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292.レイシス・デラクエル



 負けた。


 体中の魔力が生命活動を維持する程度しか巡っていないことはわかっている。

 笛の音が聞こえた瞬間絶望的な思いを味わった。


 俺は負けたのだ。



 俺は恵まれた環境であったと思う。

 両親共に大商人の家に仕え、しかもその主たる商人家の人間は全て人が良く、商売において手を抜く人たちではないが身内には非常に甘く、恐れ多くも主の子と兄弟同然の扱いを受けて幼少期を過ごさせて貰った。

 父は商人家で、時に秘書、時に執事とその役目を上手くこなしながら、一番の仕事は彼らの護衛だった。俺の生まれのデラクエルは、元はこの国筆頭公爵家とも言えるジェントリー家にこっそり仕える暗部の出だ。なぜその絶対君主から離れ、所謂大金持ちと呼ばれてはいても一商人に過ぎないベルティーニに仕えるようになったのかはデラクエル当主とその周辺しか知らぬことだが、俺に不満はなかった。もしかしたら兄のガイアスは聞いているのかもしれないし、そうであったら悔しいという感情もあるが、ガイアスはそれだけの男だと思う。サフィル兄さんが亡き今彼は長子の役目を負うのだ。そこに、不満もない。かと言って修行の手は抜かないが。

 幼い頃から徹底的に戦う術を仕込まれているのも文句はない。デラクエルの生まれである事は誇らしく、双子の兄、歳の離れた兄にも負けない強さをと日々過ごすことに何の疑いも無かった。

 兄は俺が幼い頃に亡くなってしまったが、だからといって生まれを憎んだことはない。今は特に、狙われやすい、危険な立場であるなら、それを防ぐための力をつけなければ、とすら考えるようになった。

 いくら挑んでも勝てない父にいつか勝ちたいだとか、双子の兄と勝負すると六割負けるのが不満だとか、守るべきお嬢様がある意味強すぎるとか、一番上の兄が亡くなったことで目指す彼がさらに遠く感じるようになったとか、そんな日々の悩みは人並みにある。

 だが、生まれを憎んだことはなかった。

 ただ一つ例外があるとすれば、兄妹同然であった筈の大切なお嬢様を、この一、二年の間に女性として意識してしまったことか。それまで俺は、大切な妹で、大切なお嬢様で、この先ずっと守っていく方だという思い以外なかった筈なのに。

 それだけは生まれを憎んだ。なんで俺は、お嬢様と兄妹のように育ったのだという位置ではなく、もっと別な場所にいることができなかったのだろう、と。……兄の真似をすればアイラの気を引けると思っていたくせに、いまさらだ。最もアイラは、俺と兄は別とはっきり区別していたのだけど。


 負けることはつまり、弱いことではないと父は言う。

 勝利しか知らない人間は逆に弱いものだとこの国の王子は言う。

 負けて、二度と勝てないと、そこで勝つ事を諦めたらそれは弱いのだと、双子の兄は言う。

 勝負で負けたのなら、何度でも勝てるまで挑めばいいんだと、頑張れなくなる事の方が辛いだろうと想い人は言う。


 だが俺は、今日は、この勝負だけは、負けるわけには行かなかったのだ。


 知っていた。いくらお嬢様が隠すのが上手かろうと、フォルが顔に出さなかろうと、お嬢様の魔力が一時乱れやすい時期があったことなんて知っていた。それが何を意味するのかわかるまで、時間もかからなかった。

 ガイアスとアイラのことだけは、誰よりもわかっている筈だった。ガイアスの最近の悩みだって気づいてたし、相談されて一緒に考えた。アイラのことだって気づかないわけがない。それほど長い時を過ごし、そしてついには俺は彼女の中で兄弟という枠を超えられなかったのだ、と理解するのも、難しいことではなかった。


