしかったんだ。……もっとすぐに言ってくれていいんだよアイラ、そんな時一人にしてごめん」
「あ、えっと。フォルこそ、寝ていないんじゃ」
「うーん、僕は合間に結構ぐっすり休めたから。アイラ、一緒にいるから、少し寝てみよう。悪い夢から僕が護るよ。……闇の力も使いようだね」
へ、と間抜けな声をあげて見上げた私の視線を受け止めたフォルが、くすくすと小さく笑い声をたてる。こんなこと言えるようになるなんて思わなかったと笑う彼は、私の頭に載せていた手を下ろすと、ゆっくりと頬の輪郭を指先で撫でるものだから、くすぐったくてつい身をよじった。
「簡単だよ。君は僕の魔力を馴染ませようとしているところだしね。夢を覗き見ることはさすがにできないけど、本人が怖いと思う夢から護るくらいはできる。闇はもともとそうした『見えないもの』を操るのが得意な魔法なんだから」
さあ休もう。そう言ったフォルは、一度ルセナの様子を見てから部屋の隅にあるもう一つのベッドに私を導き、横になるよう促した。大人しくベッドに入り込むと、縁に腰掛けたフォルがにこりと笑って私の手をとる。
「ルセナは僕が見ているから、大丈夫。ゆっくり休んで。アイラがいい夢を見れますように。……吸血族である俺が決めた唯一の番、愛しい婚約者……アイラ、好きだ。俺は君を一人にしない」
ベッドに仰向けに寝転んだ私の額の上を、恐らく魔力を含んだ温かい手のひらが緩やかに何度も往復する。元より疲労が蓄積していた身体はその優しさとぬくもりに誘われ眠気を認識し、フォルともう少し話したい、と声にした言葉は掠れ意識がゆらゆらと揺れる。恥ずかしくなってしまうくらい甘い言葉を囁かれている気がするのに。
普段ならこんな状況、きっと眠るどころじゃないのに、今の私の身体は休息を必要としていて。また怖い夢を見たら、と思うのに、意識は遠のいていく。
起きたら、元に、いつものアイラ・ベルティーニに戻るから。私は前世の私じゃないし、来世の私でもない、アイラだ。揺らぐな、私はアイラ・ベルティーニ。医師が患者が貴族ではなくとも、知りうる知識全てを使うことができる国を目指し、王子と、素敵な仲間たちと、古巣に固執するやつらと戦う為、のし上がる為にこの学園で学んでここまできた。……もう仲間の誰一人として失うようなことにはなりたくない。仲間が困ったときに助ける為に、私は特殊科で学んできたのだ。
「大丈夫だよ」
フォルの優しい声が耳に届く。なぜかこみ上げるままに呟いた言葉は、彼に届いただろうか。
――フォル、好きよ。ずっと一緒にいたい。
甘い、甘い、パンケーキ。
とっても美味しいふわふわのクリームをのせて。
幸せいっぱい、ありがとう。
生み出したのは破壊の神。素敵な特典偽って、あの人形可哀想。
幸せいっぱい、ありがとう。
人間たちの魔力が上がる。
僕たちもいっぱい、いただきます。美味しいごちそう、ありがとう。
◇ ◇ ◇
「どうして、急に」
熱くなった顔を片手で隠しつつ呟いて、はあと大きな息を吐く。珍しくアイラが弱った姿をそのままに甘えてきたかと思ったら、不意打ちの「好き」に心臓が止まるんじゃないかと思った。
状況は悪く、喜んでいる場合ではないとわかっているのに心が歓喜に震え、心臓が高鳴った。いや、相次ぐ仲間の意識不明で参っていた心が喜びに縋るような状態だったのかもしれない。アイラの気持ちを疑っていたわけではないが、彼女は恥ずかしがってあまり好意を口にしないから、無意識であっても、いやだからこそ今の言葉は俺を最高潮に押し上げるある意味起爆剤だ。……とはいってもやはり、手放しで喜べるわけではなかったが。
「それ、また今度言ってよ、アイラ」
頭を撫でていると、少し強張ったまま目を閉じたアイラの呼吸が次第に緩やかに落ち着いたものへと変わり、上手く寝入ったのだろうと判断して立ち上がる。愛しい、俺にとっては何よりも大切な婚約者をいつまでも見ていたいところだが、生憎その彼女を苦しめている元凶はわからないままで、そして俺たちの大事な仲間が次々と襲われている事実は変わらない。
