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「遅い!」
「っ、はい!」
稽古場に低い怒声が響き渡り、心臓が掴まれたような錯覚を起こしながらなんとか返答を口にする。
しかし容赦なく繰り出された剣技についていけず、私はどんと地面に倒れ伏してしまった。手にしていた短剣が冷たい地面をからからと音を立てて蹴り飛ばされていく。
「っくう……っ」
「以上。……アイラ殿は魔法に対する反応は素早いようですが、物理攻撃相手の場合反射神経が酷く鈍るようです。魔力を肌で感じる術を心得ているのはたいしたものですが、次回までに短剣を使って攻撃を流す訓練を」
「ありがとう、ございました」
途切れ途切れになんとか礼をし、ずりずりと端に移動する。このままここにいては容赦なく次の訓練に巻き込まれる。
本当に、本当に容赦ない指導です……!
今私の訓練の相手をしてくれていたのは、噂の第一騎士団隊長、フェルナンド・カーディ先生だ。
満身創痍の私に対して、先生は汗一つ流していない。こんなに訓練で悔しい思いをしたのは初めてかもしれない、と思う回数はここ最近で更新され続けていて、精神的に疲労がたまり続けている気さえした。ぼんやりと壁に背を預けて、次はフォルの相手をしだした先生を見つめる。
真っ直ぐな黒髪を揺らしながらフォルの剣を軽く流し、次第に押していく先生は私の前にルセナの相手もしていたというのに、まるで疲れを感じさせない。
さっすが、本物の騎士、しかも騎士団隊長クラスはものすごい強さだった。これで回復にも長けているなんて、いったい弱点はどこにあるというのか。
「大丈夫ですか? お嬢様」
「うん。次レイシスだね」
「魔力縛りの状態で剣をかわすのは難しいでしょうね。この授業を受けられてよかった、と日々思いますが」
「確かに」
そうは思うものの、ひりひりと痛む腫れあがった手首をちらりと見つめてため息を吐く。
私は慢心していたのだろうか。この状態は結構なショックである。一方的に負け続けることなんて、滅多に無かった経験であるからいい経験といえばそうなのだけど。
「あ」
私たちの目の前で、なんとか剣を防いでいたフォルが一瞬の隙を衝かれ倒れこんだ。私より長い時間は耐えていたから、今現時点で私は最下位だ。別に競っているわけではないが、ぐさりとくるものがある。
「次、レイシス・デラクエル」
「はい」
立ち上がったレイシスの顔つきが変わり、短剣を手にする彼の空気も変化する。
その様子を見ていた私だけではなく、先生もすっと目を細めた。……レイシスはかなり持つかも。
そうしてその日一番先生の攻撃に耐えたのはやはりレイシスで、「魔力を使わずとも風の流れを読むのが上手い」と褒められたレイシスに対し、私だけ授業終わりにがっつり先生に注意点を挙げられて、その日の選択授業を終えたのだった。
聖騎士どころか、基本的な部分で躓いている。私の夢とはずれているから、なんて考えは起きない。私は、この授業を「夢の第一歩」として受け入れたのだから。
「お、アイラ大丈夫か?」
やっと昼食だ、とふらふらになりながら食堂でガイアス達と合流した私は、へらりと笑みを返すものの疲れきっていた。情けなさすぎる。
選択授業は午前だ。これから午後に特殊科の授業もあるというのに、こんなんじゃ持たない。痛めた手は授業が終わるまで治療をさせてもらえずにいて、今は自分で回復魔法をかけ終わっているもののまだ痺れている気さえする。
「回復魔法が長けている者は怪我に無頓着、自身を犠牲にした捨て身の攻撃をしやすい傾向があります。その痛みを忘れないように」
穏やかな顔つきのままそう言い切った先生が悪魔に見えたのは秘密です。
訓練を訓練と思うな、常に戦いの場にいると思うように。そう話す先生が、魔力縛り状態であると仮定した授業が終わるまで「魔法による治療」を禁じる理由はわかるので、あれは私の油断と能力不足が原因なのだ。