 知っていた。初めてフォルに会ったあの日から、フォルに事情が在るのは察していたとしても、お嬢様が珍しく俺ら以外の存在を気にしていたことも。

 学園に入ってからはフォルは次第に好意を隠さなくなったし、お嬢様もどう接すればいいのかわからないと悩んでいたことはあっても、俺とフォルとでは好意へ応えられない意味が違うという事もわかっていた。


 フォルに一昨年引き分けで終わった勝負の決着をつけようと持ちかけられて、確信したのだ。


「また、お嬢様のエスコートの権利でも賭けるのか?」

「いや、何も賭けないよ。でも、君とは引き分けだったから。勝負をつけよう」

「勝負、ね」

「意味のない事だって言わないで欲しいな。確かに僕たちは授業で何度も試合してどちらも勝ったり負けたりしているからいまさらだけど。……そうだな、しいて言うなら、アイラの感情が伴わないものを賭けるんじゃなくて……」

「お嬢様の護衛としての俺に挑むか?」

 え、と目を見開いていたフォル。お嬢様を守れる男かどうか俺に見せ付けるつもりなのかと。護衛より強い男がいるのだから許せと。それとも、勝ってからお嬢様をよこせとでも言うつもりなのかと。意地の悪い思いでその銀の瞳を見つめる。

「……違うよ。同じ相手を好き同士、ライバルの君に挑みたい。僕が勝ったら引けとも言わないし、負けても引くつもりはないけどね」

 もっとも、アイラの幼馴染の君でも、僕のライバルの君でも、彼女の護衛の君でも、ただのレイシスでもなんでもいいのだけど、と彼は悩みながら口にする。

 かみ合っているようで、かみ合っていない会話。わざとだ。お互い本心を隠しているのだから、当然だろう。

 しばらくして、フォルは大きく息を吐いた。深呼吸して、俺を見た眼差しは強かった。

「認めてもらいたいんだ。僕はアイラを守れる男になりたい。何かごちゃごちゃした考えじゃなくて、ただ君に勝ちたいと思った」

「……フォルは、十分だろう」

「え?」

「わかった。話は終わったら、聞く。勝っても負けても」

 なぁフォル。俺はお前がお嬢様を諦めないと宣言したあの日既に、負けてたんだよ。どうしても、お嬢様と兄弟のような関係だということも、捨て切れなかったんだ。振られた時に、それでも今までと変わらないで接しようとしてくれる彼女に、満足してしまった。


 負けて、二度と勝てないと、そこで勝つ事を諦めたらそれは弱いのだと、兄は言う。


 俺は、アイラの隣で今まで通りの関係に安堵しながら、あわよくば振り向いてはくれないだろうかと待っていただけだ。

 

 

 曇り空の隙間から日が覗き始めたと思ったのに、太陽はまた隠れてしまった。

 薄暗い会場で、膝を地面につきながら思う。

 俺は弱かった。でもせめて、護衛として、一戦士として、彼にこの試合だけは負けたくなかったのに。勝っても負けても話は聞くから、せめて試合で負けたくなかったのに。俺が勝っても負けてもアイラの気持ちは変わらなくて、それでもアイラの幸せを願ってしまった俺だから、せめてただこの試合で勝ちたかったのに。

「レイシス」

 フォルが俺を呼ぶ。ゆるりと空から視線を落とせば、常日頃から笑顔で感情を読ませない男が、わかりやすく感情を露に俺を呼んでいた。

「せめて試合では、勝ちたかったのにな」

「俺は、何が何でも勝ちたかった」

「知ってるよ。……素が出てるぞ、フォル」

 一瞬驚いた顔を見せた彼がむっと口を尖らせ、俺の腕を引いて助け起こす。

 なんとも言えないように黙り込んでしまったフォルをちらりと横目で見て、唇を噛んだ。わかってる。誰かが悪いとかそんな話じゃないのだとしても、やり切れない。簡単に、勝負に負けたから認めてやるよと言える程軽いものでもない。どうしようもなくて、叫びだしたい。

