β Leo
レオ(獅子座)
黄道十二宮では、五番目に当たる獅子宮である。
星座は、ヘラクレスに退治されたお化けライオンに見立てられている。いちばん目立つ星は、全天での十一個の一等星のひとつで、ラテン語で小さな王という意味の『レグルス』。この星は、自身が連星であり、更に連星の伴星を持つ多重連星であることが知られている。また、乙女座のスピカ、うしかい座のアークトゥルスとともに、春の大三角を形成する星でもある。
占星術においては、七月二三日から八月二二日生まれの人が獅子座になり、その性格は「主導」だとされている。
*
僕たちが夏の合宿の行き先に選んだ砥峰山高原は、関西で最大の面積を持つ県のほぼ中央部にある、標高千メートルほどの高原だ。
三方を小高い山々に囲まれ、東に向けて開けた草原には、風景に溶け込むような小振りなリゾートホテルが建ち、緑のフェンスで囲まれたテニスコートがある。
周辺には町らしい町はなく、夜空を白く照らす大都市の灯りも遠い。
それでいて、朝陽市から列車とバスを乗り継いでも三時間ほどで来ることができる。僕たちにとって、そこは貴重な合宿先だった。
高原には、テントを張ることのできる芝生のオートキャンプサイトもあるが、「野宿なんてイヤ」という富士先生の一言で、リゾートホテルに併設されたコテージに宿泊することになった。
四棟あるログハウスのコテージは、ホテルの裏手にあるコナラの疎林の中に、すこし距離を置くよう建っていた。
木の香りが心地よいログハウスの一階には、十五畳ほどのLDKと、カウンターのある対面式のキッチンに、六畳の和室があって、風呂とシャワーとトイレが付いていた。
リビングの隅にある梯子のような階段を昇ると、広めのロフトがあって、一メートルほどの幅のベッドが二つ並んでいた。
一階の和室は綾乃と観月と富士先生が、ロフトのベッドルームを僕と小田先生が使うことにした。
荷物を解いて一息ついたと思ったら、一階から綾乃と観月が僕を呼ぶ声が聞こえてきた。
「智之ちゃん、テニスしようよ」
ロフトの手すりからリビングを見下ろすと、肩紐が蝶々結びになった水色のサンドレスを着た綾乃と、白いキャミソールにピンクのひらひらしたキュロットを履いた観月が、二人揃って目を輝かせていた。
綾乃がネット際から放ったボレーが、僕の左横をかすめてコートに落ちた。
転がっていく黄色いテニスボールの先には、夏の日の終わりを告げるように長く伸びた、審判席の影が差していた。
僕たちは、ベンチに並んで腰掛けて、タオルで汗を拭う。
どこからともなく、カナカナカナというひぐらしの声が聞こえてくる。
左隣に座る綾乃が、白い喉を反らせて空を見上げている。
その視線の先には、朱がさした青空を横切る、ひとすじの飛行機雲があった。
まるで、天の川みたいだと、僕は思った。
「智之ちゃん。あたしね、もしかしたら……」
何かを言いかけた綾乃が、ため息をついて口を閉ざした。
遊びすぎて疲れたのか、柄にもなくセンチメンタルな気分にでもなったのか。
けれど、僕がその理由を思いつくよりも先に、ひぐらしの声がそれを包み込み、夕空に溶けて消えていった。
高原の西にそびえる山の端に、夏の遅い夕陽が落ちたころ、僕たちは夕食のテーブルを囲んでいた。
メインのオムレツと温野菜の付け合せに、ポタージュスープ、そして小鉢のポテトサラダとご飯というメニューだった。
オムレツは綾乃の、温野菜とポテトサラダは観月の、電気炊飯器で炊いたご飯と市販の粉をお湯で溶いただけのポタージュスープは富士先生の手作りだった。
「オムレツもポテトサラダも、すごく美味しいよ……」
