100.レイシス・デラクエル
しまった、と思った。
こんな危険な場所、早く離れたほうがいいと思ったのに。悲鳴なんて聞こえたら、お嬢様は間違いなくここから離れられない。
すぐにガイアスがお嬢様を止められる位置に動いたので、俺もいつでもお嬢様を守れる位置に移動する。悲鳴は少し距離があったようだが、目の前に柵があるのだ。いつ魔物が現れてもおかしくない。
「いいか、動くなよ!」
アーチボルド先生がそう止めながらも、戻る事に躊躇しているのがわかる。
ここにいるのは特殊科のメンバーだ。余程の事がなければ、北山の魔物に負けたりしないだろう。伝説のファイアドラゴンがいればそれは難しいが、そもそも柵のそばには強い魔物はいない。賢い魔物は、柵から離れた所にいると聞く。
負けない。そんなのは、わかっている。きっと、みんなそうだ。
つまり今この悲鳴を聞いていながら逃げ出す、もしくは悠長に下に助けを求めにいける人間は、ここにはいないということ。
俺は……お嬢様が気にしなければ、そのまま連れて戻ってしまいたい、と頭のどこかで考えているのに。
きっと俺は、異質な存在なんだ。
「くそっ、アイラ、中を調べられるか!?」
「この季節、さらにこの時間はあまり期待しないでくださいね!」
デュークの言葉にすぐお嬢様が魔力を作り出し、心得たようにそれを受け取ったアルの姿が消える。恐らく精霊の姿に戻ったのだろう。
お嬢様が言うように、植物の精霊というのは冬は活動を控え休んでいる事が多く、まして夜に咲く花などでない限り闇の中なら更に活動が少ない。精霊だって眠るのよ、と昔お嬢様が言っていた。
だが、森である事が幸いしたのか、それともアルがいるからなのか、お嬢様は「いた!」と叫ぶ。恐らく精霊が柵の中にいる人間を捉えたのだろう。
待つこと十秒程だった。その間に、父に連絡します、とフォルが手を前に突き出し、伝達魔法を使おうとしていたのだが……お嬢様がそれを止めた。
「待って!! アルくんが、制服を着ている学生だって言ってる!!」
その発言にぎょっとする。こんなところに制服を着た学生がいる、ということは、間違いなく俺達が通う王都のクラストラ学園の生徒だろう。
殆どの科で冬休みに入っているのだ、課外授業なんて北山である筈もなく。つまり、勝手に入り込んでいる。
「魔物に応戦しながら逃げ回ってるって。えっと、騎士科の制服を着た黒髪の男の人に、兵科の制服を着た小さくて大きな剣を持った男の子と……同じく兵科の、すごく強い大きな体の槍、使い……?」
お嬢様の声がだんだんと小さく、そして疑問系になっていく。
きっと精霊が柵の向こうにいる生徒とやらの見た目の情報を教えてくれてるのだろうが、それを俺達に伝えているうちにお嬢様の知った姿が頭に浮かんだのだろう。
特に、最後の大きな体の槍使い……そんなの、あの夏の大会で目立ったあの兵科の先輩を思い出すのは仕方ないだろう。
「お、おい。それってまさか、ヴァレリ・ベラーじゃないよな?」
デュークが引きつった表情で名を告げた相手は、やはりあの夏の大会で非常に目立った男。あれだけ目立てば、上位は逃しても必ず卒業時にはいろいろなところからスカウトがかかるはず。そういえばあの大会であの男の勝利を止めたのは、ラチナを傷つけられた事で非常に容赦ない戦いを見せたデュークだったか。
「というか、騎士科がいるのか……やばいな」
「フォルセ、報告は待ったほうがいいのでは……?」
いつだったかルセナが言っていた兵科特別規則にもあったが、兵科の生徒は騎士科の生徒に従う事と指導されている。メンバーの中に騎士科がいる、ということは、柵の向こう側に勝手に入り込んだ生徒達が公爵家に報告されて罰を受けるとすれば、一番きつい罰を受けるのは騎士科の生徒だ。
ラチナは、誰かはわからないがすぐに報告しないほうがいい、と言う。それはぱっと聞くと悪い事をしている相手を庇うような発言ではあるが、貴族というのは面倒なもので、もしある程度の地位の貴族の子息がジェントリー公爵家領の北山で迷惑をかけたと罰せられると、程度によるが親によってはその子を切り捨てる可能性もある。迷惑をかけたから、と。
子供にも罪はあるが、なんとも嫌な話である。捨てられた貴族の子供など、この世界でまともに生きていけやしないのに。
「とりあえず助けようよ、ねえ、先生!」