それに、どこか違和感があった。……普段彼女は気丈なほうだと思う。年相応というにはどこか達観した様子もあるし、かと思えば驚くほど弱さを感じる部分もあるが、それでも気丈な振る舞いをするほうなのだ。これまでも困難はあったが、さっきのアイラはまるで別な人のようで……と考えて首を振る。別なわけがない。どんなアイラも結局は愛おしいい相手に変わりなく、それが別の人間ではある筈がない。言うならば『俺の知らないアイラ』が見えた気がする。
ずっと気を張り詰めているアイラは、アルとジェダイを助けようとただでさえ数日まともに休んでいない筈。しかも彼女が慕うラチナまで意識がなくなり、アルに関しては誰も手助けできないが為にアイラに全てがかかっていた。……学園に入学した頃と変わらず小柄な彼女の細い肩にどれだけの責任が圧し掛かっていただろうか。不安になって当然だ。むしろ、アルがあの状態でよく耐えている。
防音の魔法を解き、ルセナのそばに駆け寄って顔色を見る。……やはりラチナと同じ、ただ眠っているかのようで、決して開かない瞼。生命活動はぎりぎり維持されているが、普段のルセナに比べると明らかに激減している魔力量。これでは意識があろうと活発に動き回るなど無理だろうが、「ラチナと同じ」であるならば、ルセナの今の状態はただ深い眠りについている状況なのだろう。
闇の魔法が関わっているのは間違いないのに、闇使いである俺にどうすることもできず、しかもアイラの話では闇の精霊すら黙秘しているらしい。「答えられることは少ない」と言葉少なに消えてしまった、とアイラが言っていた。つまり、彼女たちも完璧に理解しておらず、尚且つわかっている部分も人間には話せない何か。
ルブラが関わっているというだけでも面倒ごとであるのに、仲間が次々と倒れる中で犯人の目星すらつかない。いや、正確にはあてが外れ続けているこの状況で、どう足掻けばいいのか。ベッドの横にある椅子に深く腰掛け頭を抱えた俺は、ただひたすらにルセナの魔力に異変がないかだけを確認する。
どれ程時間がたった頃だろうか。感覚的に数時間といったところで、ふとルセナではない、部屋の奥から乱れた呼吸が聞こえた。はっとして立ち上がり衝立の向こう側に飛び込むと、胸を押さえて苦しそうなアイラが、身を縮めてひゅうひゅうとおかしな呼吸を繰り返していた。……俺の魔力で彼女を護っているというのに、なぜうなされるような状況になったのか。
「アイラ!」
慌ててその肩を押さえ顔を覗きこむと、うっすらと瞼を押し上げたアイラが、アルくん、アルくんと名前を呼ぶ。次第にそれは「サフィルにいさま」と呼ぶ声に変わり、ぼたぼたと涙を零して長い睫毛を濡らすアイラを一瞬呆然と見つめ、慌てて首を振って声をかける。
「アイラ、どうしたの、アイラ、僕の目を見て」
寝言か、と思ったが、どうにも言葉ははっきりとしていて胸に届く。おかしい、なんでこんなにアイラの身体の魔力が不安定なんだと慌て、それが暴走一歩手前に近いと気付いてぎょっとした。
「サフィルにいさま、ごめんなさい、私が前の記憶なんか持っていたから、望んでしまったから、にいさまの来世を縛ったんでしょう」
「知ってます、きっと記憶を残したままなんでしょう? 遂げることができなかった目標を知って生きるなんて、辛かった。私はフォルをおいて生き直した来世なんていらなかった」
「フォルの、皆のところに戻りたかった。こんなの、特典なんかじゃない。記憶なんていらなかった。ただそばにいられればって、なんて強欲だったんだろう」
目の前の俺を無視して誰かとアイラの会話のような言葉が進む。話している内容の半分以上わけがわからず、意識ははっきりした様子で言葉を吐き出すアイラにどう声をかけたらいいのかもわからず、ただその濡れた新緑の瞳を見つめる。そこに俺は映っているのだろうか。
「あ、アイラ、落ち着いて。どうしたの、記憶ってなんのこと、サフィルの来世ってどういうこと? アイラ、何を知っているの」
「私は、間違っていた? お菓子を、作るべきじゃなかった? ねぇ、これは何の歌。破壊の神って、素敵な特典って何、こんな歌、聴きたくない!」
『何をしている次代様、噛め! 姫の魔力を暴走させたいのか!!』