僕は、ひいき目なしにそう思った。
突き刺ささるような富士先生の視線に、僕は「ご飯とスープも美味しいです」と付け足した。
食事の後片付けをする三人を残して、僕は小田先生とともに観測会の設営を始めた。
ログハウスのある林を抜けて、リゾートホテルとは反対側の草原に出る。ここには、ホテルの照明も届かない。
部の備品でいちばん小さな屈折望遠鏡を組み立て、自動追尾装置の付いた小型赤道儀にはフジノンの双眼鏡を載せて、それぞれの極軸を北極星のすぐ横にある天の北極に合わせる。
草の上にレジャーシートを広げ終わったところで、懐中電灯のほのかな明かりが揺れて綾乃たちが連れ立ってやってきた。
「ちょっと怖かったよ。ほんとに真っ暗なんだね」
そう言ってから空を見上げた綾乃が、「うわぁ」と声を上げた。
漆黒の夜空には、降るような星々が瞬いていた。
頭上を横切って流れる天の川は、中州のような暗黒部分までくっきりと見える。
夏の大三角を形作るベガやアルタイルやデネブといった一等星ですら、その輝きを見つけるのが困難なほどだった。
観月は双眼鏡をアンドロメダ座の方に向けてスケッチブックを広げ、綾乃は望遠鏡に取り付けたオリンパスの一眼レフカメラを覗き込み、僕はレジャーシートに寝転がって満天の星空を見上げる。
ふと、子供のころに見上げた冬の星空を思い出した。
あのとき、星々は冷たく遠く、はるかな高みから僕を見下ろしていた。僕はどうしようもなく、それに憧れた。
そして今、僕は、その星々にすこしだけ近づいたように思えた。
深夜に及んだ観測会を終えた翌朝、ロールパンとハムエッグにトマトを添えた朝食を食べてから、僕たちは散歩に出かけた。
緩やかな斜面に広がる草原を、綾乃と観月が仲良く話しながら歩く。
草原を渡る風はすこし涼しくて、秋の気配を含んでいた。
草原を抜けると、有名な恋愛映画のロケが行われた森がある。
ごろごろとした岩塊が転がり、コナラやクヌギがまばらに立つ疎林だ。
ひときわ大きなコナラの木の下で、観月は折りたたみ椅子に座ってスケッチブックを広げた。
ファーバーカステルの色鉛筆を左手に持って、見る間にスケッチを仕上げていく。
綾乃は、オリンパスの一眼レフを構えて、そんな観月の姿を撮影している。
大きな瞳には、被写体を見極める険しさとともに、まるで妹を見守る姉のような柔らかさがあった。
ときおり顔を上げる観月に、綾乃が微笑みかける。
観月は、自分に向けられた好意とレンズに、はにかむようにうつむく。
遊歩道に踊る木漏れ日と、降り注ぐミンミンゼミの声のなかで、幼馴染と同級生は言葉のない会話を繰り返していた。
「ねえ、星河くん。さすがにもう、決めたんでしょ?」
僕の隣に立った富士先生が、小声でそう言った。
白くて細いその指がつまんだ線香花火が、暗闇にパセリのような火花を散らしている。すこし離れたところでは、綾乃と観月が手持ち花火にローソクの火を点けている。
二日目の夕食後は、富士先生の希望をいれての花火大会だった。
先ほどの唐突な質問に、僕はそれが進路のことだと思いついた。
できることなら公立大学に進学したい、という漠然とした希望以外に、僕はまだ進路を決めていなかったからだ。
「いえ、それがまだ……」
曖昧に言葉を切った僕に、富士先生は「あはは」と笑った。
「まあ、たしかに人生の一大事だものね。でも、キミはちょっと考えすぎだわ」
「でも、将来のこととか、まだピンとこないですし」
綾乃と観月が、花火から噴出す色とりどりの火花に歓声を上げる。
富士先生は、そんな二人に向けた目をすっと細めた。
「そんなこと言ってたら、すぐに年をとっちゃうわよ。いつまでも待ってくれてるなんて、思わないほうがいいわよ」