「随分としごかれているようだな」
困ったように笑う王子だが、本当に笑い事ではないのだ。ああ、もっとちゃんと体力作りしておくんだった。いまさらながら、入学前はゼフェルおじさんが「基礎体力向上が一番重要です」と言っていた事を思い出し身に沁みている。
怪我をしたほうの手を持ち上げ、先ほどまで赤黒く腫れあがっていたことを思い出していると、ぺちり、とその手を叩かれて思わずびくりと身体が跳ねた。
「姉上、どこかと交信しながら歩かない」
「カーネリアン……!」
突如目の前に現れた弟の姿にひっくり返りそうになったが、目の前で一度私を叩いた手が案外がしりと私を掴んでいたのでなんとか倒れずに済んだ。
が、私がふらふらであるとすぐバレたのだろう。眉を寄せたカーネリアンは、「いったい何事ですか」と訝しんだ目で私を見上げた。
「姉上がそのような腑抜けた状態なのは初めて見ました。いえ、訂正します。割とありますが人前で隠せない状態は珍しいですね」
「お、弟がいじめてくる……!」
「そうか? カーネリアンは褒めてるだろ」
ガイアスの言葉に思わず首を捻る。褒め……? 疑問に思って目の前の同じ色の瞳を見つめると、カーネリアンはふっと笑みを浮かべた。
「褒めてはいませんね」
「ほら、やっぱり褒めてな……」
「とても心配しています、姉上」
「い、うぇえ!?」
弟からの仰天発言に思わず仰け反ると、にこにこと笑っていたカーネリアンがすっと目を細めた。これは、からかわれている!
そうは思うのに、ぼんやりとした頭では上手い切り替えしも思いつかない。しかもちくちくと刺さる覚えのある視線は、嫉妬? な、なぜ姉の私がカーネリアンのファンに嫉妬の視線を向けられねばならないのか、まったくどういうことだ。
ちらりと見回してため息を吐く。頭が働いていない。
これは、早急になんとかしなければ他の授業にも影響が出てしまう。そんなことを考えていると、カーネリアンは大袈裟にため息を吐いた。
「またありえないほど真面目に今後のことを考えているんだろうけど、姉上はもう少し気を抜いたらどうなの。ねぇガイアス」
学園では頑なに丁寧な口調だったカーネリアンが崩れたことで、身体からじわじわと力が抜けていく。ちらりとそんな私を見たカーネリアンが再び小さくため息を吐くと、ガイアスとレイシスを呼び私から離れていく。
やばい。本格的に落ち込んできたかもしれない、と気づいたのは、普段の私からかけ離れていたからか。
自分で選んだ授業だ。後悔はないし楽しいとも思うが、一人ついていけていないことが情けない。
王子は初めから「厳しいかもしれない」という事は言っていた。私の努力が足りないのだ。足を引っ張るわけにはいかない、みんなについていかないと……
「お嬢様」
ぐい、と強く手を引かれ、ぎょっとして固まった先にいたのがレイシスで、何が起きたのかわからずぱちぱちと瞬きを繰り返す。
腕を掴んでいるのはレイシスだ。つまりさっき引っ張ったのもレイシスの筈で、だがしかし彼がこんな行動をするのは珍しい。
「サシャが、新作を振舞ってくれるそうです。今日はベルマカロンに顔を出しましょう」
「え、でも私今日も修行が」
「後で付き合いますから、少し休んだ位なら問題ありません。……小さい頃のお嬢様の口癖だったと思いますが」
「えっ……」
ふっと蘇るのは、幼い頃、思い悩むレイシスに剣ではなく他の武器を試してみたら、と私が言った事で、剣を手放したレイシスの事。
レイシスは器用だ。剣も人並み以上に使いこなせてはいたが、双子のガイアスに及ばず悔しい思いをしていた彼に、安易な発想で「ダガーや弓の方が向いていそう」と言ってしまったのだが。
その後弓を武器とした彼がめきめきと才能を伸ばしたので間違ってはいなかっただろう。が、やはり幼い頃から手にしていた剣を手放し、新たな道に進むことは生半可なものではなく。ガイアスと同じラインに追いつこうとしていたレイシスによく「少し休む位問題ない。むしろ効率があがるかも」と口にしたのは、他でもない私だ。
