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「お嬢様」
特殊科の授業を終えて、お茶を飲みながらまったりと授業の復習をしている時。レイシスの声に呼ばれ顔を上げると、目が合った彼から図書室へと誘われた。
屋敷の外の大きな学園の図書館ではなくて、屋敷内の小さな図書室におすすめの本を見つけたらしい。さっそく行こうと部屋を出た時、一度自室に戻っていたガイアスが丁度階段から降りてきたところだった。
ガイアスは大量の本を抱えている。両手が塞がっているようだから扉を開けてあげようと今さっき出てきたばかりの部屋の扉に手を伸ばした時、ガイアスがああと声を出した。
「お前らどこかに出かけるのか?」
「いや、図書室に行こうと思ってたんだけど」
「あー、そっかそっか」
ガイアスがなんだか珍しく困った様子で腕の中の本を見ていて、どうしたのだろうと首を傾げた。それに気づいたガイアスが苦笑する。
「騎士科の先生に、兵科の補習生徒のサポート頼まれたんだ。わかりやすいメモでも作ろうと思ったんだけど、今本をぶつけちまって剣の手入れ用の油零しちゃってさ。出るならついでに新しいの頼もうと思ってた」
「なんだ、それなら後でいいなら行く。いつものでいいのか?」
「あー助かる。いつもの頼むよ」
そういうとガイアスは忙しそうに部屋へと戻っていき、扉を閉めたレイシスは、では行きましょうかと私を図書室へと促す。
「でもレイシス、ガイアスのおつかい、行くんでしょう?」
「後で行きますよ」
にこにこと微笑むレイシスが私の手をとって歩き出した為、ちらりと窓の外を見ながら図書室の前まで歩いて、考え直し立ち止まる。
「レイシス、遅くなってからだと危ないし、先にお買い物に行こう? 私も一緒に行きたいな、学園の敷地内のお店でいいんでしょう?」
「え? ああでも……寒いですよ」
ちらりと外を見たレイシスが、窓枠に一度融けた雪が再び氷となり張り付いているのを見ながら躊躇うように私を見た。
今日は久々に誰も丸一日依頼が入っていない。だが普段はどんなに寒くても真夜中まで依頼で出かけていたりするのだ。まだ日没まで一時間以上ある今外に出るのは何も問題がなく、むしろ後で行くほうが寒いだろう。
学園の敷地内ならば騎士も多く、私とレイシスだけで出かけても問題ないだろうと彼を見上げると、少しの逡巡の後レイシスは困ったように首を傾げて笑う。
「……ではしっかり防寒して出かけましょうか」
「うん、帰ってきたら本、教えて」
そのまま手を引かれ、一度自室に戻った私達は外套を手に玄関へと向かう。
しっかり着こんで外へ出ると、玄関にいた王子についている近衛騎士がちらりと私達を見る。寒いのに交代だとしても外で待機する騎士は大変そうだ。一応、特殊科の私達も屋敷を出入りする際には声をかけるようにしているので、学園商店へ買い物だと告げて歩きだす。
「久しぶりですね……アイラと二人で買い物に出かけるのは」
隣を歩くレイシスがそう言って私を見て、思わず目を見開く。
そうだね、と返しつつも、ほんの少しどきんと跳ねた心臓の辺りになんとなく視線を落とした。
レイシスはこうやって、たまに二人きりの時だけ名前を呼ぶようになった。普段皆の前では今まで通り「お嬢様」と呼ぶのに、二人きりのときだけ名前で呼ばれると、昔もアイラと呼ばれていたのになんだか緊張する。
昔名前からお嬢様呼びに急に変わったときは戻してよと反対していたのに、こうして大きくなってから急に戻されるとなんだか落ち着かない。しかも最近レイシスは声が低くなった。声変わりってもっと長い期間声が出しにくいのかなと思ったけれど、ガイアスもレイシスもそこまで極端に辛そうなのはほんの少しの間で、数ヶ月前にちょっと違うなと思い始めてからそんなに気になる事なく今では「昔と違うな」と思う声になってしまった。
それを口に出せば、レイシスはそんなに変わりましたか、と驚いたあと、笑った。
「アイラも、変わりました。綺麗になったと思います」
何の臆面もなく照れもなく言い切ったレイシスより、言われた私の方が頬に熱が集まった気がする。
「そうかな。何も変わってないよ」
視線を揺らがせながらそんなことを呟くが、レイシスは横でくすくすと笑っているだけだ。
