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日が落ちた。
だからなんだといわれるかもしれないが、夜なのだ。
夕食を終え、いつもなら居間にそのまま残って雑談などをかわす私達であるが、最近は夏の大会が近いせいかそれぞれ準備や、近日行われる筆記試験の為に時間に追われ、解散がはやい。
早々に部屋に引き上げることになってしまった私は、今日調査のために部屋を留守にしているアルくんを呼び戻したい思いに囚われながら部屋をうろうろし、呆れたジェダイに風呂場に追いやられた。シャワーを浴びて煩悩を流して来いとはなかなかジェダイ、ちょっとひどい。最近彼は漸く慣れて来たのか、会話が砕けてきている。いいことなんだけどね……。
そして湯上りほかほか、濡れた髪を慣れた加減で魔法で水を飛ばした瞬間、部屋がノックされたのだ。
びくりと肩が跳ね上がり、思わず逃げたくなりつつもちらりと自室の閉じられた扉を見る。控えめなノックがもう一度聞こえ、意を決して扉を開けよう……としたところで、慌てたジェダイに止められた。
曰く、上に何か羽織れ、と。風呂上りの薄着のままだった私は、慌てて薄手の上着を羽織ったのだった。
「あ、アイラ」
扉を開けると顔を見せたのはやはりというか、フォルだった。
昼間は慌てていたので、両者共に「夜に」といいつつ、どこで、とか何時に、という具体的な約束をまるでしていなかったのだが、私がもたもたしている間にフォルが来てくれた。……来てしまった。
とりあえずどうぞ、と部屋に招く。恐らくフォルが自ら来たのは、私の部屋ならば私が受け入れなければ入れない環境であること、両隣がガイアスとレイシスの部屋であること、そしてジェダイがいるからだろう。さすがにこの屋敷の壁は防御が施されているだけあってちょっと叫んだくらいじゃ隣に声が聞こえそうもないが、例えば大きく魔力が動いたりすればきっと気づくから。
そんなことを考えつつがちがちの身体をなんとか動かして、フォルに椅子を勧めお茶を淹れる為に簡易の台所に向かう。その際フォルをほとんど視界に入れることができず情けなく思いながら、お茶を準備する自分の指先を見つめた。
王子に言われて気づいてしまえば、魔力を安定させるのはあまり苦労はなかった。もちろんどきどきと煩い心臓はそのままだし魔力の巡りもいいが、今までに比べれば圧倒的に気持ちに余裕がある。夕食前におねえさまに相談したところ、それが普通であるらしい。
暴走の癖がついているような状態の私はそのことに敏感で、必要以上に恐怖を煽られていたのだろうと。一度気づいてしまえば問題ないんじゃないかと王子が言っていた、とほっとした様子のおねえさまを前に、王子に文句を言いたい気持ちは萎んでいった。荒療治であったが感謝である。
お茶を淹れ終わってしまい、しばらく波紋を広げるカップの中身をぼんやりと見つめた後、もう一度意を決してそれを手に振り返る。テーブルにお茶を置くと、ありがとう、と微笑んだフォルは昼間より落ち着いてみえた。ずるい。
とりあえずフォルの向かい側に座り、自分の淹れたお茶を一口飲んで……首を傾げる。味がさっぱりしないし、香りもよくわからなかった。それが自分の精神状態のせいであるとすぐに理解して少しだけ眉を寄せ、淹れ方はいつも通りだったから味は大丈夫な筈、と一人結論付けて自分がお茶を楽しむことは早々に放棄する。
「あの」
無言の空間に堪えかねて声をかけると、はっと身体を揺らしたフォルが、私を見て首を傾け苦笑した。
「あはは、ごめんね。なんか緊張して、せっかくアイラが淹れてくれたのにお茶の味よくわからなくて困ってた」