今思えば、「少し休めば新しい発想が出てくるから」というベルマカロンのお菓子レシピと同列に考えていた言葉ではあるが、伝えたい言葉は嘘ではなかった。
逆の立場になって気づいたことに、ふっと笑みが零れる。
「……新作、楽しみだね」
「ええ」
――姉上がそのような腑抜けた状態なのは初めて見ました。いえ、訂正します。割とありますが人前で隠せない状態は珍しいですね。
ふと先ほどの言葉を思い出して、苦笑する。
「うちの弟すごいわー」
「なんだ、今更」
横に並んだ王子が呆れたように、しかしにやりと笑みを浮かべ、「カーネリアンだけか」と意味深な言葉を続ける。
「お前の周りはすごい奴ばかりだな。まあ、俺の周りもそうだ。隣も含めてな」
「……そう、ですか」
隣に今いるのは、私だけなのだけれど。
けれど、さっきとは違う意味で「頑張ろう」という気持ちが沸いてくるのだから、本当に敵わない。
よし、と顔を上げた先で、ほっとした様子で微笑むレイシス、そうこなくちゃと胸を張ったガイアス、柔らかく頷いてくれるフォルが見えた。
どん、という衝撃と共におねえさまが抱きついてきて、袖を引かれればそこに「僕も一緒に修行する」とルセナが笑う。
「カーネリアン! ありがとう!」
既に私達から離れようとしていたその背に声をかければ、目を見開いたカーネリアンがふいっと目を逸らし手をあげた。その耳元が赤い事ににんまりとして、いつの間にか忘れていた疲労をそのまま跳ね飛ばし、午後に挑んだのだった。
「お嬢様、いくらなんでも……」
「だってこれ、おいしいって!」
カーネリアンに招かれたベルマカロン店舗では、サシャが美しい新作ケーキを用意して待ってくれていた。おいしくて、何個でも食べれそうである。レイシスが呆れているけれど。
だがベルマカロンに来た用事はそれだけではなく、なんとカーネリアンから最近の貴族の派閥の流れを調査した書類を渡された。さすが我が弟、学園に入ったばかりでまだ慣れない事も多いだろうに、仕事の方も手を抜かずにいたらしい。定期連絡としていたベルマカロンの試算表も確認したがいい状態で……ん?
「カーネリアン。随分と売り掛けが多いようだけど」
売ったはいいが代金の回収がまだであるらしい金額を見て、少し首を傾げる。基本菓子を扱うベルマカロンにおいて、支払いを後回しということはあってもこれ程の額が残っているのは珍しいような。ベルティーニの店ならともかく、言葉は悪いがようは菓子なのだ。単価などたかが知れている。
「とある貴族に頼まれてパーティー用の大量発注に対応したんだが、少しトラブルがあって」
「珍しい」
「仕方ない、といいたいところだけれど、最近の貴族の水面下での慌しさを予測の範囲に入れながら得意先だと甘く見た結果だ。まだ指定の期日ではないが、確実に回収する」
私が学生である間の手伝いとしてベルマカロンを継いでくれていたカーネリアンが、どこか申し訳なさそうに、しかし鋭い目つきで試算表を睨みつけている。父によく似た商人の顔だ。
カーネリアンも学園に入学したわけだし、これからはベルマカロンの経営を分けよう、という話はしている。一人背負う必要はないだろうと話しながらも、その「得意先」とやらの事情を頭に叩き込んでいく。なるほど、その得意先貴族の領地で生産されていた特産の、大口の取引先がリドットの息がかかった貴族だったらしい。宛てにしていた金額が先方から手に入らなかったというところか。カーネリアンがこれに気づけなかったのは、昨今王子の手伝いをしていたことと入学が重なった為だろう。
こちらでも調べておく、と言いながらも、サシャに振舞われたケーキが美味しくて五個目に手を伸ばしたところで、さすがに駄目だとカーネリアンにデコピンを喰らったのはその日の夕方のことだったが、これは余談とする。




