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「兄上!!」


 悲鳴に近い叫び声が聞こえたのは、その時だ。

 私がおねえさまの周囲の異常に気づき、どうしようかと息を呑んだとき聞こえたその悲鳴。そちらにちらりと顔を向けたライル・マッテゾルの表情は至極愉快そうなもので、違和感がある。『弟』の悲鳴は強い怯えを感じるものであるのに、正反対だ。

 そう、そこにいたのはガイル・マッテゾルだったのだ。

「兄上、何を……!」

「なんだガイル、よくここがわかったな」

「兄上、やめてください! 俺はこんなこと望んでない!」

 ひどく焦った様子でアニーや私達に視線を移すガイル・マッテゾルは、その顔を蒼白に染めて拳を握り、お願いします兄上と続けた。

「なぜ? お前がアニー・ラモンを好いているというから、父上が縁談の場を設けたというのに。結婚したいのだろう?」

「こんなのは違う! こんなこと望んでないんです!」

 その内容に眉を顰める。……ガイル・マッテゾルがアニーを好き? この結婚話は政略結婚ではなかったのか?

 今の必死な彼の様子を見ている限り、どうやらあの兄が言っている事が嘘ではないようだとわかる。ならなんで、階段で押したりこの前だって……。

「違うとは? 結婚できればそれでいい。お前も父上から聞いただろう、我が家はどうしてもラモン領の湖の底に眠るという秘宝が欲しい。お前はただ従っていればいいんだ」

 少しきつさの増した眼差しで弟を従えようとするライルに、呆れる。弟の為のような口調で、全然内容は逆。自分勝手そのものだ。

 ちらりとおねえさまを確認するが、その顔が強張っていることから確かに何らかの魔法でおねえさまは動きが封じられているか、それに近い何かで、その突きつけられた剣で首を切り落とされやすい状況であるらしい。

 打破するのは恐らく簡単だ。ここは林であるから、木々に宿る精霊の助けを借りればいい。幸い夜の帳が下りたばかりであるが、精霊の賑わう春先はまだ休まずそこかしこに彼らはいる。

 なるべく使いたくはないエルフィの力であるが、このような状況で使わずしてどうする、とは思う。だが気になるのは、おねえさまにかけられた魔法がどういったものであるか。その剣を弾き飛ばすことは簡単であるが、おねえさまの魔法を解くまでには至らない可能性がある。手を出しておねえさまにかけられた魔法を強化されたら? それはまずい。

 気にしすぎて手を打てないのは私の弱さだ。もっと圧倒的な力があれば動けるのであろうに、私一人では二の足を踏んでしまう。


 周囲を伺うが、まだアルくんが到着している気配は無い。アルくんならガイアス達を呼んでくれると思うが、どうすべきか。

 ライルの目が、弟からおねえさまへと移った。やるしかない、と私が手に魔力を移動した時、ゆったりとした間の抜けた声が聞こえる。


「ねぇもういーい?」

「ああ」

 聞こえたのは私の後ろ、あのぼろぼろの服を纏った少女の声だった。それに返事をしたのは、おねえさまに剣を突きつけたままの男。

 少女は「放しなさいよ!」とならず者の男を蹴り、呆然とした男の手を振り払うと、挑戦的な笑みを浮かべ私とおねえさまの横を通り過ぎ、ライルにしな垂れかかる。

「ちゃんと約束通りの仕事はしたんだから、後で楽しませてよね」

 ぼろぼろにされた服なんて気にした風も無く胸を押し付けた少女は、ふっと笑ったライルを見て満足そうにすると、そのままちらりとおねえさまを見て艶やかな笑みを浮かべた後、立ち去っていく。


 騙されたのか。あの少女は、始めから私達をおびき寄せる仕事か何かを、頼まれていたのだろう。となると、学園内にこいつらを手引きしたのも、彼女なのかもしれない。

「あの女は喜んで誘いに乗ってくれたぞ? どうやら妬まれているらしいな」

 はは、と笑うライルは、剣を構えなおした。おねえさまの顔色は相変わらず悪い。

 ぐっと手を握り、覚悟を決めた。間合いを計り、軸足に体重を乗せた時……怯えた表情で兄を見ていたガイル・マッテゾルの視線が、不自然に上へとずれる。

 誰かいる!