ルセナが焦れたように言う。渋っていた先生はしかし、一度目を閉じると「くそっ」と教師あるまじき悪態をついて、柵の中にいるであろう生徒に「見つけたら覚えてろよ」と言う。
「いいか、勝手な行動はするな、纏まって動け。絶対に一人になるな。いや、三人以下に……いやいや、この八人はばらけるな!」
余程心配らしい先生に言われて皆が頷きつつ、すぐにルセナとデュークが先頭に立って俺達は柵の中へと飛び込んだ。
魔物のいる、北山。
実は、俺もガイアスも魔物と戦った事が、ある。
父に連れられて、学園に入る前に一度だけ王都の方に連れてこられて、修行だと言ってジェントリー公爵家の許可を取り北山の中に入ったことがあるのだ。
その時相手をしたのは色鮮やかな姿をした小さな鳥と、燃える鬣を持つ獣だった。
父がついているから大丈夫。そう余裕を見せていた俺達だったが、知っている自分達の故郷にいる獣とは全てが違った。ようは、苦戦したのだ。
知らず知らずのうちに見た目でその能力をはかったばかりに、鳥は速さに注意し、獣はその力強さと牙に注意しようと思ったのがまず間違いだった。
速かったのは、炎の鬣を持つ獣の方で、馬鹿みたいに力強かったのは小さな小鳥の方だった。
あっという間に獣に近づかれガイアスは剣を弾き飛ばされたし、小鳥の体当たりを食らった俺は防御を張ったのに吹っ飛ばされた。しかも、魔力は見た目通り獣が炎を得意とし、鳥が風を得意としていた為に、俺もガイアスも同属性を相手する羽目になったのだ。
結局苦戦はしたが、勝てた。だが、あの時の驚きや、初めて人間以外に魔力勝負で負ける恐怖を味わい、それは恐ろしいものだった。
今はもう授業で魔物がどのようなものかというのは、普通に授業で習う。だから警戒もできるが、できればそんなところにお嬢様を連れて行きたくない。
お嬢様を連れて柵の中に飛び込みながら、周辺を警戒する。
魔物を、というより、人をだ。
お嬢様は困った人間がいれば、間違いなく周囲を確認せずに飛び込んでいく。お嬢様は意外と落ち着きがない。相手が怪我をしていたらなおさらだろう。その為だと言って手を繋いだままにしている自分は、ずるいだろうか。
この張り詰めた空気の中で、再び気分が落ちていくのがわかる。
わかっていた。お嬢様だけじゃなく、兄のガイアスにも、特殊科の皆だけじゃなく、騎士科の仲間まで俺が最近おかしいと心配しているのは。
早くなんとかしなきゃと思うのに、どうしたらいいかわからない。勝手に気分が下がるのだ。特に、お嬢様の事を考えた時だと気づいてからは、さらに酷い。
俺はどうしたらいい? 俺は、お嬢様をどう思っていたんだ? 大事な幼馴染だと、家族のような存在だと、そう思っていたんじゃないのか? ならどうして、フォルと一緒にいるとあれ程にまで胸が、喉が苦しくなる?
風歩が使えない雪深い山の中を、雪に足を取られながら走り、フォルの後ろ姿を見る。
フォルは大事な友人だ。なのに。
兄上。
兄上なら、こんな時どうする? どうしたらいい? 兄上がこんなどす黒い感情を持っていなかっただろうってわかるからこそ、兄上の真似をして生きてきた俺にはわからない。どうすればいいか、わからない!
「レイシス!!」
突如聞こえたガイアスの声と、お嬢様の悲鳴。
そして衝撃。腕の中に飛び込んできた暖かい存在にはっとする。
「アイラ!!」
次に聞こえたのは焦ったフォルがお嬢様を呼ぶ声だった。
思わず腕の中にいるお嬢様を、渡すまいとでも思ったのか引寄せたとき、ぬるりとした何かに触れた。
「えっ……」
手にべったりと赤いものが張り付く。なんだこれ、いや、良く知っているけれど、これは。
「レイシス、怪我、ない?」
途切れ途切れのお嬢様の声。
お嬢様が俺の腕の中で、自分の腕を抱え込むように動いた。
お嬢様の防寒具がぱっくりと裂け、そこが真っ赤に染まっている。
なんだこれ。
なんだこれ
「なんなんだ!!」
視界が真っ暗になる。いや、暗闇の中に、二の腕から血を流したお嬢様の姿だけが浮かぶ。
俺とお嬢様だけの闇の世界。そこに、口を醜く曲げた黒い獣が現れた。
こいつか。
お嬢様を腕に抱いたまま、自分の魔力が恐ろしい勢いで膨れ上がるのがわかった。
はっ! 何が、お嬢様は意外と落ち着きがない、だ。
俺はアイラに何かあれば、こうして周りも見えずに確実にファイアドラゴンの口の中だろうが、氷熊の懐だろうが飛び込むくせに!
