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「準備はいい?」
寮から持ってきていた学生用のリュックサックを背負い、腰のポーチを確認して、頷く。
リュックサックには勉強道具が少し入っているだけで、食べ物の一つも入っていないのだから、昨日開けて確認した時にはため息が出た。せめてベルマカロンのお菓子だけでも持ってきていれば違っただろうに。今は雪中花の実に感謝するしかない。
窓から差し込む明かりはつい最近まで朝感じていた暑さを伝えるものとは違う。
朝を迎えてもどこか薄暗いような白い明かりに、光だけでもこれ程違うものか、と深くは眠れず疲れた瞼を持ち上げた時考えたが、今は冷える空気に目も冴えた。
もう一度暖炉の火がしっかり消えたことを確認して、フォルに続いてお世話になった小屋から外へと足を向ける。やはり昨日と同じ銀世界で、吐いたため息が白くなり、空気に溶けて消えていく。
フォルとの会話は、非常に少ない。なんとも言えぬ居心地の悪さを感じる一夜を過ごしたが、おかげで一人でゆっくり考える時間は出来た。
きっと、フォルにとって吸血は特別な想いで行っていたのだ。それを、軽々しく進めた私に何か思うところがあったのだろう。
初めからわかっていた筈なのに、と反省する気持ちは、かえって私の口を重くし、もやもやと頭の中でだけいろいろな言葉が巡る。
それに、頬に触れたあの感触が蘇る。あれは、いったいどう捉えたらいいのだろう。……フォルは、適当に誰にでもそんな事をするタイプではないだろう。
夜中にまた雪が降ったのか。ふと、近くに小さな雪山が出来ていることに気づき、あの辺りは昨日私が魔法で雪を融かしたところなのに、随分降ったんだなぁと考えた時、私の視界でその雪山が揺れた。
揺れた?
「えっ!」
仰天してそこを凝視した私に、扉を閉めていたフォルがどうしたの、と声をかけている途中で息を呑んだ気配がした。
「なんだ、あれ……」
呟くような声が聞こえたが、その言葉に返事をする前にその雪山は自らその問いに答えてくれたようだ。
ひょこ、と軽い動作で盛り上がった雪山は、雪山じゃなかった。
黒い丸が三つ。所謂、目、目、鼻というものではないだろうか、うん。
それこそ雪と見間違う真っ白な身体に、目と鼻、それに毛でわかりづらいが、しっかり耳と口があった。その口に、昨日私たちも頂いた雪中花の実をくわえている。なるほど、おいしい実につられて来たのだろうか。
うん。
「……熊!!」
「しまった! 雪熊か!」
「え!? それ、北山の魔物じゃない!」
魔物と聞いて慌てて大きくしたグリモワに飛び乗り、フォルが乗ったのを確認したところで、雪熊がその身体をのそりとこちらに向けた。ぱちっと合ってしまった視線に、背筋が冷える……やばい!
「行け!」
慌ててグリモワを発進させる。フォルの腕を掴み魔力を重ねることで、彼の身体が落下しないように固定させるが、それどころじゃなくなりそうだ。
「は、速い!」
「雪熊は大きな体に対して非常に速さを誇る魔物だ! 追いつかれる!」
戦闘は極力避けたいのに、どうやらそうはいかないらしい。私たちの二倍はある身体なのに、驚く速さで近づいてくる。
だが、私たちが勝手に彼らの住処を荒らしたのだから、倒すのも気がひける。というか、雪熊はかなり強いと本で読んだ事がある。なんでいるの!
「ここは国境付近だ。メシュケットで魔物は北山以外だと珍しいが、ありえる!」
どうやら「なんでいるの」と叫んでしまったらしい私に、しっかり可能性を説明してくれるフォル。しかし落ち着いて納得納得と頷けるほど余裕はなく、グリモワを加速させる。
「フォル、逃げ切れないかな!?」
「出来れば戦いたくはないけれど……あ、アイラ右に寄って!」
「うあ! はいいっ」
絶叫しながらグリモワの進路を僅かに変えたとき、私達の左横を何かが通り過ぎてぎょっとする。氷塊だ。魔法じゃないか!
魔法を使う白熊さん。ファンタジーだが、昨日も熊みたいなボスが出たりしてとか妄想を語ったりしたが、何も本当にボスクラスが出てこなくても!
「アイラ、駄目だ!」
腰に腕が回り、ぐっと身体が引っ張られたかと思うと、私の身体は宙に浮く。フォルが氷の足場を作り出し大きく移動を開始したことに気づいて、咄嗟に誰も乗せずに飛んでいったグリモワを急旋回させる。
「よしっ」
フォルに引きずられたままガッツポーズ。くるりと旋回してその大きくなった固い表紙を向けて突っ込んでいったグリモワに、さすがの速さを誇る雪熊も避けることが出来ずに正面衝突し、その場に蹲る。痛かったよね、ごめん!
