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ふと思い立って自分の手のひらを見つめる。
魔力を集めてみるが、そこに集まるのは淡く色付くターコイズブルー。日の光を浴びた美しい海の色にも似たそれは、私がたぶん無意識で一番頼っているのが水か植物系統の魔法だからであろう。初めて色が見えると意識してから成長したのか、私が見える色は随分と鮮やかに細分化されるようになった。ゲームでいうならスキルレベルアップだな、なんて懐かしく思いながら考える。
とりあえずこの魔力は、黒ではない。それが重要だった。
するすると私の首筋を撫でる冷やりとした指が、穿った牙の傷跡を治しているのがわかる。甘くやわらかで穏やかな時間。
少し浅く荒い呼吸、上気した頬、身体が重なる面積が多く、お互いに熱を与え合うような体勢。どこまでも人には見せにくい空気を纏いながら、実際二人の間に色艶を含むものが最低限に感じるのは、恐らくフォルが意図して押さえ込んでくれているからなのではないだろうか。大事にされている、とわかるそれの最中に、たっぷりと注がれた闇の魔力が己の身体に流れる私の魔力に影響するのだろうかと色気のない事を調べるのは、マナー違反かもしれない。
「……ふふっ、アイラ、どうだった?」
「んー、私自分の色ってあんまり見ようとしたことなかったっていうか、見てもたぶん気にしてなかったんだと思うんだけど。青緑色で、黒は混じってないなぁ」
「そっか。血流に流れる魔力に直接闇の力も流れ込んでいると思うんだけど、結局はアイラは闇使いに魅入られてはいても闇使いじゃないからね」
色気のない事をした自覚はあるものの、フォルも結局は私と同じ穴の狢だ。医療科で切磋琢磨する関係が変わるわけでもなく、お互いに体内での魔力の変化がどうだと話し始めるのだから、そこに甘い空気はある筈なのに響く音は色気の欠片もないものばかり。
それでよかった。時折フォルが笑みを浮かべて私の頬を指先で撫で、私がフォルの胸元の服を掴み皺を寄せる。この穏やかな時間が僅かなものであるとわかっているからこそ、何をしていても、どんな会話でも楽しいのだから仕方ない。
暫く交わされる会話は普段となんら変わりないものが続いたが、ふっと、フォルの表情が真剣なものに変わって、少しだけ背筋を伸ばす。
「……まさか、闇の力に感謝する日が来るとは思わなかったな」
「え?」
「大切な人を護れる力だなんて考えたことなかった。傷つけるだけのものだと思ってたから」
悲観的ではない、口元に笑みを乗せ、嬉しそうに語るその姿が胸を打つ。好きな人の笑みというのはきっと、回復魔法よりも効くに違いないな、と医療科の知識ではあるまじき事を考えて苦笑した。確かに病は気からと言えど、私にとってフォルのこの笑顔はそれを越えた気がしたのだ。
見てて、とフォルを見上げる。
フォルの胸元を掴んでいた手を離し、横に伸ばして手のひらを上向けて、魔力を練り上げる。くるくると小さな渦を巻く水色の魔力がみるみるうちに形作られ、出来上がったのは氷の短剣。
「フォルの真似。フォルみたいな長剣は出来ないけど、上手いものでしょう?」
「アイラは器用だよね本当に。儀礼用の飾剣みたいだ」
フォルが手を伸ばし、柄の部分を撫でる。花の意匠に蔦が絡み、われながら美しいデザインで仕上げられたと思う。でもこれは、魔法剣だ。
「護身用に普段から具現化できていたらいいのに。アイラは武器が少なすぎる」
「護身用かぁ……私の最大の武器はある意味エルフィの力だからなぁ。あ、刃は触らないでね、切れるよ」
そう声をかけると、フォルの指先がぴたりと止まる。それを見ながら笑った。
「いくら綺麗でも、武器は武器。魔法は、魔法。でもそれが人を傷つける為にあるか、護身用……護る為にあるかは、使い手次第だよね」
「闇の力もそうだって気付くのが僕は遅すぎた。……あ」
手の中でどろりと解け始めた氷の剣を見て、やっぱり長持ちはしないかと手を離せば空気に溶けて消える。元よりそんなに長く形を保とうとしていたわけでもないし、今の私は随分とぽかぽかとした暖かい気分なのだ。溶けるのは仕方ない。
「忙しくなるね」
「そうだね。でも、皆もいてくれるし大丈夫じゃない? おねえさまだって同じだよ」
「ラチナはデュークと学ぶ場所が違うからね。アイラは僕と同じ医療科だから」
「大丈夫大丈夫。もうすぐ卒業だし、目一杯楽しもう! あ、でもフォル、私卒業後ってどうすればいいのかな。商人の娘だしっと思ってたから、ベルマカロンとカレー屋の経営に携わりながら領地でのんびりお医者さんになろうとか、漠然とした事しか考えてなかったんだよね」