「レイシス、だめ!」
お嬢様が何か言った。だが俺の魔力は次の瞬間弾け、黒い獣をただの肉塊とする。
それでいい。お嬢様を傷つけたお前なんか、骨すら残らなくていい。
自分の口が笑みを浮かべたのがわかる。だが、その時目の前に淡い光を放ちながら現れた『兄上』が、叫ぶ。
『レイシス何してるんだ! 魔物の血は毒だ!』
息が止まった。
そうだ、騎士科の授業で習ったじゃないか、魔物の血は人間には猛毒だと。特殊科のテストでも、ファイアドラゴンの血飛沫に要注意だと自分で書いたではないか。
「アイラ!!」
慌てて叫んでアイラを自分の身体の下に引き込み、その上に覆いかぶさる。
久しぶりに名前を呼んでしまった気がするが、今そんなことはどうでもいい。
時がゆっくり進んでいるかのように、俺が肉塊にした魔物の身体から散った血がゆっくりとこちらに降り注ぐのを視界にいれながら、目を閉じた。
防御壁を張らなければ。そう思ったのに、じゅっという音と共に腕と背中が焼けたように痛む。頭がくらくらして、いけないと思ったのにそのままお嬢様の身体の上で意識が遠のいていくのを感じた。
「アイラ、私が治療しますから、まずはご自分の腕の治療を!」
「レイシス、レイシス、いやだレイシス目を覚まして!」
「アイラ、大丈夫だから!」
遠くでお嬢様の声が聞こえる。酷く焦った、辛そうな声だ。
お嬢様が、俺を呼んでいる? 慌ててお嬢様を探そうとした時、突然ぼろぼろと涙を零しながら俺に治癒魔法を使うお嬢様が視界に飛び込んできた。
「レイシス!」
俺と目が合った瞬間、その涙で潤んだ瞳を大きく開いて、お嬢様が抱きついてくる。
生きてる、生きてた、よかった、いなくならないでと混乱した様子で話すお嬢様が、次第に「レイシスまでいなくならないで」と言い出した事に気づく。
はっとして視線を泳がせた時、なぜか精霊の姿のアルを見つけた。姿現しの魔法か? その兄上そっくりな姿に、思わず背筋が伸びる。さっきの『兄上』は、アルか。
自然と周りのメンバーを見て、すみませんでしたと謝罪の言葉が零れた。
心配そうな表情のラチナにルセナ。少し怒ったような表情のガイアスにデューク、先生。泣いて抱きついているお嬢様に、何か言いたそうにこちらを見つめてくるフォル。
「こんの馬鹿レイシス! 魔物の血が危ないなんて、常識だろうが!」
突如力いっぱいガイアスに怒られて、つい視線が下がる。
「本当に、レイシスは火がつきやすいな。だろうなとは思っていたが、普段とのギャップがすごい」
ため息交じりの先生の言葉にはっとして顔を上げ、つい先ほどから精霊の姿でいるアルを見た。
今の、お嬢様にも聞こえたよな。どうしたらいい? 兄上はどうしていた? ずっと落ち着いて対処しているのがきっと正解だ。俺はなんで兄上みたいにできない?
「無事でよかった。……はい、アイラの治療も終わり」
フォルの言葉で腕の中を見ると、防寒具や服が赤く染まっているもののお嬢様の腕の傷が残らず綺麗に消えているのが見えた。
ほっとする。
「レイシス、君の解毒はアイラがした。自分の傷もほったらかしで全力でやってたから」
苦笑したフォルに言われて、どうしたらいいかわからなくなる。お嬢様に迷惑をかけてしまった。護衛なのに、逆に守られた。
「レイシス。何か悩んでいるのは知っていたが、お前には頼りになる……かどうかはわからんが、双子の兄にアイラもいるし、特殊科の仲間もいるだろう。一人で悩んでないで相談しろ。そんないつ爆発するかわからん爆弾みたいな状態で戦うな、お前らしくない」
先生に説教されて、驚く。先生が説教するのなんて、珍しい。いつも面倒そうにしていて、余程の事じゃないと俺達を叱りつけたりしないのに。
お前らしくない、ってなんだろう。俺らしいってなんだろう。わからなくて俯いた時、腕の中でお嬢様が笑った。
「レイシスは昔から火のチェイサーみたいに爆発しやすい性格だったと思いますけど」
「そうなのかー? ったく、それならチェイサーみたいに少しは制御しやすくなっとけ」
ばりばりと頭をかいた先生が、ほら治ったならさっさと生徒見つけてこんなとこ出るぞ、と言う。
「フォル、ごめん」
つい思わず、目の前のフォルに謝る。何に謝ったか、わからない。
最近フォルと視線が合うと逸らしていた記憶もあるし、今こうして迷惑もかけたし、何よりきっと俺はフォルに対して一番妙な気持ちを抱いていたからかもしれない。
フォルは一瞬だけ驚いたような表情をした後、苦笑した。
「アイラの怪我なら大丈夫だから。……無事でよかった」
それだけ言うとまた雪の上を一人だけ上手く歩きながら、フォルが離れていく。
口にしたのは怪我の治療の事だけだけれど、フォルは全部お見通しな気がしてその背中を見つつ、慌てて腕の中のお嬢様を抱き上げて立ち上がると、二人で後を追う。
――昔から、火のチェイサーみたいに爆発しやすい性格。
――レイシス、いなくならないで。
「アイラ、ありがとう」
俺が口にした言葉を横で聞いたアイラが、とても嬉しそうに笑った。
とうとう100話です。
いつも来てくださっている方々、応援してくだっている皆様、お気に入りや評価も本当にありがとうございます。励みになります。




