141
「アイラせんぱーい! ラチナせんぱーい!」
医療科の教室を出たところで突然名前を呼ばれて抱きつかれ、顔が柔らかいものに埋まる。
けしからん! なんだこのもよんもよんしたものは!
「うーっ、ベリア様!」
無理矢理引き剥がし、その大きな胸を顔から遠ざけたところで、はたとこの場所が医療科の二年生が多く集まっている場所だと気づいたが、時既に遅し。
「フォルセ様もみーっけ!」
私の後ろでびっくりして固まっていたフォルにベリア様が腕を回した瞬間膨れ上がった殺気は恐らく間違いではない。慌てて引き剥がしてみるが、既に彼女に向けられた医療科のおねーさま方の視線は鬼気迫るものがある。
フォルはフォルで固まって動かないし、まったくベリア様、場所は考えましょう場所は!
しかし私の焦りもフォルの石化も周囲の射殺せんばかりの視線もものともせず、ベリアさまは歯を見せてにやりと笑い、「聞きましたよー!」と、次はおねえさまの腕に自らの腕を絡ませ抱きついた。二の腕と胸の奇跡の共演……じゃない、そこじゃない!
「兵科のご友人の稽古に皆様がお付き合いしてくださったとか! ずるいです、私も混ぜてください! さあ行きましょう!」
「いえ、ちょっ、待ってくださいませ」
引っ張られたおねえさまがばたばたと手を振ったところで我に返って、慌てておねえさまを取り返す。まったく油断も隙もない。
「今日は予定があるのでっ」
「予定? どこに行くんですか? 私も混ぜてくださいよー!」
きゃっきゃと跳ね回るベリア様を、後ろをついてきていたトルド様とアニーが呆然と見ている。トルド様なんて「本物だ」なんて呟いているし。そういえばトルド様は特殊科一年の噂を聞いてどんな人なのか気にしていたな、こんな人です。
とりあえずここから離れなければ、超範囲攻撃となった焼きつく視線(メテオ級)で私とおねえさままで燃えてしまう!
フォルとおねえさまを促して、アニーとトルド様に挨拶をしてその場を足早に立ち去る。ぴったりくっついてきたベリア様は、まだ「混ぜて混ぜて」と騒いでいるが、今日はそうはいかないのだ。
王子の話を聞いたアーチボルド先生が、面白そうだな、と今日の特殊科の午後の授業を王子率いる研究所見学にあててしまったので、私達が城の研究所にでかけるのはこの後昼食を終えてすぐなのだ。
授業があるでしょう、とフォルに窘められたが、ベリア様は逆にその胸を大きく張って首を振る。
「実は午後の授業はお休みになったんです。なんでも担任の先生も臨時の先生もお忙しいみたいで! なので遊んでください!」
「いや、遊ぶわけないだろう」
少々お怒りな苦い声が間に入る。王子を先頭に、騎士科組が合流したのだ。
「俺達は今日は忙しい。他を当たれ」
「えー、そんなこと言わずに」
「あ、ハルバート先輩、ファレンジ先輩、お久しぶりです」
王子とベリア様の会話中だが、丁度曲がり角を曲がったところで目の前に飛び込んだ存在に思わず挨拶をする。
「ああ、皆久しぶ……げ」
ファレンジ先輩がベリア様を視界に入れ、思わずといった様子で半歩後ろに下がった。どうやらやはりこの二人も随分とベリア様に抱きつかれたりしているようで、ハルバート先輩はほぼ反射的に身構えたようだ。
「ああ、ハルバート、ファレンジ。いいところに」
にっこりと不気味なくらいいい笑顔をした王子が、そのにこやかな表情のままベリア様を二人の間に押しやった。その間二秒だ。
「じゃ、俺達少し忙しいので」
意図を汲み取ったガイアスがぴっと手をあげ、目を白黒させていたファレンジ先輩とすぐに理解したハルバート先輩が手を伸ばすより早く、私とおねえさまは王子に引っ張られて歩き出す。
ベリア様は置いていかれたことを特に気にせずハルバート先輩に抱きついており、あまり表情の変わらないハルバート先輩がぎょっとするという珍しいシーンを見つつ、体勢を立て直して王子についていく。
いいのでしょうかと気にするおねえさまに曖昧に頷いて、ランチボックスを購入し屋敷に戻った私たちは、早々に食べ終えて準備の為に各自部屋に戻る。
