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「お姫様、寝不足?」
ひょいと顔を覗き込まれて、思わず息が止まった。つんつんと額をつつかれて、たっぷり三秒、ルビーのように赤く綺麗な瞳を凝視して、慌てて仰け反る。
「ななな、なにしてるんですか、ファレンジ先輩! お姫様じゃありませんし!」
「いやー、アイラちゃんがぼーっとしてるから、つい」
けらけらと笑うファレンジ先輩は、そこでやっと屈めていた身体を起こす。開いた距離にほっとして仰け反りきっていた背を戻し、小さく息を吐く。
「ちょっと考え事をしてただけです……びっくりさせないでください。息が止まりました」
「そりゃー悪かったな!」
けらけらと笑ったまま腰に手を当て胸を張って笑う先輩。悪いとは思ってなさそうである。
まあ、ぼんやりしてたのは私が悪いんだけど……でもここ、屋敷の中なんだけど。どうして先輩がここにいるんだろ?
騎士科組は昼が少し遅れているようで、私とおねえさま、フォルだけ先に屋敷に昼食を持って戻ったのだが、二人は今一度部屋に戻っている。今日は多くの参考図書を持ち帰った為に荷物が多かったのだ。私は一足先に下へと降りてきたのだけど。
「あ、もしかしてフリップ先輩とお約束でも?」
「正解です」
静かに声をかけて部屋に入って来たのは、ハルバート先輩だ。話すの久しぶりかもしれない。相変わらず美女(男性)だ。その白い肌、お手入れどうやってるんですかね……。
「あれ、ハル」
そんな中、部屋に戻ってきたのはハルバート先輩とファレンジ先輩を見て驚いているフォル一人。そういえば、フォルはハルバート先輩と仲がいいんだっけ。
珍しいね、と立ち話を始めた三人に椅子を勧め、お茶を淹れるために席を立つ。レミリア達侍女は、いいから、と私が昼休憩に出したのでいないのだ。まあ、この部屋でのお茶はほとんど私かおねえさまが普段から淹れているけれど。王子の侍女辺りは城に今行っているだろうし。
「ありがとう」
お茶と小さなお茶菓子を用意すると、ふわりと笑顔でお礼を言ってくれるハルバート先輩に、さっすが菓子屋の娘と私の頭をがしがしと撫でながら褒めるファレンジ先輩。ファレンジ先輩、私は正確に言うと菓子屋の娘ではないような、いや合ってるような……まあいいか。
自分の分のお茶に口をつけながら、三人とは少し離れた位置で今日の特殊科の授業で使う予定の資料を捲る。毒魔法について……か。医療科とは違って、かける方だけど。
実際に使う機会があるかどうかは別として、こういう知識は持っておくほうがいい。火種の魔法もそうだけど、それを知っているからこそ解呪できるし解毒できるのだ。
「うーん……?」
でもやっぱり、普段使おうとしない魔法なだけあって仕組みがいまいち理解しにくいな。呪い系統の魔法はそもそも苦手だ。似たようなもので得意なのは相手の魔力を溶かす酸の雨くらいか。上級魔法で、最近漸く使えるようになったばかりの為あまり使い勝手はよくないけど。主に防御壁溶かしだと思う。
「何を唸っているんですか?」
「わっ」
急に近くで声がしたと思ったら、レイシスが私のすぐ前に立っていて。
「あ、おかえり。遅くなるって聞いてたからもっと遅いのかと思った」
「ガイアス達はまだです。王子と俺は先に終わったので」
そうなんだ、と返事をしつつ、レイシスが覗き込んでくるので見ていた資料を見やすい位置に変える。
ああ、午後の授業の、と納得した表情でレイシスは隣に座ると、一緒に資料を覗き込む。
「この系統の魔法はそもそもお嬢様が普段使う魔法とは相性が悪いですからね」
事も無げに言うレイシスを見つつ、ふと思った事が口を衝いて出る。
「レイシスは苦手じゃないの?」
「……俺は一応、デラクエルの息子ですから」