最近じゃガイアスとレイシスを見上げるのが常になってきた。私が身長が伸びないのに対して、ガイアスとレイシスはぐんぐん背が伸びているのだ。私の場合母親が背が低いので、もしかしたらこのまま止まっちゃうのでは……と密かに心配しているのだが、悲しいかな身長も胸も育つ事無く、このまま二年生に上がりそうな気配だ。お母様、胸は大きいのにおかしいな……。
「あ、ここです」
自然と手を繋いだまま歩いていたらしい私は、くいっと手を引かれたことで漸くその事を思い出しつつ店を見上げる。
そのままの状態で店に入ると、奥にいた少し目がつりあがった眉の太い店主らしいおじさんに睨まれた気がして、慌てて手を離してレイシスの後ろに少しだけ隠れる。
「……ああ、デラクエルの坊ちゃんじゃないか」
なんだか面倒そうな店のおじさんがレイシスを見てふうと吸っていたパイプ煙草の煙を吐いた。
どうやら知り合いらしいと二人を交互に見ていると、じっと私を見つめてくるおじさんと目が合ってしまう。
「ふうん。デラクエルと来たってことは、おまえ、ミランダの娘か」
「えっ」
突然出てきた母の名前に、思わず驚きの声が漏れたがすぐにこくこくと頷いてみせる。
「そうです、アイラと申します。母をご存知なんですか?」
「ふん、あのお転婆娘に娘ね。顔はよく似てるがこっちもお転婆か?」
後半はレイシスに尋ねたようだが、レイシスはにこりと笑みを浮かべたまま何も答えなかった。え、レイシス、何で否定しないの?
というか、お母様がお転婆……おっとりとか、穏やかとかならわかるんだけど、お転婆?
うーんと、言われた言葉と母のイメージが合わず唸っていると、レイシスが「いつもの」とだけ言って小瓶を手に取る。
「レイシス、それ?」
「ええ。ガイアスがよく使うのはこれですね」
レイシスが手にしているのは、片手で包み隠せるほどの小さな小瓶だ。ほぼ透明のとろりとした液体を眺めつつ、剣の手入れにはこんなものを使うのかと眺めていると、レイシスが僅かに笑った。
「錆を防ぐ為に塗るんですよ。お嬢様は刃物を持たないので、珍しいですよね」
「あ、うん。初めて見たかも」
「これは植物から出来ているんです。鉱油のほうが錆び難いと言う人もいますが、植物油は魔力を含んでいるので、魔法剣士の剣には馴染みがいいんです」
「へえ、植物からなんだ。なんの植物?」
「確か国外の花の蕾だったと記憶していますが……ええと、なんだったかな」
「それはクローの蕾だ」
私とレイシスが話していると、奥で煙を吐きながら店主がレイシスの説明に付け足してくれた。レイシスはそれを聞くと、ああそうだったと頷く。
「クロー……香料で使う花?」
「なんだお前、よく知ってるな」
私が答えると店主が僅かに驚いたような表情をする。医療科なのだと伝えると、なるほどとすぐに納得の表情になった後、お前の母親も異様に植物に詳しかったなと少しだけ笑った。
「それでもクローを知っているやつは少数だな。確かにクローは香りが強く、油臭さがあまりなくて刃の手入れでも好まれる上に、保有魔力が多い。クローの産地である国ではその地でよく使う片刃の剣の手入れで使うらしいし、鎮痛だの殺菌だのの作用があるとかで薬としてそのまま噛んだり、食いもんにも使うらしい。が、この国じゃあまり見かけないな」
「食べ物ですか」
つい、今鋭意作成中のカレーを思い浮かべる。魔力が高くて、鎮痛作用があって、香り高い。……使ってみたい。
「その蕾って、この国で手に入りますか?」
「ああ? あるぞ、その油はうちで作ってるからな」
「本当ですか!」
つい身を乗り出すと、店主は笑う。
「なんだ、クローの蕾を薬にするのは微妙だぞ。もとから保有魔力が高いから、薬として練る時に魔力を流しても混ざりにくい」
店主が言うのは最もだ。薬は作る工程で、作り手の治癒魔力を流し込むことで目的の効果を高めるのが主流だ。流し込む先に元から魔力が多ければ、溢れて混ざらないだろう。
「いえ、料理のほうに使ってみたいんです!」
「料理ねぇ。まあ、たまに蕾を買うやつもいるから売ってはいるが」
