143.フォルセ・ジェントリー
「わっ」
体勢を崩し足を滑らせたアイラを慌てて抱き寄せて止め、ほっと息を吐く。
痛い、と小さく呟いたあと、ありがとうと言われて、その身体をそっと離し地面へと足をつけさせた。
この方法も危険が伴う。移動手段に頭を悩ませているうちに、夜になってしまうと焦る。
普通に雪道を歩くことは諦めた。足が埋まってしまうし、ある程度魔法で寒さを緩和しているようだが、スカートのアイラは雪が素肌についてしまう。それに、埋まった足を抜く作業で、体力の低下が酷すぎる。一度アイラが足の付け根ほどまではまった時はどうしようかと思った。俺の精神上もよろしくない。
俺が足場だけ氷の踏み台を作ることも試したが、今度はいくら魔力があっても足りない気がしてやめた。アイラの血を貰うことは極力控えたい。……止まらなくなりそうだから。
「フォル、この方法きついかも……」
「うーん」
遠くの木の枝に鎖の蛇を巻きつけてそれを縮め、森林の動物達のように蔦渡りの要領で下山を試みようと計画してみたのだが、アイラは鎖の蛇を得意としていないらしく練習の段階で着地に失敗してしまっている。これでは遠くに渡るのは無理だろう。
風歩は雪の上では使えない。埋まってしまった足を無視して無理に前方に力を加えたら、足を痛めるどころの話ではない。着地も不安定だ。
地元で木の枝の上を風歩で渡る修行をしたことがある、とアイラは言ったが、デラクエル家が得意とするその移動も、俺達の体重を支えきれる程の枝なら幅もあり、当然そこには雪が降り積もっている。そこを風歩の足場として踏むのは危険だろう。
ヴィルジール先輩みたいに空を飛べたらいいのに、とアイラが呟いていたが、あれは試作段階で不備も多いはず。そう考えた時、アイラが「あっ」と叫んだ。
「フォル! グリモワに乗っていこう!」
「え?」
ほら、と満面の笑顔で腰から取り外したグリモワに力を注いだらしいアイラの前で、グリモワが大きくなる。
「……すごい、アイラこれ、どうやってるの?」
そういえば話ではアイラが去年の大会でグリモワを珍しい使い方で魅せたというのは聞いた事があるが、成程とまじまじと見る。どうやらページに刻まれた魔法文字と、外側に装飾のような魔法石が取り付けられているが、それが作用しているらしい。アイラの発想は面白い。
大きくなったグリモワの開かれたページにぴょこんと乗ったアイラに手を伸ばされて、思わず掴みそれに乗る。不思議な浮遊感に自然と身体に力が入るが、アイラは急発進も急浮上もせず、のろのろと山を下り出した。それでも歩くよりはいい。危険度についてはわからないが。
「アイラ、でもこれじゃ、アイラの魔力辛くない?」
「魔法文字があるし、普段から石に魔力を溜めてたから結構いけると思うけど。きつくなったらフォルに魔力貰っていい?」
さらりと言ってくれるが、それはつまり俺に血を飲めということなのではないだろうかと思考が一瞬停止する。
アイラは相変わらずまったく意識していないらしい。さっきも、俺に散々舌を這わされたというのに。
アイラに気づかれないように小さく息を吐いた。もっともアイラはグリモワの操縦に真剣で、あまり俺を気にした風はないが。
レイシスの苦労や焦燥が、手に取るようにわかる。今もきっと彼は必死になって俺達と合流する術を探している筈だ。ガイアスもそうだろうが、俺と一緒だとわかって安心できないのはレイシスのほうだろう。
そう考えた時、はやく合流しなければという考えと、口には出せないほの暗い喜びの感情が確かに心の内で混ざり合った。残っている良心が僅かに痛み、眉を寄せる。
「フォル? 酔っちゃった?」
「……ううん、大丈夫」
アイラに見られてしまったらしく、そんなことはないと首を振って微笑めば、ほっとした様子でグリモワに視線を戻す彼女。……とても、愛しく思う。叶いもしないのに。
最近では、「もしかしたら叶うかもしれないじゃないか」と自分の一部が訴えているから、煩わしい。
俺はジェントリーを継ぐ。義母が何を言おうと。その為に父の決めた相手と結婚するんだろう。……たぶんローズだ。父がなぜローザリア・ルレアスとの婚約をずるずると「まだいいだろう」なんて引き延ばしているのかわからないけれど、「闇使いである俺」が王家、次代王であるデュークのそばにいるために公爵家を継ぐなんて、生まれる前からの決定事項だ。実母がいない俺は、少しでも婚姻によって地位を磐石なものにしなければならない。
