312
戻ろう、と声をかけたのはフォルとレイシス、どちらが先だったのか。
「もし小さい魔物を逃している場合は?」
「探知、索敵はするが、正直逃げ出した魔物の討伐なんて一日で出来るもんじゃないだろうよ……しばらく王都外壁に強い防御壁を張ってもらって対処するしかないんじゃないか?」
「依頼所に護衛任務が増えそうですね、学生には来ないでしょうが」
ぽつぽつと会話しながら、帰りは全員でぞろぞろと山を下っていく。ある程度緊張感はあるものの、皆もやり終えたことでどこか肩の力が抜け、私のように空腹を訴える者も出始める。
そんな中で一人表情を険しくしているのは、ガイアスの地の蛇に捕らわれ連行されているミレイナ。ガイアスとレイシスがものすごく警戒してくれているのだが、本人にもそれがわかっているのか大人しい。
事情を詳しく説明したいところだが、防音の魔法をかけて説明するにもそれだと他の班員に不審がられる可能性があるし、何より私達が周囲に向ける警戒が薄くなる状態は避けたい。さっさと、戻らなければ。
「皆油断するなよ! まだ敵がいる可能性があると思って移動しろ! 念のため鎧魔法は常に維持しておけ!」
ガイアスが声を張り上げると、ガイアスとレイシスの班の一、二年生が慌てたように背筋を伸ばす。元より三年生は気を抜いていた様子はないから、ここは経験の違いなのかもしれない。
慎重に進んでいた。この中で索敵が得意だと私がわかっているのはレイシスだ。だが、場所が場所であるから、今一番索敵に向いていて強いのは私だろう。気を抜かずアルくんと連携して魔物の残党に注意を払っていた私の、周囲に巡らせていた魔力にふと、何かを感じる。
それはまるで、張り巡らせた糸が風で揺れたような、僅かな違和感。精霊か何かが触れてしまったのだろうかという程度の、そんな些細な変化。しかし気になって足を止めた私につられるように、傍を飛んでいたアルくんも同じ方向を見つめた。
だが、何もない。もし魔物だとしたらもっと存在をはっきり認識できる筈。首を捻ってさらに様子を探るが、やはり、何もない。念のためにと鎧魔法を強化し、周囲に薄い魔力防御を広げればさすがに、数人が首を捻る。
「アイラ? どうかした?」
私が振り返って斜め後ろを見ている事に気がついたらしいフォルに声をかけられ、違和感の正体は些細なものでどう答えようかと口を開いた、その時だった。
「……私が操っていたのが蝙蝠だけだと思った?」
突如割り込んだ声が、笑い声に変わる。はっとしたガイアスがすぐに私に手を伸ばしかけたが、彼の手は何かにぶつかった。……いや、切断、された。
「……っ!? ガイアス!」
目の前がなぜか赤く染まる。壁にべったりと血が張り付いたかのように視界が赤い壁にふさがれて、雫が零れ落ちていく。慌てて手を伸ばした私の手が何か見えないものにぶつかった。べたべたと透明のガラスのようなそれに触れて、漸く事態を理解する。
空中に張り付く赤い液体は、間違いなくガイアスの血。魔力の壁を伝い落ちる雫を辿ってまさかと見下ろした先で、大事な利き腕を地面に転がしたガイアスが地面に倒れこむのが見える。
「ガイアス!? ガイアス、ガイアス!!」
狂ったように血を張り付かせた透明の壁を殴り魔力をぶつけるが、割れる様子がない。……防御壁で、遮断されたのだ。見れば、どうやら壁に閉じ込められたのは私以外の集団で移動していた騎士科全員と、フォルとレイシス。まさかと首を巡らせると、魔力が解けたのか、ガイアスの地の蛇に捕らわれていた筈のミレイナが一人、壁の外で立ち上がってにやりと私を見ていた。
