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刺繍を見て、動揺しかけた心を何とか落ち着ける。
なんで、なんでルブラの紋章が。じゃああの噂の薬は、ルブラが関係していたの……?
どくどくと心臓が跳ね、指先から冷えていく感覚に目の前が僅かに揺らぐ。
まずい、仲間が離れている上に準備もしていない今、深入りは危険だ。
「何の酒が好きだ」
「葡萄酒」
私が驚いている間にも、ガイアスとレイシスは交渉を進めだす。やばい、二人は気づいていない……? 私だって見つけたのは一瞬だ。今は紋章は腰に巻かれた布地に隠されてしまっている。
はっとして、アルくんにだけ伝えようとして、止める。
「ほう、葡萄酒が好きか。なぜ?」
「……力がみなぎるから」
「成程」
細く口元を歪めて笑う長身の男が、一歩前に動いた。その時裏道の僅かな明かりに浮かぶ男は、暗い濃紺に見える髪をかきあげ笑う。
「分けてやろう。支払いはいい、今回はな」
手にした何かを投げて寄越した男の動作にびくりと肩が震えるが、上手く私を隠してくれていたレイシスはそれを難なく受け取ったようだ。薬か、と覗き込みたい気持ちを必死に抑え、おとなしくレイシスの後ろに隠れつつも周囲の気配を探る。
このルブラ、一人でいるのかな。
視線は時折感じるが、裏路地特有のもので動く気配はない。どきどきとしつつも必死に動揺を隠す。
これはこのまま、作戦を予定通りで大丈夫……? そしたら、アルくんが危険なんじゃ。ルブラは精霊を捕まえる何らかの技術がある。だから、アルくんにルブラであるとは伝えられない。きっと無理をしてでも行くと言い出すから。
作戦変更したほうが。そうは思うけど、この状況で誰に相談したらいいの。アルくんを行かせられるはずがない。敵が植物のエルフィも捕まえることができたら、最悪だ。
初めて会ったときに見たジェダイの様子を見て、ぞくりと背筋が冷える。あんな状態にアルくんが陥ることがあれば、きっと私は正常な状態ではいられない。
「ほらよ」
私がもたもたしている間に、再び男が投げた何かを今度はガイアスが手にする。薬は、全員分くれるつもりなのか。だけど……前に出てはいけない気がする。
男の視線がガイアスとレイシスの後ろ、つまり私達に注がれたのに気がついたが、ガイアスが相手が口を開くより早く少しだけ身体を動かし、自然に男へ対峙した。
「ありがとう。これでいい」
「後ろはいらないのか」
「こいつら、子分だし。俺より強くなったら困る」
「ふん」
鼻で笑ったあと、長身の男はさっさと背を向けた。アルくんがふわりと羽を揺らし、焦る。
さっさとこの場を去ろうとしたのは皆も同じだ。しかし、いち早く私の様子に気づいたレイシスが眉を寄せた。
ここで話すわけには行かない。けど……
「おー、客が来てたのか」
「……ええ」
その時、とっくに背を向けていたルブラの男が歩みを止めた。
その先から別な男がやってきたのだと気づき、アルくんが様子を伺っているのが見えて私は覚悟を決める。仲間がいるのなら、やはりアルくんを行かせるのは危険だ。
アルくん、行かないで私のそばにいて!
エルフィの力を使い声をかけ止める私を、不思議そうにアルくんが見下ろす。
「おい、行くぞ」
ガイアスが小さく私の腕を引いた瞬間。
「これは可愛いお客様がいたもんだ」
少し掠れた声が呼び止めるように僅かに張り上げられ、びくりと身体を揺らす。
先ほど薬をこちらに渡したすらりとした長身の男を避け、大きな体躯の男が顔を出す。筋肉に覆われた胸を見せ付けるようにさらした男は口から煙を吐き出した。手に握られているのは葉巻だ。
感じる視線に慌ててガイアスの影に隠れるが、こちらに声をかけた男はにやりと笑う。
「いいね、特に背の低い小僧二人。好みだ」
「ふん……相変わらずいい趣味してますね」
吐き捨てるように長身の男が言いながら、そばの建物へと入っていく。カランと鈴が鳴り、闇の中に扉の隙間から光が漏れた。一瞬見えた看板から、どうやら今男が入ったのは酒場らしいと気づく。
ガイアスとレイシスは警戒したように私とルセナを下げ、間に入ると距離をとって男を見る。
二人の魔力は先ほどから変わらないが、何かあって、特にレイシス辺りはこちらに手を出しそうになれば容赦なく魔力を膨らませてしまう可能性がある。
落ち着かない心臓を押さえ、後ずさる。もう、用はない。とりあえず薬は手に入れたのだ。
「なあ、そこの坊主。一晩どうだ? いい思いさせてやる」
「悪いけど、用事は終わったから」
ガイアスがそう言い放ち、すぐに私達を促して立ち去ろうとするが、男は笑う。
「いいね、強気なのも。でもオレね、そっちの従順そうなちっさい坊主らのほうがいいね」
「急ぐので。すみません」
レイシスも割って入り、私達は一斉に駆け出した。どういうことだ、男装したほうが危険って!
後ろの気配に気を配り走っていた筈が、気づいた時には狭い道で逆に走り出したために先頭になっていたルセナが、ぴたりと足を止めた。
「なっ」
後ろの気配は確かについ先ほどまで後ろにあったのに、広い通りに出る道を塞ぐように大柄な男がにやついて立っている。何で、前に!
