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夜食事を終え、ひとしきり皆と話し終えてもフォルは戻ってこなかった。
といっても最近は皆授業の遅れを取り戻そうとしているのか、食後から寝るまでの時間皆で集まっている時間が前よりは短いので、まだそこまで遅い時間ではない。
まだ寝るには早い時間だと考えていると、下のいつもの部屋にカレーのスパイスのメモを書いた大事な用紙を忘れてきたことに気がついて、そっと部屋を出た。
「……デューク様?」
突然少し先の扉が開いたかと思えば、出てきたのは沈痛な面持ち、と言う表現がぴったり合う、珍しい表情をした王子だった。
「アイラ」
私に気づくと驚いたように目を見開いた王子は、すぐに表情をいつもの笑みに戻すと「どうした?」と私に向き直る。
王子が今出てきたのは、フリップ先輩の部屋だ。三年になって特殊科になったフリップ先輩は依頼で忙しいらしく、私達が屋敷に戻ってからもあまり話す時間はとれていないが、帰ってきた日は任務を切り上げておねえさまを出迎え、本当に心配したと優しい笑みを浮かべていた。
が、フリップ先輩はまだ、おねえさまと王子との仲を認めたがっていなかったはずなのだけど。仲が悪いとまでは言わないが、なんだかフリップ先輩の部屋の前に王子というのは違和感がある。
私が視線をフリップ先輩の部屋の扉に向けていたのに気づいた王子が、ぽん、と私の頭に軽く手をのせる。
「気にするな。……そうだアイラ。お前、フォルは見たか?」
「え? 見てないです。もう帰ってきてるんですか?」
「だと思うが……もし見かけたらちょっと話を聞いてやってくれないか」
午後の授業で、不調だろうと先生に指摘されていたフォルを思い出す。
「……私でいいんでしょうか」
「お前だからいいんだろ。って言われてもお前は複雑だろうけど、頼む」
言われて、一度俯いた後再び顔を上げて頷いて見せれば、王子が頭にのせた手をぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるように動かした。なんか最近皆私の頭ぐしゃぐしゃにしすぎじゃないですかね。
「それにお前も……」
王子が何かを言いかけたがぴたりと言葉を止め、いや、と首を振る。
「悪い、俺この後授業の準備しないといけないんだった。アイラ、またグリモワの精霊の報告、できたらしてくれ」
「あ、はい」
中途半端な感じだが、王子が部屋に戻るのをぼんやりと見届けたあと、本来の用事を思い出して下へ降りる。
部屋を見渡し予想通りのところに置きっぱなしになっていたメモ用紙を見つけ、ほっとして部屋を出ようとしたとき、丁度そこにフォルが現れた。
「あ、フォル、お帰りなさい」
話そうと思っていた時に会えるとはナイスタイミング、と喜んだ私とは反対に、フォルはみるみるうちに表情を硬くする。……あれ?
「あの、フォル……?」
「あ、えっと、ただいま」
つっかえながら言葉を返したフォルは、視線を泳がせた後「じゃあ」と部屋を出ようとする。
「え! あ、あの、フォル」
王子からのお願いを思い出し、慌てて引き止める。と、今度は驚いた表情をしたフォルが自分の腕を見つめた。咄嗟にフォルの腕を掴んでとめてしまった事に気づき、慌てて離す。
「あの、フォル。その……」
気まずくなって、どう話すべきか悩む。その瞬間思い出してしまった、フォルとは違う銀色の瞳に私は少しだけ息を飲んだ。
「ローザリア様は」
じっと私を見つめる銀の瞳を思い出してつい名前を口に出してしまった時、フォルは「えっ?」と私を見下ろす。
「あ。ううん。あのねフォル、私カレーのメモ用紙をここに置いてきちゃって」
咄嗟に話題を変えようとしたが、口から出た内容は特に重要なものでもつなぎになるような話題でもなんでもなく、私は肩を落として別な話題を探す。王子……! どうやって聞いたらいいですか!?
悩んでいる間に、フォルは体の向きを変えて私の正面に立ってくれた。話をしてくれるらしいことにほっとしつつ、しかしいい案が浮かばず、私は顔を見上げるとそのまま口を開く。
「えっと、お帰りなさい……?」
「二回目だし、なんで、疑問系なの? ……ふふっ、実は終わった後ロランと話をしてて遅くなっただけなんだ」
ロラン、といわれて、フォルの従者である彼を思い出す。ああ、なるほど、と納得しつつ、王子の言葉を思い出した私は首を振った。こうなったら直球で聞いちゃえ。
「あのフォル。調子悪いって、何かあった……?」
ストレートな言葉に、フォルはまた目を見開くと、次の瞬間笑い出した。
「ははっ、アイラ、わかりやすすぎ。デュークかガイアス辺りになんか言われた?」
「ええ! どうしてわかったの」
思わず言葉を返して、しまったと口を開く。フォルはくすくすと笑ったまま「だって」と言葉を続けた。
「アイラ、すごく困った顔してたから。それに誰かに言われないと、アイラは僕と二人きりになるの避けそうだし」
「そんなこと」
「ない?」
顔を覗き込まれて、息を飲む。フォルの目が真っ直ぐ私を見ているのに重なるように、しかしまた違う銀の瞳を思い出して、私は目を逸らした。
……確かに、ローザリア様のことを考えて避けたかもしれない。アニーと同じ、誤解されないように……?