「わ、私もわからなくて。おいしく淹れられていたらいいんだけど」
「同じ、か。……ねえアイラ」
フォルが顔を上げ私と視線を合わせる。その視線が真剣で、ぐっと息を飲む。
「同じ? 君と、僕の……」
ちらりとフォルが視線を流した先にあるのは、すっかり馴染みすぎてフォルがくるというのに隠す事すら忘れていた香水の小瓶。
あ、と息を呑んだが、そもそも隠すのもおかしいかと思い至り、少しだけ俯く。
「俺はアイラが好きだよ」
また昼間のように一人称がいつもとは違うフォルにストレートに言葉を告げられて、ゆらゆらと揺れる視界の中でなんとかフォルの目を見上げる。
「好きだ。一度振られたのに、わかってるけど、好きなんだ、アイラ」
真剣に想いを伝えられて、逃げるのはいけないのだとその瞳を見つめる。
何か言わなければと思うが、そうしたときに頭に過ぎるのは大切な幼馴染の姿であった。それでもそれはもう、目の前の彼の気持ちを無視する言い訳にはならない。気にするなら、今度こそ幼馴染にしっかり話さねばならないということなのだ。
「フォル。あの、私」
一度言葉を切りつつ深呼吸する。フォルはただ待ってくれていた。どうしようもなく頬が熱くなり、その熱に浮かされたように思考がまとまらないままただ必死に口から出た言葉は、なんの飾り気もない真っ直ぐなものだった。
「好き、です」
か細く消え入るような声になってしまったような気がするが、それが私の今の精一杯なのかと情けなく思う心と、やっと言えたと思う心が同時に胸を満たす。
初めにフォルが気持ちを伝えてくれたという状況であるのにこれでは、フォルはどれだけ緊張して私に気持ちを伝えてくれたのだろうか、と考えるが、私はフォルの顔を見上げることができずに顔を隠すように俯いた。
しばらく無言が続いたようが気がしたが、ほんの数秒だったのか、あるいは意外と長い間だったのか。気づくとカタンと小さな音を立てて椅子が動く気配がして、慌てて身を固くする。
「……よかった」
フォルの声が近くで聞こえた瞬間、ふわりと覚えのある香りが私を包む。
「……フォル!」
「少しだけ。アイラごめん、今は顔を上げないで」
ちょっと、その、たぶん情けない顔してるから恥ずかしい。そういうフォルの顔が私の肩に乗っている。この状況のほうが余程恥ずかしいのだが、とあわあわとする私の背に軽く腕を回したフォルが近すぎて、心臓が破裂するんじゃないかと思った。それでも意識はここにあり、魔力が暴走していないことにどこかでほっとする。
ぴたりと寄せられたフォルの身体が熱い。どくどくと鳴る音がとても大きくて煩くて、もしかしたらこれは私だけの音ではないのかもしれないと考える。
どこかでこうしているのがほっとする、とか気持ちがいいとか考えているのに、その思いに反して身体ががちがちで指先一つ動かせなくて、こんなに緊張していたら嫌がっていると思われるんじゃ、と混乱した頭で考えていると、左耳のすぐそばで大きく息を吐く音が聞こえて、思わずびくりと身体を揺らす。
「あ、ごめんアイラ……ってアイラ?」
少しして離れたフォルは、僅かに頬を染めたままであったが私を見下ろしてすぐ、大きく目を見開く。
すぐに伸ばされた手が私の頬を包んだ瞬間、ほんの少しだけひんやりと肌を冷やした。
「ごめんアイラ。大丈夫? 顔真っ赤。俺、やりすぎたね」
目を逸らしながら私を優しく包んで冷やす手にどきどきとしていると、フォルが小さく「そんな潤んだ目で見上げるとか反則」と呟いているのが聞こえてまた顔が熱くなる。
ち、違うんだフォル。狙っているわけじゃなくてね、その、いやフォルが悪いんだって!