誰かに助けを求められればそこに治療しにいこう、貴族も平民も分け隔てなく。それが私の本来の目的だった。伯父のように医者として生活するのもいいが、私はその選択肢を出す為にベルマカロンを手がけてしまっている。お菓子だろうと食事は健康に繋がるものだ。いまや従業員も多く、カーネリアン達の支えもあって、ここ最近私は食事からの健康をうたったカレー屋の展開に力を入れ、父にも認められて本格的な始動も目の前だ。
多くの人の助けがあって初めて成り立つ夢。夢が現実となるまであと少しだが、人に助けられなければできないことを人に甘えて叶えようとしているのではない。ベルティーニは元より、元子爵の手によって生み出された奴隷やそれに近い者をひっそりと引き抜く事で人員を確保しており、今も各地で似たような境遇の者を引き抜いているのを知っている。自己満足の慈善と言われればそれまでだが、たしかにそうやって成り立っているのだ。人は一人では生きれない。
理想と現実が違うことは多々あれど、きっと私は本来の目標……この世界で悔いなくいられるよう、頑張ることを放棄しないという点は諦めずにいられるのだから、幸せだ。……そこに、己の婚姻だとかが少し絡んでいなかっただけで。未来予想にフォルをいれるというのは、なんとも気恥ずかしい。
「前にも一度言ったけれど、ボクはアイラがしたいことを遮るつもりはないよ。……ただ、貴族の女性社会についてはなんとも言えない……かも。ごめん、僕の義母は領地から出てこなかったからわからないんだ。だったらなくてもいいのかと言われれば少し微妙かな、僕の義母は特殊な例だから」
この時のフォルの困ったような表情に深く聞けず、自分の母親を思い出した私は首を傾げる。そういえば、物語の貴族の夫人ってお茶会とか情報収集に忙しそうだけど……私の母はばりばり働いているように思う。元は貴族ではないのだから仕方ないかもしれないが。
「うーん、おねえさまに相談することにする」
「はは、うん。んー、具体的な話をしていると実感湧くなぁ。僕たちももうすぐ成人だしね」
穏やかなフォルの笑顔に見守られて笑みを浮かべる。フォルはきっと、明日からの事を考えて私が不安にならないようにしてくれているのだろうなぁ、嫉妬怖いもんね。今までの非じゃないと思えば確かに怖いんだけど。
多少暢気に構えるのは私の性質なのか。
しかし、翌日からの私達の変化は予想とは違うものとなる。
「今日もお休みのようですね……」
アニーがぽそりと呟いた言葉に顔を上げる。見渡す教室内にいないのは、二年以上共に過ごした筈の医療科の一人。
私とフォルの婚約について正式に発表がなされたのは、もう一月も前だ。といっても、学生である当人同士の動きなんて殆どなく、あくまでジェントリー公爵が表立っての発表で、私の変化はたまに婚約について聞かれるとそれに答える程度。
婚約パーティー等は卒業後の予定だ。え、やるんだ、と当然だろうについ零してしまった呟きは、フォルに「僕の横に立つアイラがみたい」で封殺された。なんてこった。
それより驚いたのが、正直言って私への嫌がらせがこれまで以上にかなり増えるだろうと警戒して迎えた筈の発表であったのに、蓋を開けてみればなんと……
「あ、アイラ様。ベルマカロンの新作のチョコケーキ? でしたかしら、素晴らしかったですわ。ぜひ我が領地の店舗でも販売してくださらないかしら」
にこにこと話しかけてきたのは、今まで殆ど話したことがない伯爵令嬢だ。同じ医療科に属していながらも、私を遠巻きに見ていた筈の一人。
ええ、と笑みを浮かべて応対し、それではと品良く立ち去っていく後姿を見つめてこっそりため息を吐く。
「嫌がらせを受けるより貴族の怖さを知った」
「アイラ、しー! 本音が漏れすぎですわよ」
細く美しい白い指先を、ぷっくりと艶っぽい唇に当てて静かにと慌てたおねえさまに苦笑してみせる。そう、私への嫌がらせは、発表後数日でぱったりとなくなった。むしろ今までより静か。
考えてみれば、私は王太子妃と友人で、王太子殿下と行動する機会も多く、そしてなんと筆頭公爵とも言われるジェントリー側から正式発表された次期公爵の婚約相手。嫌がらせするより擦り寄りたい、という本音が丸見えになるという結果をもたらした。
そして最大の変化といえば、アニーが先ほども言ったように、とある生徒がいなくなったこと。体調不良ということで学園を休んでいるのは……ローザリア・ルレアス公爵令嬢。
正直、いなくてほっとする……わけがない。彼女が本当に「体調不良で」休んでいるとは思っていない。罪悪感があるのかと言われれば、私はフォルを渡す気はないのだから「いいえ」であろうが、それでも晴れ晴れとした気分でないのは確かだった。
こうして予想外の結果を迎えた日々は、あの魔物に襲われた日から慌しく過ぎていく。思い返せば怒涛の日々であったと言っていい。
すっかり冷え込んだ空気を肌で感じながら、私はぼんやりと鳥すら飛んでいない冬の空を見上げた。卒業はもう目の前だった。




