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よかった、よかった、よかった!
レイシスに猛毒の魔物の血がかかった時は本当にどうしようかと思った。
赤い筈の魔物の血が薄闇の中で真っ黒に見えて、私の真上に覆いかぶさっていたレイシスの顔が歪んだ時、それが一瞬想像の中で苦しんでいたサフィルにいさまとかぶって、ぞっとした。
魔物の血は肌を焼き、細胞を潰していく。そこから魔力を大量に体外へと奪い去るので、早く治療しなければ死に至ることもあるし、そのまま身体を焼き失ってしまえば魔法でも二度と再生しない。治療は大至急行うのが重要になる。
レイシスがいなくなる……そう思ったら必死で治癒魔法をかけていて、自分の腕の怪我の痛みなんて忘れていた程だ。
ぼんやりする事が多かったレイシスだが、柵の中に入ってすぐまた下を向き始めたことに気づいた時は、焦った。
しかもこっちは望んでいないのにご丁寧にしっかり魔物が現れてくれて、いつもとは違い隙だらけだったレイシスを真っ直ぐ狙ってきたのだから冗談じゃなかった。
咄嗟に魔法じゃなくてレイシスに飛び掛った私は、馬鹿だと思う。すぐに防御魔法さえ使っていれば自分が怪我をする事もなかったし、あれ程顔から血の気を引かせたレイシスの顔を見る事もなかった筈だ。
私の怪我を見た時のレイシスは、顔を青白くさせ、目つきが変わった。思わず見ていたこちらの背筋を冷たいものが走り抜けた程。レイシスが自身で感情を制御できていないだろうと気づき、恐怖した。私のせいだ。
レイシスは魔物の血が猛毒である事も忘れて私達を攻撃してきた黒い狼のような魔物を木っ端微塵と言う表現があう状態にしてしまった。
危ない、なんていった所で、目前に迫っている毒をどうすることもできなくて愕然とした私に覆いかぶさったレイシスが苦痛の表情を浮かべた瞬間はもう思い出したくもない。
隣を歩いてくれるレイシスの手をぎゅっと握りながら、精霊の姿のアルくんから情報を貰い皆に伝える。
「近いです……魔物は三匹、黒い獣と白の鳥みたいなもの、って言ってます」
「黒いのはさっきも現れたワーグーラーだろう。鋭い爪に注意すればいい。白色の鳥は……たぶんだが、吸血蝙蝠だな」
先生の言葉に、以前見た魔物の種類が記載されていた資料の内容を思い出す。ええと、吸血蝙蝠は……白色で赤い目の、人に牙を突き刺して魔力と一緒に血を吸い取ってしまう魔物だった筈。満腹であるほど強い生き物だ。
すぐに精霊の力を頼らずとも、三人の人間と魔物の気配を私達は捉えた。
顔を見合わせると、すぐさまルセナが防御魔法を展開し、私達はそれぞれ呪文を紡ぎながらその場に飛び込む。
月と雪の明かりの中ぼんやりと浮かび上がった姿を見て、私は思わず叫んだ。
「グラエム・パストン!?」
真っ先に私の視界に飛び込んできた黒髪の男は、私があの夏の大会で二回戦で戦ったグラエム・パストンだった。
順番だからと呼びに来てくれたと思ったら嘘で、人を脅してきた上に試合中も失礼な事を言いまくり、なのになぜか最後に私に回復魔法をかけてくれた変な人。
プレイボーイ、と生徒会のアナウンスで紹介されていただけあって、大会の後たまに聞こえてくる噂ではいつも女生徒と一緒にいると言ったものばかりで、授業に姿を見せない事もあるのだとか。
ちなみに私がそれを聞いて思ったのは、「すごい」というある意味尊敬する感情だ。だって、授業休んでるのにグラエム……先輩は、騎士科のテストの成績が非常にいいそうなのだ。
ちらっと見たことがあるテスト結果では、三位だった。上二人は特殊科の先輩達だったが僅差で、かなり成績は優秀なのだと先生達の間でも話題で、たまに彼が『おサボり』しても目を瞑ってもらっているらしい。
だがさすがにここにいるというのはアーチボルド先生は見逃せないだろう。なぜ、ここに。
私が名前を叫んだことで目が合った彼は、私を見て驚いた表情をした。それを確認しつつ見回してみれば、奇声をあげながらワーグーラーと戦っているのはあの槍使いの兵科の生徒、ヴァレリ・ベラーで、もう一人は兵科一年で見たことがある小柄な大剣使い。名前は覚えていないが、彼も確か試合で見た。ルセナが、「大剣を使うなといわれているのだ」と心配して大会を見守っていた相手ではなかったか?
