15
食事も終えすっかり日が落ちた中、雨が上がったばかりの外へとこっそりと部屋を抜け出した私は、薄暗い月明かりの中を木々に隠れるようにして進む。
雨上がりの風は湿気を含みつつもすこしひやりと私の身体を冷やすが、気にせず歩き通いなれた目的地の庭まで来ると、私は大きく空を見上げた。
「……あなたはずいぶん元気になったのにね」
サフィルにいさまが助けてくれた木。あの時より大きくなったし、葉は青々としていて、この月明かりの中でも瑞々しい様子がわかる。
「私はまだ……駄目みたい」
高い位置にある葉から、枝に視線を移し、太くしっかりした幹を見つつもだんだんと視界を落としていく。この時間に、植物の精霊達はいない。太陽の光を好む彼らは月が空を支配するこの時間は休んでしまう。
そうでなければ、こんな気持ちでここに来る事はきっとできない。
子爵の声だけで、心がどす黒い炎に覆われそうになる。ガイアスをあんなふうに止めたって、本音では私がやってやりたいと考えているのだ。恐ろしい、報復を。
「サフィル……ぃさま」
かすれた声で呟いて、ポケットから桜の石を取り出した私はそれを両手で胸元に持っていき、目を閉じる。瞼に、暖かな日の下でさらさらの細い金の髪を揺らして微笑む、あの頃のままのにいさまが映る。
思わず声をかけたくなったのに、冷たい風が私の頬に触れるとそれは掻き消えていき、慌てて目を開けてその残像を追おうとして……息を呑む。
「アイラ」
月明かりの薄暗い中、それでも美しい銀の髪が月明かりを浴びて輝き揺れる。その瞬間まるで、すべての時間が止まったのではと感じたが、それは一瞬で、私が動けないでいると心配そうな表情で首を傾げ私を覗き込んだ彼はすぐに距離を詰めた。
「……ふぉ、る」
「アイラ。こんな夜更けに外に……危ないよ」
口を開くものの、声を出せずにいた私の頬にフォルの親指が触れ、そっと撫でられる。声に出して相手を確認したのに、認識ができない。
「ほら、冷たい」
そういう彼の指も冷たかったせいか、びくりと身体が揺れる。だが、私はそれどろこではなかった。
瞼の裏に映っていたのは確かにサフィルにいさまだったのに、瞳を開けたとき私はフォルがにいさまではないかと思った。髪の色も、瞳も、顔だって違うはずなのに。
違う、違うと頭が否定しているのに、心がまるで喜びに震えるように騒がしく荒れる。心臓がどくどくと耳元で鳴っているように主張してきて煩くて、フォルの言葉が良く聞こえない。
「どうしたの?」
「っあ、えっと」
漸く出た声は言葉にならず、詰まってしまう。
冷えている、と言われたはずの頬に熱が集まるようだ。違う、違うのに……
「ご、ごめんなさい。なんでもないの」
はっと気付いて慌てて一歩下がる。とん、と背中に触れたのは、あの木だろう。つい後ろを向いて確認した私は、かさりという音とともに気配を感じて慌てて視線を戻し、そして離れたはずのフォルがまだ同じ距離にいる事に気がつく。
どうしたのだろうと考えながら、今だにいさまがちらつく心はどきどきと煩くて、私の思考を奪っていく。
違う、この人はにいさまではない。そう確認するために視線を合わせてその銀の瞳を見る。まるで月のようにも見えたその瞳は私の視線を捕らえると離してはくれなかった。
「……サフィル、とは、誰?」
フォルが小さな声で言った名前は、私を大きく動揺させるのに十分な名だ。
「あ……」
「すみません。先程聞こえてしまいました。……昼に子爵が話してた相手に関係ある?」
続けられた言葉への返事はできないながら、大きく視線を揺らがせてしまった私の反応で、フォルは「そうですか」と呟いた。
しばらく無言が続く。両者共に言葉を続けない上に、雨上がりの湿っぽい空気の中で、音といえば風が葉を揺らしている音くらいだった。
私はもう視線を合わせられずに俯いているというのに、すぐ前からはしっかりした視線を感じる。それが、なぜかやはりにいさまがここにいるように感じて私は居た堪れなくて逃げ出したいのに……動けない。
やがて沈黙を破ったのは、フォルだった。
「アイラは……王都の魔法学園に行きたいそうですね」
「え?」
ライアン殿に聞きました、と笑うフォルの顔を漸く見ると、ふふ、と微笑んでくれる。
「きっと通えます、アイラなら。何も心配しないで……ガイアスもレイシスも、もちろん貴女も、『あれ』に直接手を出す必要はない」
「え!?」
心を見透かされていた。驚いた私の足元に、ぼたっと何かが落ちた衝撃が伝わり、そちらを見て慌てて手を伸ばす。大事なサフィルにいさまからの贈り物。しかし落し物は先に延ばされた別の手に取られた。
「……これは、桜? ずいぶん珍しいものを持ってますね」
「あっあ、りがとう」
すぐに私の手に戻ってきたそれを慌てて受け取り抱きしめるように両手で包んで存在を確かめた後、すぐにポケットに入れる。
それを見ていたフォルと視線が合ったとき彼の銀の瞳が少し細められるのを見てびくりと身体が勝手に震えた。
もう帰ろう。そう思って横に視線を動かしたとき……それを遮るように私の視線の横に、彼の腕が伸びた。
「え」
彼は戻ろうとした私の動きを止めるように伸ばした手を後ろの木にあてて、慌てて視線を戻した私の頬にもう片方の手をまた触れさせた。冷たい指先が私の頬を、流れてもいない涙を拭うような動作で動いていく。
「桜が好きなんですか?」
「え、え?」
答えられずにいる私の頬をしばらく撫でたフォルは、すぐにふっと笑う。
「君の髪はとても綺麗な桜色だね」
「っ!」
「いつか……僕が本物の桜を見せに連れて行ってあげるよ、さくら。……そろそろ戻ろう? 風邪ひいちゃうよ」
すっと外された手はすぐ私の手を握り、引かれて、少し前を歩き出すフォルに慌ててついていく。
『君の髪はとても綺麗な桜色』
脳内はとても混乱していて、先程の言葉がぐるぐると何度も再生される。それは、どちらの声なのかがもうわからない。
二人とも無言のまま屋敷の前まできたのに、そこで動きを止めたフォルにつられて私も慌てて足を止めた。
「フォル、あの」
「僕は明日行くけれど、君が学園に来るのを楽しみにしてるね」
そう言った彼は微笑むと、握っていた私の手を持ち上げて。
手の甲にふわりと柔らかい感触。
「え……?」
「おやすみ、アイラ」
にこり、笑んだ彼が、ゆっくりと私の手を離して屋敷の中に戻るのを呆然と見つめた私は。
「やっぱ乙女ゲーのスチルみたい」
混乱を極めた脳内は、貴族ってやることが恥ずかしいな、と少し今までとは違った意見を抱いたのだった。