 衝動に任せて、今だけはと口を開く。

「悪いけど認めないぞ」

「えっ?」

「腹黒貴族をお嬢様の相手になんぞ認めるか。永遠にお嬢様をその毒牙から守ってやる」

「ええ!?」

「傷つけようと思わないことだな。今度騎士科の練習場でもう一度勝負しろ、次は勝つ」

「……俺に素が出てるとか言っておきながら君も大概アイラの前とそうじゃないところでの差が激しいよね。しかもツンデ、」

「うるさいしばく」

 ぶつくさと文句を言い合いながら歩いていると、ふわりとあたたかい気が流れ込んできた。魔力を回復されているのかと気づいて、この野郎まだそんな魔力が残ってたのかと頭にきた瞬間、フォルと、フォルを支えに歩いていた俺たち二人は地面に崩れ落ちた。がつっと膝をぶつけて倒れこみ、呻く。

「うっ……!?」

「ご、ごめん!!」

「馬鹿か!? 俺を回復できるほど魔力が残ってないならやるなよ!」

「いやその、歩くの大変そうだしちょっとだけと思っ」

「それでも医療科かよ! 回復できるやつは自分の限界考えないから困る。俺はお嬢様は守ってもお前まで守らないからな!」


「あー、喧嘩してるところ悪いが、お前らさっさと担架乗れよ」


 いつの間にかやってきていたアーチボルド先生に首根を掴まれて、猫のように二人身体が浮かぶ。むっとして顔を合わせると、似たような顔をしたフォルがいて、ため息を吐きたくなった。

 素直にと言いたいところだが、結局先生にぽいと担架の上に乗せられて、運ばれながら悪態をつく。

「ああ、負けた負けた。こんなやつに」

「ほんっと君アイラがいないと性格違うよね、巨大な猫か」

「フォルに言われたくない」

「僕だって君に言われたくない。それに君のその性格、アイラもガイアスも知ってるよね、最初からそうして」

「煩いな、子供っぽいんだろ、そんなこと知ってるよ!」

「そこまで言ってないし!」

 結局喧嘩は救護室に行っても収まらず、ぎゃあぎゃあと言い合う俺らに医者の一喝が入った。どうやらフォルも魔力切れを起こしたせいで、決勝試合がフォルの回復を待って一時間後に伸びたらしい。それでもきっと、余力を残したデュークが相手ではフォルは不利だ。

 わかってても、あえて言う。

「お前、俺にもガイアスにも勝っておいて、デュークに負けるなよ。せめて勝て」

「……無茶を言うね」

 認めない。簡単に消化できる想いじゃない。


 それでも俺は、彼女の幸せを願ってる。



 




アーチボルド先生の内心


あー、うちの生徒ほんっと強いわ。俺の指導の賜物だなぁ。

元から出来た奴ばかりだとは思っていたけど、あいつら癖も強いし一人前にするのマジ大変だったんだよな。いや、育ってくれて何よりだ。ったく、あの王に息子と他六人程、ちょっととんでもない子たちを育成したいから頼まれて欲しいんだけどと親友のノリで軽く言われた時にはこのクソ王とか悪態ついたけど、やってよかった。なんだか父親の気分だわ。


……でもね、なんであいつら揃いも揃って勝負終わったあとあんな騒がしいかね。

喧嘩するほど仲がいいんだろうし、負けた方と勝った方で無言で険悪になられるよりはマシだけどさ。

屋敷に戻ってからやれよな、せっかく成長を喜んだの台無しじゃん? マイクに声が入らないように気を使う俺の身にもなれって、一応お前ら全生徒の憧れ的位置なんだよ。つかそれどころじゃないのわかるけど、特にフォルももうちょっと会話気を使えって。お前次期公爵だろ、それでどうする。まだまだ子供だな。担架誰運んだと思ってんの、俺一人で風の魔法で運んだ意味わかってるか?

ったくあいつら、試合終わったら再指導だな。




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