271.ラチナ・グロリア
目の前でなぜか項垂れて顔を青褪めさせている親友を見つめて、そっとため息を零す。
漸く恋を自覚してなぜ、愕然としてその白い肌を青褪めさせる必要があるのか。しかも自覚しての第一声が「やっちまいました」とは予想の斜め上もいいところである。
そこは頬を染めるべき場面だと思いますの。
そんな言葉が思わず口から出かかったが慌ててとめて、アイラはやっぱりアイラだったと妙な納得で一人頷く。
アイラに気づかれないようにそっと身体を倒し、教室の様子を伺った。
頬を染めたローザリアの横で取り繕った笑みを浮かべる幼馴染に、アイラは気づいていただろうか。あんな固い笑みはアイラの前では決して浮かべないものだろうに。
最も、アイラは既にフォルセの気持ちを知っているだろうからそこは誤解することはないかもしれない。アイラを打ちのめしたのは、可愛らしく頬を染めたローザリアのほうかしら。
アイラの気持ちには随分と前から気づいていた。本人が無自覚であるとも。
前にも医療科の授業で、嫉妬に戸惑う表情を浮かべたことがあるとは本人も知らぬ筈だ。
そしてどうしてかあれ程鋭いくせに、自身に向けられていたアイラの視線になぜか気づいていない幼馴染。デュークと二人、なぜかと議論したこともあるくらいだ。
結論として、自分に向けられる愛情に鈍いのは幼馴染もであるな、と二人で納得したものだ。彼は、あんなに幼い頃から義母に徹底的に疎まれて生きてきたのだから。他の感覚ばかり研ぎ澄まされて、向けられる好意的な感情は簡単に理解できないだろうな、とデュークがぼやいていたことを思い出す。
そういえばその時、デュークが困ったように眉を寄せていた気がした。どうしてあの一族はああなのだ、と。
深くは尋ねなかったが、この幼馴染二人が昔から何かを隠しているのは知っている。それを寂しく感じる事はあっても、拗ねることはしない。それくらいの信頼は、彼から私に向けられる偽りない愛情からわかろうというもの。
ガイアスはわかっている気がするが、レイシスはどうなのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えつつ、視界に映るローザリアにフォルセから離れて欲しいと願ってしまうのは仕方ない事か。
この様子じゃ、素直に気持ちを打ち明けて付き合いだす、なんてことはないのだろうな。
第一彼女は一度フォルセの告白にもレイシスの告白にも「ごめんなさい」という答えを返しているのだ。彼女の性格を考えれば「やっぱり好きです」とは言わない気がする。
むしろ漸く最初の恋の終わりを乗り切ったばかりであろう彼女だが、彼女にとって「恋」は「魔力を揺らがせるもの」として身体に定着してしまっている可能性がある。これは、デュークが心配していたことだ。
初恋相手が亡くなったとき、心が追いつかず魔力を暴走させたというアイラ。本来、魔力なんて簡単に暴走するものではない。私達のように魔力量が多ければ本能レベルで制御しようとする。そうでなければ自分だって危ういのだから。
だが、幼すぎたアイラはその「普通であること」が成長途中で壊れてしまったのだろうと恋人が懸念していたのはまだ記憶に新しい。
今は胸を押さえているがどうにか魔力は安定させているようだ。確かに人は感情で魔力の安定は変わるが、アイラの場合はそれが顕著であるように思う。
魔力暴走を起こす癖がついたアイラはきっと自身でそれを恐れている。嫉妬の感情にも慣れていない筈。これは、少しガイアス辺りにでも注意を促したほうがいいだろうか。
応援したいからこそ、アイラには乗り越えてもらいたい。言ってみれば相手が目の前にいる状態での初めての恋だ。レイシスのことも気にかかるが、全員が幸せになる恋もない。アイラが自分の気持ちに気づいたとしても、アイラにとっても実るかわからない恋だ。……だからこそ、最近はかなり心配していたのに。
正直、ヴィヴィアンヌの行動力には参ったと愚痴を零したくなってしまう。
「……アイラ。とりあえず、落ち着きました?」
ゆっくり声をかければ、大きな緑の目を潤ませて見上げてきたアイラが、僅かに唇を振るわせた。そして漸く青褪めていた表情に血色が戻り始め、むしろ朱がさしてきたところで、私を呼ぶ声がからからとかすれて聞こえる。
「お、おね、おねえさまそのあのえっと」
「……わかりましたから、とりあえず深呼吸して」
もう一度背を撫で、さてどうするかとアイラが割ってしまった容器を見つめる。先生は怒らないだろうが、とりあえず謝りに行くとして……アイラはこのままフォルセの前で普通にしていられるかしら?
