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「んっ……! はぁ、……やっ」
がたごとと揺れる馬車の中、雑談に混じって時折聞こえる吐息交じりの小さな声に、思わず頬が熱くなる。
「ん……こう、かな。どうですか? おねえさま」
「あっ……! いいですわっ、アイラ、すごく上手……っ」
私を褒める声をあげるのはおねえさまだ。心なしか後ろからひんやりとした空気を感じるが、今は無視である。
「じゃあ次はアイラの番ですわね、大丈夫、私もきっと上手に」
「きゃっ、おねえさま……っ! そこはっ」
「だああああっ! やめんかおまえら!!」
「いったあ!」
頭にスパーンと丸めた紙の束が落とされる。叩かれたのはどうやら私だけのようだ。おまえらといいつつ王子の矛先が向けられたのは私だけだったのかと、ちらりと見上げると真っ赤な顔で眉を吊り上げる王子と目が合った。
「二人で前に座ったと思ったらいちゃいちゃいちゃいちゃと! 場所をわきまえろ、場所を!」
「ま、まあまあ、落ち着いてデューク」
王子の隣にいたフォルとルセナが苦笑しながら王子の袖を引いてくれる。しかし、なだめつつもフォルまで頬が赤い。おかしいな、一応医療行為なのに医療を学ぶフォルまで……おねえさまの色気が強すぎたか。
「いちゃいちゃって、デューク様何想像してるんですか? 私達は魔法の練習をしてただけですよ、ほら」
ぱっと広げて見せたのは、医療の本のひとつ。肩こり腰痛に効く魔法で、手のひらに集めた魔力で身体を刺激するものだ。そう、誰しも思いつく定番中の定番で王子に嫌がらせもとい魔法の練習をしていたのである。
ちなみにこの魔法、難易度が非常に高い。魔力を細かく、丁寧に制御しなければならないうえに、相手の凝り固まった部分も見極め直接刺激するものであるために、医療科にいても一年生の時点では習うことができなかった魔法だ。
「アイラお前、確信犯だろう!」
「ナンノコトデスカ」
「朝からなんなんだ、ラチナとご飯を食べさせあったり手をつないだりと俺の前で!」
「お、落ち着いてデューク」
フォルがとうとう王子の腰を引っ張る形で椅子に戻す。どっかりと腰を落とした王子は、背もたれにどさっと背を預けて吸い込んだ息をゆっくりと大きく吐き出した。
「だってずーっと馬車の中なのですもの、疲れますわ。同じ体勢でつらいですし」
「そうですよ。せっかくできるようになったんですから、練習したいですし。気持ちいいですよ、マッサージ」
私とおねえさまに上から覗き込まれる形で言われた王子は、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。が、急にいきいきとした表情で私の顔を見上げると、にやりと笑った。
「ならアイラ、フォルにでもやってもらえ」
「え、ちょっと、デューク!」
王子の発言にぎょっとして目を見開いたフォルは、私と目が合った瞬間、白い肌をまるで茹蛸のように真っ赤にし、王子が手にしていた丸めた紙の束を奪い王子に襲い掛かる。
しかし、びくりと一度肩を震わせると後ろに視線を送ったフォルが、ぱっと立ち上がった。
「いや、やらない! やらないからレイシス、そのいい笑顔やめてくれ!」
「俺は、何も言ってないけど?」
「あっはっはー! アイラ、今度それ俺にもやって」
「ガイアス!? ちょ、駄目! それ僕がやるから!」
焦ったように手を大きく動かしたフォルを見て、ベリア様がはいはい、と両手を挙げる。
「楽しそう! アイラせんぱーい、そのマッサージ、今度私にも教えてくださーい!」
「だーめ、です。これは医療科でもすぐにやらせてもらえない治療だから」
皆を巻き込んできゃあきゃあと騒ぎ出せば、自然とルセナがほんの少し笑顔を見せた。それをちらりと確認しつつ、またおねえさまと笑いあう。
「別に、本当にただのマッサージなんだからあまり緊張しなくてもいいと思いますけれど」
「そうですよね、おねえさま」
二人でくすくすと笑い、席に座りなおすと本を捲り、酔わない程度にそれを覗き込みながら、医療科の授業で遅れたぶんを取り戻すために時折フォルと会話しながらも時間を過ごす。
ちなみにマッサージはこの後やることができなかった。王子の眼力で死ぬかと思いました。
「今日も順調だな」
昼過ぎにそう呟いたガイアスが、王子から紙を受け取ってぺらぺらと捲る。どうやら騎士科に先生から書類が届いたらしく、戻ったら簡単な試験があるから勉強しろ、と手紙が添えられていたらしい。
