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「ああもう、なんなのー!?」
屋敷に飛び込むなり叫んだ私の頭に、ガイアスの手がぽんぽんと載った。
「まあ大丈夫だって、根も葉もない噂だし」
「うーん」
根も葉もない……に僅かに唸る。確かにキスなんてしていないが、カルミア先輩に手をとられて手の甲にキスをされたところは事実だ。
手の甲にキス、は親しい貴族女性に騎士が取る挨拶だ。もう一つ、求愛の際にも用いられるが、あくまで挨拶とするなら恋人に限ったものではないし、それがまずいわけでもなんでもない。が、私には十分衝撃的であった為に「何もなかった」とは言いづらい。中途半端に事実が織り交ぜてあるのが悔しい! というか、やっぱり思いっきり誰かに見られてたのか!
今更ながら、グラエム先輩の忠告の意味がわかり恥ずかしくなる。あれはだめだ、あの時の態度はまずい。今度グラエム先輩に謝らなきゃと思いつつ、素直に謝れるかなと考えが脱線していく私は、がっくりと項垂れて部屋へと戻った。
昼に授業が終わってすぐ、おねえさまとフォルにも促されてすばやく帰る準備をしたところで、騎士科からもガイアスとレイシスがすっ飛んできた。どうやら噂は思ったより範囲が広く伝わっていたらしく、レイシスが顔面蒼白状態だった。
私の前に来ても何も言えずにぱくぱくしていたレイシスに代わり、ガイアスは顔を見てそうそう「すごい脚色された噂だな」と苦笑いした。
それにこくこくと必死に頷いたところで、漸くレイシスが息を抜いたところを見ると、どうやら事実ではないかと心配していたらしい。ガイアスに聞いたところ、「無理矢理か!?」とレイシスが暴走しかけていたとか。私の同意がなかったと即座に判断したのもどうなのだ、レイシス……。
いつもの椅子に座ってだらしなく背もたれに背を預けてため息を吐くと、心配そうな表情をしていたフォルにひょい、と顔を覗き込まれた。そういえばフォルもあの噂……私とカルミアさんが中庭でキスをしていた、という噂を最初から嘘だと憤慨していた気がする。
というか、あんな中庭で誰がどうしてふしだらな行為をするというのだ、まったく。と呆れないでもないが、火のないところに煙はたたない。今回は完全に私の油断のせいである。
「グラエム先輩も見てたんだよねぇ」
なんとなしに視界に入ったアルくんに問いかけると、ぴくりと反応したレイシスにどういうことかと聞かれた。
「グラエム先輩に言われたの。女の噂は怖いぞって。たぶん知ってたんじゃないかなぁ」
「……それ、噂を流した犯人知ってるってことじゃないですか……?」
レイシスの疑問にはっとする。そうか、グラエム先輩は昨日その忠告をすぐにしてくれたのだから、中庭の様子を知っていたのか。
……だけど、犯人を見つけてどうしろというのだろう。流れた噂は消えないし、この世界ではどうか知らないが、人の噂も七十五日を信じるしかなさそうだ。
しかし噂の範囲は広く、なんと午後の授業で先生にも突っ込まれてしまい、若干うんざりしてきた。一日でこれってどういうことだ。
「……恐らく誰かが故意にやったとしか、思えませんけれど」
おねえさまに言われて、なんとなく落ち込む。そうであろうなとは思うが、誰が何の為に。
「まあ、なんとなくわかるが」
「わかるんですか?」
誰が何の為に、という疑問は、王子は答えがわかるらしい。フォルも目を逸らしたところを見ると、こちらもか。
「もしかして……」
眉を寄せるおねえさまを見るに、わからないのは私とガイアス、レイシス、ルセナだけかと見回せば、うーんと唸っていたのはガイアスとルセナだけで、レイシスはため息をついていた。
「なんにせよ、しばらくアイラは一人になるなよ。アルだけじゃだめだ。アルは悪意は防げないからな」
王子の言葉に頷きかけた時だ。
扉をノックされる音に振り向けば、王子に許可されておずおずと入ってきたのはレミリアで。
「すみません、アイラお嬢様にお客様が見えられているのですが……」