あわあわと口を動かすが声にならず、もうだめだ、と諦めた私はその場に突っ伏した。テーブルのほうがよく頬が冷える。
この後どうしよう、とぐるぐる揺れているような感覚を味わいながら今度は額を冷やしていると、くすくすと小さく笑う声が降ってきた。
「アイラ、ちょっと待って。そんなに強く押し付けたら痛くなるって」
「はい……」
「ほらアイラ。もう何もしないから、顔あげて?」
フォルが少し離れた気配がして顔をあげると、またフォルは向かい側の席に腰掛けていた。
少し話ができる? という口調は穏やかだが真剣で、やっとの思いで身体を起こして頷いてみせる。
「吸血族の話を覚えている?」
「……今まで聞いたものなら」
フォルは今までもぽつぽつと私に闇のことを話してくれていた。今この場合どの話を指すのか、と首を捻ると、フォルが苦笑して実はね、と話し始める。
「僕の父は皆も知るとおり元王族だ。母が、というか、ジェントリー公爵家が代々吸血族だったのだけど。つまり今現在ジェントリーの血を引くものは僕だけだ。今後父に子供が生まれたとしてもそれはジェントリーの血じゃない」
確かにフォルは一人っ子で、前公爵も娘一人、つまりフォルの母親しか子がいなかった筈である。頷くと、フォルは一口冷め切ったであろうお茶を飲んだ後その手をカップから離し、懐から何かを取り出した。
「これ覚えてる?」
フォルが取り出して見せたのは、いつか見たブローチだった。記憶を掘り起こし、それが初めてフォルに出会ったときに彼がベルマカロンのお菓子の対価に、と渡してきたものであると気づく。
頷くと、あの時はごめんとフォルが笑う。
「アイラにあっさり守護の魔法がかけられているって見破られたけど、実はこれには追跡の魔法もかけられていてね。どこにあっても僕と僕の父はこの宝石の在り処を把握できる。……母に貰った大切なものだ」
「やっぱり、そんなすごいものをうちのお菓子と交換しようとして」
「うん。実はあの時、お金を用意できたらこっそり取り替えさせてもらおうとしてたんだ。ずるいよね」
くすくすと笑うフォルが、一番大きな赤い石を指先で大切そうに撫でる。じっとその石を見つめていると、ふと違和感を感じた。が、それが何であるかはわからず首を捻ると、フォルの指先の動きが止まり慌てて顔を上げた。
「ごめんじっと見ちゃって」
「ううん。それは構わないんだけど。……これはね、僕を守るものだけどそれだけじゃないよって母に言われてて。ジェントリー家を継ぐ者に渡される大事なものらしいんだ」
「フォル、それ二度と何かの対価に払おうとしないでね!?」
「うんそうする。あの時は判断が甘かったと思うよ。でも僕はこれが、大切であると同時に疎ましかった。つまりは吸血族を継ぐものの証であったし、あの時命を狙われていた理由そのものに思えたのかもしれない」
「あ……」
その言葉に息をのむ。そういえばあの時フォルは何かから逃げていて、私とガイアス、レイシスでフォルを狙った刺客を倒していた筈だ。
昔は安易に「えらい貴族様は大変だな」なんて捉えていた気がするが、フォルはあの頃命を狙われていたのだ。ぶるりと身体を震わせると、フォルはそっとブローチを手に取りまた元通り仕舞い込む。
「僕を狙ったのは義母だ。父は当初結婚を拒んだらしいのだけど、吸血族のことを知らない親族たちや周りの貴族が子は多いほうがいいと父に結婚を無理矢理決めさせた。義母は僕がいる限り自分の子が生まれたとしてもジェントリー公爵家を継ぐことができないことを不満に思っていたようだけど、そもそも何年たっても子供すら身篭らないことに焦ったんだろうね。僕を殺せばなんとかなると言い出したんだ」
「え? そ、それおかしいよ」
「仕方なかったのかな、って今なら思う。父は母を深く愛していたようだから、どうしても義母を愛することができなかったみたいだから。あの家に一人でいることに義母も耐えられなかったのかも」
少し困ったように話すフォルだが、だからと言って義母に殺されそうになるのは許容していいものでもない。確実にやり方は間違っているとふつふつと怒りが沸きだし眉を寄せると、伸ばされた手が私の額を一度撫でる。
「そんな顔しないで。今は義母も何もいわない。……というより、疲れちゃったのかな。領地の屋敷からずっと出てこないんだ。今は僕も力をつけたし、殺されそうになることもない」
「……なんだかやり切れないよ」
「うん」
少しの沈黙の後、フォルはもう一度もう大丈夫だから、と笑う。
「でも、初め僕は覚悟を決める方向が間違っていたんだろうね。まだ詳しいことは話せないけど、僕はこのブローチを子に継がなくちゃいけない。これは絶対だ。でもそれはつまりまた新しい吸血族……闇の力を生むということで、僕にはどうしてもそれがいいことに思えなかった。その為に僕の結婚相手は化け物を産まなくちゃいけないんだって。だからその相手は……」