今日は授業を終えたらそのまま日焼け止めにいい植物の葉を取りに行く予定だ。
秋に大きな実をつける木だが、この時期に採取した葉を蒸して乾燥させ、お茶として飲むと肌にいいとされるもので、皮膚に塗るものより負担が少ないと人気があるらしいと聞いておねえさまと採集の計画をたてたところ、王子達が一緒に来てくれることになったのだ。
王都から出てすぐ西に多数生えている木らしいのでそこまで大量に必要はないだろうが、しっかり回復薬などの残量を確認し、ポーチを腰に取り付ける。
同じホルダーにグリモワも取り付け、学生用のリュックサックに筆記用具とノートも詰め込んで背負い、眠そうにしているアルくんに行って来ますと告げて部屋を出る。
皆同じように準備を終えた頃、部屋に集まった私たちのところに顔を見せたアーチボルド先生は、いつもの大きな斜め掛けの鞄をぱんぱんにしてのんびりした声で「出かけるぞー」と私たちを集めた。
「準備は大丈夫だな?」
「はい!」
頷いて屋敷を出たところで、先生が「ああ」と思い出したように告げる。
「俺はなんの研究か聞いてないんだが、なんでもラビリス先生が研究の手伝いをしてるとかって言ってたな。今日も研究所で待ってるって言ってたぞ」
「そうだったんですか?」
ルセナが視線を上げ先生を見ると、うんうんと頷いた先生が楽しみだなーと笑う。
「そうだ、ラビリス先生といえば。見ろアイラ、いいだろう」
ガイアスがどうだという表情で見せてきたのはガイアスの武器だ。剣の鍔に近い部分に綺麗な翡翠のような石がはめられている。
「……これ、もしかしてラビリス先生がくれた石?」
「そうそう。この前騎士科に顔を出してくれて、俺達やってもらったんだ」
言われてみれば、レイシスの太股に括りつけられた短剣にも、王子の剣にも、ルセナの剣にも同じように石がはまっている。
「まあ、羨ましいですわ。……っていっても私は武器という武器がありませんけれど」
「私のグリモワももう自作の魔力石があるしなぁ。おねえさま、貰った石は持ってきてます?」
「持ち歩いていますわ」
「僕は石をベルトにくくりつけているけど、剣にはめてあるといいね、防御石みたいだし」
フォルも会話に加わって、騎士科組の武器をいいなぁと見つめる。そばに並んだが、フォルから昨日の香水の香りはしない。医療科の授業はもちろんだが、授業中はつけないようにしているのだろう。もちろん私も、嬉しくて回復アイテムと一緒に腰のポーチにいれてあるが、つけてはいない。
今日授業が終わったら初めてつけるのだとわくわくしているのだ。
「大きい」
城の敷地内に入ると見えた大きな庭園に、精霊の姿を多く見つけて心が和む。ここもいい庭師がいるらしい。
城には入らずその庭園を眺めながら西にまっすぐ向かったところに、高い塔のある建物が見え始める。そこが研究所らしく、周囲には巡回の騎士も多い。
彼らは王子の姿を認めると敬礼し中へと促してくれるが、大人数なのが珍しいのか少し驚いた顔をする人もいた。
いざ建物に入ってしまっても、入口に大きく光る恐らく侵入者排除の為の防御石が、勝手に入ると恐ろしい事になりそうだと思わせる魔力を保持しているのが目に見えてわかり少し背筋が伸びた。
こっちだ、と慣れているらしい王子が先頭に立ち、さらに奥へ奥へと廊下を進む。他の部屋は一切見れないためどのような研究所なのかわからないが、所々壁に埋まる魔力石が見えるたび緊張して誰も口を開かない。
「ここだ」
王子に促され入ったそこは、締め切った部屋独特の空気で思わず少し眉が寄る。だが決して掃除が行き届いていないわけではないようで、端のほうに寄せられている机の上に並ぶ資料らしきものなどは量が多いが綺麗に整頓されていた。研究員は少ないようだが、それぞれ熱心にその資料を見ている。
窓がない部屋の為少し暗く感じるが、天井は高く火石が数多く設置されているため、部屋を見渡すには十分だ。
中央には物がほとんどなくて、唯一見上げるほどの高さの石像が真ん中に置かれているだけだ。その下に、大きな魔法陣が敷かれている。少し明かりを放っているところを見ると、今も魔力が流れた魔法陣だろう。石像も含めて、何かの大きな仕掛けのようだ。