「飛び乗って!」
再度こちらに向かわせたグリモワに、氷の足場を作ったフォルが風歩で飛び乗る。ぐらりと揺れたが、そこは自分で操る魔法である。フォルが氷、私が風を使い無理矢理バランスをとって軌道修正し、再び山を大急ぎで降りる。地元で遊んだソリなんてものではない速度に、操縦に専念する私は後ろの様子なんて見れなくてフォル頼みだ。
膨らんだフォルの魔力を背で感じたあと、詠唱が聞こえる。
「氷の盾!」
対魔法用の盾を作り出したということは、また氷塊か! と身構えた時、後ろで「ぐっ」とフォルが息を詰め、氷同士がぶつかる大きな衝撃音。周囲にぱらぱらと飛び散る氷の欠片が見えて、やばいと経験が告げる。今の一発は防いだようだが、フォルの盾が突破されてしまえば打撲では済まないだろう。肉塊になるのはごめんである!
「フォル、いける!?」
「駄目だ、僕の防御はここでは不向きだ!」
「やるしかないかぁっ!」
風の抵抗を和らげるために張っていた魔法を解き、フォルと目で合図を交わしてグリモワから離れる。左右に飛んだ私達を確認した雪熊は、フォルを狙った。
「やらせないっ!」
グリモワを操り、突進した雪熊とフォルの間に滑り込ませる。が、覚えがいい雪熊はそれを大きく跳んで避けた。そのジャンプ力チートじゃないの!?
「水の檻!」
比較的弱い魔法だが、仕方ない。最速で生み出した水が、まるで大きな口で獲物を飲み込むが如くばしゃりと音を立てて雪熊を包み込む。
銀世界に浮いた水の玉は、中に大きな雪熊を閉じ込めてうねった。この魔法、弱い魔法で打ち破りやすいが、なんと言っても本質が「じわじわと息の根を止める」魔法であるから普段滅多に使わない。要は宙に浮かぶ球状の水の牢獄なのだ。
「フォル! すぐ解除するから離れて!」
「待ってそのまま!」
フォルが手を上げた。と、私の水の檻が急速にその揺らぐ表面を白っぽく染め、光を反射する。半透明のそれは、氷だ。
フォルが私の魔法を氷漬けにしているのだ。
「アイラ、離れてて!」
フォルが木の幹を蹴り上げ大きく跳び、氷の檻となった雪熊入り氷に触れたと思うと、まるでバレーのトスのような動作で遠くへと飛ばした。
「わっ」
すごい、と思ったところでフォルがぱんと手を叩くと、途中できらきらとした宝石のように細かくなって檻は弾け散る。
投げ出された雪熊が、ぼすりと雪に落ちたのを確認したフォルが、行こう! と私の手を引いた。
「死んでないよね?」
「低いところで解いたから大丈夫! 雪熊は死ぬ前にあげる咆哮が仲間を呼ぶんだ。今は殺さないほうが……」
話しながら再びグリモワに乗り込んで逃げ始めた私達であるが。
「あ、れ?」
「嘘……」
私たちの行く手を阻むいくつもの白い山。先ほどの二倍はあるその巨体に、思わず急ブレーキだ。
「フォル、さっきまで私たちが戦ってたのって、子供だったのかな」
「……おかしいな、北山の雪熊は、あそこまで大きくなかったのに」
前に二匹。後ろを振り向けば先程まで戦っていた一匹が、完全お怒りのご様子でのそりのそりと向かってきていた。囲まれた私達は、思わず目を合わせる。
速度タイプの敵に対して魔法使いは弱い。詠唱できないからだ。そんなことはわかっている。
上に逃げる? そのまま飛んだら寒さでダウンは目に見えている。
というより、気になるのはグリモワの魔石に含ませていた魔力量。尽きかけているのなんて、先ほどから感じている。
「フォル、もう飛べそうにない」
「わかった」
諦めてグリモワを解く。小さく縮んだグリモワが私の手に戻った。それが、合図となる。
「水の玉!」
「氷の玉!」
彼らが飛び掛ってくる寸前に唱え終わったチェイサーをぶつけ、フォルと二人そこから走る。雪はだいぶ浅くなっていたようだが、それでもずぼずぼとはまり走って逃げるなんて無理そうだ。
結局後ずさりしながらチェイサーで威嚇。チェイサーで時間を稼いで大きな魔法を使うしかない。そう思うのに、飛んでくる氷塊をチェイサーで打ち落とすので精一杯だ。
せめて前衛がいれば、と思うが、フォルも私も後衛タイプである。下手に雪熊と対峙しないほうがいいだろうと、じりじりと下がる。
「アイラ」
小さく呼ばれて、横にいるフォルに視線だけを向ける。
「これ以上下がれない。急斜面だ」
絶望的な知らせに、眉を寄せる。フォルが、その手に氷の剣を作り出し、私の前に立つ。
「援護、お願いするよ」
「フォル」
ぴりぴりとした緊張に包まれる中、前に立つフォルを見上げる。さらさらの銀の髪が、風で揺れた。
剣を構え、フォルが腰を落とした。
飛び掛る、まさにその瞬間。
「雪熊は急所を一発。眉間ですよ、お嬢様」
上からかけられた声にはっとして顔を上げる。太く長い木の枝の上から放たれた矢が、音もなく雪熊に突き刺さる。
「魔物に情け容赦は不要です。食われますよ」
飛び降りた彼に、思わず笑顔がこぼれた。




