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「おい」
ガイアスとレイシスの二人と歩いている時呼び止められた声に覚えがあって、思わず立ち止まりつつ息を吐いた。
まあ、彼の家にお世話になっているのだから、今日会いませんように、なんて都合のいい願いである。……若干失礼な考えなのはわかってるが。
「はい、なんでしょうか」
振り向けばそこにいたのは、やっぱりというべきか、ルセナのお兄ちゃんだ。今ここにおねえさまがいなくてほっとする。朝食後すぐ王子に呼ばれて、二人でどこかに行ったのだ。……仲良くしているところにこの人が現れなくてよかった。
私が返事をすると、すっと目を細めたルセナのお兄ちゃんは「もう一人の女はどこだ」と不躾に言う。少し不満そうに、尊大な態度を崩さず言う彼はやはり私達は使用人だと思ったままらしい。
「だから」
ガイアスが割り込もうとしたのを、袖を引っ張って止める。
昨日ガイアスが言ったとおり彼は使用人で、侯爵が隠してくれた私の家名を話さなくてもいいように彼が前に立ってくれたことはありがたいが、いくら相手が不躾だろうとこれ以上ガイアスが嫌な部分を引き受ける事はない。
ガイアスが彼の使用人ではないのは事実であるが、それを理由に侯爵の子息にこちらまで態度を大きくしていいかといわれればそれはまた違う話だ。もっとも普段のガイアスはそんなことをしないので、あの場ではあえてそうしたのだろうが。
「彼女なら今は他の仲間のところにおりますわ。何か御用かしら」
にっこりと、彼はルセナのお兄ちゃんだということを念頭において微笑む。久々の令嬢モード発動だ。忘れすぎていて若干危うい感じだが。
別に自分は貴族ですよ、と言いたいのではなく、どうせ今後ばれるだろうからという理由である。数年すれば社交界で会う機会もあるだろうし、何よりルセナの友人は無作法だったと後々語られても困る。
「……ふん。お前もまあ、見れなくはないな。もうちょっと身体が育てば……いや、しかし」
なにやら悩みだしたが、思わず眉を寄せた時、その発言だけでなく私の背後も含めて不穏な空気に包まれ始め、慌てて話題を止める。この人、積極的に地雷を踏み抜いていくタイプらしい。レイシスが非常にお怒りだ。まったく、二度も人が気にしていることを!
「何も御用がありませんのでしたら、失礼致しますわ」
「ああ、待て。ではあの女がどこの使用人の者か教えてくれ。まさか城や公爵家ではないだろう?」
「……彼女は」
そもそも使用人ではなく伯爵令嬢である。聞いて、引き抜きでもするつもりなのだろうか。……妻に、とか?
いやいやいや、それはやばい!
「まさか、彼女を妻に迎えるつもりですか!?」
「……いやいや、そんなわけあるまい!」
ぎょっとしてルセナの兄が首を振る。
「使用人と婚儀をあげるわけにはいかん。大丈夫だ、あの女はこちらの使用人として丁重に……」
「最低ですわ」
あまりの内容に口を開きかけた時、言おうと思った言葉が先に耳に届いてぎょっとする。冷たい声に、こちらの背筋まで冷えた気がした。
恐る恐る後ろを振り返ったとき、そこにおねえさまと王子の姿を認めて、一気に頭にのぼった血が急速に降りていくような感覚に足元が少しだけ揺れた。
おねえさま、王子、なぜここに!
「面白い話をしているな。……アイラ、下がれ」
「え、あっ、……はい」
無駄に最後の盾になろうとしたが、口は笑ってるのに目が笑ってない王子に負けてすごすごと引き下がる。ガイアスが「あーあ」とやっちまったみたいな顔をしているので目をそらしたい。なんであんな事聞いたんだ、私! 何事もなく立ち去るつもりだったのに!
