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その日は雨が降っていた。雪ではなく、雨だ。
窓を一度開けたものの身震いした私は、さっさと開けたばかりの窓を閉めた。空気を入れ替えようと思っただけだが、さすがに雨粒が入り込むのは避けたい。
おねえさまは目覚めない。……年末年始の必須である城の行事は、全て王子が一人で乗り切っていた。そうなればもう、貴族は騒ぐ。婚約者はどうしたのだと、大事な行事に参加せぬのかと。……おねえさまが目覚めぬ事を伏せるとグロリア家の事情が隠し通せぬものとなり、成程それならば仕方ない、となったのはよかったが……やはりというか、王子には再び、おねえさまを側室としては、などという馬鹿らしい話が持ち上がった。本当に馬鹿な話だ。この国では側室は余程でなければ存在しないというのに。
年越しの神殿の鐘は、ただ屋敷で喜びも何もなく迎えたのだ。年越しポットの葉を浮かべたお酒も何もなく、忙しく動き回る王子も先生も、そして王子に呼ばれフォルもいない屋敷で残された仲間とアドリくん、侍女さんたちだけで過ごした年越し。
ただ幸いだったのは、以前のように王家の動く行事を敵に狙われなかったことか。これ以上何か起きるのなんて……私たち以外と行動する事が多い王子に何かあったら、目が覚めぬおねえさまにどう伝えたらいいと言うのか。毎日おねえさまに声をかける王子に何かあってはいけないのだ。
アルくんも同様に目覚めなかった。ジェダイも、意識を取り戻し意思疎通はとれるようになったものの、玉に閉じ込められたままだ。彼は悲観した様子はないが、「ごめんなさい、僕がこちらから出られたら」と悔やむ。
我慢ならず、力任せに、いや魔力任せにジェダイを傷つけずなんとかしてその玉を破壊しようかと考え始めた時のこと。
「ルセナが内部に干渉してジェダイの周りに防御壁を生み出せたら、なんとかならないか?」
「玉の中……難しいけど、でも確かに、絶対魔力を受け付けないわけじゃないんだよね、この玉」
ジェダイを囲んで作戦会議をしていた私たち、と言っても、私とフォル、ルセナ、ガイアス、レイシスの五人なのだが、しとしとと窓を打つ雨の音を聞きながら唸った。難易度は高い。
困ったように眉を下げるジェダイを玉越しに見つめ、なんとかしようとそれに手を伸ばしかけた時、ふと、窓の外に気配を感じた。……なんか前にもこんな事があったような。
「またグラエム先輩じゃんか……っておい!」
まず先に窓の外を確認してちらりと見えた先輩の姿。しかし異常を感じて走り出したのは、ガイアスだ。その只ならぬ様子に顔を見合わせた私たちが窓に駆け寄ると、そこにいたのは……グーラーと対峙しているグラエム先輩の姿。
「は!? なんでだよ、雨だぞ!?」
グーラーは雨が苦手な筈。というかここは学園敷地内だぞ、と慌てた私たちは、そのグーラーがただの獣ではなく、魔力を持ったワーグーラーであると気づく。……違う、闇の力に操られた、『アレ』だ!
