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「アイスロック!」
広い室内に私の声が響き、それと同時にパキンッと氷が絡み合い氷柱を作り出す。
さっきまで軽く跳んで私の攻撃を逃げていたガイアスが、「おわっ」と叫びその動きを止める。彼の左足からじわじわと氷り付いた氷柱は高く天井にまで届いて張り付き、ガイアスの動きを完璧に封じたかに思われた、が。
ばしゃんと水音をたてながら雫が飛び散り、土の地面に吸い込まれて消えてしまう。
……溶かされた!
慌てて後ろに大きく跳ぶが、突如地面から伸びた……いや、地面が触手のように伸び、その土の蔦に足を絡めとられて、私はバランスを崩して背を下にひっくり返った。
そして眼前に突きつけられる、鞘に包まれたままの剣。……負けた。
「ううう、勝てない」
「一応これでも、お前の護衛だからな?」
苦笑したガイアスが剣を腰に戻すと手を伸ばし、私を起こしてくれる。
よっと、と声をかけながら立ち上がった私は、すぐに地面に打ち付けた自分の背に治療を施しながらも、ガイアスに怪我がないか尋ねる。久しぶりにお互い手加減無しで稽古したのだ、治療もしっかり行わねば。
これくらいなら大丈夫だというガイアスを押し切って、私の水の槍で怪我したらしい二の腕の治療を終えたところで、お疲れ様でしたと離れた位置で見ていたレイシスが二人分の水を用意してくれた。受け取る時僅かに触れそうになった指先を若干気にしつつ、それを振り払うように水を口に含む。冷たい水がひやりと喉を滑り落ちていくのが気持ちよくて、一気に飲み干して思わず息を吐く。
前にレイシスに手の甲にキスされたあと、混乱した私とは違いレイシスは普通だった。あの時のレイシスはどこか遠くに感じた気がして不安だったのだが、変わらない普段の様子に漸くほっとしたところだ。
「久しぶりですね、お嬢様の稽古も」
「ずっと魔法練習だけだったからね」
タオルを手に取り、汗を拭う。お風呂入りたいな、とぼんやり考えながら、大きく伸びをした。うん、すっきりした。
「ありがとうガイアス」
例の噂話でむしゃくしゃしていた私から言い出した稽古だ。それに付き合ってくれたガイアスに礼をいい、三人で騎士科の稽古部屋を出る。
噂が立ち始めてから数日経ったが、あれから変化はない。つまり、それ以上の広がりも盛り上がりも見せていないが、減りもしていなかった。
結局カルミアさんが否定してくれているらしく、またガイアスも「俺もあの場にいたけどなー」とからりと笑って見せたりしてくれたことで、なんだただの噂か、と興味をなくす人半分、面白おかしく語る人半分といったところか。
仕方ないかと思うものの、やはりどうしてもその噂を嬉々として煽る人間がいるのもまた事実で、自分の不甲斐無さを実感する毎日だ。気を引き締めなおそうとガイアスを誘った稽古は、どちらかといえばストレス発散の部分が大きいのかもしれない。
「明日だっけ、試食会」
ガイアスに尋ねられて、頷く。明日は用事があって王都に来ているお父様が時間を作ってくれたので、カレーの試食をしてもらう日なのだ。もちろん気合十分準備もばっちりで、お父様用にスパイスの配合や材料も変えて、何種類かカレーを用意してある。
明日はガイアスとレイシスの二人と共に、ベルティーニの店舗に行く予定だ。以前夏の大会でも出かけた場所ではあるが、少し遠いので徒歩で行くか馬車を使うか悩み物だ。やっぱり荷物も多いし、馬車かなぁ。
そんなことをぼんやり考えつつガイアスとレイシスに手を振って自室に戻ると、アルくんがにゃっと鳴き声をあげながら飛び込んできた。
「ただいま、アルくん」
甘えるアルくんを撫でながら、お風呂に入るために浴室に向かおうとして……ふと気づく。
今まで精霊だと思っているからこそ出なかった疑問ではあるのだが。
「アルくん、猫の身体ってお風呂、どうしてるの? よかったら一に入る? 洗ってあげる」
「ふにゃっ!?」
口をかぱんと開けたアルくんが、大きな猫の目を更にまん丸に開いてその口の中の犬歯を見せた。そのアルくんの口を見ながら、猫なのにこの尖った歯は犬歯って言うんで合ってたっけ、と若干獣医学にも興味を持ったところで、驚きの表情から次いで跳ね上がったアルくんの身体を支えきれずに「わっ」を悲鳴をあげた。
「あー、やっぱ精霊の身体だといらない?」
地面に華麗に着地し、こくこくこくこく、と何度も頷く猫を見て、そっか、と頷く。
じゃあお風呂行ってくるね、と浴室に一人で向かった私は、今度獣医学の本もあさってみようと図書館に行く予定を立て、熱い湯で久しぶりの稽古の汗を流した。
「アイラ、久しぶりだね!」
がたごとと街中であっても揺れでお尻が痛くなる馬車を降り、小さな鍋をいくつも下ろしたところでお父様がわざわざ外へ出迎えに来てくれた。
「お父様!」
久しぶりに見る父の顔に思わず嬉しくなって飛びつき、今日はありがとうございます! から始まってその場であれこれ話し始めた私を見て笑った父は、頭を撫でて「中で聞くよ」と手を引いてくれる。
「ガイアスとレイシスも、ご苦労」
「ご無沙汰しております!」