「兄上……」
良く見ると、王子とおねえさまの後ろにはルセナもいた。ルセナは王子を気にしていたようだが、ちらりと兄を見てため息を吐くと、障害物なくにらみ合いをしている王子と自分の兄の間に入り込んだ。
その兄は、王子に気おされたのか眼光は鋭いまでも固まっていた。当然だ、かなり隠さず王子は敵意を露にしているし、おねえさまの空気も冷たい。
「兄上、父上がお呼びです。お戻りを」
「ルセナか。おいルセナ、お前の友人達というのは、いったいどこの使用人の出なのだ」
「……使用人?」
ルセナが眉を顰める。王子は使用人だと説明しているのを聞いているのか、特に口は挟もうとはしないもののおねえさまに寄り添い、離れようとしない。
「父上に聞いてください。兄上、急いで」
「ふん、相変わらず生意気な」
悪態を吐くと、ルセナの後ろに視線を向けたルセナの兄はおねえさまを見て、そして寄り添う王子を睨みつけ、背を向けて去っていく。
「……命知らずだね」
「おい、それだと俺が恐ろしく聞こえるじゃないか、フォル」
いつの間にやってきていたのかフォルまで集まって、結局廊下で全員集合してしまった上に話を聞かれてしまいがっくりと項垂れた。アイラ、任務達成ならずである。ここを出るまでこれ以上揉めなければいいのだけれど。とりあえず今は王子が耐えてくれてよかっ……
「おいルセナ、あれ本当にお前の兄か?」
よくなかった。
地を這うような声が聞こえて、私とガイアスはほぼ同時に大きなため息を吐いたのだった。
別に心配しなくても今のラチナや俺らへの態度の件でラーク侯爵家に何かしたりしない、と王子は言いながら、しかし部屋に戻った後は椅子に深く腰掛け背もたれに背を投げ出した。
「短慮だな、お前の兄は」
「……すみません。兄は父の言う事を信じてしまっているみたいで」
「いや、今回はそれで助かってるんだろうけどな。……しかし、堂々愛人宣言をするようではな」
「だよなぁ、そういうのはこっそりやれっての」
王子の言葉にのって話し出したガイアスの言葉に、思わず飲んでいたお茶が気管に入りかけて大きく咽てしまった。
「いやガイアス、それすごい問題発言だよ」
「え! いやいやアイラ、俺はしないよ!」
わたわたと手を振るガイアスはとりあえずおいといて、集まったからには話題に出るのは明日以降の話だ。
再び地図を広げ、王子を中心に話し合いが始まるのを、私とおねえさまは少し離れた場所で見守る。
ルセナは近隣の地形や情勢に詳しいし、王子が国内について全体的に知識が多いのは意外ではないが、フォルの知識量もすごかった。まるでそこに本があるかのごとくするすると情報が出てくるのを見て、ふと昔を思い出す。
そういえば実家で、フォルに地理を習った事がある。あの時はまさか公爵子息だとは思っていなかったが、ジェントリー公爵子息本人にジェントリー領について習っていたとは、と今更ながらに思い出し、あの頃を懐かしく思う。
「アイラ!」
「え、あ、はい!」
思い出にぼんやり浸っているうちに王子に呼ばれていたらしく、慌てて返事をする。
王子は怒っている様子はなく、むしろ心配そうにこちらを見ていて「体調はまだ優れないか」と気にしてくれたようだ。
「いいえ、大丈夫です。ちょっと考え事してただけで」
「そうか。……アイラ、両親には連絡したか?」
突然の話題についていけず、思わず首を傾げ少し考えて……ああ、と慌てて首を左右に振る。
「連絡は極力控えるようにと聞いていたので、まだ」
「なら、連絡してやれ。とっくにジェントリー経由でデラクエルの家族から今回の件は聞いているはずだ。心配しているだろう」
「……はい、ありがとうございます」
ラチナもフリップに連絡してやるといい、と王子が促し、私とおねえさまは一度部屋に戻る事になる。ルセナの兄のことがあるから念のためにと部屋に送ってくれたのはルセナとレイシスで、ルセナはお客様にこんな思いをさせて申し訳ないと酷く落ち込んだ様子だ。
「兄は普段はもう少し穏やかだと、思うんですが」
最後にもそういいながら戻っていったルセナとレイシスの背を見ながら、おねえさまがぽつりと「やりすぎないといいですけれど」と呟く。
「ルセナのお兄さんですか?」
「ええ、そちらもですけれど」
首を傾げた私に、おねえさまが苦笑する。
「私、お兄様に連絡したら、なんだか騒がしくなりそうですわ」
「え? ……ああ、ほら、心配してると思いますし」
なんだか違和感はあったものの頷きつつ、確かにフリップさんはおねえさまを心配しすぎて大変な事になっていそうだと思いを馳せる。
ベッドに座り、さて両親には何から話そうかとぼんやりと考えた私は、ベッドの枕元で猫の姿で丸まっているアルくんを見つけて抱き寄せた。




