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「どういう、ことですか? 記憶が混乱しているとか……? そういう、事でしょうか」

 呆然とハルバート先輩に聞き返せば、目を一度伏せたハルバート先輩が話を続ける。

「記憶がない、というより、反応がないそうです。実際に声をかけてみましたが、何を呼びかけてもぼんやりとしていて」

 その言葉に思わずおねえさまとフォルの二人と視線を合わせる。まさか、と過ぎる考えを肯定する言葉は、するするとハルバート先輩の口から続けられていく。

「医師の見解では恐らくあまりにもショックな事が立て続けにおき、心がついていけなかったのではないかと。他にも魔力量が不安定であるなどの問題があるようですが、そちらは些細であったようなので一番の問題はそこですね。今後以前の彼女に戻るかどうかは判断できないそうです。……原因はわかりません」

「……つまり治療法がないということですね?」

 私の核心をついた言葉に、ハルバート先輩は言葉を止めてただ頷いた。

 この世界では前世とは違い、明確に外傷などがない原因不明である症状に対する判断が早い。魔力で診察するこの世界において心の傷というのは、消去法で非常に断定しやすいのだ。

 そしてそれに反して、薬は少ない。ほぼないと言ってもいい。断定できるだけで診察だってほとんどできやしない。そうだと決めて、魔力では回復できないからと大抵の医師がさじを投げるのだ。そうした医師は大抵専属医なのが問題なのだが。

 あまりのショックなできごとに何もかも忘れてしまうのはありえる話で、そして医師にはお手上げの状態となる。有効な治療法は周囲の人間とのふれあい、として終わるのだ。

 アニーからあの時点で聞いた話では、アニーが気を失う直前まで彼女はアニーを押さえつける男に挑むほどの気力があった筈。その後何があったのか、もうわかる人間はいないということか。私の目の前で死んだ薬の売人であったルブラの男以外の誘拐犯であった男たちも、あのときの襲撃で物言わぬ人となったと聞いた。


「そんな……」

 呆然としているのは私だけでなくおねえさまも同じ。ふと感じた視線に顔をそちらに向け、視線の主の表情を見て、きっと私達を理解できないのだろうなと視線を逸らした。

 いつだったか、レディマリアをもうちょっと警戒しろと言っていたグラエム先輩。それでも私は、きっとおねえさまも、レディマリア様が危険な目にあったことを良しとは思えない。

 だって彼女は、自らも誘拐されていた中でアニーを助けようとしたではないか。こんなこと、望むはずがなかった。


「かえって今はそれでよかったのかもな」

 しばらくしてそう呟いたグラエム先輩に一斉に視線が集まった。

 どうして、と声を荒げかけたおねえさまの腕を止める。グラエム先輩の表情が、おかしい。何か堪えるような、そんな表情。

 それに、私も一つの可能性に気づいてしまったのだ。

「おねえさま……いいこと、では確かにありませんが、もし記憶がはっきりしていたらレディマリア様はそうでなくなるまできっとルブラに追われたことでしょう。……だからといって喜べませんが」

「あ……」

 目を見開いたおねえさまはそのまま固まってしまい、見ていられなくて目を伏せる。

 今までどこの国でも散々ルブラを追っていたのだ。それでもはっきりしない組織から完璧に守るのが難しいから、エルフィもブラディアも特殊な血筋の人たちは表に出ない。それほどルブラに狙われるというのは危険だ。

「今はなくとも、今後記憶がないという症状を治療できるようになる日が来るかもしれませんし、落ち込んではいられません」

 レイシスが付け足した言葉が重く響く。グラエム先輩は「かえって"今は"それでよかった」と言ったのだ。決して後もこれでいいとは言っていない。それでもやはり、素直によかったとは頷けないのだけれど。

 頭の中を今まで読んだ資料の文字が駆け巡り、よし、と拳を握る。

「そうですわ、おねえさま。今までもショックで記憶を失った方が穏やかな生活をしているうちに記憶が蘇った例も、ないわけではありません」

 その可能性が絶望的に低かったとしても、そうではないと思い込む。私達は医者の卵だ。私達はあきらめず治療法を探すべきだろう。

 その記憶がない状態ならルブラに狙われないかもしれないという期待とかそういうのを抜きにしても、どうあがいたところでレディマリア様はその状態になってしまった。そこを悲観していても始まらない。