苦笑しつつ言うレイシスの言葉の意味を考えて、あ、と小さく声を漏らす。デラクエル、元は暗部なんだっけ。
「こういった静かな攻撃魔法は基本学びます。まあ、俺やガイアスは護衛として表立って動く戦法を主軸としているので、滅多に使いませんが。そもそも忍び寄って攻撃するのはあまり好きではありません」
「そっか……ガイアスもレイシスも、私の想像以上の種類の魔法を使えそう」
「その代わりどちらも、回復系統はさっぱりですけどね。一般兵とあまり変わりないレベルかもしれません」
聞いていると、むくむくと探究心が湧き上がる。脳内は既にRPGゲームの戦闘画面だ。ガイアスが前衛でレイシスが後衛、私が回復でバランスがいいじゃない! と昔三人で話していたことも、そういえばあったなぁ。
しばらくあまり妄想……じゃない、そういった構想を練ってはいなかったけれど、久々に魔法研究もやりたい。戦闘状況を想定して、敵から繰り出される魔法に対抗する手段を考えて、新しい術の組み合わせとか……ああ、やり出したら止まらないかも。
そういえば水の最上級魔法に分類される魔法は、ちょっと呪いの魔法に近い雰囲気だったな。使うのを躊躇うような……いや、攻撃魔法はどれもそうなんだけど。あれに関しては使い手がいないんじゃないかって言われてるんだっけ。なんと言っても、珍しく相性が悪い火属性の補助を使う魔法だ。
ぼんやりと考えていると、頬に何かが触れる。
え、と顔をあげると、今度の犯人はファレンジ先輩ではない。目の前で、私の頬をつついたらしいレイシスが人差し指を立てて笑っていた。
「また、唸ってます」
「……気をつけます」
なんだか恥ずかしくなって立ち上がり、レイシスと王子の分もお茶を淹れようとして……
あれ、王子いないじゃん。
「レイシス、デューク様も戻ったって言ってたよね?」
「フリップ先輩に用事があると言って、上に先に行きましたよ」
そういわれてみると、おねえさまもまだ下に降りてきていない。……ハルバート先輩とファレンジ先輩がいるのも珍しいけど、何かあったのかな。
そんな事を考えていると少しだけ胸騒ぎがしたが、今は何もわからないし、と結局お茶を淹れる為に台所へと向かう。
ガイアスたちもくるかな、と余分にお湯を沸かしていると、俺も手伝います、とレイシスも横に並んだ。
「相変わらず仲いいねぇ。アイラちゃん、俺もおかわり欲しいかも」
いつの間にかそばに来ていたファレンジ先輩に言われてカップを受け取り用意を始めると、すっとファレンジ先輩が少し屈んで口を開く。
「お前ら、最近ラチナ嬢の周りで何か起きてるか?」
「えっ!」
まさか、と一瞬で悪い想像をして驚いて目を見開き、自分でも血の気が引くのがわかったが、そんな私を見て焦ったようにファレンジ先輩は首を振る。
「いや、何かあるわけじゃないんだ。もうすぐ王子との婚約発表があるが、発表の前に邪魔されたくなくてな。どこにも情報は漏れていないはずだが、如何せんこれはこの国の貴族の女達が一番気にしてる話題だからな」
「ああ……びっくりした……今は普段どおりだと思いますけど」
王子が成人と同時に発表があるのでは、とぴりぴりしているのは知っている。そういえば、学園で先に王子の成人祝いのパーティーをするとかレディマリア様が言っていたが、あれはどうやら本当らしい。その話を本人が知ったのがつい最近という慌ただしさだが。
パーティーはするが、お決まりであるけれどダンスのお相手は誰なのか。みんなそっちに関心がいってしまっているらしい。……王子、どうするんだろ。発端は、生徒会が「開催しちゃおうぜ!」とか言っちゃった軽いノリだったらしいけど。
「あの……なんか学園でやるっていう王子の成人記念パーティーって、どうするんですか……?」