「水の蛇!」
何はともあれまずは魔物退治だ。
私が水の蛇を放つと、すぐにレイシスが風の刃を生み出し、それらは槍使いが相手していたワーグーラー一体へと直撃する。
水の蛇に押さえつけられ身動きがとれずもがくワーグーラーは、その名の通りグーラーの親戚と言われ、グーラー程ではないが水が弱点だ。
そこにレイシスの風の刃がワーグーラーを襲い、飛び散る血は全て水の蛇がその身体に巻き込んで雪へと吸い込まれ消えていく。
まずは一匹!
私とレイシスがワーグーラーを退治した時横を走りぬけたガイアスと王子が、ほぼ同時に炎の魔法で飛ぶ吸血蝙蝠の翼を焼く。
キーキーと声を上げた吸血蝙蝠は失速し、地面の雪目掛けて落ちてきたところで、下から掬い上げるように振り上げたルセナの剣がその白い身体を真っ二つにした。
飛び散るかと思われた血は、グラスの中に伝うワインの雫のように見えない球状の壁を伝い流れ、そのまま散る事なく二つに分かれた死体と共にぼたぼたと下に落ちる。恐らくルセナが切った瞬間に吸血蝙蝠を防御壁の中に閉じ込めたのだろう。
「無事か!?」
突然の私達の登場に呆けていた無断進入の三人は、アーチボルド先生の声にはっとして慌てだす。
いいから落ち着け、と、とりあえず大剣を重そうに振り回していた兵科の男の子に王子が声をかけ、こくこくと頷いた少年が剣を鞘に納めたのを確認して、私達は視線を交し合う。
「で、お前らここで何をしている?」
「ちっ」
不機嫌な表情をしていたグラエム先輩が、舌打ちをして視線を逸らす。それを真っ直ぐ見ていた私は、隠すように動いた左手の、魔力が吹き出された状態に気づく。
「なんてこと! いつ魔物の血を浴びたんですか!?」
問答無用で近づいてその左腕を引っ張りだした私は、じわじわと魔力を吹き出させている傷口を確認する。手首から肘の間が点々と焼かれている。恐らく返り血を浴びたのだろう。
「これでは吹き出した魔力で魔物を呼び寄せるわ!」
おねえさまも慌てて近づき、二人同時に回復魔法をかけようとしたとき、ひゅう、と風が動く音を聞いた私は、先ほどアルくんからもたらされた情報を急に思い出した。
――魔物は三匹。
振り返ると同時にこちらに牙を見せた赤い目と視線がぶつかり、咄嗟に腕で顔を庇おうとした私の目の前でフォルの銀の髪がきらきらと光り流れた。
フォルの生み出す氷で氷塊となった吸血蝙蝠を、ガイアスの剣が叩き斬り、二つに分かれた身体は飛び散る筈だったであろう血すら凍りついて再び二つの氷塊となって雪に埋もれる。
「おい、他に魔物の気配は!」
「ない! 大丈夫だ!」
先生の言葉に王子が答え、ルセナがすぐに周囲に防御壁を張る。
「早く治療を! 僕が魔力が漏れるのをなるべく抑えるから!」
ルセナが叫び、おねえさまとフォルの二人と一瞬だけ見つめあった後三人がかりでグラエム先輩の左腕の治療を開始する。
「先生、他の二人に怪我は!?」
「今調べてる!」
二人の自己申告の他に、相手は魔物だからと背や足の裏、それこそ頭の上から足の先まで王子と先生、ガイアスに調べられた二人は、怪我はないようだが顔色だけは悪い。
ヴァレリ・ベラーなんて、大きな体を非常に小さくし、叱られるのを恐れた大型犬のようである。ちなみに隣にいる兵科一年の少年はもっと小さな身体を震わせて、背に背負う大剣が上下左右にがたがたと揺れまくりだ。
「お前ら名前は」
「……兵科二年の、ヴァレリ・ベラー」