医療科の私達には来ていないが、私達は班行動をしているのでせめて他の二人に迷惑をかけないようにと夏休み前までに進める予定だったところを自主的に学んでいる。が、教科書はさすがに持っていないのでなかなか捗らず。
しかしそんな事を考える時間ができたというのは、幸せだ。
王都からしっかりと探知にも長けた騎士達が護衛に来てくれたので、私やレイシスがゆっくりと休める時間が持てたというのも大きいかもしれない。あの時は、私達が魔法を常に使っている状態だった為に馬車の中もぴりぴりとした空気がどこか漂っていたように思う。
ただ、来てくれた護衛が王子がよく知っている騎士やいつも王子についていた護衛だった為に王子は安心していいと言っていたが、アルくんはラーク領で騎士の裏切りがあった為に心配して、今もたまに外の様子を見てくれているようだ。
裏切ったと思われる騎士達は、あの時命を落としてしまった為に何か事情があったのかすらわからない。だが、あれでわかったことがひとつ。
ルブラという組織は私が思っているより、恐ろしく根深い位置にある。
魔法石の研究、魔道具の作成……それに、王国所属の騎士が国を裏切る程の何か。研究員を抱えるほどの財力を持ち、誘拐をもみ消す権力がある。
そこまで考えて、一度緩く首を振り窓の外を覗き、目の前の景色に集中した。空は高く雲ひとつない。
――どんな強力な魔法石も、精霊さえ使えればただの石ころと同義です!
ルブラの男の言葉が頭に浮かび、唇を噛んだ。そんな奇跡のような可能性を得たところで、喜べる筈がない。過ぎた力は命を脅かすものだ。
王子は今のところ何も言わないが、もし事実なら王家はどうするのだろう。私を、野放しにしておけないと判断されたら。
俯きかけた時、ふと膝の上のアルくんが動く。
『アイラ』
小さい声だったが、アルくんはじっと私を見ると少し怒ったような声を出す。
「どうしたの?」
『そんな顔しないで。僕が守る』
かけられた言葉に、思わず目を見張る。
「……ありがとうアルくん」
小さく耳元で呟けば、アルくんの尻尾が頬を撫でる。
ふと、前にもこんなことがあった気がした。いつだったか、どこかで。
「見えた!」
「王都ですー!」
ガイアスの嬉々とした言葉に、手を叩いて喜んだベリア様が続く。
ベリア様と合流して数日、私達はとうとう戻ってきたのだ。
「やーっと帰れますね、やっぱり旅は私の王子様と一緒がいいです!」
「おまえ、俺たちを迎えにきたんじゃなかったのかよ」
「やだなあガイアス様、なら、私の王子様になってくれます?」
遠慮しとく、とさらりと答えたガイアスがからからと笑い、馬車の中に笑顔が満ちる。
ルセナは相変わらず寝不足のようだが、だいぶ落ち着いてきたらしい。
「そういえば、ベリアがいなくなったからってヴィルジールが心配して探しに出たらしいんだが」
王子がにやりと笑い話し出す。そういえばそんな話を聞いた気がしたが、やはりグラエム先輩ではなくヴィルジール先輩が探しに出たのか。
「迷ってるうちに王都に戻ったらしいぞ。お前ら、さすが兄妹だな」
「褒めても何も出ませんよー」
「いや、褒めてないよなそれ」
ガイアスの突っ込みも気にする事なく笑っていたベリア様が、ふと思い出したようにさらさらの黒髪を揺らして私を見た。
「そういえば、グラエムが珍しく心配してました。アイラ先輩がいなくなったって聞いて」
「……いなくなったって」
「話しちゃったんですよね、目の前で消えたって。そしたら珍しくあの子顔色を変えたから。アイラ先輩、グラエムと仲がいいんですねー、あんなの初めて見た」
「そう、かな?」
会えば喧嘩ばかりしている気がするけれど、とぼんやりグラエム先輩を思い出す。
にしても、グラエム先輩をあの子って……つい忘れそうになるけど、学年は私より下だけれどベリア様はグラエム先輩のお姉ちゃんなんだよね……。
「というか、口止めされただろう。兄弟でもそういうことを話すな、ベリア」
「ごめんなさーい!」
王子がベリア様に注意しているのを聞きながら、ぼんやりと学園の方向を見る。グラエム先輩、そういえば大会でどこまで行ったんだろう。強いのに本気を出さない人だからなぁ。
帰ったらまたいろいろ情報収集しなくちゃ、とアルくんを抱きかかえながら、外を見つめる。
私達の長い遠足は、なんとか無事に終わったようだ。
今このときは、不安を考えないようにして……私は、今の私達の家に思いを馳せた。