お前がいるから子種がもらえないのだと一時期俺の命を狙っていた義母は、まだ虎視眈々とその機会を狙っているだろう。関係ないと思うのだが、いい迷惑だ。
アイラを好きでいられるのは、極僅か。この学生の間だけだ。そしたら、忘れる。愛していない相手と結婚すれば、血を求める事もないだろう。ローズに失礼だと思わなくもないが、あちらもジェントリーの管理するモノの権利を僅かでも手中に収めたいだけだろう。政略結婚なんて、そんなものだ。
知らず握り締めた指はしかし、痛みを感じなかった。ずいぶん冷えているのだと漸く気づき、アイラの名を呼ぶ。
「手を貸して」
口にして、相手の返事を貰う前にその白く細い手に手を重ねる。やっぱり、冷たい。
動いても平気かと尋ね、アイラに身体を寄せる。心を巣食う黒いものが、膨れ上がった気がした。
レイシス、ごめん。でも、今だけだから。
少し眉を寄せている彼女の身体に手をあて、魔力量が少し厳しいなと周囲を見渡す。
せめてどこかで休めれば、と思ったところで、天は俺に味方したらしい。
「アイラ、見て」
「え? あ、おうちだ!」
アイラがぱちりと手を叩いて喜ぶが、決して村や人里が見えたわけではない。夏の間狩猟で入った人間が使う山小屋だろうとあたりをつけ、アイラにそこに向かってもらう。
「まだ進めるよ?」
「いや、もうすぐ暗くなる。休めるところで休もう。僕達は食料もないんだから、無理はしないほうがいい」
アイラを納得させて向かった山小屋は、新しくは無いが、使えないわけでもない。穴が開いていたりということがないだけ万々歳だが、雪に階段が埋まっていることに気がついて違和感を感じる。この小屋、高いな。まるで雪に埋もれている状態を想定しているみたいだと、自領の北山にある山小屋に似た作りのそれを眺める。
そっとグリモワを降りてアイラに手を貸し、木の板を張り巡らせた床に足を着いた彼女は、グリモワを元に戻して周囲を見回した。
なぜかびくびくしながら家の壁に張り付いて窓をそっと覗きこむ彼女の姿に笑いながら、僕が中を見てくるから、と声をかける。
「だ、大丈夫? 何かいたら」
「何もいないよ。気配でわかるでしょう? それとも、お化けでも?」
「や、やめてよフォル! 夏だけど、ここ夏じゃないし寒い!」
彼女の言い分に笑いつつ、そっとドアノブに手をかける。鍵はかかっていないようだ。やはり誰でも利用できる山小屋ではないかとその扉を押し開け、中を覗く。
しばらく使っていないのか埃っぽい室内の空気を入れ替えるように扉を大きく開いて、中に足を踏み入れる。外から窓に入り込む明かりで、きらきらと舞っているのは間違いなく埃だろう。
「アイラ、ちょっと扉と窓から離れていて」
「え、あ、うん!」
彼女が移動したのを確認して窓に手をかけ、湿気のせいか酷く重たい木枠の窓を何とか半分程開けるのに成功して、風の魔法を起こし埃を追い払う。再び窓を閉めてアイラを呼ぶと、ひょっこりと顔を覗かせた彼女はびくびくと足を踏み入れた。
「白骨死体とかないよね」
「……何を参考にそんなこと思いついちゃうかな」
彼女の想像力に苦笑して、念のため室内を見渡すがもちろんそんなものはない。
あるのは少し不釣合いな立派な暖炉に、ほぼ空っぽといっていい本棚、小さなテーブルに椅子が二脚、固そうなベッドが一つ。
奥にある扉を見てみるが、トイレだけだ。当たり前だが風呂もなければ洗面所もないし、水場はあるが水は出ない。たぶん水を生み出す魔力石が魔力切れを起こしているのだろう。
「前より厳しいかなぁ」
アイラが一人呟く。前とは、以前俺と一緒に誘拐された時の話だろうか。……確かにあの時はもう少し部屋が綺麗だったように思うが、今は閉じ込められたわけではないという部分だけが救いか。もっとも、場所がわからないのは大問題だが。
デュークが無事らしいことにひとまず安堵しつつ、考えすぎかもしれないが、デュークを狙う何者かによってこの状況が起きたのではないかと危惧の念を抱く。が、それを口には出さない。
