338.(ルセナ・ラーク)
「ラーク家の次男がいるぞ。噂じゃあいつが領主を継ぐらしいぜ」
学園の廊下で噂話につい足を止めかけたルセナは、それを隠して強引に次の一歩を踏み出す。聞こえていただろうに、彼と一緒に歩いていたガイアスとレイシスは何も言わない。それがルセナにとっては、ありがたかった。この二人の事だから、アイラおねえちゃんと一緒に授業を受ける僕の事なんて一年生の頃にとっくに調べつくしているだろうけれど、と内心苦笑しながらではあるが。
噂話の声は遠のいたが、視線は突き刺さるままだ。さっさと廊下の角を曲がってしまい、ルセナはほっと息を吐き肩の力を抜く。
僕は次男、継ぐのは兄だ。ルセナが何度噂する人間にそう告げても、周囲の人間は噂を止めやしない。確かに今現在のラーク領領主の妻はルセナの実母で、兄は母親が違うが、兄であるイセン・ラークは元より現領主である侯爵のまごうことなき長男で正妻の子だ。早くに亡くなってしまったという理由があり、誰もが知る事実であるのに、実は長男は愛人の子、なんて噂もあるくらいなのだから、噂とは本当にあてにならないものだろう。
うわさってうそばっかりだね。……幼いルセナがミルおねえちゃんと呼び慕う獣人の少女にそんな愚痴をこぼしてしまったのはいつのことだったか。きっとあれはまだ彼の兄が噂を意識する前の頃なのだろう。あの頃はまだ、兄と普通に会話できていた。仲のいい、兄弟だった筈だ。そう思いながら、ルセナは項垂れる。気が弱いルセナを頼もしく支えてくれる、理想の兄だったのだ。
兄弟は揃って自分たちの環境が少々特殊であるということに、幼い頃からうすうす気付いていた。領主の息子。それも国外との重要な貿易拠点となっている領だ。そして家は代々無属性魔法の使い手として秀でていた。
自然の属性には相性が存在する。簡単なもので、水は火を消しさるが、火は風を糧とすることもあるような、そんな自然の摂理。そして、そんな摂理を壊すのが、魔力、魔法の存在だ。単純に、強力な魔力によるごり押しによってもたらされる、不可能を可能にしてしまうような現象を起こすもの……属性に縛られながらも、それが『魔法』というものなのだろう。
水の魔法より火の魔法の魔力が大きく上回って強ければ、水は炎に取り込まれ糧となって蒸発し、熱風を巻き起こす。そんな世界で属性の影響を受けにくいのが、そのままの名称となるが所謂無属性魔法。炎が水に打ち勝つよりも簡単な力でそれを上回り、不得手がない。その代わり術者とも馴染みが悪く、単純な属性魔法に押し負ける危険性もある魔法。才能に依存しやすい、未知の魔法となる。魔法は基本的に属性精霊との契約なのだから当然の話で、『無』がいったいどのように生み出されるかなど、人間が知る由もないことだ。
ラーク家は無属性魔法の使い手であることを強みとして他国と隣接する地にありながら問題なく取引を経て発展した領地である。もちろん戦などそうそう起こりはしない、国同士のやりとりで安定した世。無属性魔法の強弱は現在領主に必須というものではないが、当然のようにその領主の息子二人、兄弟そろって受けていた魔法の修行で、ルセナだけが魔力の才を当時の指導役に見出されてしまった。ラーク家の次男は何千人に一人の逸材だと騒がれ、幼いルセナは、いつも背を追うばかりであった少し年の離れた兄よりも秀でた才があるといわれたその現実の意味も理由もわからず、わずかに得意になってしまった。その隣で、兄がどんな思いをしていたかも知らず。跡継ぎの噂だなんて、ルセナは想像もしていなかった。
次第に、自分の耳にも次代領主は弟がいいのではと聞こえ始めたその意味を知った時、今よりずっと幼い頃であったが為に、ルセナは己のせいかとひどく自分を責めたことがある。それすらもきっと兄を苛立たせたのだろう。
母親が早くに亡くなった兄は、しっかりしなければという思いから父の後を継ぐのだと必死になっていたと、今ならわかる。
長男にとっては異母弟のルセナの母親は血の繋がらない息子も我が子のように接したが、年をとるにつれ「己より出来のいい弟」の存在が嫡男であるというイセンの立場を揺るがした。彼女が実の息子を領主に推したら、俺の居場所は。そう考えて怯えたイセンは次第に気の弱い弟を責めるようになる。それ程までに、ルセナの魔力は膨大であったのだ。
「ルセナ様は本当に優秀であられる。その年でこの魔法学の理論を理解しておいでか。さすがラーク侯爵の息子です」
「ありがとう、先生。僕は本を読む時間が一番好きなんだ。きっと実技はお兄ちゃん、えと、兄上の方が上手、」
「いえいえそのようなことはありません。イセン様も優秀ではございますが、少々魔力の扱いが乱暴なところがございます。学び舎も王都ではなく地元の小さな学園ですし、王都から声がかからぬようでは……あれでは無属性魔法を伸ばすことはできんでしょう。ルセナ様がこのラーク領の為にもしっかりしなければ」
「……? 小さい? お兄ちゃんの入学した学園は、ラーク領一の優秀な学園です、先生。それに、王都の学園からだってお誘いが」