「操られてるな」
「だから雨をものともしていないのか……? 以前よりも闇の力は恐らく強大だ、僕でもわかる」
ガイアスとフォルが冷静に見極める中、がたんと窓枠に手をかけたのはルセナだ。
「僕が出る! おねえちゃんはここにいて!」
窓を開け放ち飛び出したのは、ルセナだった。そんな、と慌てた私たちの前で、レイシスが私の前に立つ。
「今、この場に魔物がいるのは異常です、お嬢様。最近の事を考えると出るべきではありません。この屋敷は安全です、どうぞこちらに」
「レイシス」
「俺はお嬢様の剣であり盾です。お嬢様、どうぞここを離れるお許しを。あの程度、すぐ片付けて見せます。お嬢様は今危険を確実に避けるべきです。アルに魔力を提供し続けていてあなたはまだ不安定だ」
ガイアスがただ黙ってこちらを見ている。……レイシスの言うとおりにしろということか。そうこうしているうちに、フォルが窓から飛び出した。あ、と小さな声が漏れて、指が震える。
「レイシス、皆に加わって」
「お嬢様の仰せのままに」
ひゅ、と風を操るレイシスが飛び出した。慌てて窓に駆け寄ると、直前で室内に残ったガイアスが窓を閉じる。ガラス越しに見る先輩たちは、木々の合間から飛び出しては木を蹴り上げ姿を隠すワーグーラーたちを、じわじわと減らしていく。
なんということはない、そう、いうなれば慣れた戦いだった。ガイアスがこの場に残ったのだ。私の護衛の為であろうが、ガイアスもレイシスたちに任せこの場に残って大丈夫だと判断したのだろう。幾度と無く、それこそ私たちが入学する前から現れ始めたグーラーたち。
ルセナに襲い掛かろうとした魔物がその爪を振り上げた時、他の敵に剣を繰り出していたルセナを庇うようにフォルが滑り込み氷の剣を突き出したが、その直前、魔物が怯んだ様に見えた。……まるで怯えるように。
「……フォル?」
「どうした、アイラ」
ガイアスは見ていなかったのか。今確かに、ワーグーラーの動きがおかしかったように思うのだが、と今は絶命したその動かぬ身体を見つめたとき、ガイアスが大きく音を立てて窓を開け飛び出した。
「ばっかレイシス、油断するな!」
「え!?」
真っ白に染まる屋敷の裏の林。獣と人間の足跡が不規則に混じりあったその雪の上に、赤い色が散っていた。レイシスが腕を負傷したのだと、そんなまさかと窓枠に手をかけたとき、うめき声と共にグラエム先輩が足を庇うように屈んだ。……あちらもか!
「皆!」
相手はワーグーラーだ。皆が苦戦する相手ではない筈だと、慢心していたのだろう。自分の手のひらを一度見つめ魔力が安定している事を確認して、外へ飛び出す。ちらりとこちらを振り返ったガイアスと目があった瞬間、ガイアスは雪に足を踏み入れるなと叫んだ。
「この雪がおかしいんだ、アイラ! 異常に滑る、足場が悪い上に魔力でなんとかしようとしても上手くいかねぇ! そもそも雨が降ってるのに融けもしない、これは罠だ!」
「僕が足場を整える! おねえちゃん、グラエム先輩とレイシスの回復を!」
大きく広がりを見せたのはルセナの、おそらくは防御の魔法。足の下までぐるりと囲むように広がったそれに助けられて足を踏み出した瞬間、私を呼ぶガイアスの声が聞こえた。目の前に木の上から飛び降りてきたグーラーが現れとっさに腰に手を伸ばすが……ジェダイがいないグリモワを室内に置いていたのを忘れていた、しまった!
「くっ、」
被害を抑えようと庇うように交差し掲げた腕が、ひやりと冷える。
「アイラに手を出すなんていい度胸だ」
「お嬢様、ご無事ですか!」
私の腕の前に渦巻く風の盾に、目の前のグーラーを貫く紅蓮の炎を纏う剣。ガイアスとレイシスが私を護ると同時に、フォルの放った氷の矢が残りのワーグーラーを一掃していた。
「くそ、こんなやつに遅れをとるなんて」
そばに転がっていた絶命しきっていないワーグーラーにとどめを指しながらグラエム先輩が荒々しく雪を踏み降ろすと、パキリ、と音がして雪が砕け散った。氷の塊のように白い雪の塊が割れ、間違いなく魔力のこめられたそれに眉を寄せる。悪質な悪戯だ。そう、悪戯なのだ。前回の手紙同様、相手にとってはふざけた『贈り物』だというのか。私たちを本気で殺しにかかっているのならば、この足場にプラスして向かわせただろう敵が弱すぎる。
「悪い、俺が処理しきれないせいで巻き込んだ。デラクエルの弟は無事か」
「これくらい問題ありません」
「なら……おい、ラーク家の坊ちゃん、身体に異常はないか?」
は、と顔を上げたルセナが目を瞬いて首を傾げる。今の戦いでルセナの負担が大きかったのは確かだろうが、ルセナは怪我一つしていない。それよりこの中で一番負傷しているのはグラエム先輩である。はやく治療を、と手を伸ばしかけたが、グラエム先輩は真剣な表情を崩さぬまま少し悩むように口を開閉させ、ゆっくりと息を吐きだす。
「ラーク家長男が、呪いを受けた」
「……ルセナ!」
ぐらりと倒れるルセナが、黒い靄に包まれる。