「連れないな。ちょっとだけ遊ぼうぜ」
「そのつもりはないんですよ」
ガイアスがにっと笑いながらそう言って、私達はじりじりと数歩後ろに下がる。
まずい。やるべき? でも相手はルブラかもしれない。何もまだしてこないのにいきなり攻撃をして、薮蛇はこまる。王子はどこ? ルブラが絡んでいるなら、絶対に出てきて欲しくない。でも、どうすればいいかの判断もできない。
このまま逃げるか。戦うか。捕獲するか。大きな戦闘は駄目だ。距離が近すぎてさっきの男まで出てくる可能性が高い。
しかし、考える暇は与えられなかった。
「まあまあ」
にやりと笑った男が、ふっと視界から消えた……と思った次の瞬間、私の腕が掴まれた。
「えっ」
小さく声が漏れ慌てて口を閉ざすが、ぐいっと引っ張られた私の足は地面を離れた。
「なっ」
目を見開いたガイアスが私に手を伸ばすのが見えたが、すぐに何かに弾き飛ばされる。その間も私の身体はぐいぐいと上に持ち上げられ、気づくと腰に手を回され男に抱え込まれていた。視界に映りこんだ男の足は、片方がそばの家の縁に押し付けられ、もう片方が反対側の壁につきたてられた長い槍を足場に立っている。どう考えても支えられないだろうこの足場は、恐らくなんらかの魔力による補助があるはず。
こいつ……魔力の扱いに慣れている!
咄嗟に身体を捻り、男の急所狙いで足を振り動かすが、男は家の縁に乗せていた足をひょいと槍の上にのせたことでそれを難なく回避した。この足場の悪い場所でこの動き。しまった、という念が頭を占める。
「んー? 股間に容赦ない攻撃とか、男の癖に……ん?」
ぐい、と抱き寄せられた瞬間、男の大きな手が私の胸に当てられた。ごわごわとした外套の上からでもわかるほど動かされた指に、ぞくりとしたと同時に下で私を見上げていたレイシスと目が合った。……げっ!
「駄目!」
「お前……っ!」
咄嗟にもれた「駄目」は、男の動きに対してか、レイシスの次の行動に対してか。しかし、私の叫びも虚しく次の瞬間男が悲鳴をあげる。
「ぎゃああっ、ってぇええ!!」
放たれた風の刃が容赦なく男の足を傷つけ、さすがに支えきれずに転落した瞬間私は風に攫われるようにレイシスの腕の中へと戻る。
男の槍が転がり、男の持ち物らしい何かが散らばった。咄嗟にルブラの紋章がないか探した私は足元に転がるその何かを拾い上げる。
「ちっ、行くぞ!」
ガイアスは弾かれた場所からすぐに立ち上がり、男の足をすぐさま土の蛇で縛り上げると、私を守るように抱き寄せていたレイシスとルセナを先へと促した。この場を放棄することに決めたらしい。
ルブラの証である紋章を探していた私の視線は遮られ、レイシスに引きずられるように走り出す。ばたばたと裏路地を飛び出し、人の多い通りへと逃げる。
男の足は傷つけた。すぐに追ってこれないだろうし、レイシスはあの一瞬以外ぎりぎりまで魔力をあふれさせることはなかった。
「レイシスよくやった!」
ガイアスが人ごみにまぎれると、がしがしとレイシスの頭をかき回す。
「アイラがあの状況でよく魔力を爆発させなかったな、お前があそこまでコントロールさせられるようになってたなんてびっくりだ」
賛辞を送るガイアスだが、レイシスは無表情のまま、私と繋いだ手をぐっと握る。その様子を見ていたルセナが眉を寄せ、ごめんと頭を下げた。
「おねえちゃん守れなかった。すぐ隣にいたのに」
「それを言うなら俺なんて逆にやられた。とりあえず、デュークたちと合流するぞ」
予め決めておいた合流ポイントは人目がなさすぎたのでなしだ。すぐに伝達魔法で待ち合わせ場所を離れるように指示をだしているガイアスを横目にみながら、レイシスの手を握る。
「レイシス、私大丈夫だから。ほら、上着あったし」
「そういう問題ではありません!」
強い口調で否定したレイシスが、次の瞬間腕を強く引いた。ぐっと抱き寄せられて、驚いて立ち止まる。
ここは端のほうに寄っているとはいえ、人通りがある。こんなところで、と慌てるが、レイシスが僅かに震えているのに気づきどうしようもなく私は腕をレイシスの腕に添えた。
「レイシス落ち着け……ここにデュークたちがくる。アイラ、本当に大丈夫か? 悪かった、俺たちがついていながら」
「ううん、大丈夫。ガイアスこそ、なんか異常に強い力で弾かれてたでしょ、大丈夫?」
「言い訳しようがないくらいやられた。あいつ、魔力の引き出し方が上手すぎる。……アイラに怪我がなくてよかったけど、気持ち悪かったよな。ごめん」
そっと、レイシスに抱きつかれたままの私の頭をガイアスの手がゆるりと撫でた。私に触れていないほうのガイアスの手が、ぐっと握り締めて震えているのに、目を伏せる。ガイアスもレイシスも、こんな悔しそうなの、初めて見た。
……逃げてよかった。あの男、まともに相手してられなかったかも。
ぞくりと走った悪寒に気づかれないように、私は悔しそうにしている仲間三人に囲まれて、頭に過ぎる紋章を振り払うように目を伏せた。