石像の上部に非常に濃い魔力を滲ませている赤い玉がある。私の拳より二回りは大きく見えるが、何の魔力石だろうとまじまじとそれに注目すると、そのそばにひょっこりと姿を現したのはラビリス先生だった。
ラビリス先生は去年特殊科を卒業してから私たちの教師に、と聞いていたが、アーチボルド先生が緊急時以外はほぼ私たちの前に顔を出すことがなく、研究の方に打ち込んでいたらしい。この前騎士科に顔を出したとさっき聞いて、むしろ驚いたくらいである。
「どうだ?」
王子が短く尋ねると、こっくりと頷いたラビリス先輩……じゃない、先生は相変わらず視線が合わず、深くフードを被っている。
その彼が一歩前に出ると、これは、と小さな声で呟いた。
「転移装置の発明を行っています」
「……転移……だって!?」
まず最初に理解した先生が、ぎょっとして声を大きくしたところで、遅れて私もその石像の赤い玉を見る。
転移。
魔法が普通であるこの世界でも、転移魔法というものは非常に難しいとされる。その実現もそうだが、扱いもだ。
下手をすれば移動予定先ではなくて空や海にぽいっと投げ出されたりするのではという恐怖からチャレンジする人も少ないが、極稀に偉人と呼ばれる人たちで単身の転移に成功したり、自分と手を繋いでいる人だけ成功させたり、という例も挙がっている。
が、それをできるとなれば、他国の王城に簡単に乗り込めたりなど非常によろしくない事が起きる。その為、転移魔法の使用者はほとんどいないのに対策はばっちりで、大抵は自分の国の領土に侵入できないように防御魔法が施してあったり、重要施設にもその壁を張り巡らせたりしているものだ。
対策はされるのにその魔法の使用者が少ない転移。それが、装置の力を借りて安定して行えるとなれば、これは大発明なんて簡単な言葉で済ませられるものではない。
「ほ、本物なんですか?」
ルセナが恐る恐るそれを見上げながら呟くと、ラビリス先生がその大半がフードで隠れている頭を僅かに上下させた。
「試作段階ですが、理論上では同じ装置の間を行き来できるようになっています」
「これはどこに繋がっているんだ?」
驚いた表情のまま、アーチボルド先生が石像を見上げて尋ねると、ラビリス先生は今度は左右に首を振る。
「今はまだ、石像だけで肝心要の玉の製作が上手く進んでいません。つまり、ここにしかこの装置はないのでどこにも行き様がない」
「なんだ、未完成か。そうだよな」
あまりの発明品を目の前にし、力が入っていた身体からほっと先生が力を抜いたが、それは王子以外みんな同じだったようで、室内に何度か深く息を吐く音が聞こえた。
いくらファンタジー世界だ、精霊だとそこに生まれ育ったからといっても、やっぱり驚くところは驚く。魔法でなんでもありなんて世界ではないのだから。
だが、もし転移が実現したら、軍事利用されないようにという扱いから始まっていろいろ話題になりそうだ。願わくば仕入れが楽になったり、遠方の知人に会いに行きやすくなるなど生活を良くする為に使ってほしいものである。
「今日は少しだけお見せできますよ」
ラビリス先生がそういうと、手のひらに小さな赤い玉を載せた。石像の代わりになるようなものはなく、石だけだ。
王子が呼ばれて前に出ると大きな石像の前に立ち、渡された人形のようなものをそこに近づける。ラビリス先生が何かを詠唱し、魔法陣が淡い光を強めた瞬間。
「わぁ!」
ひゅっと王子の手の中から消えたと思った人形が、一瞬にしてラビリス先生の手の中に収まったのである。なるほど、ラビリス先生が手にしている小さな赤い玉も、ある程度のものを運ぶことができるらしい。
すごい、と近寄った私達であるが、ラビリス先生が持つ玉は力が弱すぎて人を運ぶことは無理なんだ、と残念そうに王子が話す。
「これが実現したらすごいぞ。問題も多いだろうが、魔法壁がない国内に設置すればだいぶ移動が楽になるだろう」
