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冬の朝は本当に冷える。
朝起きると窓から差し込む白い光はきらきらと空から舞い落ちる雪を輝かせ、しかしそれに惹かれて窓辺に寄ると空気はひんやりと肌を撫でて冷やす。思わず身震いしてカーディガンを羽織った身体を手のひらで擦り、朝の準備の為に窓に背を向けた。
アルくんが寒そうに身を震わせふるふると毛を逆立てクッションから飛び降りた。にゃあと猫の鳴き声をあげて挨拶をした彼はそれ以上特に何か言うでもなくただ黙って暖房器具の前へと移動して丸まった。元は植物の精霊であるが、すっかり猫らしい様子である。
さて、と気合を入れて身支度に取り掛かる。化粧なんて殆ど普段はしないのだが、フォルと……つ、付き合ってから、というものは、それまでもある程度は流れ作業のようにしていた肌の手入れに少々力が入る。なんといっても、フォルが闇の力に私を慣れさせる為のあの行為は、距離が近い。
間近で好きな相手に肌を見られるとなればつい力が入ると言うもの。こっそりおねえさまに相談しに行った時は、次から次へと嬉々としたおねえさまが出してくる化粧水や乳液の類を見て、むしろ成分が気になって二人で配合を考えてしまったというなんとも乙女らしからぬ事態になったが、結局は普段の手入れにこうして力が入るということは微妙にまだ乙女だったのだろうか。
冷たい化粧水が目元を冷やすと眠気も吹き飛び、ちらちらと机の上に準備していた資料を覗き込みながら櫛を手に髪を梳く。レミリアに頼めば笑顔で請け負ってくれるのだろうが、私の侍女としてついてきてくれた彼女は今や少数精鋭なこの屋敷の使用人の一人。朝食の準備に掃除と忙しい彼女に頼むのも申し訳なく、どうせ授業がある日は綺麗に整えてもぼさぼさになってしまう髪型に拘りもない私にとって一人で問題ない事だ。きっと貴族らしからぬ思考だろうけれど。
今日の午前は医療科の授業の中で主に戦場の治癒において最大の難関、大怪我による瀕死状態の患者の治療の術式組み立てだ。とくに難しいとされるのは内蔵破裂等見逃しが多い治療、そして皮膚表面であれば重度の火傷など。炎の魔法に襲われた場合が最も厳しく、医療科の治療でありながら呪いのように消えぬ魔力の炎の鎮火から学ぶこととなるのはやはり魔法という世界ならではだろう。
ちなみに火傷の治療に関しては私の最も得意とする治癒術の分類となる。何せ水魔法を得意とする私は鎮火に手間取ることもほぼなく、再生を得意とする植物に触れながら育った私は皮膚治癒術の技術にも長けている、と自負している。
魔力漏れの感知も苦手な分類ではなく、内臓治癒もさほど難しくはない。……のであるが、今日の授業の要は『戦場での治癒術士』ではなく『戦場後方での運ばれた怪我人の治療に当たる医療班』を想定した動きだ。私は、患者が大多数となると途端に弱い。……治癒能力云々というよりは、精神的なものかもしれないが、私は基本的に聖騎士や治癒術士としての動きのほうが向いているらしい。
町での医者になるのを目標としてはいたが、もちろんこういった戦場での医療知識のある者の動きを学ぶことも決して無駄ではない事だ。大きな戦など、ないに越した事はないが。この国は防御に長けた国だ。隣国に攻められるような国ではないが、近い国では常に戦が勃発しているということもあると聞く。
ぼんやりとそんなことを思いながら、頭のどこかで別な事を考える。戻ってきた日常である非常事態。……謎の殺人予告、なんてどこの探偵小説の物語なのか。残念ながら、私の周辺には探偵のように些細な情報からも推理する、というより割と力によるごり押し捜査員が多い気がするけれど。
櫛を置き、最後に身嗜みを確認してアルくんとジェダイに声をかけ部屋を出る。この屋敷での生活もあと少しだと思うと、物凄く寂しい。
卒業がこんなに寂しいものだとは思わなかった、と思うのは、余程幸福な事だと思う。今ではよく思い出せないが、『過去の私』はそんな事思うことすらできなかった筈。
「アイラ、おはよう」
「おねえちゃん、おはよう」
「あ、おはようフォル! ルセナ!」
丁度部屋から出てきた二人と挨拶をし、階段を下りる。いつもと変わらない朝。階段を下りると聞こえる小さな足音は、先生の部屋から飛び出してきたアドリくんだ。おはようございます、と元気一杯挨拶した彼の手には空になった朝食の器がある。どうやらもう食べ終わったらしい。
「はやいね」
「今日はこれから、まほうを教えて貰うんです!」
「あー、アーチボルド先生に?」
「そうです、せんせいに! なにを教えてもらうかは、ひみつです」
ふふ、と楽しげに笑うアドリくん。ご飯も完食したようだし、随分と元気らしい。彼を先生が引き取ってもう随分とたつ。漸く最近になって私達の前でも一切怖がることなく自分の事を話すようになってくれたが、環境に慣れるのに随分とかかっていた彼は私たちが卒業しこの屋敷が空いた場合どうなるのだろう。
「……アイラ」
走り去る小さな背中を目で追っているとぽんと肩を叩かれ、フォルに促されて広間に入る。急がしそうに動き回るレミリアにも挨拶して、既に部屋に来ていたガイアスとレイシスのそばに寄って座る。
おねえさまと王子が揃ったところで朝食を開始し、軽く今日の授業の話をする。