小さな頃の教師との会話がルセナの脳裏を過ぎった。
イセンが学園に入ってからというもの、指導役であった親類はあからさまにルセナとイセンの扱いを変えていた。その会話のその瞬間、学園から帰宅したばかりらしい兄が、教師と話す自分を鋭い、いや泣き出しそうな表情で睨む姿が思い出されて、ルセナは首を振った。ルセナの兄は非常に努力の人間であった。ルセナの何倍も、努力していたのである。幼いルセナにはわからなかったが、いまさらながら教師は母親の実家寄りの人間であったのだろうとルセナは推測した。王族でもあるまいに、ラーク領は大人たちが己の利を目的とした跡継ぎ争いをしていたのだ。周りだけで勝手に、であるが。
確かにいっそ恐ろしいまでにルセナの力は強大だ。だが、跡継ぎは今も昔もイセンであるとラーク侯爵は認めている。ルセナは気が弱く、また領主経営にも貿易面での取引も駆け引きも向いてはいない。ルセナの魔力に隠れてしまっているが、兄であるイセンはルセナがいなければ「優秀な跡継ぎ」であった。
また、獣人である使用人のミルを慕っていたルセナは、狙われやすい存在である彼女を護れるよう、気弱ながら騎士を希望していた。騎士になったら、僕でもかっこよくおねえちゃんを護れるかな、と父に相談する程に。兄弟間で跡目争いなど起きるはずがなかったのである。結果的に、様々な事情から、獣人の少女はラーク領から消える事となったのであるが。その事情が、ルセナを恐怖させる。
僕は、領地を継ぎたいわけじゃないのだと。まだ若かった兄がやってしまったことは消えず、しかも本人はそれを境に変わってしまった。軽薄な行動をとるようになり、領主を継ぐのだと影で努力しながらそれと真逆のことをする。それを理由に父が領主跡継ぎとしなかったら? 領主を継ぐのがルセナとなれば、ルセナは兄の居場所を奪うこととなる。たとえ許されない事をしたとしても恨みきれるものではなく、囁かれる「次男を侯爵に」の声は次第にルセナにとって「恐怖」の対象となる。
自分の魔力が強すぎなければ。自分の血がこうも防御魔法を生み出す事に長けていなければ。兄に、畏怖の念を抱かせることは、なかったのに。
「おいルセナ、さっきの授業でさ、俺の剣いつのまにか横に流してただろ。あれどうやったんだ?」
ぼんやりと考え事をしていたルセナの前に、琥珀色の瞳が飛び込んでくる。好奇心の塊のようなその瞳はルセナをまっすぐ見つめ、つい先ほど聞こえた噂を気にした素振りもない。
「……簡単だよ、壁を、曲線で作ったんだ。剣先を滑らせるようになだらかに」
「簡単、というのはそれこそ簡単だけど、実際にやるとなると……」
ルセナの横で、風魔法を得意とするレイシスが魔力の流れを生み出し――髪を逆立てた。防御壁の魔法で真似をしようとしたのだろうが、勢いが強すぎたのだろう、突如現れた風に数秒息を止めた三人はぱちぱちと瞬きをして互いに顔を見合わせ、笑い出す。
「すまない、ルセナ。やりすぎたみたいだ」
「使う魔力が多ければいいっていうわけじゃないんだ。ただ受け流すくらいだったら、極少量を相手の武器や魔力に合わせて、じゃないな、少しだけ上回るように調節して」
「え、それって俺さっき極少量の魔力に流されたってわけか? あー、まだまだ奥が深いな」
額を支えて項垂れるガイアスの横でルセナはくすくすと笑う。母親に勧められ入学した王都の学園では、ルセナは歴代最年少の入学を果たした天才と言われながらも、異端ではなかった。たった少し、ほんの一、二年歳が離れれば、共に並び成長の道を歩む者も、上には上が、と感じる者もいたのである。
自分が浮いた人間ではないとわかる特殊科の存在はルセナにとって重要なものであった。皆と一緒にいられたら、自分はさらに上を目指してもいいのだと、幼い頃同様、強すぎる力は他者を護るために育てたいと生きていけるから。この考えは最年少である彼には大人びすぎた、脆いものであった。
「ラチナおねえちゃん、おきてよ」
ラチナが眠りについてから、毎晩ルセナは自室でひっそりとそう願い続けた。
ルセナはラチナが倒れる瞬間、確かにその胸に渦巻く異様な魔力に気付いていた。防御に長けたルセナが防ぎきれぬ何かの正体に気付くまでそう時間はかからなかった。その懸念は王子がラチナを連れ帰った城の医師、そしてフリップの解呪に取り掛かったフォルセの言葉によって肯定され、『家族(父親)を狙われたことで血のつながりが濃いラチナが倒れた』と知ったルセナは怯えた。
目の前にいたのに、護れなかった。
離れた地にいる父と兄は大丈夫なのだろうか。
ラチナは、目を覚ますのであろうか。
もしこれ以上被害が拡大したら。
父か兄に何かあったら、僕はどうなる?
目の前でとぷりと闇の呪いに沈み込みそうになったアイラの姿が、ルセナの脳裏に何度も過ぎる。ぎりぎりのところで、皆は、家族は大丈夫と己を支えていたルセナを襲ったグラエムの知らせは、結果ルセナを叩き落すこととなる。
いくら悩んでも苦しんでも明けぬ夜はない。それが摂理だ。
しかし、明日を望まぬものに朝は訪れない。摂理を破壊する、それが魔法である。




