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静かに部屋に戻った私達は、雨に濡れた身体を魔法で乾かし、二日続けて濡れた(昨日は私のせいだ)ガイアス達を心配した私が暖炉に薪をくべた後は、ただ言葉なくそれぞれ椅子に座り込んでいた。
背もたれに身を投げ出すガイアス。テーブルに両肘をつき、考え込むように額に手を宛てているレイシス。両者の表情はとても険しいもので、話しかけるのを躊躇い私はぴんと姿勢を正し油断すれば崩れ落ちそうになる身体を必死で支えていた。
唯一、私から借りた地図を広げていたフォルが、紙に何か書き込んでいたようだが、かき終えるとそれを折りたたみ懐にしまい込んでしまったため何をしていたのかはわからない。ただ、彼の表情もまた昨日見たような柔らかな微笑みではなく、部屋の空気は重苦しいものだった。
「……子爵はもう帰ったかな」
しばらくの後、漸く沈黙を破ったのはレイシスだった。表情は相変わらずであるものの、身体の力は抜けたらしい。雨のせいか冷えた部屋は適度に暖まったところで火がフォルによって落とされていた為に、過ごしやすいせいもあるかもしれない。
そこで漸く、レイシスが溢れる感情を押し留めようとしかみ締めた唇を切ってしまっていたのを思い出した私は、すっかり薄暗くなってしまった部屋のランプに魔法油が入っている事を確かめると、ランプ横の小瓶から一つ淡い赤い色の小さな石を取り出しその油に浮かべた。
この世界の照明は独特だ。貴族は雷の魔法を使った天上から照らすものを好むが、大抵の場合はキャンドルか、このように床置きのランプシェードの底に魔法油と呼ばれる魔力を帯びた植物から取れる油を入れ、火石という魔法油にいれると淡く発光する石を入れたランプを使う。火石はある程度発光するとただの石となる使い捨てで、費用的にはキャンドル式よりほんの少し高い。子供がいる家庭では安全の為にこちらの方が使われる事が多いが。
ちなみにこの世界において、前世の世界の物語やゲームにあったような、指先や杖の先に光を灯す、という魔法は使えない。というより私にはできない。光魔法は血筋による。しかも、各国王家に限られるのだ。いくら王家の娘が余所に嫁いでも、嫁ぎ先で生んだ子供にはその力は現れないそうだ。その為光魔法は「神より授けられた魔法」として神聖視される事が多いのだが、それは別として使えない魔法があるのは残念な事である。欲は言えないが。
部屋内のすべてのランプに明かりを灯した後、机にある鍵付の引き出しにポケットから出した鍵を差し込むと、中を探る。
確か……あった。小さな透明の小瓶を取り出し一度光に当てその薄い緑色のとろみのある液体の中身を確認する。
「レイシス、薬。口に」
言いながら自分の唇を指差した後、小瓶の蓋を開けるとそっと自分の右手の薬指と中指に垂らす。
怪我をしていたことに気がついていなかったのか、きょとんとした表情で首を傾げてこちらを見ていたレイシスに近寄ると、私は彼の唇にそれをゆっくりと塗りつけた。
「えっ」
驚いた彼が口を動かした為に少しずれて頬についた。別に唇に塗っても大丈夫な程安全な薬草から作られた薬ではあるが、べっとりとついていたのでは気持ちが悪いだろうと親指で拭う。
「動いちゃだめよ」
「あ、アイラちゃ、自分でやるから!」
よほどびっくりしたのか珍しく私を昔のように呼んだレイシスが、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって唇に手の甲を当てるので、取れちゃうじゃないと文句を言えば、手の甲についた薬を見て失敗に気がついたのかみるみる顔を真っ赤にして意味不明なあ行の言葉を発したレイシスは「そ、そうだね」と最終的に呟くと項垂れるように椅子に座りなおした。
「へえ、うらやましいな。傷薬なの?」
「うん、植物から作ってある塗り薬。傷の治りが少し早くなると思うけど……そんなうらやましがる程の薬ではないと思うけど。使う?」
「……いや、いいよ、今は怪我ないし」
見ていたフォルが苦笑しつつひらりと手を広げて見せるので、そりゃそうだと私は薬を元の位置に戻す。
安全な薬ではあるが、カーネリアンたちがおもちゃにしないようにしっかり鍵をかけなおしておく。この引き出しに入っている薬はどれも母の指導の下私が作った簡単なものだ。
ポケットに鍵を戻した私は、そのポケットに小さな巾着袋にいれてあるサフィルにいさまからの贈り物があるのも指先で確認しつつ、ほうと息を吐く。
漸く落ち着いてきた、と思ったところで、レイシスとフォルのおかげで少し緩んだ空気の中、黙っていたガイアスの言葉が再び空気を重くした。
「子爵、やったら駄目なのか」
その言葉に、はっと誰かが――私かもしれない――息を呑んだ音が聞こえて、言った本人が気まずげに視線を動かす。
この場合の「やったら」は恐らく「殺ったら」だ。
この世界は、前世の日本より治安は悪いと言っていい。というより、概念が違う。
例えば、決闘を申し出たとして相手に受け入れられた場合、立会い三人以上で行われたそれで相手が怪我をしても、悪ければ死んだとしても、それは罪には問われない。
もっとも、その地の長や領主、騎士であれば王家にそれを事前に申請しなければならないという手間は必要だが、私が前世で生きていた日本では考えられない話である。
そして最悪なのが、奴隷制度だ。この国では近年廃止されたらしいが、他国では今だ奴隷制度が採用されている所もあるらしい。現在の王族貴族とそれ以外にひどい差別がある事ですら納得がいかないのに、奴隷制度が最近までここでもあったと想像するだけでおぞましい。
そしてこの世界の奴隷はひどい扱いをされるらしいと聞いた。それこそ何をされても文句は言えなかったらしい。つまりそんな世界だからこそ、死という報復への考えが私と少しずれているところがある。
もっとも、赤子から年老いて死ぬまで、大きな悩みといえば畑が稀に害獣に襲われるくらいで全体的に平和な生を終える者もいるし、基本的にのどかで犯罪とは縁遠く暮らす人も多いのだろうが。
仇討ちというのは、いつの時代も強い感情に支配されるものだろう。
「駄目よ」
私の言葉に、ガイアスはただ頷いた。わかっているのだ。それが決してサフィルにいさまの為にならないのも、そして自分だけでなく家族も喜ぶ事ではないという事も。それでも無理にやろうとするのはただの勝手な我侭である。なぜなら、それでガイアスがその後幸せかと考えればわかるだろう。
それに……それこそ勝手な我侭だが、報復をする事で気が晴れるわけではないと気付いている人間がするべきではないのだ。
私のようなものでなければ。
「駄目よガイアス。あなたがやるのは」
後半、ほとんど私の口の中にだけ留まった音は、この部屋に居る誰にも伝わってはいないだろう。
「死だけが報復ではないわ。あいつには必ず罰が当たる。きっと」
「アイラ……」
やっとの思いで口に出した言葉は、静かな部屋にやたらと大きく聞こえた。