「……アイラ、医療科の授業も大切だけど、今日の午後フェルナンド先生の面談があるんじゃなかった?」
「……ん!? あ、今日だっけ!」
フォルの言葉に急に蘇る記憶。まずい、忘れていた。大事な話があると言われていたではないか。慌てたところでぽんとガイアスが手を打つ。
「あれ、面談がある日ってことは、ロッカスのお嬢様とアニーとでお茶会するって言ってたの、明日か?」
「ちなみに明後日はカーネリアン、サシャとのカレー店舗とベルマカロン店舗での提携について打ち合わせです」
「ああ、そうだ! んー、朝医療科の授業確認で忙しくて予定表確認するの忘れてた」
「お嬢様は最近予定を詰め込み過ぎなんですよ」
「お前は動かないと溺れ死ぬ海の魚かなんかか」
最後の王子の突っ込みがひどい。しかも「しっかり嫁さん管理しとけ」という謎の言葉が聞こえたと振り返ると、訳知り顔で頷くアーチボルド先生がフォルの肩を叩いていた。いつの間にやってきたんです! まだ嫁じゃないから! ま、まだ……自分の脳内の言葉に照れてどうする。
「で、だ。アイラ宛ての調合薬の依頼の期限も明日の朝だった筈だが、大丈夫だろうな?」
「あ、それは昨日完成させてるんで大丈夫です、もう納品します?」
「助かる。あれ、城からの依頼なんでな」
すぐに渡せるようにこの部屋の棚にしまっていたそれをアーチボルド先生に渡すと、「少し予定のセーブをしとけ」と念を押された。いや、最近あまりにも暇だったからできると思ったんです……。
「アイラの怖いところは、本当にあの忙しさで暇だからと普通に生活していたことですわね……」
「監視が三人もいるのに全員甘いのが悪いな」
王子の突っ込みはやはり容赦なく、しかし肩を跳ねさせたのはフォルとガイアス、レイシスの三人だった。なんかごめんなさい。
「それにしても、狙いは誰なんだろうなぁ」
ぞろぞろといつものように分かれ道までは一緒に歩く私達特殊科の注目度は、初期の頃から変わらない。これこそ同じ学園にいるのだから慣れそうなものなのだが、別に登校が珍しいアイドルでもあるまいに毎日感じる視線の多さが変わらないのだからすごい。逆にこっちが見られるほうに慣れてしまった気がする。
もしかして、卒業が近いからこそ見納めのつもりで王子やフォルが注目を浴びているのかもしれない。私が屋敷を離れる事を寂しく思っているように……って王子たちは建物か。
「……アイラ?」
「え?」
思考がすっかり別なところに飛んでいたせいで、訝しげなおねえさまに顔を覗き込まれてしまった。心配そうな表情につい先ほどの考えを暴露すると、一転して笑われる。
「ふふふっ、た、建物と一緒はいくらなんでも」
「おねえちゃんらしいけど」
そばにいたルセナにも聞かれていたらしい。ふわりと可愛らしく笑ったルセナは、さり気なくガイアスたちが熱心に交わしている会話の内容が例の魔鳥のもたらした不可解な手紙であることを教えてくれる。手紙ね、手紙。
「手紙っていうか狂気孕んだやばい宣言にしか見えないけどな」
「鳥の足に括りつけるなんて一昔前に流行った恋文のやり取りみたいで粋なのにな」
ガイアスたちのそんな会話を聞きながらふと空を見上げた私は……すぐさま口にした詠唱に仲間たちが足を止めたことも構わず、空に向かって紡いだ魔力を放っていた。
「水の蛇!」
びゅう、と風を巻き上げながら竜のように立ち昇った水の蛇が、冷えて小さな氷の粒となる雫を散らしながらその身体に何かを捕らえ下降する。……魔鳥。またしても、方角は北ではない。
「またか!」
大きく跳躍したガイアスが、地に近づいた捕らえられた魔鳥の首を正確に繊細な細い鎖で締め上げ声を殺す。血は猛毒だ。レイシスのように風を上手く操り血を止めるのでなければ、殺すのは危険だ。
「また足に何かありますね」
「気絶させられるか」
「僕がやるよ」
ルセナが手をかざすとかっくりと羽を落とし動かなくなった魔鳥の足から素早く手紙を取り上げたガイアスの手元を、王子が覗き込む。そこで漸くざわざわとざわめく声にここが学園内であったことを思い出し、駆けつける警備騎士の姿に安堵した。彼らが上手く野次馬となった生徒を散らしてくれるはず、と思ったところで、まずいぞ、とガイアスの荒げる声に顔をあげる。
「え? ……あっ!」
「アイラ!」
いつの間にか隣に並んでいたフォルに腕を引かれ、レイシスの張ったらしい防御壁に引き込まれる。王子とおねえさまも加わり、最後にガイアスが入り込んだところで、耳を押さえる程の轟音に見舞われ思わず身を屈めた。
何が起きたのだと顔を上げた私の視界に映りこむのは大量に空から降り注ぐ石礫。ルセナはどこだ、生徒たちは、と咄嗟に視界を巡らせて、息を飲んだ。ルセナを筆頭として騎士たちが空を護るように防御壁を張ったようだが、木に降り積もった雪は飛び散り、ルセナの防御壁に包まれて散り散りの生徒たちが無事である事は確認できるが、地面を雪ごと抉る石礫に学園の景色は変わってしまっていた。
漸く音が止み、恐る恐る身を起こす。拳二つ分よりは大きな石が散らばる学園内のいたる場所を眺めて唖然としているのは、私たちだけではない。
ひらり、と風でガイアスの手の中の細く折られた紙が揺れた。赤く血に濡れた様な文字が躍る。
『サイショのプレゼントをオクりマス』