「アイラ。ひとまずここで一晩明かそう。レイシスには僕が連絡をとるよ」
「はーい!」
どこか危機感のない返事だが、それでいいと苦笑して魔法陣を展開する。レイシスにはすぐ繋がり、相手からも繋ぎ返されたことを確認して、状況を伝え合う。
『フォル、お嬢様は……っ!』
「大丈夫。どこも怪我はないし無事だよ。僕達は寒さを凌げそうな山小屋を見つけたから、そこで一旦夜を明かす事にする」
ほっとしたような息を吐く音が聞こえたあと、レイシスの声は固く低く変わる。
『フォル。お嬢様をくれぐれも、』
「わかっているよ。必ず守るから」
言い切ると、レイシスが息を呑んだのが伝達魔法からも伝わった。また黒いもやが心を支配しはじめるのを感じて、必死にそれを隠す。
護衛である彼に、「必ず守る」と告げた瞬間湧き上がったそれに、自分の意地の悪さを感じて嫌悪感が沸く。
同時に、レイシスはアイラの恋人じゃないんだから、いいじゃないかという援護の言葉も浮かんで、とうとう自分の手のひらを傷つける勢いで拳を握りこんだ。
今更遅いのだ。始めから一度でいいから恋をしてみたいなんて願いを持ったのが間違いだったと後悔したとしても。俺は予定通り、この想いをいつか断ち切るのだから。
『……山小屋、か。通った道でそれらしきものはなかった』
「それなんだけど、たぶん僕達のほうが山の上にいるんじゃないかと思う。だいぶ降りたけれど……麓のどこかで合流を考えたほうがいいと思う」
しばらく無言が続く。レイシスは悩んでいるのだろう。だが、どれだけ広いかわからない山の中で合流するというのは無謀だ。
漸く聞こえたレイシスの声は酷く力ないもので、しかし了承するものだった。
レイシスは近くに洞窟らしきものを見つけたと、そこで休むことにするらしい。洞窟と聞いて僅かに不安を覚えたが、レイシスは笑って「こういった訓練は受けてる」と言う。……そういえばいつだったか、ガイアスが「レイシスは暗部向きだ」と言っていたのを思い出す。外での隠密活動も非常に得意だと。
他にも直接先生とのやり取りを聞いたり、王子や他の皆の状況を詳しく聞く。父に連絡すべきか悩んだが、既にアーチボルド先生が父と王に報告を上げているらしいと聞いて、ひとまず安心した。
デュークは世継ぎだ。なんとしても合流して無事に王都に戻らなければ。
『連絡する相手は最小限にと王から言われていると聞いた。王子が行方不明という噂を流すわけにはいかないと。学園では、特殊科の授業の一環で不在だと説明するそうだ。その為先生がしばらく城に詰めると。場所さえわかれば応援を送ってくれるらしい』
「わかった」
短い会話だが得た情報は多い。アイラにも知らせなければならないと思うが、ラチナが動けるまでに回復していない話はしないほうがいいだろうかと悩む。
そろそろ、と思ったところで、レイシスが俺を呼ぶ。
『ルセナが言っていたんだけど……万年雪の山って知ってるか?』
万年雪、と復唱しながら考えてはっとする。まさか、と思うが、その可能性が高いと状況が言っているではないか。
「国境にある山じゃないか。……それじゃ大きな街なんてしばらくないし、王都が遠すぎる」
『もしそうなら、夏の大会どころじゃないな。けど、標高が高い北山なら雪はあるだろうが、ここは空気が違う。国境にある防御壁は越えられないだろうから、恐らく考えられるのは万年雪の山じゃないか』
俺相手にいくらか砕けた口調で話すレイシスが忌々しげに呟く。
その時アイラが、ついた! と叫んだ。どうやら一人で暖炉に火をつけるのに四苦八苦していたらしい。恐らく置いてあった薪が湿気を含んでいたのだろう。
何かあったら連絡する、とレイシスからの連絡が途切れ、こちらも終了させる。
振り返ると、アイラが思いのほか近い距離にいて驚いた。
「ねぇフォル、万年雪の山なの? あの、自然にできたって言われる魔力石のせいでずーっと寒いっていうメシュケット最南端の?」
「そうじゃないかってルセナが言ってるらしい。ルセナの領地は万年雪の山が近くだから、その可能性は高いかもしれないね」
「そっか!」
ぱっとなぜか顔を輝かせたアイラは、ちょっと外にいってくるねと駆け出し、慌ててそれを追いかける。守ると約束しておいて見失いましたでは話にならない。
「アイラ待って、どこにいくの?」