「ちょ、フォル。吸血族は」
「うん、今はわかってる。化け物じゃない。そう思えたのはアイラのおかげだから」
言いかけた言葉を遮られきっぱりと言うフォルは、ふわりと嬉しそうに笑う。その笑顔が余りにも綺麗で、思わず息を呑んだ。
「僕は義母が僕を殺すことを諦めたと同時に父に勝手に宣言したんだ。父の決めた相手と結婚して子供を産んでもらう。次代を必ず残すから、僕に幻想を押し付けるのはやめてくれって。父は今でも納得してないし、もう撤回したけれどね」
「幻想?」
「母のように闇の番を得ることを諦めて一人死に行くようなことはするな、幸せに生きろって。僕には幻想にしか聞こえなかった。母は、父を愛してその力を分け与えることをやめてしまったから」
そこで初めてフォルから詳しい話を聞いた私は、驚いた。フォルの母親は公爵を愛するが故に闇のエルフィにすることを諦め、それが身体の弱かった彼の母が魔力に呑まれてしまう原因であった可能性があると。つまり、死期を早めたのだろうといわれて私は血の気が引く。
「フォル、闇の力を持つ人は闇のエルフィを得ないと死ぬの?」
「場合によっては。闇は光以外、場合によっては光も飲み込む恐ろしい属性だ。けど、幸いにして僕は身体は弱くない。魔力のコントロールも十分だからその心配はないよ」
「よ、よかった……」
そんな、想いを伝えたその日に「長くは生きれない」なんて知らされたら耐えられない。思わず深く息を吐きながら安堵すると、フォルは微笑んで私を見る。
「だから僕、アイラにはずっと好意を持っていたけど、想い合うことは絶対にないと思ってたんだ。……今じゃ諦めていたことなんて考えられないけどね。アイラが嫌がることはしない。けれど僕は、何を諦めてもアイラと一緒にいたい」
「えっと」
「あまり深く考えないで。僕がこの話をしないでアイラに付き合って欲しいっていうのは、勝手でしょ? だから、話した。僕達は貴族だ、立場もある。だけど、ただのフォルとしてなら僕は何度でもアイラが好きだと伝えるよ。……怖い?」
すべてを覚悟したような笑みと、昔から知る優しげなフォルが重なって、ゆっくり考える事ができず煩い鼓動の中でなんとか首を振る。
「怖くは、ない。ただちょっと、いわれた内容には追いつけてないかも。でも、私はフォルがその、好き」
そっか、と嬉しそうに笑うフォルが、よかったと肩の力を抜いたのが目に見えてわかる。フォルも緊張していたのか。
「ひとまずは夏の大会かな。君の護衛二人は、知っている?」
「……ガイアスは、気づいてる」
「そっか」
そう言ったフォルはどこか遠くを見ているようで視線が合わない。少しほっとして、レイシスのことを考える。
レイシスはあれから何も言わない。けどきちんと話したい。確かに一度想いを伝えられた時は、その想いに答えられないと返した。けれど彼は変わらず私の傍にいてくれる大切な幼馴染だ。隠しているわけにもいかない。
「実はね。俺、二年前の夏の大会でレイシスとの勝負の決着がついてないんだ」
「え?」
唐突に話し出されて思わず顔を上げると、フォルはにこりと笑って私を見ていた。
「テストが終わった後のパーティーでのアイラのエスコート役を勝ったほうが、なんて、今思えばアイラのことも考えず子供染みた勝負をしていたんだけど。引き分けで結局そのまま」
「そう、なんだ」
二年前、は忘れているわけではないが、そういえばと思い出すのは王子の戦いに邪魔が入ったことだとか、ハルバート先輩に負けたことだとか治療班の数が足りなかったことだとか必死なことばかりで、パーティーの記憶が殆どない。
「僕はずるいから、レイシスに勝ったら僕と付き合って、なんてかっこいいことは言えないけれど。何度負けても何度だって挑んで君の護衛が納得できる男になるよ。他にも君が不安に思うことは必ず解決する。そしたら君にただのフォルとしてじゃなく『ジェントリー公爵家嫡男』としても交際を申し込む」
「え?」
「アイラ」
立ち上がったフォルが私のそばまでくると、ふわりとまた包まれる。
「アイラ、好きだ。きっとすべてに勝ってみせるけど、今はただのフォルとして言わせて」
そのまま近づいた銀の瞳が私の目の前で長い睫に隠されていき、ふわりと頬に吐息と、柔らかい唇が押し当てられる。
ほんの少しの間私の頬だけに触れられたそれはゆっくりと離れていき、驚いて目を丸くする私の前でフォルは再び見惚れるような笑みを浮かべると、私を見つめたままからかうような声をあげた。
「今度続きさせてね?」
「え!」
「はは、もうかなり遅い時間だね。おやすみアイラ」
手を振って出て行くフォルを呆然と見つめ、扉が閉まったまま動けずにいると、ふわりと目の前で羽が揺れた。
『冷却魔法、かけてあげようか。ボク得意じゃないけど、土はつめたいよ』
「……いいよ、ジェダイありがとう。土の中に埋もれるのはいやかな」
彼がいることをすっかり忘れていた。