王子が最近ずっと楽しそうにしていたのはこれのせいか、ともう一度石像を見上げる。
と、そこでバタンと大きく扉が開く音がした。……と思ったら、覚えのある声が聞こえる。
「あー! やっぱり運命ですね!」
「べ、ベリア様!?」
なんでここに!? と仰天して見るが、その後ろに続いた人物を見てさらに驚いた。
「あれ、ヴィルジール先輩!」
彼女の後ろにいたのは、去年特殊科三年で私たちの先輩だった、つまりラビリス先輩と同級生だったヴィルジール・パストン先輩だった。久しぶりに見てもやはり、派手なマントである。パストン……そうだった、彼女はグラエム先輩と双子ということは、ヴィルジール先輩の妹なのか。
そうか、ベリア様の黒いマントは派手ではないが、兄に倣ってつけているのかもしれない。と余計な事を考えつつ、挨拶を交わす。
「何でここに」
王子の視線は主にベリア様に向けられている。
「だって、今日特殊科がここに招待されているっていうのに私だけ置いてけぼりなんですもん! 兄がここで研究を手伝っているので入れてもらっ……」
「こらー! 部外者は出て行けといってるだろう!!」
ベリア様の話の途中で、騎士が部屋へと飛び込んできた。
「あれ、うちの妹は招待されてなかったのかな!」
あっはっはと軽い調子で笑うヴィルジール先輩は、どうやら本当にここで研究を手伝っているらしい。が、騎士に「困ります、妹さんは扉の外で待たせておいてもらわないと」と怒られていた。室内にあまり気配なく存在している数人の研究員らしき人達が迷惑そうにそれを眺め、王子がひくひくと頬を揺らしている。
「もとはヴィルジールとラビリスが主体となって始めた研究だからな」
ため息をつきながら言う王子を振り返って見た時。
「え」
王子の後ろの石像に、魔力が揺らめく。
私の言葉に反応したガイアスとレイシスが、そこから引き離すためだろう、王子に手を伸ばし、おねえさまが駆け寄ろうとしたところで、急激に膨れ上がった魔力が肌に触れ、圧されるような力に息を呑んだ。
ルセナが手を伸ばしたのが見えたところで、誰かの腕が私に回されて、視界が塞がる。最後に見たのは銀糸。
その後は、息も出来ずに空に投げ出されるような間隔に、必死に前のものに縋る。
冷たい、暗い、痛い、落ちる、苦しい、熱い、焼ける。
もはや悲鳴すらあげているのかそうでないのかわからず、身体が投げ出され、まるで内臓だけ浮いてどこかに置き忘れたような感覚に見舞われる。やばい、死ぬ。本気でそう思って目を閉じた時、どこかに身体を強打する激しい痛みを感じた。
「いった……」
しっかり感じる痛みに、生きているらしいと目を開ける。が、目の前がぐらぐら揺れて何がなんだかわからない。馬車酔いしたみたいに気持ち悪い。最悪だ。
「アイ、……」
かすれた声が聞こえて、飛ばしかけていた意識が急速に覚醒していく。
「……っあ! フォル!」
慌てて地面らしきものに手をつくが、痛い。いや、冷たい。なんだこれ、と見た先は、真っ白だ。他になんの色もなく、既視感に混乱しかけた時、いつか見たマシュマロの夢を思い出した。
……違う。これは、雪だ。雪。真夏に? 雪!?
「フォル、え、何これ!」
見回してみれば、一面の銀世界だ。そこに、ぽっかり私とフォルが埋まる穴だけがあり、後は雪の降り積もった木と雪だけが存在する銀世界。
空は灰色で、頭がおかしくなったのかと蹲る。
何も無い。私とフォル以外何も。誰もいない!
わかるのは大量に魔力が消費されてしまったらしい疲労感に、打ち付けられた痛みと、ここは銀世界で私とフォルしかいないということ。
それと。
「フォル、ねえフォル、フォル大丈夫!?」
酷く顔色が悪く、ぐったりと動かないフォル。彼の腰の辺りだけ、雪が緑に色づいている。きらきらと輝く砂のようなそれを見てはっとして、私はポケットに手を入れた。
――持っているとたった一度だけではあるが持ち主を守るという、お守り。
私のポケットの中でも、さらさらと砂になってしまったラビリス先生に以前貰ったそれが、取り出した手のひらの上で風に吹かれて雪の中へと散っていった。