思わず疑問を口にすると、ファレンジ先輩は途端に苦い顔をした。
「ほんと、それ。生徒会のやつらがそんなこと言っちゃって周りが盛り上がったらしいけど、こっちは正式に許可なんて出してないしな。今日呼ばれたのもその件。中止にするにも、夏に特殊科がいない間に話が盛り上がって広がりすぎた。今更なしにするにも説得要素がな」
「ああ、そうだったんですね」
なるほど、と頷きながら、なんとなく部屋の扉を見つめる。強引に中止にして妙な噂を立てられるのも困るのだろう。というか、ファレンジ先輩の様子からするともう王子の側近もしくは護衛としての仕事が始まっているっぽいなぁ。さすが先輩達。
まだおねえさま達は上にいるのか、部屋には姿を見せない。
お茶を用意し終えると、先に姿を見せたのはガイアスとルセナだった。先に食べる事にしているメンバーだけで食事をするものの、もやもやと広がる不安でせっかくのチキンサンドがあまりおいしく感じない。食べるけど。
「それで、もしパーティーをすることになったら、アイラ殿はどなたと踊りますか?」
丁寧な口調でハルバート先輩が口にした内容を理解して、思わず「はい?」と間抜けな声をあげる。
「踊る? 私ですか?」
「はい」
にこにこと笑みを見せるハルバート先輩に加え、……というより、部屋中の全員の視線が私に突き刺さる。
え、踊る? あ、そうか、王子とおねえさまの心配ばっかりしてたけど、私も?
「え? そもそも出席なんですか?」
「もちろん、特殊科が出席しないと不仲説立つぞ?」
当然といわんばかりの顔でファレンジ先輩にも付け足されて、ああと頷く。レディマリア様に「招待されてないの?」とか言われたから、考えてなかった……。
「えっと……」
そもそもダンス苦手なんだけど、という考えを口にする前に、目を細めたレイシスとむっと口を尖らせたフォルに気づく。
「ハル」
「先輩方」
ほぼ声をそろえて不満そうな発言をした二人は一瞬はっとしたようにお互い顔を見合わせていたが、すぐに先輩二人に向き直る。
「お嬢様を犠牲にはさせません」
「アイラをラチナの身代わりにしようとしたら、意地でも止めますから」
怒りをあらわに低い声を出す二人に、ハルバート先輩は苦笑しファレンジ先輩は自分の髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。
「身代わり……?」
「ラチナだとまずいから、アイラで誤魔化せればいいとか考えてました? 先輩たち」
疑問を口にした私を遮って、ガイアスまで眉を寄せて抗議する。その言葉で、漸く理解が追いついた。
「ああ、なるほど。おねえさまの代わりに私がデューク様の相手をすれば問題は少ない……」
私が納得して手を叩くと、じとっとした視線を感じる。レイシスにフォル、ルセナまで。ガイアスに至っては呆れた表情だ。
「おねえちゃん、ダメ」
「いけませんお嬢様!」
「アイラ。君にも言うけど、僕全力で止めるよ?」
困ったような顔のルセナ、眉をつりあげたレイシスに怒られ、とどめにフォルのいい笑顔。無言でつい両手のひらをあげて降参した私に、ガイアスが笑う。
「ということで、駄目です先輩。いくらなんでもそれは無理ですから」
「……わかってるよ。少し気になって聞いてみただけだから」
表情を変えず、首を傾げてハルバート先輩が言う。
下手に他の子を相手にしたら妙な噂が立って、相手も「王子の相手なんてやったね!」とかで噂否定せずおねえさまが婚約しにくくなるんじゃ?
私なら私自身否定するから、すんなり行くのに。……でもこの前の噂考えると、私が相手するのは「やっぱり」って誤解を生むかなぁ。……難しい。これは確かに悩むね。
ふう、と息を吐きながらずっしりと重たい感情を持て余した私は、天井をゆっくりと仰いだ。