おかしい。人間業じゃない。魔力の流れも何も感じさせずこれ程の壁を一瞬で作り出すなんて、それこそルセナですら発動の瞬間は魔力が膨れ上がるというのに。それに何より、私は皆の周囲に壁を張ったばかりだった。……音もなく壊された。こんなの、蛇に捕らわれて魔力を押さえ込まれていた彼女にできる筈が、ない。
壁の内側に、焦った様子でガイアスの腕を拾い治癒術をかけながらこちらを気にするフォルと、ひたすら壁を打ち破ろうと魔力を壁にぶつけるレイシスが見えた。ガイアスの腕はフォルがすぐ治療に当たれば問題ない筈だが、胸のうちにふつふつと怒りが沸く。戦士と言えど、痛くないはずがない。
しかし、状況は混乱を生むばかりであった。騎士科の生徒もそれぞれ四方八方から壁を攻撃しているようだが、びくともしていない。……おかしい。
壁はうっすら赤く見えた。つまり、火属性の防御魔法。……視線をミレイナに戻してもそこに、赤い力は見当たらない。
「……何をしたの?」
「ははっ! 簡単。この子たちが手伝ってくれたんだよね」
彼女が手のひらを開いてみせるとそこにいたものに、思わず眉を寄せる。……幼虫だ。ぐにぐにと柔らかい体を動かし捻って手のひらで蠢いているのは、間違いなく、虫。
「あら虫は苦手? この子たちが魔物たちを操ってくれているのに」
「別に。……ん? 操る……?」
強がってすぐ聞き捨てならない言葉に思わず顔を上げると、にやりと笑うミレイナの周囲が黒く黒く染まっていく。慌てて身構えたその時、ばさばさとどこからか羽音にしてはありえない程大きな音が聞こえて、息を飲む。
木漏れ日が消え、光が翳って暗くなる。恐る恐る見上げた私、そしてレイシスたち壁に捕らわれた生徒たちの視界に飛び込んできたのは、鋭い爪と大きな口から覗く牙、鳥とは違う鱗に覆われた体と羽を持つ、私の体の三倍はあるだろう大きな魔物。
「……なんで」
「ふふふ、見事でしょう?」
鱗の肌を持つ魔物はいる。水辺に、だ。だが、明らかに火の力を纏うその魔物の種族に該当するのが、一つしか思い当たらない。羽ばたくその羽の先で炎が揺らめき、火の粉が舞い落ちる。
――竜。……この国にいるとは、確認されたことがない筈の、それは。
「ファイアドラゴン……? 嘘でしょう? 火吹きトカゲじゃなくて……ほん、もの?」
「本物だよ、もっともまだ生まれて間もない子供だけどね。げほっ……この子が、ソコノ、防御壁を生み出シたの。倒サナイと、消えなイカ、ら」
くすくすと余裕の笑みを浮かべるミレイナの声がこもり、発音が崩れていく。ぎょっとした私の目の前で、彼女がげほげほと咽て、口から黒い霧を吐き出す。……やはり闇の操作系だったか!
やばいと肌で感じて、仲間を捕らえた防御壁を打ち破ろうと生み出した水のチェイサーを叩き込む。だがその瞬間、ばさばさと羽ばたくだけで見下ろしていたドラゴンが羽で風を起こすように強く身体を揺らした。
「っあ!? レイシス!!」
目の前で壁が炎を纏い、あっという間に中が見えなくなる。ごうごうと燃え盛る炎から慌てて距離をとり、ちりちりと痛む肌を擦った。……まずい! これでは壁が解けたら解けたで全員が骨も残らず燃えてしまう!
「くっ!」
もうこれは術者、というより術を使った魔物本体を倒すしかない。外に出ているのは私だけ、護らなければ全員が死んでしまう!
「はは、アはハハ、ヒャハハハハ!」
楽しげに笑うミレイナの魔力が膨れ上がり、目の前に大きな魔力弾が打たれて慌てて盾でそれを打ち砕きながら、跳ぶ。
これはもう、死ぬ気でやるしかないようだ。ドラゴンと、闇に操られた人間相手に? ……ええい、考えている暇はない!