王子が眉根を寄せて相手を訪ねると、レミリアから「カルミア・ノースポール」という名前が聞こえて思わず口をぽかんと開けた。ここに尋ねてくるとは。
「入れろ」
「え、ここに入れるんですか!?」
王子の言葉に驚いて立ち上がったレイシスは、ここに敵がいるでもないのに慌てて私のそばにやってくる。
「何の話か知らん……とは言わんが、アイラ一人で外に出すわけにもいかんだろう。かといって外で話して噂の種を撒くのも面倒だし、ならさくっと中で話せばいい」
「はあ……」
「レミリア、護衛に案内させろ。お前じゃなくてな」
王子がそう指示すると、はい、と背を伸ばしたレミリアがぱたぱたと部屋を去る。
成程、王子の護衛が案内すれば、招きいれたのが私ではないと思われるのかも、と頷きつつ待てば、程なくして現れたカルミアさんは口を引き結んだ表情で部屋へと入室し、私を見つけると動きを止めた。
「レイシス」
まるで飛び掛る前の犬のように私の前にいるレイシスの袖を引いて止めるが、レイシスは私の前から離れようとはしない。
その様子を面白そうに眺めていた王子であるが、まあ座ってくれとカルミアさんをテーブルを挟んで私の向かい側の席へと促す。私の両脇はレイシス、フォルが座り、ガイアスは私の座るソファの後ろへと移動し背もたれに手をかけた。どうやら立ったまま話を聞くらしい。
王子のそばにおねえさまが座り、ルセナがおろおろと空いた席に座ると、それを確認したカルミアさんががばっと立ち上がり頭を下げた。
「申し訳ない。俺の軽率な行動のせいで、妙な噂を立ててしまった」
その態度にぎょっとして、いえ、と手を広げた。元は誘いにのってあそこで昼食をとるのは合意だったわけだし、彼が悪いというわけでも……と思った私ではあるが、レイシスは違うようだ。
「ならどうしてこんな酷い噂がたつようなことに!」
それを言われたカルミア先輩は苦笑し、「酷い噂か」と困ったように笑う。
「求愛をしたのは事実だから」
事実であるが、皆の前で言われると思わず頬が熱くなる。おろおろとしてカルミアさんを見ると、苦笑した彼は「振られてしまったけれど」と付け足した。
「強引に友人でいてくれと言ったが、まさかこんな噂が立つとは思わなかった。あそこがある程度人目があるところだとは認識していたが……自分への視線には気づいていたのだけど」
後半小さな声で何か呟いたカルミアさんは、私ではなく視線を少し横にずらした。
「なんだ、先輩は俺達がいたの気づいてたんですか」
あっさりとした声が上から降ってきて、その声の主であるガイアスを見上げる。
「え?」
「俺がアイラを一人だけであそこに送り出すわけないだろ、後で怒られる。……ってもっともらしい事言うけど、覗きは覗きだな、ごめんアイラ」
さらりと謝られてしまえばどう怒ったらいいのかわからず、ぱくぱくと口を開閉した。つまり、あの場にガイアスはいたのか。
「気づかなかった……」
「だろうなあ。アイラがあまり回りに注意を向けれてないなと思ったから、いたんだけど」
なるほど、ガイアスは全てお見通しだったのかと項垂れれば、そういえばガイアスとフォルは私が屋敷に戻った後で戻った事に気づき……慌ててフォルを見た。
「……ごめん、話は、聞こえない距離だったんだけど」
こちらもまた謝られて、自分がいかに気を抜いていたかわかる。馬鹿だ、気を引き締めていたつもりだったのに油断だらけだったらしい。
「つまり、あの噂が嘘であると君達は知っていたわけだ」
苦笑した先輩がそういうと、再び視線が私に戻る。
「この件はこちらで訂正させてもらうよ。こんな手を使いたかったわけじゃない」
「手、ですか?」
「まあ、それで外堀固められたら怒っただろうけどな、そこの護衛二人もフォルも」
くつくつと笑う王子が、そういって頬杖をつくと、レミリアの入れたお茶を飲む。
しかしそこで表情を少し曇ったものに変えたカルミアさんが、あの、と私を見た。
「二年のグラエム君は、知り合い?」
「え?」
思わず首を傾げ、まさかカルミアさんにも忠告に行ったのだろうかと眉を寄せた時、その反応を見ただけでふるふると首を振ったカルミアさんは「さて」と立ち上がってしまう。
「あまり長くいてはいけないから、そろそろ」