突如響いた声にはじかれるようにベッドに乗り上げて暴れるアイラを押さえつけると、躊躇う暇なくその白く柔い首筋に牙を穿つ。ぶわりと広がる甘美な甘露を飲み下しながら、アイラの魔力を取り込んで逆に己の魔力を僅かに流し込んで必死に落ち着くようにと念を込めた。
普段はただの一滴もシーツに渡してやるものかと零さず飲み下すアイラの赤い雫が、ぽたりぽたりとシーツを染める。気づけば抵抗なくぐったりと動かぬ組み敷いた身体を恐る恐る覗き込むと、既に意識を失ったのか、眠っているのか、涙を零したまま目を閉じるアイラが見えて、思わずその胸に手を当てた。柔らかく押し返されるその下にどくどくと確かな魔力の流を感じて、ほっとして身を起こす。闇の精霊に助けられたようだ。
「……何が、起きたんですか」
『ふん、敵がよくわからぬ小細工をしたようで……姫は歌を聞かされているんだ次代様。……闇の精霊が歌うそれは一種の呪いか。隙在らば姫を喰らおうとしている』
「それはいったい、まさか狙いはアイラだと?」
『いや……すまないな次代様、精霊は確証の無い言葉を吐けぬ』
「え、……あっ!」
突然現れたくせに、また突然消える闇の精霊の姿が既にどこにもないと気づいて、がっくりと座り込む。……アイラに跨る形でベッドの上にいたことに気づいて慌てて降り、その首をなるべく視界に入れないように拭って治癒魔法をかけた。少し零れてしまった血が制服の襟についてしまったようで、ため息を吐く。あの場では暴走しかけた彼女の魔力を俺が取り込み、逆に精神を落ち着かせる為に俺の魔力を含ませるあれが最善であっただろうが、意識のないアイラに噛み付いた罪悪感からもう一度深く息を吐くと、少ししてアイラが僅かに呻いた。
起きたのか。
「んん、……フォル、ルセナは?」
「え? あ、ちょっと待ってて」
掠れた声でアイラに訴えられて慌ててルセナのほうを見る。特に状況に変わりなく、やはり明らかに先ほどのアイラのほうが状況がまずかった。それをどう本人に伝えるべきかと振り返ると、上半身を起こし大きく伸びをした彼女は、どこかすっきりとした表情で、「よく寝た!」と笑った。
「フォルのおかげだよ、ありがとう!」
ぱっと見せる花の咲いたような笑みはいつものアイラだ。……ついさっきの光景がまるで嘘のように笑う彼女を見て、逆に俺が怪訝な顔をしてしまったのだろう。フォル? と首を傾げる彼女のまん丸な瞳がこちらを覗き込み、慌てて首を振った。
「ごめん、えっとアイラ、あの……」
とりあえずさっきのことをすべてではなくとも伝えたほうがいいだろうかと迷いながら口を開いたとき、コンコン、とノックの音がして振り返ると扉が開く。……元より空き部屋だ、誰の許可なくともここに入ることを咎めることはないが、そこに顔を覗かせたのがレイシスで、思わず背筋が伸びる。
「フォル、少し食べ物を……え、お嬢様!?」
部屋で休んでいたと思ったのだろう。ベッドから抜け出して俺の隣に立つアイラの髪はまだ少し寝乱れたままで、やましいことなどないというのに少し慌てた俺の前で、アイラは平然としたまま首を傾げる。
「あ、レイシス。そっか、もうご飯の時間かぁ、ガイアスは?」
「え、えっと、ガイアスなら今デュークが戻ってきていて部屋で情報の照らし合わせを……お、お嬢様、お部屋でお休みになっていたのでは?」
あ、これ誤解が生まれそうだ、と気付いて慌てて割って入ろうとしたその瞬間。
ぴたり、とレイシスが動きを止める。じっと彼の瞳が見つめるのは、アイラだ。いや、……アイラの首だ。血がついたままの、首元。
……誤解どうこうの問題ではない!
「レイシス、待った、実は――」
「お、嬢、さま……それは」
突如不自然にぐらり、と急激にレイシスの身体が左へと傾いた。はっと息を飲んだのは、アイラだ。
「レイシス! その腕、なんで!」
アイラがレイシスを見て叫び、駆け出す。何が起きたのだと自分の横を通り過ぎるアイラの桜色の髪を目で追った瞬間、踏みとどまったらしいレイシスの腕が、アイラの背に回った。
「レイシス!」
レイシスの腕の中にすっぽりと収まったアイラが、ぎゅうぎゅうと抱きしめられたまま悲鳴に近い声でレイシスを呼ぶ。その肩に一度顔を埋めたレイシスが、ぎろりとこちらを睨んだ。
「俺の、大切なお嬢様……アイラに、触れるな」