先生に問われてすぐに槍使いが名乗る。視線で横の少年を促せば、かたかたと震える少年が掠れた声を出した。
「い、一年、兵科っ、ポジー・バクスですっ! あの、あの」
泣きそうな声でそういう少年を無視して、先生は治療を受けるグラエム先輩を真っ直ぐに見ると「なぜここに」と咎める声を出した。
「ふん」
今だ視線を合わせず、くそ、と悪態をつくグラエム先輩の腕は、なんとかぎりぎり治療が間に合った、という状態だ。
治療をしながら納得する。確かに魔物は非常に怖いが、私が戦ったあのグラエム先輩ならあの三匹に苦戦するとは、思えない。
恐らくあの三匹に会う前に戦った魔物の血を浴び負傷して、魔力をかなり失ってしまっているのだ。
「レイシス、私の鞄から魔力回復薬を取ってもらってもいい?」
私のすぐそばに控えているレイシスに頼めば、彼は私の腰につけられているポーチから小瓶を一つ取り出してくれる。
それを見たグラエム先輩が、はんっ、と鼻で笑った。
「女にこき使われやがっ……いっで!」
言い終わらないうちに、治療を丁度終えたおねえさまと私に同時に「終わりました」と今まで治療を受けていた腕をべしりとはたかれて、グラエム先輩は呻く。
それを知らん振りしながら、私は先輩の手にレイシスから受け取った小瓶を握らせた。
「飲まないと、死にますよ?」
にこりと微笑んだフォルに言われて、グラエム先輩は顔を顰めたまま小瓶の蓋をきゅっと開けるとそれを飲み干す。
「先生、終わりました」
「よし、話は後だ、出るぞ。その前に周囲の探知を……っ」
先生が私に周囲に魔物がいないか調べて欲しそうに視線を向けたが、すぐに逸らして言葉を止めた。ここにはグラエム先輩にヴァレリ先輩、それにポジーくんがいる。エルフィの力を使う私にそれを使えと言えなかったのだろう。
「わかりました」
だがしかし、先生の一瞬の動揺などなかったように、ルセナが目を閉じ静かに周囲に僅かに魔力を巡らせた。
気配を探るのはレイシスと王子も得意だが、レイシスは先ほど魔物の血を浴びたばかりであるし、王子はその時既にがくがくと震えてまともに歩けそうになかったポジーくんに肩を貸していたので、それに気づいたルセナがすぐに名乗りを上げてくれたのだろう。
ほっとして、助かったとルセナに感謝しつつ私もレイシスに支えられて雪から足を抜き、周囲に魔物はいないと思う、とルセナが言うと全員が柵の外へ向かう為に歩き出す。
つい、やっと帰れる、と息を零した。普段の任務でここまで疲れることは、ない。むしろ新しい植物の発見や採集で好奇心が刺激されるし、学園の外に出る事でいろいろなパターンで魔法を使えるのは、技を磨く充実した時間だと思っている。これ程疲れたのはあの村の襲撃事件以来だ。
もう少しで柵につく。そう思った時、いつの間にか猫の姿になって隣を歩いていたアルくんが、アイラ、上! と叫んだ。
咄嗟に上を見上げ両手を空に伸ばし、全員を守れる大きさの魔法の盾を作り出す事に成功した、が。
盾にぶつかり雪の上に転がり落ちたのは、人だった。
騎士科の制服に金の見覚えがある魔法文字の刺繍。
マントらしきものがひっくり返って顔を覆ってしまっており、突き出された……お尻以外、というか、雪に身体の半分が埋まっているので自信がないが、この特徴的な服装は……。
「ね、ねぇ。この人、特殊科の三年の先輩じゃ」
びっくりした様子のルセナの言葉は、まさかと思う私の予想を肯定するものだった。