「馬鹿!」

 上から怒声が降ってきたのと、弟の違和感を目にした兄がおねえさまに向けていた剣を空へ構えなおしたのはほぼ同時。

 ガキンと金属の打ち合う音を響かせ、空から登場したのは見覚えのある黒い髪。

「グラエム先輩!?」

 あの女の噂とやらの忠告の後見る事がなかった騎士科の先輩の姿にぎょっとしつつ、しかしチャンスだとおねえさまの手を引いた。おねえさまは立ち竦んだその姿のまま動く事なく私に引っ張られ、その体勢のまま後ろに倒れかけて慌ててそれを支え……られるはずもなく、私はおねえさまの下敷きとなりその場にひっくり返った。

「うぎゃっ!?」

「色気のねぇ悲鳴だな! とっとと逃げろ!」

 ギイン、ガキンとライル・マッテゾルと剣の打ち合いをしながら叫ぶグラエム先輩をおろおろと見ていたアニーが、はっとして私の上で不自然に動かないおねえさまを引っ張りおろす。

「ラチナ!」

「おねえさま!」

 おねえさまの表情は強張ったままだ。ゆっくり、重そうに開いた唇から漏れる吐息は弱々しすぎて、言葉にならずに消えていく。

 すぐに全身に魔力を巡らせた手のひらを当て、筋肉の強張りから金縛り系統の魔法だとあたりをつけ、解呪の為に詠唱を開始する。

「何しているんだ、逃げろ!」

「ラチナが!」

 アニーがグラエム先輩に叫び返すが、私ははっとして止まりかけた詠唱をそのまま続けた。恐らく蛇でもなんでもいいからおねえさまを縛ってでも逃げろ、とグラエム先輩は言いたいのだ。

 だが、おねえさまの周囲に滞在し続けている動きを奪うこの魔力に、蛇の魔力をぶつけても無事な確証がなくて、その場での治療を開始する。

 おねえさまを治療する私とアニー、剣を打ち合うグラエム先輩とライル、それらを交互に見て呆然とした表情で動けないでいるガイル。状況は、悪い。グラエム先輩が押されているのだ。

「おねえさま!」

 早く動いて。起きて、力を貸してください、と願った時。


「ラチナぁああ!」


 漸く、新たな人の気配にほっとして顔を上げた私は。

「げっ」

 ……その相手の顔を見て血の気が引く思いを味わった。


 既に剣を振りかぶり、私たちの上方からライルに向かって憤怒の表情で飛び掛っている男の短い金の髪が、月明かりの中揺れた。何らかの魔法を使っているのか魔力が立ち上ったその姿はまさしく鬼、いや悪魔、いや魔王。……って彼は魔界じゃなくてこの国の王になるはずなのだが。

 その後ろで同じく怒りを露にした表情で弓に矢を番える良く知る幼馴染の姿に、穏やかな微笑みを浮かべている筈なのに背後から黒いものが見えるような、氷の剣を手にした美少年。


 ……揃いも揃ってお怒りでいらっしゃる……っ! もっと冷静に!

 いや、しっかりグラエム先輩ですら苦戦した相手の剣を弾き飛ばした辺り、暴走しているわけではないようだが、たぶん!

「アイラ」

「おねえちゃん!」

 残った比較的現在は落ち着いて対応してくれる二人がまず先に私たちへと駆け寄り、防御壁を張ってくれる。

「が、ガイアス! あの三人が本気で暴れたらこの林が消えるっ!」

「大丈夫だ、たぶん!」

「たぶんじゃ駄目ー!」

 怯えて逃げ惑う精霊達を、慌てた様子のアルくんが遠くに避難させている。先ほどまでのシリアスな展開が、なぜかシリアスな三人が突っ込んだ瞬間崩れ去った。

 王子の剣が勢いあまって弾き飛ばしたライルの剣がグラエム先輩をかすめ、「あぶなー!?」と声をあげるグラエム先輩の頬すれすれに問答無用で放たれた矢がライルのマントを地面に縫い付ける。

 とどめと言わんばかりに突きつけられた大きく成長した氷の剣が、逃げ損ねたグラエム先輩の足をも凍りつかせた。ひどいとばっちりである。

 ひっ、と息を呑んで腰を抜かしたガイル・マッテゾルを、王子がぎっと睨む。仰向けに転び身体を氷に覆われ始めたライル・マッテゾルははくはくとその口を動かし、王子とフォルを交互に見た。

「なぜっ」

「なぜって? 馬鹿か、お前は。ここをどこだと思っている?」

「あな、あなたはっ」

「ん? ああそうだ、私はメシュケット国第一王子、デューク・レン・アラスター・メシュケットだ。名乗れ、マッテゾルの嫡子」

 いや名前わかってるんじゃん?

 と心の中で突っ込んでみたが、そんな声出せなかった。今の王子は普段となんだか雰囲気も声音も表情も何もかも違う。触らぬ神に祟りなしだ。

「だい、じょうぶですわ……ありがとう、アイラ、アニー」

 弱々しい声が聞こえてはっとしておねえさまを見る。おねえさまは手を後ろについて身体を起こしかけ、ルセナがそれを首を振って止めた。

「屋敷まで連れて行くから」

「……ええ」

 つらそうな表情ながら王子を見たおねえさまは少しだけぎょっとした。そりゃそうだよね、臣下従えた魔王だもん。

 なんにせよ、魔王と臣下の圧倒的な撃退により、漸く私はほっとその場に座り込んだのだった。


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