しかしそれをフォル本人に気づかれては意味がない。傷つけた、かもしれない。そう考えた時、ずしりと胸の辺りが重くなる。
「私馬鹿すぎる……」
思わず呟いた私をフォルは瞬きしながら見つめ、少しするとその指先が私に伸ばされた。
頬の輪郭を撫でるように滑らせたフォルの指は少しひんやりとしていて、驚いて仰け反る。
「こういうことしちゃうから、アイラの判断は正解だと思うけどね?」
「ふぉ、フォル!? な、どうしたの……っ」
なんかいつもと違うような、と足を半歩ずらした私を見ながら、フォルは額に手を当てて少しだけ唸った。
「あー、うん。ごめん、参ってるのかも。あのねアイラ。僕アイラに聞きたいことがあって」
腕に隠され、片目だけが私を見つめる。首を傾げると、フォルは一度口を閉じ目を伏せた。
「あのさ、あの、旅先で……ラーク領を出る直前の宿だったかな」
「うん……?」
話し出されたのが少し前の話だった為に、驚きつつも私はいつの間にか胸の前で組んでいた手を下ろし、フォルを覗き込む。
額に手を当てまるで顔を隠すような動作のまま、フォルも私を見下ろしながら少しずつ言葉を紡ぐ。
「アイラ、皆が外にいるとき、レイシスと二人で部屋にいたよね」
「うん……?」
えっと、と考えて、なんとなく思い出す。ラーク領を出る直前の宿ということは……もしかして、レイシスが一人で眠っていた時のことだろうか。
でもなんでそれをフォルが知って……え? 見てた?
あれを!?
「フォルまさか、それ」
まさかと慌てた時、フォルが私を見て悲しそうな表情になる。
私はあの時レイシスにブランケットをかけてあげようとして、それで……っ!
「やっぱり、してたの? キス。……僕もレイシスも振られたんじゃなかった……?」
「……へ?」
予想外の言葉を頭が理解する前に、伸びてきたフォルに手を掴まれた。
じりじりと下がった時に、背と後頭部がぶつかる。壁があってこれ以上下がれない、と気づいた時には、フォルは私を閉じ込めるように片方の手を壁について、見下ろしていた。
「レイシスと付き合ってるの?」
「え? ちが……っ!」
「じゃあどうして」
「ま、待って落ち着いて! フォル私は」
「わかってるよ、僕が振られたって」
「いやいやだから!」
近づくフォルを避けようもなく見上げ、慌てる。額を合わせるように近寄られて、さらさらした銀の髪が私を撫でる。
「未練がましいな。俺自分でも呆れるかも。でもあんな顔で断られたら……」
「フォル……?」
少しいつもと違う声音に、どくどくと心臓が煩い。困った、何だこの状況。まずい、高レベルトラップに引っかかった気分だ。解除するのにレベルが足りない!
ふわりと感じる、自分が贈ったはずのさっぱりした大人っぽい香りが、今は濃厚なアルコールのようにひどく頭をくらくらさせる。定まらない思考に、視界がじわじわと滲んできた。
真剣な表情のフォルの顔がさらに近づき、思わず息を止めた時、そのまま額に触れていた銀糸はするすると私の頬を撫で下へと降りて行き、次の瞬間喉元に熱い吐息が触れる。
「他の女と婚約なんてできるわけない……」
ぼそりとフォルが何か呟くが、煩い心臓のせいかよく聞こえない。押し返そうと手に力を入れてみるが、フォルはびくともしない。
「ふぉ、フォル待って! 違う! あの時は転んだだけで、キスとかしてない!」
慌てて先ほどのフォルの勘違いを訂正すれば、ぴたりとフォルの頭の動きが止まった。掴まれた手が熱い。先ほど冷たいと感じたはずのフォルの指先は熱くて、焼けそうだなんて馬鹿なことを考える。
「そう、なんだ」
「そう……!」
頷きかけて、フォルの頭がそこにあると気づいて動きを止める。半ばパニックに陥った頭は正常な思考が戻ってこなくて、私はぐっと身体に力を入れた。
「アイラ。……好きだ」
ぽつりと呟かれたかと思うと、首元から離れた頭が上げられて、至近距離で銀の瞳に見つめられる。強い意思を持った瞳を向けられて、目が離せなくなる。
「好きだ、アイラ。本当に、俺はアイラが」
どこか切羽詰ったようなフォルの声が、「俺」と自分を呼ぶのをぼんやりと頭で理解しながら、まるで耳元で心臓が鳴っているかのような世界に必死に耐える。
フォルの瞳が細められ、ゆっくりと動き出す。近寄るフォルと視点があわなくなり、唇が触れそうな距離で、互いの息が交わる。
「……卑怯だね、ごめん」
そのまま触れてしまうかに思われたフォルの唇が、ゆっくりと離れていくのを呆然と見つめる。横にあったフォルの手が壁から離れ解放されたとき、思わず大きく息を吐いた。
「……そんな顔しないでアイラ。ごめん」
でもやっぱり僕は、と続けたフォルは、苦笑すると私の額に手を当て前髪を掬うように撫で、離れていく。
「部屋戻ろう、アイラ。……ここにいたら何するかわかんないよ?」
次の瞬間にはいつものフォルににこりと微笑まれて、慌てて私はいつの間にか落としていたメモ帳を拾い上げて部屋を飛び出す。
真っ白な頭で部屋に飛び込んだとき、ぎょっとした様子のアルくんが尻尾を立てたのが見えて、漸く私はゆっくりと息を吐きながらその場に座り込んだ。