 いつかきっと。


「さて、そっちの話はわかった。問題はアニー・ラモンのほうだ」

 切り替えるように話し出したグラエム先輩の言葉にはっとして顔をあげる。

 そうだ、アニーは。アニーもまさかこれからずっと狙われる立場なのか、と考えるとぞくりと背筋が冷える。

 同じ狙われる立場でも、戦える私や恐らく厳重な警備の中過ごすことになるだろうレディマリア様とは違う。アニーはそもそも、今いったいどういう立場になるのだろう。

「アニー・ラモンもまだ目が覚めてあまり時間がたっていないから詳しい話はわからないですが、彼女は敵側ではなく、あまり狙われる理由もないだろう、と見ています」

 ハルバート先輩の言葉で、ガイアスの肩が僅かに跳ね、そして力が抜けていった。ほっとした様子に、私も小さく息を吐いた。彼女は意味深な台詞で連れ攫われているから、もしや疑われはしないかと心配していたのだ。

「彼女が言うには、突如現れた男は彼女に一つ質問をしたそうなのです。その質問に対し何のことが理解できずにいると、彼女は連れ攫われた」

 ハルバート先輩が淡々とそれを口にしながら、ちらりと私達を見回した。不安で、え? と小さく声が漏れる。

「アニー・ラモンがされた質問は、こうだ。『お前も加担したのか』と」

 ファレンジ先輩が低く告げた言葉と、なんだかあまり良くない空気に、皆が動きを止める。

 加担、というのはあまりいい言葉に聞こえない。どういうことだ、と眉を寄せたところで、ハルバート先輩はちらりとグラエム先輩を見た。

「そこで彼女は質問の意図が掴めなかった為何も答えることができず、敵の男はあざ笑うような態度を取ったそうです。そして『ならば協力しなかった罪として』と言われて、その後は知っての通り」

「ま、待ってくださいませ。話が見えませんわ」

 おねえさまが混乱したように頭を抱え、顔を上げた私達は視線を合わせるも言葉に詰まる。

「誰に、加担したのかと疑われたんですの……?」

「少なくとも、敵の敵に加担したんじゃないかと疑われたんだろうが……」

「敵の敵って……」

 呟きながら、私達か騎士や国のことかと首を傾げる。……でもそれにしたってアニーを攫う意味がわからないし、理由にならない。

 もし万が一私達を誘い出すためだとしても、待ち構えていたのがあの敵だけじゃ危険を冒してまで誘拐する意味がないだろう。敵は手ごたえがなさすぎた。

「その後意味深な台詞を言われていたようですよ。連れ攫われ、レディマリアのいるあの地下に押し込まれた際に、敵の男はレディマリアを見て『協力してもらえなかったんだな』と嘲笑ったそうです」

「話を繋げるとつまり、アニーはレディマリアに協力しているかと疑われ、していなくても連れ攫われたと」

 意味がわからず眉を寄せた私の横でレイシスがそう述べると、そうなるなぁ、とのんびりとファレンジ先輩が答える。

 ……やっぱりリドットとルブラは協力関係であったのに、何かしらもめたのだろうか。

「協力していたらやばかっただろうが、実際アニー嬢は本当に何も知らない様子だった。恐らく解放されるだろうが……今後も護衛をつけたほうがいいだろうな。もちろんお前らも十分注意が必要だろう」

 そう締めくくり、まだやることがあるとファレンジ先輩とハルバート先輩が退室してからも、私達の間に流れる重たい空気は変わることなく、ため息交じりに頭を抱えることとなった。事実を知る人間がいなくなりすぎた。




「本当のことは話さなくていいのか」

 特殊科の二年生達が住む屋敷をハルバートとファレンジが出たところで、聞き覚えのある声が彼らの足を止めた。

「グラエム。絶対安静ですよ、後輩に心配をかけないでおいたほうがいい。フォル辺りは氷漬けにしてでもベッドに括り付けそうですが」

「ハルバート……現実になりそうなんでやめてくれ。で、いいのか。アニー・ラモンは恐らくまだ国に疑われたままで、ついでにレディマリアは自分で記憶を消したんじゃないか。以前ルブラの捕まえた男が記憶をなくしたように」

「……断定できないだろ。お前だってあの場ではそれでいいと判断したんじゃないのか」

 ファレンジはふんと鼻を鳴らす。先ほどあえて自分が悪者になるような台詞を言ってまで、レディマリアの状態についての話を終えたのはグラエムだ。


 なるほどね、と羽を揺らした精霊は頷く。アイラたちが探しに来るといけないと思ったのだろう、早々に屋敷に引き返したグラエムの背を見ながら、アイラにこのことを伝えるのはやめたほうがいいだろうな、と思案した精霊は、ふわりと静かに部屋へと戻って行った。


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