王子に失礼しますと騎士の礼をとり、私たちにも挨拶をすると立ち去ったカルミアさんの背を見て、妙な沈黙が落ちる。
うーん……噂の対処法なんてどうしたらいいのかわからないのだけど、ほっとくんじゃまずいんだろうか。
首を傾げつつ、とりあえず皆にお騒がせしましたと謝罪すれば、王子はからからと笑う。
「先に俺の周囲でおきるかと思ったが、噂がまさかアイラの方からとは」
なぜかその言葉で顔を赤くしたおねえさまががばりと立ち上がり、「アイラ、お部屋でお話しましょう!」と手を引かれる。
特に断る理由もないので頷いて立ち上がると、くっと一瞬だけ袖を引かれた。
レイシスが何か言いたそうに私を見るが、続けられた「いってらっしゃいませ」の言葉におねえさまに手をひかれるがまま部屋を出た私は、後で一度レイシスのところに行こうと心に決めておねえさまと階段を上った。
「レイシス?」
夕食後いつも通りに皆で集まって楽しく過ごし、そろそろ解散しようと部屋に戻ったところで、めずらしくレイシスが部屋を訪ねてきた。
どうぞと部屋に促せば、レイシスはクッションに丸くなっていたアルくんを見つめる。
「アル、ごめん、お嬢様と二人で話をさせてくれないか」
ぴくんと耳を揺らしたアルくんは、しばらくレイシスを見ていたが、とん、と地面に飛び降りると走り、レイシスに抱き上げられて肩に乗る。
その動作を見守っていると、レイシスは「わかっている」と呟いた。アルくんはその返事を聞くやすぐさま開きっぱなしだった扉へと向かい、尻尾に扉をひっかけて閉めると廊下を駆けていく。
もちろん閉めきれなかった扉をレイシスが閉じなおすと、くるりと回ってこちらを見た。
「お嬢様」
妙に真剣な表情のレイシスを見て思わずぴっと背を伸ばし、どうしたの、と首を傾げる。
「お茶淹れるから、座って?」
促すが無言のレイシスに、何かあったのだろうかと少し不安になりながら茶器に手を伸ばす。レイシスが動いた気配にほっとしたところで、背後から手が伸びた。
「わっ」
カチャン、と手にしていたカップとソーサーがぶつかる音がする。白に淡い緑色で植物が描かれたお気に入りのセットは割れる事はなく、背後から伸びたレイシスの手に取られ棚に戻された。
その手がぐっと肩とお腹に回り、抱きしめられたことに気づいて身を硬くする。
「は……? レイシス?」
レイシスが頭を肩に押し付けているのだろう。柔らかな、ガイアスの跳ねた髪とは少し違う、少し猫っ毛だがさらさらとした髪が首筋に触れてくすぐったい。
ふと懐かしく思った。レイシスは昔から、限界まで辛いことがあるとこうしてこっそり後ろから私にしがみついていた。もうかなり前の話だが、懐かしい思いと同時にどうしたのかと不安になり、必死に話しかける。
「レイシスどうしたの? 何か嫌な事あったの?」
その言葉に腕の力は強くなるが、何か言いかけたらしい吐息だけは首に触れるものの明確な言葉は返ってこない。
「お嬢様、俺は」
しばらくして漸く返って来た言葉は途切れ、続きを待つがそれが聞こえてくる事はなく。
腕がゆるみ、私が僅かに身体を動かすと、レイシスはすみません、と項垂れた。
「俺にもよく、わかりません」
何を言えばいいのか、と続き、レイシスは私から身体を離した。
続く沈黙は、焦るものではない。昔からレイシスは隣にいるだけで会話を交わすことがなくとも、長い時間いて苦痛ではない相手だ。そういえば、カルミアさんはずっと話しかけてくれていたな、とふと思い出す。その内容がほとんど思い出せない事に若干の罪悪感を感じ、続いてほっとした。
「でも」
唐突に顔をあげたレイシスを見ると、彼の瞳がまっすぐに私を見つめていて、その力強さに身体が硬くなったのがわかる。
「お嬢様がとられるのは、いやだ」
それだけわかれば十分なのかな、と呟いたレイシスは、片膝をついて私の手を引いた。
手の甲に触れるレイシスの唇に、今度こそぴたりと身体の動きを止める。
「努力することにします、お嬢様」
そう言って立ち去ったレイシスをぼんやりと眺め、アルくんが戻ってくるまで、私は動けずに扉を見続けた。