「先にそっちです!」
大きく風歩で距離をとり生み出した水の玉を、ミレイナめがけて叩きつける。自慢のチェイサーの数は三十を越え、そのいくつかを牽制の意味でドラゴンに向かわせるが、軽くあしらわれるようにチェイサーはドラゴンの爪先で弾かれた。……おいおい待ってよ、レベルが違いすぎだ!!
「ありえない!」
大きく跳び回りながら、こうなれば仕方ないかと植物の精霊たちに声をかける。レイシスたちを囲う壁の周りで燃え上がる炎は魔力を持っているようで広がりは見せていない。だがもしこれでドラゴンが本気を出せば、山が大惨事になる。……北山はある意味隣国から攻め入られないような位置にある、城の護りの一つだったのだ。山火事など、笑える話ではない。いろんな意味で!
「行け!」
「ギャアァっ!?」
突如として盛り上がった地面から伸びた根に足を貫かれ身も縛られたミレイナが、獣じみた悲鳴を上げる。悪いが、構っている暇はない。ドラゴンはただ羽ばたいて炎の壁を見守っているようだが、あれを倒さねば中にいる皆が危ないのだ。
「切り裂け! 蔦の剣!」
腕を振り上げるとそれに呼応して精霊たちが叫び、いたるところで木に絡み付いていた蔦が剣のような鋭さを持ってその身を振るいミレイナとドラゴンを襲う。が、ミレイナはともかくとして、ドラゴンの血が飛び散る心配をしたのがまるで杞憂に終わり、鱗一枚剥がれた様子はない。しかも、そこで漸くドラゴンはじろりとこちらを見ると、羽ばたく。
「アルくん! ジェダイ! 時間稼ぎを!」
『了解!』
二人の声を聞きながらグリモワを防御に使い、急いで王子に伝達魔法を繋ぐ。すぐに繋ぎ返されたが、どうした、と声をかけられるも返事を返す前に、悲鳴があがる。
「ひょああああ!?」
『アイラ!? おい、アイラ! どうした、何があった!』
頭上すれすれを炎が通り過ぎ、慌てて水の蛇でそれを消化する。……よかった! あの防御壁の炎に魔力を使っているせいか、攻撃自体は炎に対処できそうだ!
「ファイアドラゴンの子供です! 援護お願いします、私一人じゃちょっと、ああああ!? 燃える! ちょっと加減してうわあ!」
『はぁ!? な、ファイアドラゴン!? フォルはどうした!』
「閉じ込められました! ごめんなさ、もうきつ……っ!」
ぶっつりと伝達魔法が遮断され、貴族令嬢にあるまじき舌打ちをして魔力を周囲に流す。言った通り一人じゃ無理だ。エルフィの力を使うしかない。植物の精霊はファイアドラゴン相手じゃ不利だが、みんなあれが暴れれば棲家がなくなると理解している。つまり、植物の精霊たちのやる気というか必死さはこちらにも伝わる程で。
「ありがとうアルくん、ジェダイ、下がって! アルくんは精霊たちのフォロー! ジェダイは私の防御に!」
指示を出しながら地面を蹴り、勢いのままに怪我だらけの身体で蔦から逃れようと暴れまわるミレイナの喉に手を当てた。やはり闇に操られたものらしく、痛覚も無視して暴れようとする彼女が腕を振り上げると、ジェダイがその手を地の蛇で絡め取って応戦する。
操作系術の解呪魔法をほぼ叩き込むように詠唱しぶつければ、ふっつりと糸が途切れたように気を失った彼女は悪いがそのまま地面に転がして、枝を足場に風歩で上に上にと登れば、目線が近くなったドラゴンの、宝石のように美しい赤い瞳が日の光を反射してぎらりと光った。私をしっかりとその視界に収めたドラゴンが、吼える。
「はは……とんだ戦闘になりそうじゃない……アイラ・ベルティーニ、行きます!」