ぴっと背を伸ばしたガイアスとレイシスの両手に鍋を入れた布袋がぶら下がっているのを見てはっとして、慌てて何度目かではあるが慣れないベルティーニの王都店へと入る。
ベルマカロン店舗はよく訪れるが、ベルティーニのお店は服屋だ。ここで取り扱っているのは王都の裕福層向けの普段着から一般の商店の制服まで幅広く、貴族向けに高価な布地を持ち歩き採寸から仕立てまで行う専門の職人もいるらしく、建物自体大きめだ。
「お父様、カレーの匂い、大丈夫かしら」
鍋を布袋に入れたくらいでは消えないスパイスの香りにおろおろとすれば、お父様は笑って「既に風の魔法を使っているけどね」と言う。ふと見れば、球状に僅かに魔力の色が見えた。恐らくこの球状の魔力の中に匂いを閉じ込めているのだろう。……気配を絶つためのものであるが、初歩の暗殺術の一種じゃないか、これは。
そういえばお父様って魔法どれくらい使えるのだろう、と一瞬浮かんだ疑問は、部屋についたことで途切れた。
まずはせっかくだから試食から始めようかなと言われ、すぐに鍋に手をかけ仕上げの為に部屋の片隅にあった簡易の台所に立つ。
丁寧に運んだ鍋の中から、昨日考えた予定通りにまずは甘口のカレーを選び火にかけ、その間に冷たい水も用意する。
数種類食べてもらう為、一皿一皿はすぐ食べきれる量で少なめだ。予め頼んでおいた為、既に用意されていた炊き立てのご飯の上に熱々のカレーをそっとかけ、緊張しつつお父様の前へと運ぶ。
「まずはこちらから」
やはり真っ赤なカレーを見たお父様は一瞬びっくりして目を丸くしたものの、その後は匂いをかいでみたり、目を眇めていろいろな角度からカレーを観察し、大きめのスプーンを手に取るまでが非常に長く感じる。
銀色に輝くスプーンの上に、つやつやふっくらとした白いご飯と真っ赤でとろりとしたカレーが丁度良い比率で乗り、見た目にもおいしそうに見えたカレーがお父様の口に吸い込まれていく。
「……これは」
ゆっくりと味わいお父様の喉がそれを飲み込むために上下するまで、固唾を呑んで見守っていたのは私だけではなかったらしく、気づくとそばに緊張した面持ちのガイアスとレイシスまでいて、逆に少しだけ緊張が解けた。
「アイラ、これはカレーと名づけたんだったかな?」
「あ、はい!」
そうだ、そういえばつい出来上がった時「カレーができた」と言った私であるが、この世界にカレーがなかったのであればその名称でわかるわけがない。なぜその名なのか聞かれたらどうしようと若干冷や汗が流れたが、お父様は一度首を振ると、にこりと笑った。
「これは、うまい。アイラには驚かされるね。商人の血がぜひ売りに出したいと訴えている」
「本当ですか、お父様!」
「複雑な味だが次々口に入れたくなるね。初めての味なのに決して受け入れがたいものでもない」
思わず嬉しくて手を合わせると、横でガイアスとレイシスまで笑顔になり笑いあう。
「苦労してたもんな、アイラ! 毎日香辛料の匂いしてたし、たまに失敗したーってすごい苦いの食べてたり食べすぎで腹痛おこしてたり」
「あ、ガイアス! それは言わないでよっ」
何も失敗談を言わなくても! と焦るが、からからと笑った父はお皿の上を綺麗に平らげ、そこから忙しく次のカレーを準備していく。
トマトたっぷりにしたカレーや、辛さを追求したカレーなど次々と口にした父は時折材料などを聞きながら食べ進めていく。
最後の一皿、ご飯無しでスープカレーを出し終えると、それを食べきったお父様は「ふむ」と口元を拭きながら何かを考えるように視線を宙に向けた。
「健康にもよさそうだし、これなら確かにどこかで食堂としたら人気も出るかもしれない。やはり問題は材料集めの困難さだな。私も考えてみよう」
「それならお父様、一度材料の見直しをしましたの。出来る限り国内で準備できるものはそれを考慮してみたのですが」
「いや、国外から仕入れるのが悪いわけではないんだが……そういえば、例の噂はどうなったか知っているかい?」
噂、と言われて思わず学園内のあの噂を思い出し慌てた脳内が混乱で思考を停止した時、助け舟のようにレイシスが「あの、他国が神に見放されているといって我が国との取引を渋っているという噂ですか」と父に尋ねてくれて、思考が復活する。
頷く父を見てほっとしつつ、しかし不穏な話題に姿勢を正し真剣に向き合う。と、父はなんだか煩わしそうに首を振った。
「だいぶ噂は下火になったし、取引も元通りになり始めたがね。どうやら信心深い一部の国はまだ取引を渋る傾向があるそうだ。イムス子爵の事は聞いているが、君たちも油断してはいけないよ。……ガイアス、レイシス、娘をよろしく頼む」
もちろんですと頷く彼らに満足そうに笑みを返したお父様は、カレーの件に関しては私も考えてみようと言って頭を撫でてくれる。
「アイラもたまには休みなさい」
そう言って父は私に学園ではどうだい、楽しいかいと話題を振ってくれて、そこから夢中になって授業であれを習っただのこの魔法を習得しただのを話し、久しぶりの父とゆっくり話せる機会を、父に褒められたカレーをお供に過ごした私は上機嫌で学園に戻ったのだ。