「万年雪の山ってね、精霊が嫌う山なの。だけど極稀に住み着く精霊が、その雪の下に虜になるんだって!」
アイラの言葉に首を傾げつつも、恐らく何か植物があるのであろうことを推測する。
木の板を風歩で蹴り、小屋から少し離れた位置の雪に何の躊躇もなく飛び込んで人型の雪穴を作ったアイラは、笑いながら起き上がりその手のひらを真っ白な雪へつけた。
「フォル、離れててねー!」
彼女の言葉に追いかけようとしていた足を止め、しかしいつでも飛び出せるように足に魔力を溜めた状態で見ていると、彼女の周りでごっそりと雪が溶けて水へと変化し、周囲に飛び散った。
「あっ! フォルごめん、加減間違えた!」
勢い良く飛んだ水がこちらにも僅かにかかり顔を腕で覆ったのが見えたのか、アイラが申し訳なさそうに眉を下げているのが見えた。彼女の周りは雪がとけ、茶色い土が見えている。広い範囲ではないが、確かにそこに何かがあった。
もういいだろうと風歩を使いアイラの隣に着地する。地面に伸びた枝と、ごろごろと見えるこれは……種? 果実だろうか。
「雪中花! 雪の下に花を咲かせる低木よ。すごいあまい実をつけるの。レア品だー!」
説明しながら喜びに飛び跳ねた彼女が、そっとその果実を数個丁寧にもぎ取り、「貰うね」と声をかけた。精霊がいるのかもしれない。
持つよ、と果実を受け取って、小屋に戻るためにアイラの手を取る。
今度は一人で走ることなく俺の横を歩いたアイラが、小屋に入るとわくわくとその実をテーブルに並べる。
二人でベッドに横並びに腰掛け、先ほどの情報を整理しながらアイラにも説明する。やはりラチナの事は伏せたほうがいいだろうと決め、とりあえず王子と無事にいることだけ伝える。魔力さえ回復すれば問題ないだろうとのことだから、明日にはいい知らせを聞けるはずだ。
「さて、あれ食べよ!」
アイラが果実を持って再度俺の隣に座る。暖炉はあるが、部屋はあまり暖かいとはいえなかった。過ごせないほどでないのが救いだが、果実を受け取った時に触れたアイラの手は冷たい。
「あまーい! おいしい!」
果実はとても冷えているが、確かにおいしかった。甘すぎるわけではなく程よい甘さに、水分もしっかり取れるほど含んでいる。身体が冷えるのを除けば、今この状態ではいい部類の食事だ。
しばらく暖炉の前で温まったものの、椅子が脚が折れそうなほど古くなっているため、結局ベッド縁へと戻る。
アイラは元気に見えるが、時折不安なのか何かを握り締め俯いている。アイラにとって、いつも一緒のガイアス、レイシス、そして精霊達が少ないこの場所は安心できない場所なのかもしれないと考え付いて、胸が掴まれるように苦しくなった。
「アイラ」
手を伸ばし、抱き込む。アイラがびくりと一瞬はねたが、その瞳は心配そうに俺を覗き込み「寒い?」と聞いてきた。相変わらず意識されていないらしい。
「寒い、よ。アイラも冷たい」
ベッドに身体を乗り上げ、アイラを立てた膝の間に収めて向かい合わせに抱き込んでも、アイラは「そっか」と頷いて、暖をとる魔法がどうのと呟いている。
「私もフォルも、炎系は苦手だもんね。困ったなぁ」
「これでも結構あったかいけれどね」
わざと顔を近づけると、さすがにアイラがびっくりしたようで僅かに顔を赤くした。それが面白くて、ね? とその額に頬を寄せる。
やばい。
頭の中で警鐘が鳴り響いた気がした。だがそれはすぐにどこかに追いやられて、染まる頬に唇を寄せた。
『ずるいですわ、フォルセ。それでアイラがあなたを好きになったら、両思いになったらどうしますの? アイラを捨てますの?』
『フォル、いい加減その考えは捨てろ。そんな簡単に諦められるものじゃないと思うぞ。足掻いてみればいいじゃないか』
過去に友人達に忠告された言葉が頭を過ぎる。でも俺の意志は変わらなかったはずで、そもそもアイラがこんな化け物だと知ったら離れていく筈、と思っていた筈なのに。
アイラが逃げないから悪いんだよ。
そんな自分勝手な思いが膨れ上がって止まらなくなって、あふれ出す何かをとめる方法なんて知らなくて。
真っ赤になって俺を見上げてくる新緑の瞳が愛しくて。
その下にある桜の花びらのような唇が欲しくて。
「アイラ」
吐息が、触れる。