店主はそう言って、油の置いてある場所とは反対方向を指差した。ここは薬屋なのかたくさんのビンが並んでいるが、指差した先に大き目のビンに細長く茶色っぽいものが詰まっているものを見つけて、あれだろうかと近づく。
「だが、今回はいいが次回からは少し高く売らせてもらうぞ」
「ええっ」
なぜかと店主の方を向けば、店主は顔を顰めて見せた。
続けて言われた言葉は、最近商人達が悩んでいると父から来た手紙に書かれていた内容と、同じだった。
「他国が取引をしたがらなくなってきた。クローの産地はまだ普通らしいが、今後どうなるかわからんからな。神に見放された国とは取引できないんだと」
レイシスもさっと表情を険しいものに変える。
例の襲撃事件での噂は、学園では王子が光魔法を使って見せたことで鎮静化してきた噂ではあるが、「神に見放された」とまで尾ひれがついてどうやら他国にまで広がっていたらしく、商人達にダメージを与えている。
実はこの話、時期的にもおかしい。
神殿が襲撃される直前に、確かに商人たちが「他国がなぜか取引を嫌がる」と噂しているのを私達は聞いている。
だが実際襲撃された後では、その取引を嫌がる理由が「神に見放された国と取引するのは怖い」という理由になっており、そんな理由ではと商人達も困っているのだそうだ。
もちろん私達からしてみれば理由は後からつけられたものという認識だが、時期が被っているせいかまるでもともとその理由で取引されにくいような話となり、非常にややこしくなっている。
今はまだそこまで大きな話になっているわけではないが、そうした理由で断られ始めているという事実はもちろん王子も頭を悩ませており、学園の噂と同じく静まってくれればいいと城の上層部でも頭を抱えているようだ。もっとも、戦争を仕掛けられてはたまらないので、すぐに王は近隣諸国にでたらめな噂であると訂正をいれたらしいが。
商人達の間で噂が広まるのは早い。だが、こんなところでもその話を聞くはめになるとは……と考えつつ、値段を聞いて少しだけ悩み、一ビンだけクローの蕾を購入した。蕾を現地で乾燥させたものなので、そこまで移動が大変なわけではないらしいクローの蕾はそこまで高くなかったようで、現時点では私たちが普段使う回復薬を買うよりは全然安かったのだ。
まいどあり、と声をかけられて外に出た私達は、また手を繋いで歩き出す。小さな頃二人、もしくはガイアスもいれて三人で歩く時と変わらない状況にほっとしつつ、空を見上げた。
出る時は明るかったが、もうそろそろ暗くなるなと自然と歩みが速くなる。自分の吐く息が白くなるのを見つめていると、レイシスにまた、「アイラ」と名前を呼ばれた。
「ねえアイラ。フォル、少し元気がないと思いませんか」
「あ、うん。……そう、だよね」
言われた言葉に、頷きながら視線を逸らす。レイシスは、フォルが闇使いだと知らない。当然あの話も、知らない。
闇のエルフィになってみる? なんてフォルに言われたのなんて、ガイアスもレイシスも知らない。それは珍しい二人への隠し事で、なんとなく気まずいのだ。
「アイラは……フォルのこと、好き?」
「え?」
気まずい、と逸らしていた筈の目を、思わず顔を上げてあわせる。気づけばレイシスは足を止めて私を見下ろしていて、私もつられて足を止めていた。
「好き?」
「……えっと、うん。……どうして?」
レイシスは嫌いなのか、と思わず首を傾げるが、そんなはずはないと首を振る。
「レイシスだってそうでしょう?」
「はい、大事な友人です」
微笑むレイシスにつられて、ほっとして息を吐いた時、でも、とレイシスは言葉を続ける。
「最近のフォルには、話しかけてその悩みを聞いてもいいのか……わかりません」
「あ……」
やはりレイシスも気にしていたのだと、その表情を見上げる。私を見下ろしているレイシスは、その後小さく唇を噛んだ。
「でも……アイラは何か、知っているよね」
向けられる悲しそうな瞳に、私の口から白い吐息だけが漏れる。
頬にふわりとふれた雪が融けて、冷たい感覚にはっとして首を振る。
「私は」
「いいんです。でも、なんでしょう。それに気づいた時、悔しいと思った相手が……」
「え?」
「いえ、いいんです。行きましょう」
手を引かれて再び雪に足を埋める。無言で先を歩くレイシスの背中に、私はそれ以上話しかけることが、できなかった。