なんだろう、と僕はほんの少しだけ違和感を覚える。
「でも、僕の成績じゃ、あまり選べないですし」
「成績? そんなの、関係ないわよ。だめねぇ、男の子はもっと積極的じゃないと、チャンスを逃すわよ」
やはり、話題が微妙にずれているような気がする。
「えっと、進路のことですよね」
富士先生が、呆れたように目を閉じてため息をついた。
「そっちの話じゃなくて……。綾乃ちゃんと詩織ちゃん、どっちをゲットするつもりなのよ」
この人は、酒を飲まなくても酔えるのだろうか。
けれど、思い返せばいつも、こんなふうにからかわれていたように思う。僕と同い年くらいの、弟でもいるのかもしれない。
「まあ、どちらにしても、キミにはもったいない子なんだから、今のうちに、さっさとやっちゃい……じゃなくて、ちゃんと捕まえておきなさいよ」
僕の背中を、富士先生が軽く叩いた。
小さな痛みとともに、彼女の柔らかな掌の感触が残った。
花火が終わってから、僕たちは二日目の観測会を始めた。
今日は、ペルセウス座流星群が極大を迎える夜だった。
夜半には、一時間に六十個を超える流星が降る。まさに星が降る夜というわけだが、ペルセウス座流星群は、流れる速度が速いことで有名だから、のんびりと願い事をしているひまはなさそうだった。
「こうして夜空を仰ぐことなど、長い間忘れていた……」
そんな低い声のつぶやきがして横を向くと、レジャーシートに寝転がる僕の隣に小田先生が腰を下ろしていた。
「そうなんですか」
僕は、上半身を起こしてそう答える。
いつも厳格で寡黙な小田先生が、教員の職務以外の用件で話しかけてきたのは初めてだった。
「おまえたちを見ていると、私が失ったもの、今も失い続けているものの価値を、思い知らされるよ。星河、『少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず』の続きを、知っているか?」
よく耳にする漢詩の一節だが、その続きなど僕は知らなかった。
「いいえ」と答えた僕に、小田先生は言葉を続けた。
「『未だ覚めず、池塘春草の夢。階前の梧葉、己に秋声』だ。だが、それに気づくのは、いつも後になってからなのだ。だから……」
小田先生は、そこで口を噤むと、「いや、なんでもない」とつぶやいて空を仰いだ。
「あ、流れた」
一瞬の静寂を破って、綾乃の声が響く。
「始まったわよ、星河くん」
観月は、カステルの色鉛筆をシャープペンシルに持ち替えて、空を見上げている。
北東の空にあるペルセウス座付近から、一筋、また一筋と光が尾を引いて流れる。
一瞬だけ光り輝き、青白い残像を残しては虚空に消えていく流星たちの疾走は、時間がすぎるとともにその数を増していった。
「五つめ。えっと、一等かな。六つめ、あ、大きいっ。マイナス一等だね。うわぁ、やっぱり朝陽の町で見るのと、ぜんぜん違うよ」
うっとりしたような綾乃の言葉が、僕を遠い日に誘った。
星の降る夜、約束とは呼べないほどの幼い言葉のやりとり。
綾乃は、まだあのことを覚えているのだろうか。
刹那と永劫。
それは、星を見上げる者ならば、誰もが感じるべきことだった。
けれど、そのときの僕は、ほんとうにまだ何も知らず、何もわかっていなかった。
富士先生がからかいに託した思いも、小田先生の言葉に込められた深さも、そして綾乃がふともらした溜息の重さも。
そしてなにより、このかけがえのない時間の意味も。
僕はただ、天空を悠然と横切る天の川を見上げていた。
夏の大三角を描く三つの星たちに、僕と綾乃と観月の姿を重ねながら。