丁度教室のほうが騒がしくなった。授業が終わったのか。これはきっと、フォルセがすぐこちらに来てしまうだろう。
「アイラ。授業が終わりましたわ。フォルセがすぐに来ると思いますけど」
「うぇえええ!?」
裏返った声で慌て始めるアイラの背を撫でながら、これはどうしたものかと考えを巡らせた、のだが。
すっとまた血の気が引いたアイラは、一度息を飲んだ後すぐに立ち上がった。そして驚く程の無表情で、「大丈夫です」と言う。ああ、やっぱり。
あのあとフォルセと合流しても、アイラは驚く程『普通』であった。
この傾向はよくないな、と思ってはらはらと心配した先で、アイラが僅かに表情を『普通』から変えたのは騎士科の皆と合流したときだ。ああ、さらに良くない。
きっとレイシスに悪いと考えたに違いない。二人ほぼ同時期にアイラに振られているのだ。だが、アイラはそのうちの一人に惹かれていると自覚してしまった。
恋愛とはそういうものだと思う。好き合ったお互いだけであればいいが、同じ人間を好きな人がいるという状況が絶対にないとは言い切れないのだ。
三角関係や四角関係なんて呼ばれるものは、町の若い娘達の間で人気の恋愛物語によくある話だが、実際その場に立たされてしまえば非常に苦しいものだ。
私も学園に来る前は、そんな恋愛物語を見て主役の二人にばかり気をとられ、こんな恋をしてみたいと淡い恋心を胸に秘めたまま願っていたものだけれど。
恋に恋している頃が一番幸せなのだろうか。
目を伏せると浮かぶのは、既にこの学園にいない、いや、記憶すらなくしてしまったという少女の姿だ。
私の場合は明らかに敵対心を露にしてきた相手と同じ人間を好きになった立場であったが、アイラはまた違う。どちらも大切に思っているはずの仲間なのに想いを寄せられ、その片方に恋心を抱いてしまったとなれば、恐らく彼女は悩む。何せ、一人は彼女が兄弟同然に大切にしている相手だ。その想いが両者を苦しめるとは。
ハラハラと見守ったが、ガイアスもレイシスも、フォルセもデュークすらアイラの一瞬の表情に気づくことなく、昼食を購入し和やかな空気のまま屋敷へと戻る。こんなとき力になってくれるだろうかと一瞬思いついた彼女の弟は、今日は姿が見えなかった。まあ、これだけ生徒がいる中そう何度も会えるわけがないのだが。
「アイラ?」
屋敷についた瞬間、いつもなら皆と昼食を取るために部屋に入るアイラが、ちょっと自室に荷物を置いてくる、と階段を駆け上がっていく。
話をするチャンスかと思い追いかけると、彼女は部屋の扉を開けっぱなしにして部屋の棚を凝視していた。
……フォルセが彼女にプレゼントした香水瓶が私が覚えているそれと変わらずそこにある。中身がまったく減っていない。
「アイラ?」
どうしたのだと声をかけると、アイラはゆっくりとそれに手を伸ばしながら、私を見てふにゃりと笑った。
入っていいかと尋ねるとすぐに頷いてくれたので、ゆっくりと近づいて扉を閉める。
「私これ、本当は夏に布で隠しちゃってたんです」
「え?」
「何故かとか、何がとは具体的に言葉にできないんですけど、いけないと思って。隠して、見えないようにして、それで大丈夫だと。でも、いつの間にか私はこれを大切に飾って、毎日朝確認してたんです」
抽象的な発言に少し眉を寄せたが、その行動をとった彼女の想いをゆっくりと飲み込んでいくと、つまり彼女は自覚せず恋心を理解し、それを隠してしまおうとしたのかと、そんな感想を抱く。合っているかはわからないけれど。
「隠そうとしたって意味なかったみたいですね」
「……そうね。恋は突然落ちるもの、とも言うし」
「私が実際に落としたのは先生のガラス容器ですけど。……厄介です」
「厄介? 本当に?」
「……わかりません」
けど、と彼女は小瓶を棚に戻す。
「向き合う努力はしますけど、今何か変えるつもりはありません」
「それでいいの?」
フォルセとの関係を変えるつもりはないのだと言い切られて、ああやっぱり、と寂しく思う。
「あ、違うんです。卑屈になってるとか、知らない振りをして逃げようとしてるとかそんなのじゃなくて。……私はまだ、やらないといけないことがありますから。でもきっと、この答えは正解じゃないんでしょうね。もしこれが友人の話だったら私もきっとおねえさまと同じ表情だったと思いますし、きっとフォルの向けてくれる気持ちに対しても間違っているんだとは思います」
でもそうではなくて、とアイラは笑う。
「今はまだ、両立できる気がしないんです。私、この手のことだとすぐ魔力が不安定になるから。そうならないように、ゆっくり気持ちに向き合っていきたいんです。片思いしているんだと思ってゆっくり。我侭ですけど少しだけ時間が……そうしたら、ガイアスと……レイシスにもきちんと話せるかな」
「アイラ……でも、フォルセは」
フォルセは間違いなくアイラをまだ好きでいる。けれど、公表せずとも事実上デュークは私と婚約済みだ。……次に貴族社会で狙われるのは間違いなく……。
「わかってます。でも未熟なままじゃ私、皆巻き込んじゃう」
少しだけ。だから、そんな顔しないでください。ありがとうございます、と笑うアイラと、二人部屋でぎゅっと抱きしめあったのだった。




